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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
第八夜 ウツシヨ■トフ
64/88

#3

 暗闇に射し込む部屋の灯の先、呆然とした様子の青年がたった一人で立っていた。その横顔には疲れが見られ、哀愁感を漂わせていた。

 望は肩に掛けたストールを直しながら、庭へと続く窓を開ける。ひんやりとした冷たい空気に軽く肩を震わせながら、望の気配に気がつかない彼に声をかける。


「澄江さん」


 望の呼びかけに青年、澄江はゆらりと視線をやる。焦点の合っていないその目に輝きはない。


「……おかえりなさい」


 昨晩と同じように気力のない声が返ってくる。いってらっしゃい、と送り出してくれた朝の穏やかな声とは違い、気だるげな声に望は眉をひそめる。


「ただいま戻りました」


 無気力な表情と声に望は平静を装いながら返す。

 朱莉と金閣寺や龍安寺、仁和寺を巡った後、嵐山へ向かった。駅の近くで夕食を済ませ、嵐山のライトアップを見て戻ってきた。風呂も済ませ、少し休んでいたところだ。身体が温まったところに夜風が嫌というほど染み渡る。


「寒くないですか?」


 夜のライトアップは美しかったが、風が冷たかった。とくに川の近くは寒く、繋いだ朱莉の手の温かさに救われた。

 夜も遅くなってきたこの時間帯。幽霊も寒い、暑いを感じるらしい。さらに冷えこむ中、澄江はたった一人で庭にいる。見るからに顔色の悪い澄江を見ていると寒さに関係なく、一人にしておけない。


「いいえ」


 澄江は吹く風の先を見つめるように望から視線を外す。


「この秋の夜の冷たさが心地いいので」


「……そうですか」


 寒さが苦手な望からすると、この冷たい空気を心地いいとは思わない。

 むしろ、不安になる。部屋の灯が漏れているとは言え、闇が支配する冷たい秋の夜にたった一人でいるのは精神的に参ってしまいそうだ。

 時々ならいい。少しの時間ならいい。だが、澄江の様子を見る限り、そのようには見えない。暗く沈んだ様子の彼がこのまま沈むところまで沈んでしまい、戻って来られなくなってしまいそうな危うさがある。


「考え事をするのにちょうどいい」


 記憶のことだろうかと考える望をよそに、澄江の視線は果てのない闇に戻される。


「お身体を冷やしてしまいますよ。私のことはお気になさらず」


 一人にしてほしい。

 言外にそう訴えているように見える。望は邪魔をしてしまったと思う反面、今の危うい雰囲気の彼を一人にしていいのだろうかと不安になる。

 望はストールの端をぎゅっと握る。


「……はい。澄江さんこそ、あまり長居しないでくださいね」


 ここは引こう。引いて、篁や式神に伝えておけばいいだろう。望よりも彼らの方に気を回してもらえた方が澄江も安心するかもしれない。

 自分は部外者。あまり踏み入ってはならない。だから、引く。そう心の内で自分に言い聞かせる。


「もう少ししたら戻りますよ」


 諭すような物言いの澄江に望は本当だろうかと疑ってしまう。あまりにも気力のない表情と声の張りのなさに、放っておいたらどこかへふらっと行ってしまいそうな、あるいは、攫われてしまいそうな不安定さがある。

 それでも、望は決めたことを覆さない。


「わかりました。では、おやすみなさい」


 式神に任せよう。それが望にできる最善策だと思うことにする。


「おやすみなさい。ゆっくり休んでくださいね」


 澄江は視線だけ望に送り、口元にわずかに笑みを乗せる。その表情は歪で、どこか不気味に見える。心と表情が一致していないからではないかと気がつくとさらに不安が募る。

 望はそっと窓を閉める。それと同時に、澄江はまた物思いに耽っているのか、ぼんやりと空を見つめている。


「……」


「望様」


 窓に映る望の背後に麗らかな春を思わせる女性が現れる。望は彼女の方を振り返ると、彼女はのどかな笑みを浮かべる。花が綻ぶようなその笑みは澄江の笑顔のちぐはぐさが際立たせるほどに自然体だ。


「温かい飲み物はいかがですか?」


 式神、清佳の言葉に望は澄江の方へ視線をやる。


「私よりも澄江さんに……」


 通常、幽霊はこの世にある物に触れられないらしい。しかし、篁の結界が張られているこの家の敷地内であれば物に触れることができる。そのため、飲食も可能だと言う。実際、澄江が茶を飲んでいるところを望は見た。

 お節介だろう。そう思うが、きっと身体も心も冷やしているであろう彼に必要だ。

 ずっと考え込んでは身体にも精神にも支障をきたす。休息も必要である。温かい飲み物を飲んで、ゆったりとする時間を持ってほしいと望は思う。


「そうですね。彼の分も用意しましょうか」


 安心させるようにゆっくりと話す式神に望はほっと息をつく。


「お願いします」


「かしこまりました。さて、何にしましょうか? お茶でも、ココアでも」


「では、ココアで」


「朱莉も!」


 清佳の背後からひょっこりと現れた小さな式神はキラキラと目を輝かせている。


「わかりました。朱莉もね」


「うん!」


 ココア、ココア、とはしゃぐ朱莉を横目に望は澄江を見やる。彼は変わらず、空を見上げていた。

 否、空というよりも、虚空。何も見ていないかのようだが、縋りつけるような糸はないかと焦がれているようにも見える彼の目に光はなかった。


◇◇◇◇◇


 ひた、ひた、と静かでかすかなその物音に望の意識が浮上する。隣にいる小さな温もりはすやすやと気持ちよさそうに眠っているため、彼女ではないのだろうとまだ寝ぼけている頭で考える。

 望は隣で眠る朱莉を起こさないように布団から出て、廊下に耳を傍立てる。

 望は二階の客室を借りている。二階を使っている者は今は望と朱莉だけだ。客室は二階の奥にあり、そこから先は行き止まりのはずだ。他の式神が巡回しているのか、それにしては気配が違うと覚醒しきっていない頭で望は考える。


「……澄江さん?」


 式神でもなければ、篁でもない。そうなれば思い当たるのは幽霊の彼ぐらいだ。そう思うと、澄江の気配だと遅れて気がつく。

 行き止まりに気がついたのか、案の定、足音は止まる。

 刹那、響き渡ったのは男の声だ。言葉にならない絶叫だ。聞き覚えはあるが、今まで見てきた彼からは想像もできないようなおぞましい声に望は扉を開ける。


「澄江さん!」


 声の主の青年がそこにいた。月明りに照らされた彼は頭を抱え、その場でうずくまっている。


「澄江さん、どうされたのですか!?」


 望が駆け寄ると、彼の視線がこちらに向けられる。

 その目に望の身体は固まってしまう。

 いってらっしゃいと見送ってくれた優しい目でも、無気力で生気のないあの目でもない。

 望は出会ったことはないが、記録でなら見たことがある。その記録の中で、彼のような目をする者たちはこう呼ばれていた。

 狂人。

 彼の目もそう言われるのかもしれない。ギラギラとした目は血走り、何かに怯えているようで、しかし、迫りくるようにも見える。見開かれたその目に望は映っているが、彼には認識されていない。

 焦点が合っていない。望の背後を、否、彼にしか見えていないもっと向こうの何かを見ているようだ。


「のんちゃん、近づいちゃ駄目!」


 無邪気ないつもの声とは違う張りつめたその声。

 しかし、望はその声への反応が遅れる。狂気をはらんだその顔がすぐそこまで近づいたと思うと、視界がぐるりと反転し、背中に痛みが走る。


「……っ!」


「のんちゃん!」


 ぐらついた望の視線の先、澄江の目が望を睨みつけている。

 絶望、憤怒。彼の表情から伝わる感情だ。そこにどこか、憂いが見える。

 しかし、その憂いも一瞬。憎悪、侮蔑といった負の感情に塗り替えられ、望の肩に激痛が走る。


「またお前か!」


 澄江は望の肩に爪を食いこませ、声を荒げる。まるで別人のようだ。吠えるような澄江の声は背中から床に倒れ込んだ望の全身を駆け巡る。


「澄江さん」


 何とか声を絞り出した望に対し、澄江は望の肩を掴む指先に力を込める。


「澄江殿」


 秋のような涼し気な声と共に望の横を虎のように力強く駆け抜ける者がいた。望がまばたきをした瞬間、月光に照らされた灰色の髪の男が澄江を組み伏せるという状況に転じていた。


「離せ! 離せよ! あいつが、あいつが悪いんだ」


 初老の式神の腕を跳ねのけようと澄江は暴れるも、冴えわたる月のように凛とした目の式神は静かに彼を押さえつけて見下ろしている。


「朱莉、舟橋様と一緒にここから離れろ」


 皓の叱責に朱莉は肩を跳ねさせ、望の身体を慌てて起こす。


「のんちゃん、大丈夫!? とりあえず、こっち」


 望はぐらつく視界の中、朱莉に促されて這うようにして澄江と皓から距離を取る。

 暴れる澄江の動きが床を伝う。ドンドンと重いその音に望は不安になりながらも、朱莉に促されて立ち上がり、階段を下りる。


「望様、朱莉、怪我はありませんか?」


 階下で待っていた清佳は望と朱莉に駆け寄る。


「朱莉は大丈夫。でも、のんちゃんが背中から倒れて……」


「私は大丈夫です」


「頭を打ちませんでしたか? さあ、こちらへ」


 清佳は望の背中に手を添え、灯の点いたリビングへと促す。望はされるがまま、リビングのソファに腰掛ける。


「あの、澄江さんは一体……」


 豹変という言葉が合うほどに彼の様子はがらりと変わった。弱々しい人相は荒々しくなり、周りがよく見えていないようだった。

 否、彼にしか見えない何かと対峙しているように見えた。


「記憶がないことで混乱しているみたいです。最近は落ち着いてきていたのですが……」


 どうしたのでしょうか、と清佳は呟く。


「とにかく、お怪我がないか確認しましょう」


 ね、と優しく微笑む清佳に望はとりあえず頷いた。


◇◇◇◇◇


 朝の澄み渡った空気の中、どんよりとした空気をまとう彼と目が合う。望は庭へと通じる戸を開けると、彼はビクリと身体を震わせる。彼は気まずそうに一度視線を逸らすも、すぐに望の元へ駆け寄る。


「舟橋さん」


「澄江さん、おはようございます。お加減はいかがですか?」


 昨晩とは打って変わり、物腰の柔らかな青年の様子に望はほっとする。

 結局、昨夜、望は一階で休むことになったため、澄江のその後は知らないまま、眠りについた。そして、今しがた目覚めたところだ。


「私はとくに……。その、申し訳ない。怪我はないと聞いていますが、あなたを突き飛ばしてしまった。ごめんなさい」


 澄江は震えた声で謝罪の意を表す。そして、深々と頭を下げる。


「澄江さん、お顔を上げてください。何ともありませんから」


 背中から倒れたものの、怪我はない。頭を打ったかもしれないとのことだったが、とくに問題もない。肩も赤くはなったが、今朝見たら赤みもなく、跡もない。こうして、すっきりと起きることができたため、本当に何もないのだろうと望は思っている。

 ゆっくりと顔を上げた澄江の顔はひどく怯えていた。昨晩の獲物を狙う獣の目ではなく、その逆、狙われる立場の弱々しい目をしている。顔色も悪く、覇気がない。どうしようもないぐらいに不安であることがよくわかる。


「本当に?」


「ええ」


 望は安心させるように柔らかな声で返す。


「そうですか……。ですが、時間が経ってから痛みが出るかもしれませんので」


 澄江の視線はゆるゆると下がっていく。


「何かあったらすぐに篁様や式神様におっしゃってくださいね」


 澄江と同じようなことを篁や式神たちに言われた望は小さく頷く。


「はい」


 見るからに落ち込み、自分を責めている澄江にどう言葉をかければいいのか。望が悩んでいると秋風が二人の間に吹き込む。何とも言えない気まずい空気を運び込んだ風は無責任なことに消えてしまう。

 沈黙が続く。その沈黙を破るように足音が二人の方へ近づいてくる。


「澄江、舟橋さん」


 芯のある声音に澄江は顔を上げる。望も声の主を見ようと振り返ると、篁と皓がいた。


「おはよう、二人とも。澄江、少しいいか?」


「え、はい。何でしょう?」


 ひどく怯えた澄江の様子は幼い子供のようだ。


「いつものだ。皓と一緒に行ってこい」


「ああ……。はい」


 思っていたこととは違い、安堵したような、しかし、できることなら今は一人にしてほしいといった様子の彼だが、渋々と応じる。

 では、と澄江は望に軽く頭を下げると望の横を通り、皓と共にリビングを後にする。二人の背を見送った望は篁を見やる。彼も二人を見送るように廊下の方をじっと見つめる。


「……秋の心は愁いを強くさせるか」


 ぽつりと篁が呟く。


「澄江さんは本当に大丈夫なのでしょうか?」


 望は心配そうに尋ねる。

 澄江のことは冥府の管轄。だから、深く関わってはいけない。

 頭ではわかっていても、深く沈んだ面持ちをする彼を見ていると見て見ぬふりはできない。とくに、昨晩のことを思うとなおさらだ。


「驚かせてしまったな」


 澄江が暴れ出したとき、篁は玄と共に冥府にいた。事の次第を清佳からの伝令により知り、急ぎ現世へ戻ってきた。望に怪我がないことを清佳から報告を受けた後、澄江を二階の使っていない部屋へ押し込んだ皓の元へ向かった。そして、澄江が落ち着いたことを確認した頃、また冥府へ向かい、先ほど戻ってきて一息ついたところだ。


「最近は落ち着いていたんだが……」


 だから、望との接触を制限しなかった。澄江の様子が不安定であるのなら、別の冥官に預けて望を招く予定もあったのだが、最近は落ち着いていたからと油断してしまった。


「以前も同じようなことが?」


 清佳も篁と同じことを言っていた。

 彼の身に一体何が。疑問を持たずにはいられない望はじっと篁を見上げる。


「まあな」


 しかし、濡れ羽色の瞳は揺ぎなく、さらりと望の疑問を流す。

 これ以上訊いてくれるな。篁の涼やかな目が言外にそう言っている。

 生者である望に死者の澄江の多くは語らない。それは望もよくわかっている。

 それに、と望は視線を伏せる。先ほどの澄江の様子を見るに、あまり知られたくないのかもしれない。

 自分は澄江と関わらない方がいいのだろうか。望の胸の内にそのようなことが浮かぶ。澄江のためを思えば、望が踏み込むべきではないような気がしてならない。

 望の脳裏に昨夜の澄江と先ほどの澄江の姿が浮かぶ。まるで、別人のようだった彼の精神状態はひどく不安定だ。

 だから、成仏できずにいるのだろう。成仏できない理由と記憶を失った原因がどこまで関係しているのかはわからない。彼が成仏するために篁が彼を預かり、手を尽くしている状況を思うと中々一筋縄ではいかないように望は思う。。


「……そうですか」


 彼の事情を望は知らない。部外者である自分が足を踏み込んでいい話ではない。

 それでも、少しでも澄江のためを思うならと望は伏せた目を上げる。


「澄江さん、昨夜のことをひどく気にかけているみたいです。私からもお伝えしたのですが、ご自分のことを第一に考えてくださるよう、篁さんからフォローしていただけますか? 本当に怪我もなければ、体調が悪いというわけでもないので」


 ただでさえ、記憶のことでいっぱいいっぱいな澄江に望のことで余計な不安を与えたくない。望のことで気に病むぐらいなら、澄江自身のことを優先してほしい。

 それが望にできる澄江への配慮だ。


「わかった」


 この子はどこまでも優しいと篁は思う。

 見たところ、望の身体に異常はない。清佳からもそのように報告を受けた。そのまま澄江に伝えて問題ないろうだと篁は結論づける。

 ただ、と篁は濡れ羽色の目に心配の色を滲ませる。


「心の方は? 怖かっただろう」


 急に男に押し倒されたのだ。それも、相手は望の声がまともに届く状態ではなかった。

 恐怖。防衛反応とも言えるその感情に望が傷ついていないかと篁は心配だ。


「大丈夫です。式神の皆さんがとても気を遣ってくださったので」


 初老の姿からは想像もつかない速さと力で皓は望を助けてくれた。

 清佳は少しでも落ち着くようにと香を焚いてくれた。どこか懐かしさを覚えるその香に安心感を抱いた。

 朱莉も、手を繋ごう、と言ってくれた。おまけに、怖くない、怖くない、と望の頭を撫でてくれた。気恥ずかしかったが、彼女なりの優しさに望の心は癒された。


「そうか」


 篁は静かに答える。

 肝が据わっている。強い霊力の持ち主だからこそ、常人とは異なる体験をする者が多い。病んでしまう者もいる中で、望は強い心を持つ人間だ。

 幼少期に怪異に襲われ、一時期は怯えて暮らしていたこともあった。今はとくに問題なく暮らしており、昨晩のことがあっても冷静に受け止められる精神力に篁は感心する。

 明鏡止水。曇りのない鏡、凪いだ水面のように澄み渡って落ち着いた様のことを言う。そのような目と性格を持ち合わせた彼女はどこか達観しているようにも見える。

 賢い娘だ。篁が言わずとも、彼女は篁の意思を察し、一線を越えないように配慮ができる。それが、霊力によるものか、本人の性質なのか。彼女の才は今の世において、希少である。


「ところで、今日も出かけるか?」


 篁は庭へ視線をやり、話題を変える。気を配りはするものの、本人が大丈夫と言うのならあまり話を引きずるのもよくないと思う。


「はい。今日はスイーツ巡りです」


「そうか。気をつけて行っておいで」


 朱莉が振り回しているような気がしないでもないが、望は京都観光を楽しんでいる様子だ。気分転換にもいいだろうと篁は思う。


「いってきます」


 優しく微笑む篁に望はひとつ頷いた。

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