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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
第八夜 ウツシヨ■トフ
63/88

#2

 リビングから漏れる灯が庭に広がる紅葉を照らす。赤々とした紅葉の絨毯を眺めている望に低い声がかけられる。


「舟橋さん」


 低いその声に望は声の主を見上げる。切れ長の濡れ羽色の瞳が申し訳なさそうに望を見下ろしている。


「待たせたな」


「そんなことは……。生徒さん、たくさんいらっしゃるのですね」


 望は色とりどりの靴が並んだ玄関を思い出しながら、昼間の仕事を終えた篁を労う。


「ありがたいことに」


 篁がソファに座ると、清佳が篁の分の茶を運ぶ。


「今日もだが、本当に長いこと待たせてしまった」


 京都に来てもらえないだろうか。

 先日、篁から連絡があった。篁自身気になることがあり、望に会いたかったものの、盆の時期の仕事の多さに中々都合がつかなかった。


「いいえ、そんなことは……。お盆の時期で忙しい中、連絡をしてくださったではありませんか」


 元来、篁は忙しい。冥府の仕事をこなしがら、習字教室の先生という二足の草鞋を履いている。それが盆の時期ともなれば多忙を極め、盆が終わっても冥府の仕事に追われていた。習字教室の仕事を蔑ろにするわけにもいかず、昼夜問わず動き回っていた。その忙しさを縫いながら、篁は望とコンタクトをとっていた。

 それは篁だけでなく、式神たちも同じだ。篁が対応できないときは式神たちが代わりを務めた。気にかけてくれるだけでもありがたいと望は思う。


「とくに、周とは連絡をよく取っていたみたいで」


「あいつの方が時間の融通が利くから」


 篁は周とは度々連絡をとっていた。周から望の様子を聞くことができていたため、望とはそこまで頻繁に連絡をとっていない。望は就職活動で忙しいだろうからという篁の配慮だ。

 本当は鬼籍帳について話した周と連絡を取る方が都合がいいから。篁は茶を飲みながら飛び交う蝶の姿を思い出す。今も望の鬼籍帳には蝶の姿がある。


「お忙しい中、本当にありがたいことです」


「こちらも気になることがあるから。それと、痣のことも」


「ええ」


 望はわずかに視線を下げる。

 例の痣のことは周が伝えており、篁も知っている。そちらも気になるため、望の都合がつくときに京都に来てほしいという要望だった。できるだけ早い方がいいとのことで、望は連絡があった週末に京都へ行くと決めた。

 そのことを周に伝えたところ、周の方にも篁から連絡があったらしい。望一人で京都へ向かわせるようにとの言葉だった。周からは、急に店を空けるわけにはいかないため、一人で行けるというのであれば行っておいで、と言われた。

 そして、望は金曜日の授業終わりに京都行きの高速バスに飛び乗った。金曜日の授業は十五時前には終わるため、終わり次第向かうことにした。また、都合よく、月曜日には授業をひとつもいれていない。日程調整の連絡の際、篁に時間割のことを伝えると、望の都合がつくなら観光してから帰りなさい、泊めるから、と言われその言葉に甘えることにした。

 金曜日は習字教室があり、今まで篁は習字教室の高村先生の仕事をしていたところだ。最後に残った生徒を玄関まで見送ってきたところでもある。


「さて、早速本題に入らせてもらいたい。……が」


 篁の濡れ羽色の目が一点を見つめる。篁の視線の先にはすやすやと眠る少女の姿がある。朱色の髪紐で髪を結んだ少女は望の膝を借りて気持ちよさそうだ。


「いつも朱莉が悪いな」


 少女、朱莉は望によく懐いている。普段から人懐っこい性格であるため、基本的には誰に対しても心を開いている。そのため、こうして誰かの前でも無防備な姿を平気で晒す。警戒心がないと玄によく叱責されている。


「いえいえ。朱莉ちゃんと過ごす時間は楽しいですから」


 望は朱莉の髪を撫でる。子供特有の柔らかい髪だ。

 一人っ子の望からすると、朱莉は歳の離れた妹のような感じだ。少し背伸びして年上らしく望の手を引くところもあるが、基本的には望の後ろをちょこちょこと雛鳥のようについてくる。その姿は愛らしく、妹がいたらこんな感じなのだろうかとも思う。


「そうか。そう思ってもらえて嬉しい」


 篁は微笑を浮かべる。

 朱莉の中で望は別格。篁や他の式神全員の意見だ。朱莉自身ものんちゃんは特別とよく言っている。篁のスマホを勝手に使っては望に電話をかけていることが多々がある。何度も注意しているのだが、朱莉は、のんちゃんとお話する、と聞かない。冥府の仕事がどんなに忙しくとも、朱莉は望に電話を掛ける。

 夢のことや鬼籍帳のことが解決したら、望から篁や冥府に関する記憶を消さなければならない。もちろん、朱莉のこともだ。そのとき、朱莉はきちんと別れを告げ、その後もやっていけるのだろうかと篁としては心配している。

 今までもそうやって仲良くなった人間との別れを朱莉は経験してきた。しばらくは落ち込んだ様子を見せるが、時が過ぎればいつもどおりの無邪気な朱莉が戻ってくる。

 では、望との別れの際は。玄や清佳もいつかは望から朱莉の記憶が消され、今のように接することができなくなる、辛くなるぐらいなら距離を見誤ってはならないと窘めている。しかし、朱莉は聞く耳を持たない。どうしたものかと皓も困っている様子だ。

 幼い姿の式神の今後のことも考えねばならないが、今は目の前の望のことが優先であると篁は思考を切り替える。


「では、本題へ。身体の調子はその後どうだ?」


 痣が出たのは盆前のこと。周に鬼籍帳の話をした次の日、清佳と朱莉を派遣すると決めた。そして、日程調整のため望に電話をした。そのときはとくに異常がなく、妖街の医者からも問題なしと診断されたらしい。後日、望は元気そうだったと清佳と朱莉から報告を受けている。痣については周が言っていたとおりのことを清佳から聞き、朱莉もお花みたいな形と篁に不思議そうに話していた。

 望が帰省から戻ってきた頃にも通話している。そのときも望の様子に変わりはなく、本人に自覚症状はなかった。

 その後、貘の一族の使いが来たとも連絡があった。使いからの収穫はほとんどなかったものの、一族の手を借りられそうだというところで今は連絡を待っている状態だ。


「とくに変わりないです」


「本当に? 些細なことでもいい。関係ないかもしれないということでも構わないから、何か変化はあったか?」


 篁に改めて問われた望は最近の様子を振り返る。

 気になることはあるにはある。それが痣と関係しているかと問われるとわからないが、もしかしたら、と思う節がある。


「……あの、単純に忙しいからだと思うのですが、最近やたらと眠たくて」


 本当に些細で、痣の件と関係がないかもしれない。就職活動や大学での学びの忙しなさに身体がついていけないだけだと望は思う。しかし、何か変化があったかと問われるとそれぐらいしか望は思いつかない。


「眠いというのは? ずっと眠気があるとか、睡眠が浅いとか?」


 望の顔色を見るに、どこか体調が悪いようには見えない。こうして篁と話していても、受け答えはしっかりしているし、声音も目元の澄み切ったところもも以前会ったときと変わらない。


「普段はないのですが、講義中や課題をやっている間に眠っていることもあったり、睡眠時間は足りているはずなのに眠気が襲ってきたり」


 周にも相談した。店番をしているときにうたた寝していることが増えてしまい、周に起こされることもしばしばある。周から、最近よく眠そうにしているね、と言われることがあり、夢の回収に同行することが減った。里美にも心配され、店主さんにお茶紹介してもらったら? と言われたことは記憶に新しい。


「倦怠感はある?」


「倦怠感……というよりも、眠たくて頭がぼーっとしてしまうことは増えたかと」


 眠気との闘いで思考が働かなくなってしまう。望としては集中力が続かず、何かと困っている。とくに、一人になるとその傾向が強い。家で課題をやろうと机に向かったところは覚えていても、数十分ほど寝落ちしていることもある。ひどいときは朝を迎えていることもあり、昇って来た朝日に慌てて課題を片付けることがあった。それが続くようになってからは大学の図書館で課題を済ませてから帰るようにしたり、周から許可を得て店番をしながら課題をするようになった。

 誰かの目がないと学業に支障をきたす。今のところ、提出期限内に課題は出せているため、どうにかなっているが、最悪の場合を想定して動くべきという望なりの判断だ。


「眠いだけで体調が悪いとまではいかないと思うのですが……」


「熱は?」


「平熱です」


 初め、望も熱があるのかと疑った。しかし、熱があるわけでもない。


「眠りが浅いとか?」


「目覚めはいいと思います。昔から寝起きはいい方で、普段と変わらないですし」


 日常への小さな影響。ただ、多忙なせいで身体が疲れている。望はそう思っている。

 否、思いたいだけかもしれない。タイミングとしては痣が出てから。槿と接触してからはとくに眠気が強くなった気がする。ただし、槿と初めて会った頃から忙しさが増しただけだとは思うため、関係がないかもしれない。

 中途半端。望自身、今の自分は何ともふわふわとした位置にいると思う。自分のことなのに、わからないことだらけで、それがまたストレスになっている気がしてならない。


「そうか」


 篁は腕を組む。

 痣があると発覚して以来、望から夢の残滓を感じると周から聞いている。わずかな残滓であるため、夢として形をなしているかと聞かれるとそれほどのものではないそうだ。

 望は夢を見られない。その望から残滓を感じるというのが周としては引っかかるらしい。


「……」


 篁や冥府が気になること。それは鬼籍帳のことだ。こちらについては望には何も知らせていない。

 鬼籍帳についての進捗もとくにない。現在も調査中であるということのみだ。今日、こうして篁の元へ来てもらったものの、何かわかる気配はない。全て清佳や望が住む地域の担当冥官、そして、周から聞いた情報以上のものを篁は感じ取ることができていない。


「……あまり無理はしないようにな」


 望の眠気と痣や鬼籍帳は関係するのか。それは今すぐには断定できない。ただ、望の鬼籍帳にはこの頃体調を崩すというような記述はなかったはずだ。病ではないのであれば、この一連の件との関係を疑わずにはいられない。

 篁は様々な疑いを胸の内にしまいながらも、望に言葉をかけることに留める。


「はい」


 望はわずかに視線を落とす。

 自分の身に何が起きているのかわからない。貘の一族のい使いである槿とはまともに話すことができずに終わってしまった。周にどのような話が出たのか尋ねたものの、向こうからの情報はあまり入ってこなかったとのことだった。

 こうして篁の元を訪れた。何かしらわかることがあればいいのだが、と望が思っていると、玄関の方から話し声がする。聞き覚えのある深みのある声と落ち着いた少年の声だ。


「……ああ、そう言えば舟橋さんに別件で話しておくことがあった」


 篁は廊下の方へ視線をやると、タイミングよく三人が入ってくる。内二人は篁の式神の皓と玄だ。二人は望に気がつくと会釈し、もう一人の方へ視線をやる。望はもう一人を見るや否や、思考が一度停止する。

 望の目は多くの者を映す。それは常人には見えない者も望の目にかかればはっきりと姿を映す。


「少しばかり事情があって俺が預かっている亡者だ」


 篁は皓と玄と共に入室してきた青年を紹介する。

 幽霊。それは廊下から来る気配で望はわかっていた。

 書生。彼の服装を一言で言えばそれに尽きる。袴姿の青年に歴史や国語の資料集で見た明治、大正期の男性の服装を連想させる。


澄江(すみえ)と呼んでやってくれ。澄江、しばらくこちらのお嬢さんを預かることになった。舟橋さんだ」


「はい。舟橋望と申します」


 望は澄江に名乗る。澄江と呼ばれた青年は虚ろな眼差しで望を見る。


「……よろしく」


 ぼそぼそとした聞き取りにくい声だ。澄江はそれだけ言うと、俯く。あまりにも覇気のないその声に望は篁をちらりと見上げる。


「澄江、今日はもう休め。皓、彼を頼む」


 篁も澄江の疲労感漂う表情に望の前に長居させるわけにはいかないと判断を下す。


「御意」


 皓は澄江の背をそっと押す。澄江は小さく頭を下げると皓と共にリビングを出て行く。

 二人の気配が遠ざかると篁は玄に視線をやる。


「今日も駄目か」


「はい。途中で疲れ果ててしまいまして、早めに切り上げてきました」


「そうだろうとは思ったが……。まあ、今日も静かだろうな」


「恐らく」


「皓と見ていてくれ」


「かしこまりました」


 では、と言って玄は篁と望に一礼すると姿を消す。


「……と、舟橋さん。ちょっと事情がある亡者だが、あまり気にしないでくれ」


「はい」


 今まで、望は多くの死者の魂を見てきた。最近亡くなったのだろうと思う死者から澄江のように昔に亡くなった人、稀にもっと大昔に亡くなったのだろうと思う人を見かけることがあった。

 その中でも澄江は篁が事情ありというのも納得がいくほど、望にとって初めて見る死者だ。

 今まで見てきた死者の中でも存在が不安定に見える。例えるのなら、霧。何かに覆われていて、存在していることはわかるものの、姿形がぼんやりとしている。

 人形のよう。望はそうも感じ取った。自分の意志がないというか、はっきりしていないというか、とにかく頼りない存在に見える。

 しかし、望がそう思ってもそれ以上は何もない。澄江のことは冥府の管轄だ。気にはなるが、望が訊いても篁たちは教えてくれないだろう。詮索されたくもないだろうと思い、望はただひとつ応じるのみだ。


「よろしく頼む。さて、舟橋さんも今日は疲れただろう。話はまた明日するとしようか」


「わかりました」


「もう少ししたら夕飯を食べに行こう。それまで休んでいなさい」


 それと、と言って篁はしゃがむ。望の膝の上で幸せそうに眠る幼い姿の式神に苦笑する。


「朱莉、起きなさい。夕飯、舟橋さんと一緒に食べたいんだろう」


 ほら、と篁は軽く朱莉の頬をつつくも、小さな式神はむにゃむにゃと眠りの中だ。


「まったく……」


 篁は失礼と言って朱莉を抱き上げる。わずかに顔をしかめた朱莉だが、相も変わらず気持ちよさそうに眠っている。


「脚、痛くないか?」


「大丈夫です」


「そうか。じゃあ、時間までゆっくりしていてくれ」


 望はひとつ頷き、朱莉を起こそうとあれこれ試す篁を見送るのだった。


◇◇◇◇◇


 はらはらと舞い散る紅葉に攫われてしまいそうな危うさがある。昨晩と同じく、ぼんやりとしている青年の姿を見とめた望は声をかけようかどうか悩み、足を止める。


『すみくんは記憶がないんだって』


 昨晩、布団の中で朱莉が教えてくれた。それは望に言っていいことなのかと思いながら、望は朱莉から澄江のことを聞いた。

 彼は昭和初期に亡くなった人物らしい。亡くなった後、冥府へ来ることなく、ずっと彷徨っていたところを保護され、篁の元へ送られたそうだ。俺のところじゃない方がいいと思う、と篁がぼやいていたとも朱莉が教えてくれた。詳しいことは朱莉も知らされていないらしい。澄江という名は仮の名前なんだけど何で澄江にしたんだろう、と不思議がっていた。

 昨晩の皓と玄の様子を見る限り、あの二人が澄江のお目付け役なのだろうと望は考えた。が、今は彼一人だ。


「……おや」


 望の視線に気がついたのか、澄江は望に視線を送る。昨晩よりも元気になったのか、声に張りがあり、微笑を浮かべている。


「おはようございます、舟橋さん」


「おはようございます」


 望も澄江に挨拶をすると、澄江は望の方へ歩み寄る。


「昨晩はきちんとご挨拶できずに申し訳ない」


「随分とお疲れのご様子でしたが、もうよろしいのですか?」


 正直に言うと、目の前にいる彼は昨晩とは別人のようだ。昨日は人形のようだと思った青年の顔色はかなりよくなっている。瑞々しさのある好青年といった印象を抱く。


「ええ。大分元気になりましたよ」


 どこか誇らしげにする澄江に望は安堵する。こうして澄江を見ると望とあまり歳が変わらない青年に見える。


「ところで、そちらは?」


 澄江の視線が望の手元へ注がれる。


「こちらですか? 篁さんから借りたものです」


 そう言って望は持っていた本を澄江に見せる。


「ほう……。夏目漱石先生ですか」


 澄江は興味深そうに本の表紙を見つめる。


「前に読んだのですが、また読んでみたいと思って」


 『夢十夜』。以前、大学の図書館で借りて読んだ作品だ。

 ここ数ヶ月、夢に関してあれこれと変化が多い望は先ほどまで篁の書斎で聞き取りを受けていた。盆以降も連絡を取り合っていたため、正確に言えば痣の様子や夢の残滓の気配に関する確認だった。

 篁からすると、望から感じる霊力の中に違った力を感じるらしい。以前会ったときと違い、不思議な力を感じる、その力が夢の残滓なのだろうと篁は言っていた。痣の形についても、以前確認した清佳が篁の代わりに見て、確かに形が変わったと言っていた。

 報告書を作成した後、冥府へ行ってくる。そう言って篁は望を開放した。その際、篁の書斎にあった『夢十夜』に目を留めた望は篁から本を借りたのだ。


「うんうん、いいですね」


 昨日とは打って変わって澄江の表情が明るくなっている。


「澄江さん、夏目漱石の作品、お好きなのですか?」


 記憶がないとのことだが、その辺りはどうなのだろうか、と望は疑問を抱く。


「はい。夏目先生に限らず、読書は好きです」


 澄江の目がキラリと光る。美しい硝子戸のような輝きだ。


「なるほど」


 記憶がないと言っても、望が思っているよりも覚えていることが多いのかもしれないと思う。中でも、自分の好きなものがわかっているのは大きいのではないかとも思う。


「舟橋さんはどうですか? 本はお好きですか?」


 できることなら語り合いたい。澄江の目がそう訴えているような気がするが、望は気まずそうに視線を落とす。


「好きですけど、最近はあまり読んでいなくて……。いや、読んでいると言えば読んでいるのですが、論文ばかりで」


 就活の忙しさに加え、大学の勉強にまつわる論文を読んでばかりで、娯楽としての読書をしていない。


「学生さんは忙しいですよね。僕も忙しかったのを覚えています」


 学生だった頃のことも覚えているのだなと望は思う。

 望とあまり歳の変わらないであろう青年。理由は様々らしいが、幽霊は亡くなった当時と同じ姿とは限らないことを望は知っている。仮に、澄江がこの青年時代のときに亡くなっているとしたら、二十代前半ほど。若者の早すぎる死を感じる。


「私もあとで本を借りることにします」


 何を読もうかな、と思案する澄江の横顔はうきうきとして楽しそうだ。本当に本が好きな読書家なのだろうと望は思う。


「のんちゃーん」


 軽やかな足音とともに可愛らしい声が望を呼ぶ。廊下を元気よく走る朱莉は振り返った望と目が合うと走って来た勢いのまま望に飛びつく。


「おっと……。朱莉ちゃん、危ないよ」


 望は朱莉の小さな身体を抱き止めながら窘める。しかし、朱莉にはあまり響いていないのか、にこにこと笑っている。


「篁さまとのお話終わった?」


「うん、終わったよ」


「じゃあ、お出かけしよ! 朱莉、嵐山行きたい」


「うん、いいけど……」


 望はちらっと澄江を見やる。


「すみくんも行く?」


 望の視線に気がついた朱莉が尋ねると、澄江は困ったように眉を下げて苦笑する。


「この後、皓さんと出かける約束がありまして……。せっかくのお誘いですが、申し訳ない」


「そっか。なら、しょうがないね」


「すみません。楽しんできてくださいね」


 いってらっしゃい、と手を振る澄江に望は会釈を返し、朱莉に手を引かれる。

 昨日とは打って変わって受け答えがはっきりしていた。こうして話してみると普通の青年だ。

 なぜ、彼は記憶を失ってしまったのだろうか。そして、思い出せていないのか。死の直前、それほどまでに大きな出来事が彼の記憶を消し去り、思い出すことを拒んでいるのだろうかと推測する望の髪を秋風が寂しく揺らした。

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