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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
第七夜 歌の標と未明の船
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#7

 朝日が昇ると絞られていた蕾が緩みだす。目覚めの時を迎えた花の蕾はゆるゆるとほどけ、丸い顔を見せる。

 花の中にお星様。幼い頃にそんなことを日記に書いた気がする。

 望は朝の顔を見せる花を見つめながらそのようなことを思い出す。


「……」


 望はふと視線を朝顔から移す。

 朝顔のカーテンの下、難しい顔をして腕を組む周がいる。

 昨日の痣の件でひと騒動あった。体調は眠ったおかげですぐによくなった。棗に診てもらったところ、顔色もよく、とくに問題ないだろうと診断された。しかし、念には念を入れて今日は手伝いを休むように言われた。

 棗の次は周だ。周曰く、望から夢の残滓を感じるとのことだ。望自身は夢を見た記憶もなければ、実際に夢を見た形跡もないと周は断じた。

 では、この夢の残滓の正体は何か。何か夢に影響が出るのか。

 そのような疑問を解決するため、こうして夢の中に入った。今朝だけで、向日葵が太陽を追う夢、殻を脱ぎ捨てる蝉の夢、花火を楽しむ子供の夢など、いくつも見てきた。

 しかし、望に異変はない。いつもどおり、周に夢へ誘われるだけだ。

 少し考えさせてほしい。そう言った周は朝顔のカーテンの下、佇んでいる。険しい表情の周から望は視線を逸らす。

 何かがあればまだ道が切り拓けるだろうに。望はそう思うも何もないのだ。それがいいのか、悪いのかわからず、何もできない自分がもどかしい。

 望は朝顔をぼんやりと見つめながら考え込む。

 朝露に濡れ、朝日を浴びる朝顔は何も語らない。静かな夏の朝、蝉の鳴き声がするのみだ。


「……」


 朝顔をじっと見つめても、蝉の声に耳を傾けても何も浮かばない。望はため息をつきながら目を閉じる。

 静かな暗がり。あの幼い日、枯れ枝のような腕が望に伸ばされた。

 あれが全ての始まり。篁から教えてもらったものの、直接解決に至るところまではいかなかった。

篁も忙しい中、あれこれ調べてくれているようだが、あまり目ぼしいものはないとのこと。

 今回の痣のことも報告しなければ。夕方前には連絡しておきたい、と考えていると、望の隣に気配を感じる。

 目を開くと、一羽の蝶が朝顔に停まっていた。朝露のような煌めきを持つ羽をゆっくりと休めている。綺麗な蝶は現実世界にはいないであろう幻の存在。朝日を浴びて虹色に変化するその羽は硝子細工のようだ。

 蝶が羽ばたく。望は蝶の軌跡を目で追う。ひらひらと頼りなく飛ぶ蝶は周の方へ向かう。周の近くで一度旋回すると、思考の縁から戻って来たのか、周が望の方へ視線をやる。それと同時に蝶が消える。


「……望ちゃん、放っておいてごめんね」


 いつものヘラリとした笑みを浮かべた周が望の方へ歩み寄る。


「疲れてない?」


 周の問いかけに望はふるふると首を横に振る。


「大丈夫」


 望はされるがまま、周に誘われて夢に入るのみだ。


「周こそ平気?」


 力を使っているのは周の方だ。周こそ大丈夫なのか、と望が尋ねると周はにこにこと笑う。


「平気だよ。ただ、手詰まりではあるんだけど……」


 あれこれと考えた結果、周の頭には何も思い浮かばなかった。

 周が持っている知識、今まで集めた情報を合わせても何かがわかることはない。それが現状だ。


「ちょっと休憩しよう」


 ね、と周は望に促す。望はそれに応じると立ち上がる。

 朝顔のカーテンの下、縁側には爽やかな色の緑茶と水羊羹がのった盆が置かれている。


「お菓子でも食べて一息つこう」


 夢の中だけど、と言って周は腰掛ける。望も盆を挟んで縁側に座る。

 夢の中の飲食という行為は不思議な物だ。本来、味などするはずがないのに、甘いとか辛いとか、固い柔らかいといった触感もある。それは夢を見ている者がどのようなものか知っているから、経験しているからだよ、と周が教えてくれた。

 望はグラスを手に取る。綺麗な緑が揺れ、氷がカラリと音をたてる。口をつければ上品で控えめな甘さが喉を潤す。


「……玉露?」


「お、わかる?」


「夢の中でわかるっていうのも不思議だけど」


 本当に不思議なことだ。そう思いながらも望はまた一口茶を流す。


「夢から戻ったら本物食べたいね」


 そう言って周は水羊羹を食べる。瑞々しく、ひんやりとした滑らかな餡が舌を楽しませる。


「かき氷も食べたいなあ」


 かき氷、と周が名残惜しそうに言うと盆の上にかき氷が現れる。氷山の頂は抹茶色と乳白色に染まり、麓には餡子と白玉が添えられている。


「……周って結構食べるよね」


「そうかな?」


「うん」


 どちらかと言えば細身の体躯に対し、食べるときはよく食べている印象がある。とくに、外食時はぺろりと平らげることが多い。


「食べるの好きだから」


「そうでしょうね」


 美食家。そんな言葉が似合う。料理もこだわりがあるらしく、周が料理する姿を見たり、手伝ったりするときに実感する。口にするとどれも美味しい。時々、作りすぎたからと分けてもらうこともあり、望としてはありがたくもある。


「食べられるときに食べておかないと」


 一族から追放されて以降、毎日何か食べられる保証などなかった。とくに、追放されてから間もないときはそうだった。狩りの仕方は知ってはいたものの、道具がない。かと言って、木の実や葉物類では成長期の身体は満足できなかった。

 だから、食べられるときに食べる。採れたものがあるのなら、それを保存する手立ても考えるようにもなった。


「お腹いっぱい食べられることは幸せだから」


「うん」


「望ちゃんもかき氷いる?」


「今はいいや」


「そう」


 じゃあ、と周はかき氷をシャクシャクと食べ始める。

 蝉の鳴き声がする。真夏の朝を感じながら、望の脳裏に黒がよぎる。この暑さとは真逆の涼し気なあの黒色だ。


「あのさ、周」


「何?」


「篁さんに報告した方がいいよね」


 何かあったら連絡を。冥府の役人はそう言ってくれた。と言っても、定期的に連絡を取り合っている。篁から連絡が入るというよりも朱莉からの他愛のない、無邪気な連絡ばかりではある。


「まあね。ただ、今の時期、あの人忙しいからなあ」


 冥府が一番忙しい時期である。盆の後処理に九月、十月までかかるそうだ。


「望ちゃんのスマホからメッセージ送ってもらってもいいかな? 文だと時間かかるし、書類に紛れ込んでどこかいっちゃうかもしれないし」


 後者について、篁はそのようなヘマはしないと周は思う。篁の書斎は整然としていた。どれだけ仕事が舞い込んでこようとも、彼はきっちりと整理し、整頓しているだろうから。


「そうだね。内容まとめてピコンって送った方が早いし、既読がつけば目を通したっていう証拠にもなる」


「うん。そっちの方が篁卿も助かると思う」


 電子媒体って便利だよな、と電子機器を使いこなす平安生まれを見るのも不思議な体験であった。お前は使わないのか、と尋ねられた周は現代に染まっているな、としみじみと思った。それと同時に、適応能力が高いからこそ、冥府の役人として長いこと勤めていられるのだろうとも思った。


「お盆の冥府ってそんなに忙しいの?」


「そりゃあ、忙しいよ。亡者が現世へ帰るのはいいけど、冥府へ帰ってこないこともあるから」


 基本的には帰ってくるのだが、駄々をこねて帰ってこない亡者がいる。冥府へ戻らない亡者を連れ戻すという仕事に手を焼いているらしい。


「篁さん、毎年やってるってことだよね?」


「そうじゃないかな」


 千二百年。この長い時間、毎年ある事柄をこなしている。


「出世してるはずなんだけどね、あの人も。長く勤めているからこそ、慣れてるってことで駆り出されるんだろうね」


「冥府にも出世って概念あるんだ……」


 篁は経歴としてかなり長い部類に入るだろう。であれば、高官だろうと推測できる反面、篁ほどの経歴の人も駆り出されるほど、盆の時期の冥府はてんやわんやなのだろうと望は思う。


「冥府におけるキャリアってどんな感じだろう……」


「望ちゃん、冥府に就職する?」


 にやにやしながら尋ねる周に望は首を横に振る。


「それはちょっと……」


「能力的には適正ありそうだけど」


 望は並外れた強い見鬼の才を持つ。現代において、その力は珍しく、希少だ。冥府の役人になるとなれば、有利に働く力だ。


「ほら、篁卿はその力を見込まれて冥官になったわけだし」


「篁さんは篁さんとしてだけど、私は別に……」


 篁の力は桁外れ。それは望もよくわかっている。彼のまとう空気や住処の清さからして力が強いこともよくわかる。他の冥官がどうかは知らないが、少なくとも、望が今まで出会ってきた者の中で一番清い力を持っていることは確かだ。その力と頭脳を買われ、冥官となったのも頷ける。

 しかし、望はどうか。冥官の任務を全て聞いたわけではないが、幼い望を襲った影のような悪しき存在の討伐をしなければならないとなると、望には難しい。武術の心得があるわけではない。

 それに。


「千年も働くなんてできるとは思えない」


 望は視線を伏せる。

 働きたくないというわけではない。ただ、千年という長い時を過ごせる自信がない。

 元々長命な妖と違って、人間は短命だ。一度死んだ後、働く。それも、どんどんと環境が変わり、見知った顔も去っていく。そのような孤独に耐えられるのか、と疑問が生じる。


「冥官になるには心の強さも必要だからねえ」


 周は茶を飲む。

 凄惨な死を迎えた者と向き合うことも必要となる。どれだけ目を逸らしたくとも、それは許されたない。どれだけ耳を塞ぎたくとも、亡者の声に耳を傾けなければならない

 そして、長い時を過ごすことに対する適応能力も必要となる。移り変わる世界に自分も慣れるしかないのだ。


「その点、篁卿の心は強いよ」


「でしょうね」


 優しい人だと望は思った。最初、周や杏介から散々恐い人だと聞いていたが、実際に話してみるとそのようなことはなかった。

 優しくて、物知り。篁のような教師がいたら、なんて思うほど、彼は誰かを導くことに向いていると思った。

 もちろん、厳しい一面もある。強い言葉を使っているわけではないのに、ずっしりと重い言葉を紡ぐことがある。

 歌人であり、政治家だった生前の職のためか、それとも、強い霊力を持っているためか。とにかく、彼の口から紡がれる言の葉は時として重くのしかかる。


「生きているときから強い人だったのかな」


「遣唐使のこともあったし、並大抵の強さではないと思う」


 遣唐副使に任じられた彼はある時、大使と衝突した。乗船を拒否した上、遣唐使を批判する詩を作り、帝の逆鱗に触れ、島流しにあっている。そのようなことをしたらどうなるのかよくわかっている男がそこまでした。死をも覚悟するほどの出来事を彼はしたのだ。

 生前から心根のしっかりした人物だったことはよく聞く。そこからついた異名が彼の人となりをよく表していると周は思う。


「若い頃は百鬼夜行に紛れて都を徘徊してたって聞くし、子どもの頃から鋼よりも強い精神の持ち主だったかも」


 その際に冥官から声をかけられたそうだ。篁は面白半分で承諾したらしい。


「え……。それ、本当?」


「うん。本人と京の妖から聞いた」


 昔、若い野宰相と一緒に都を練り歩いた。

 そう話す妖が大勢いた。篁も彼らと親し気に話しているところを見かけたこともある。


「肝が据わってる……」


 小野篁という人は望が思う以上に胆力のある存在だと思い知らされる。


「望ちゃんも大概だけどね」


 篁ほどではないにしろ、望も妖の世界に出入りしているし、身近に親しい者もいる。冷静な顔の下、動じない心の持ち主だと周は思う。


「そうかな?」


「そうだよ」


 周はかき氷を口に含む。溶けないかき氷はずっと冷たく、氷の粒の触感もしっかりしている。


「……うん、そうかもしれない」


 望の脳裏にいくつもの顔が浮かぶ。それは、細い目の胡散臭い店主をはじめ、杏子色が眩しい陽気な青年、茜色の髪紐がトレードマークの姉のような女性、やんちゃな隻眼の少年、頼りがいのある兎の医師など、常盤街の住民だけでなく、夢屋を訪れる人ならざる者たちも含まれる。

 慣れてしまった。人ならざる者が見えることが当たり前で、彼らの存在を否定することもない。幸いなことに、望を狙うような悪しき者は少なく、皆よくしてくれている。それが当たり前になり、望の日常の一コマになってきている。

 望の環境は周りから見ると異様だろう。普通ではない環境に身を置いていれば、第三者からすると肝が据わっていると見られても何らおかしくない。

 第三者の目からすると動じないと思われるかもしれないが、それでも、望は黒に身を包む長身の冥官には及ばないと思う。


「でも、私は冥官にはなりたいと思わない」


「僕としてはおすすめしない」


 篁もやめておけと言いそうだ。彼は職務をよくわかっているのだから。愚痴を聞くこともよくあった。


「冥府に就職する? って言ったくせに」


「あはは」


 誤魔化したと思いながら、望は水羊羹を切り分ける。艶々とした質感は涼を与える。口に含めば、見た目通りの瑞々しい餡子の味が広がる。


「夢から覚めたら文章考えようね」


「うん」


 望は水羊羹をもう一切れ食べる。皿の上は空となり、黒文字を置く。茶を飲もうとグラスを持つと残りが少なくなってきている。こんなに飲んでいただろうか、と思いながら上品な緑を流し込む。

 その望の隣で周もかき氷を平らげていく。


「……」


 氷の山を崩す周の手が停まる。

 痣のことを篁に報告して、何か得られることはあるのだろうか。そのような疑問が生じる。

 篁とて、全てを知っているわけではない。夢を見ない人間について、篁と同じく、冥官をしている者でも知らない、わからないという返答ばかりだった。

 今回のことも篁はどう思うのか。彼なりに動いてくれていることは望を通して聞いている。しかし、彼の冥官としての立場が立ちふさがり、思うように進んでいないだろうと推測できる。表立って動けないとは本人の口から聞いてはいたが、やはり、と周は思う。

 よぎるのは一族の顔。まだ返事は来ていない。受け取ったというような連絡は受けたのだが、返事はまだだ。

 一族にも痣のことを伝えたいところだ。遠方にいるため、文が届くのにも時間がかかる。この時間がもどかしくもある。いっそのこと、望を連れて一族の元へ押しかけてしまえと考えるほどだ。


「周?」


 望の呼びかけに周は思考から戻る。


「ん?」


 小首を傾げた周の視線の先、揺らぐ水鏡があった。


「貘の一族のこと考えてる?」


 全てを見透かすような目。否、見透かしている目だ。

 周は苦笑すると、銀色の匙に映る自分の顔を見る。情けない顔をしている。


「返事まだかなって」


「受け取ってもらえたんでしょ?」


「うん。早く返事がほしい」


 うじうじして貘の一族を頼ることを渋っておきながら、彼らからの返事を催促する自分に嫌気がさす。

 周は溶けないかき氷を口にする。キーンと頭に痛みが走る。


「うっ……」


「あ、痛いやつだ」


 額を手で押さえる周にかき氷あるあるだと望は思う。夢の中でもその現象が起こるのは本当のかき氷のせいだろうかとも思う。


「いや、かき氷のキーンは置いておいて……。痣のことも知らせたいし、どうにかならないかなって」


「向こうも色々と考えがあるんだよね」


 貘の一族にも事情があるだろう。周の名前を出していることもあり、あちら側にも思うことがあるはずだ。


「あるはずだ」


 周の名前を出すか、否か。篁と文を作成する際、議論になった。

 周は出すべきではないと主張した。望の体質のことと周のこととを天秤にかけたとき、望のことに興味を示すだろうとは思った。貘という生き物は元来、穏やかな気性の者が多く、夢で悩む者がいれば手を貸すこともする。だから、望のことを無碍にすることはないと思った。だが、周の名前が出ることで、何かしらの不都合が出るのではないかと思った。その可能性が少しでもあるのであれば、周の名前は出すべきではないと周は考えた。

 お前の意見がわからないでもないが、と篁のため息交じりの一言があった上で、篁は周の名前を出すべきだと反論した。人間である望が貘の一族とコンタクトを取ろうとした経緯がなければあちらも警戒するのではないか、とのことだった。それならば、篁や杏介など、他の者の名前を出せば、と周は言ったのだが、周以外に貘の一族と直接繋がりがいる者はいるのか、という篁の問いに周は反論できなかった。変に間を挟むように名前を出しても意味がない、向こうを警戒させるだけ、と篁に一蹴された。


『お前の名で出された文が突き返されるのなら、張本人である舟橋さんの名で出せばいいだけの話。文を開いてしまえば、こちらのものだ』


 篁のその言葉に周は、でも、と先のことがよぎった。

 二人の意見を静かに聞いていた望はまだ罫線しかひかれていない便箋に視線を落とした。


「……私は周の名前を出してよかったと思うよ」


 周が考え込んでいることを見透かした望はぽつりと言葉を零す。

 篁の言い分、周の言い分、どちらもよくわかると思いながら望は話を聞いていた。

 自分のことだろう。篁にそう言われた望はどうするべきだろうと考えていた。ちょうどそのとき、篁が望に意見を求めてきた。


「篁さんも言ってたけど、人間の私が貘の一族に手紙を送るとなるとハードルが高い。だから、誰か繋いでくれる存在の名前を出す必要があった」


 その存在は周が言ったとおり、篁や杏介でも問題はなかっただろう。二人とも望のことで気にかけてくれていることに変わりはない。周という貘との繋がりもあるという点では悪くない人選だと望も思う。


「篁さんや杏介さんもよくしてくれたけど、一番は周だから」


 一番望の近くで夢のことを解決しようと尽力してくれたのは周だ。周が関わってくれたことを一族に伝えたいという思いがあった。


「色々と手を尽くしてくれた周のことを隠すなんて私にはできない。って言っても、これは私の自己満足だけど」


 周のことを信じてほしい。確かに、周は一族の宝である胡蝶の夢を壊し、逃がした。それは温厚な貘が激昂するほどの大罪であることは間違いないのだろうと思う。望からすると、一族にとってどれほどの罪なのか、計り知れないことだ。

 完全な部外者だからこそ、望には望なりに思うところがあるのも事実だ。


『私にとってはだけど、周が胡蝶の夢を逃がしたことと、私のために尽力してくれたことは別。切り離して考えるべきだと思うんだ。だから、周の名前を出して一族が拒絶するのなら、周の過去と私の件は一緒だと考えていると捉えることにする。関わらない方がいいだけだと思う』


 ただそれだけのこと。周の過去の全てを知ったわけではないため、浅はかな考え方だと望は思う。それでも、周がしてしまった過去と周がしてくれている現在を一緒にしてほしくないと望は願った。今もなお、過去の重荷を背負って苦しんでいる周の姿を知っているだけに、今の周のことを知ってほしいと思うのだ。

 当時の望の言葉のひとつひとつを思い出した周は苦笑する。


「……望ちゃんは優しい子だよね」


 あの春の日、望が紡いだ言葉に周は何も言えなかった。沈黙する周の様子を察したのか、スマホ越しの篁の、そうか、という一言が優しかったのも覚えている。

 しばしの沈黙の間、周は名前を出すことを決めたのだ。


「君はいつも僕の心を救う言葉をくれる」


 隣に座る望はピンときていないのか、不思議そうな顔をしている。

 無自覚。意識せずとも音となる言葉を持ち合わせているとは、と周の脳裏に一人の面影が浮かぶ。自分と同じ細い目をした男の顔だ。彼の言葉も美しいものだと賛辞が贈られることが多かった。幼い周からしてみても、彼の言葉はいつも輝いていた。

 彼の目に映る全ては美しく、それをそのまま表現できる。憧れの存在だった。望の言葉は彼のように技巧が伴うわけではないが、彼と似た着眼点を持っているのかもしれない。


「ありがとう」


「……」


 しっとりとした周の言葉は朝露のような涙とともに零れ落ちる。あの夏の夜と同じように、繊細な硝子のような雫に望の視線が釘付けになる。

 あの煙の香と湿気を含んだ空気感の夏の夜、周が発した謝罪の言葉は一族に向けられたものだったのだろうか。その真意を彼に尋ねるつもりは望にはない。本人が覚えていないことを問うたところで、と望は思うのだ。

 周は強いと思っていた。単純に貘としての力が強い、武術の心得があるという意味もあるが、心根も強いのだと感じることが多かった。

 夢屋を訪れる客の全てが見たい夢を望むわけではない。悪夢から救ってくれと願う者もいる。彼らの話に望も同席したことがあるが、思わず顔を顰めてしまうような辛い夢に悩まされている者がいる。大概、現実においても辛い思いをしている者が多く、そんな彼らの言葉を周は受け止めている。

 カウンセラー。夢屋としての周の顔の一面だと思う。彼の職業は心の強さが必要だと思うことがしばしばある。聞くに堪えないような話でも周は耳を傾け続けていた。

 しかし、実際の周はあまり強くないのではないかとも思うことがこの頃増えた。一族のことで思い悩む姿があまりにも弱々しく、胸の内の澱みを吐き出せずにいるように見える。ふとしたときに呆然としていることが増えた。望の知らないところで吐き出せているのならいいのだが、そうでもないらしく、ぼんやりしていることも多い。杏介にそれとなく聞いてみたのだが、杏介も心配しているようだ。望が知らないところで医院の仕事でミスをしているらしい。直人がからかっては笑って誤魔化しているらしく、茜もいつもと様子が違うと勘づいている。棗も気にかけているそうだ。

 溶けないかき氷の山が音もなく崩れ落ちる。このかき氷のように、音もなく周が崩れてしまわないかと不安になる。


「周」


 どうか、と願う望の手元にふわりと滑らかな触り心地の物が現れる。真っ白な布に傘の刺繍が入った一枚のハンカチだ。望はそれを周に差し出す。周はハンカチを無言で受け取ると目元を拭う。


「……ねえ、最近の僕、恰好悪いよね」


 望に対して、情けない姿ばかり見せている。望に心配もかけて最悪だ。


「別に」


 情けない姿を見られるのは嫌だと思う気持ちはわかる。だが、見る側の立場になると気にならない。


「僕は嫌なんだけど」


「なら、背筋伸ばしておきなよ。いつも姿勢はいいんだから」


 周は姿勢がいい。杏介がよく話してくれる。それは昔から変わらないらしい。俺とは違ってきちんと教育を受けてきた所作、と杏介は評している。チャラチャラとした言動で時々霞んでいるが、よく見ると周の振る舞いは洗練されている。

 姿勢は大事。背中が丸まっていては気持ちが沈む。

 そんなことを望の祖父はよく言う。剣道の有段者である祖父の背はいつもピンと伸び、同年代の人と比べると大きく見える。その背中を幼い頃から恰好いいとも、逞しいとも思いながら見ている。


「えーん、望ちゃんが褒めてくれるー」


「何、その感情」


 嬉しいのか、ふざけているのか、よくわからない周の声音に望は眉を潜める。

 多少いつもの周に戻ってきたような気がする。


「落ち着いた?」


「……多分」


 周はハンカチで目元を覆う。視界の暗闇に安堵しつつも、光がほしくなり、すぐにハンカチを離す。


「………………ん?」


 周は手元のハンカチを広げて朝日にかざす。白いハンカチの隅に傘が刺繍されている。簾のように蔦を這わせている朝顔のような青の洋傘の刺繍。空の色と同じ糸で雫も刺繍されている。

 何の変哲もないハンカチだ。触り心地もとくに問題のない、どこかに売っていそうなハンカチだ。


「望ちゃん」


「何?」


 朝日にハンカチをかざしたままの周の声音が低くなる。その声に望はハンカチを見やる。

 改めて見るとどこかで見たハンカチのデザインだと記憶の糸を手繰ると、中学生か高校生のときに使っていたハンカチだと思い出す。綺麗な刺繍が施されたハンカチが大人っぽくて好きだった。


「これ、どこから出したの?」


「どこからって……」


 カラン、とグラスの中の氷が音を立てる。静まり返った空間にその音がやけに響く。蝉の声よりも大きく聞こえた気がする。


「気がついたら手元にあって……」


「……」


 周はハンカチを畳み、膝の上に置く。

 夢は変幻自在。夢玉に閉じ込めた夢の大まかな内容は変わらない。しかし、夢を見ている者の状況によって、多少変化するものの、大筋は同じ。

 今見ている朝顔の夢は劇的な物語があるわけではない。夏の朝日を浴びて目覚める民家の朝顔の夢なだけであって、変化に乏しい夢だ。この夢には本来、茶や水羊羹、かき氷は存在しない。それは周が力を使って登場させたから。元々の朝顔の夢の中の舞台装置に周が小物を追加させた。周でなくとも、夢を見る者の潜在的な意識によって物が増えたり、減ったり、展開が変わることもある。

 しかし、望にはそれができない。夢を自力で見ることができない望には夢へ干渉する力が弱いらしい。よって、周や他の者と同じように夢の中の舞台装置や脚本をいじることが難しい。望が強く願わなければできないことだ。

 だから、気がついたら手元にハンカチがあった、という現象は起こりえないのだ。


「何ともない?」


「ないけど」


 望は自分が夢への干渉の力が弱いことを思い出す。本当に強く願わないと出すことができなかったのに、無意識に出てきたことに驚きを隠せない。


「他にも何か出せる?」


「え? んー、やってみる」


 何にしよう、と望が考える視線の先、かき氷の山がある。今の望の気分としては宇治金時ではなく、苺のシロップに練乳がかかったものだ。そう言えば、夏休み前に里美と一緒に食べたかき氷が美味かったのを思い出す。あれは蜜柑のかき氷で、シロップだけでなく、可愛らしい蜜柑の実が皿の縁に並んでいた。

 ふたつのかき氷を何とはなしに思い浮かべると思い浮かべたままのかき氷が周の食べかけのかき氷の隣に並ぶ。


「……」


「……」


 とくに問題なく現れたかき氷に沈黙が流れる。


「……嘘でしょ」


 周の掠れた声に望も首を傾げる。今までこんなに気楽に物を出せた試しがないのだ。


「他にも出せるかな? 今度は動物とか、大きいもの」


「動物や大きいもの……」


 ぱっと思い浮かんだのは犬だ。近所に住むチワワの顔が浮かぶ。白い毛並みはいつも綺麗で、うるうるとした丸い目が愛らしいチワワだ。


「ワン!」


 そう、ちょうどこんな甲高い声で鳴くのだ。


「……え」


 望は庭を駆けまわる見慣れたチワワの姿に目が釘付けになる。


「……わーお」


 周も呆気に取られる。元気よく庭を駆ける子犬に周は目をまばたかせるのだった。

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