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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
第七夜 歌の標と未明の船
57/88

#4

 どこか単調なさざめきと共に消え入りそうな声が聞こえる。寄せては返すその音は耳に馴染み、その音に寄り添うように透き通った声が重なる。子守歌のように優しく、静かな旋律が心地いい。

 目を開けると満天の星が広がっていた。横たわる白銀の帯に煌めく青白い星々がゆらゆらと揺れている。


「……ここは」


 掠れた声が心地のいい音に攫われる。覚醒しきっていないぼんやりとした視界にひらりと何かが横切る。

 一羽の蝶だ。海色の美しい羽を持つ蝶が様子を確認するようにひらひらと旋回する。その羽の色は不思議と落ち着く色で、懐かしくもある。

 蝶の軌跡を目で追っていると、その蝶は視界から離れて行く。蝶の行く先を目で追うと見慣れた優しい顔があった。蝶の羽と同じ、海色の瞳の彼女が目を丸くさせながら、こちらを見つめていた。視線がかち合うと彼女の海色の瞳から一滴の海が零れ落ちる。


「……湊太」


 澄んだその声は今も聞こえるさざめきと重なっていた声だ。


「歌帆?」


 彼女の名を呼べば、彼女の唇が震える。


「よかった」


 安堵の息と共に海色の瞳からまた海が零れ落ちる。ぽろぽろと涙を流す彼女に湊太はゆっくりと身を起こす。すると、彼女が湊太の元へ駆け寄る。


「大丈夫?」


 歌帆の問いかけに湊太は頭に手を添える。


「うん。少し、ぼんやりするけど」


 湊太は安心させるように微笑む。しかし、湊太の意志に反して歌帆の涙は止まらず、ついには嗚咽が漏れだす。


「よかった……本当に、よかった……」


 小さな子供のように泣きじゃくる歌帆に湊太は慌てて姿勢を正す。


「歌帆、どうしたの?」


 泣かないでほしいと湊太は願いながら、ポケットからハンカチを取り出す。彼女の瞳の色と揃いの色のハンカチを差し出すと歌帆は戸惑いながら受け取る。


「何か辛いことがあった?」


「……だって…………だって……」


 湊太は泣きじゃくる彼女が落ち着くのを待とうと決める。

 それにしても不思議だ。昔は湊太の方が泣いて宥められていたのに、今は逆の立場になった。出会った当時、歳の離れた姉のように見えた彼女がいつの間にか同世代の女性と話しているような感じになった。出会ったときから彼女は変わらず、美しく、優しい。透き通った声も変わらない。

 湊太の悩みを聞いてくれた彼女がここまで泣く姿は初めて見る。一体何が起きたのだろうか、と湊太は思考を巡らせていると、違和感に気がつく。

 深海を思わせる黒髪、澄み渡った海色の瞳、真珠のように白い肌に、桜貝のような柔らかな色合いの唇。西洋人形の顔を思わせる美しい人魚だ。

 違和感の正体はそこではない。ほっそりとした身体を覆う白のワンピースの裾から見えるそれ。いつもは青の鱗に覆われている下半身は脚となっている。


「……歌帆?」


 見慣れぬ彼女の姿に湊太の思考が停止する。

 人魚とは上半身は人、下半身は魚のような鱗に覆われた尾を持つ。それが、歌帆の姿であり、湊太も知っている姿だ。

 しかし、今の彼女は違う。青い鱗に覆われた尾はなく、脚があるのだ。

 その脚はどうしたのか。思わず言葉が飛び出しそうになるも、一度飲み込む。彼女が落ち着くのを待つと決めたのだから。

 その間、湊太は辺りを見渡す。

 真っ先に目に飛び込んできたのは広大な海だった。果てのない雄大な景色に、今も聞こえるさざめきが波の音だと気がつく。ゆらゆらと視界が揺れるのも海の上にいるからだろう。地平線はまだ暗く、日が昇っていないようだが、不思議と湊太たちがいる辺りは明るい。

 海の上にいるとなれば、と湊太はもっと近くを見渡す。湊太の予想通り、船だ。船と言っても、現代の鉄でできたものではなく、古めかしいものだ。二、三百年ほど前の帆船と似ている気がする。白い帆が天高く伸び、弱い風に揺られている。

 湊太が辺りを観察している内に嗚咽が収まっていく。見れば、歌帆は落ち着いてきたようで、目元をハンカチで覆っている。


「……ごめんなさい」


「謝ることなんてないよ」


 湊太がそう言うと、ハンカチの端から海が覗く。気まずそうなその瞳に湊太は小さく笑う。


「落ち着いてきた?」


「……うん」


 歌帆は深呼吸すると目元にあてたハンカチを下ろす。


「何かあった?」


 歌帆がこうして泣くとは珍しい。嬉し泣きする姿はあっても、悲しそうに泣くところを見たことがなかった。


「……湊太が目を覚まさないから」


「僕、長いこと寝てた?」


「……ちょっと心配になるぐらいには」


「心配かけてごめん」


 歌帆はふるふると首を横に振る。そして、深呼吸した後、湊太を見据える。


「湊太こそ、体調はどう?」


「とくに問題はないよ」


 ぼんやりとした頭も徐々に意識がはっきりしてきた。


「よかった」


 歌帆はほうと安堵の息をつく。

 その時、ぽーんと音が鳴る。聞きなれたその音に湊太は音の発信源へ視線をやる。

 帆柱の向こう、黒の巨体があった。艶やかな黒のそれに湊太は目を丸くする。


「……ピアノ?」


 それもグランドピアノだ。屋根が開いているせいか、余計に音が大きく聞こえたようだ。

 音は鳴ったものの、歌帆と湊太以外に船上には誰もいない。なぜ音がしたのか不明だ。


「ピアノって大きいのね」


 歌帆は目を丸くする。ピアノという楽器がどのような見た目なのか、何となく知っている歌帆だが、間近で見るのは初めてである。


「湊太、あれ弾いていたの?」


「うん、まあ……」


 ピアノに変わりはないが、正確に言えば、家にあるのはグランドピアノではなく、アップライトピアノだ。

 幼少期からピアノを習わされていた。嫌々ながらピアノ教室に通い、何だかんだ言って中学一年生の一学期まで通った。その後は歌帆が楽しそうに歌う姿に影響され、気分転換に軽く弾いたり、歌帆が歌った歌をピアノで弾いたりと趣味の一部となった。


「ねえ、弾いてみない?」


「いいけど……」


「やった! 私、あなたが弾いているところ、一度でもいいから見たかったの」


 それもそうだった、と湊太は振り返る。楽器の都合上、簡単に持ち運ぶわけにはいかない。

 運搬の都合もあるが、ピアノを潮風にあてていいのかという問題もある。いいのだろうか、と湊太が思っていると歌帆が立ち上がる。

 ほっそりとした脚がワンピースの裾から覗く。


「立てる?」


「うん」


 湊太は立ち上がる。とくに問題なく立ち上がることができた。


「……」


 何とも不思議な感じである。歌帆も不思議そうに湊太を見上げている。


「……歌帆、脚、どうしたの?」


 やっと尋ねることができる。

 湊太の問いに歌帆は自分の脚を見下ろす。湊太よりも小さな足が地についている。

 歌帆は小さく笑う。


「内緒」


「内緒って……。人魚姫みたいなオチじゃないよね」


 人間の王子に恋をした人魚姫は取引をして脚を手に入れた。脚の代わりに彼女は声を失い、悲恋の末、泡となって消えてしまった。

 人魚姫のように何かを対価に脚を手に入れたのかと思うと心配になる。人魚姫は声を失ったが、ぱっと見る限り、歌帆の様子は普段と変わりない。人魚姫は歩く度に激痛が走ったそうだが、歌帆は平然と立っている。


「大丈夫。少しの間、こうしていられるようにお願いしたの」


「何か失ったわけじゃないよね?」


 人魚姫の物語は所詮おとぎ話だ。フィクションであることは頭では理解しているのだが、どこか疑ってしまう。


「平気。ふふ、歩くっていう感じ、初めて味わった」


 見て、と歌帆は一歩、二歩と歩くと、今度は駆けだす。

 彼女の長い髪が靡く。ふわりと海のにおいがした気がした湊太は眩しそうに歌帆の背を見つめる。

 湊太からするといつものことなのだが、歌帆からすると違うこと。走ることを覚えた子供のように無邪気な彼女が朝日のように眩しい。

 湊太、とピアノの傍で歌帆は声を上げる。湊太は柔和な表情で歌帆とピアノの元へ歩み寄る。

 潮風を浴びるピアノ。白と黒の鍵盤は真新しく、開け放たれた屋根から覗く弦に錆は見当たらない。二脚の椅子もピカピカに磨かれている。新品そのものだ。

 歌帆が恐る恐る鍵盤に触れると、ぽーんと音がする。先ほど聞こえた音と言い、狂いもなさそうだと湊太は感心する。


「ピアノって近くで見ると大きいのね」


 歌帆はピアノの周りをぐるりと歩く。曲線を描く箱のような物の中に線が走っている。箏みたいと思いながら、歌帆はじっくりと観察する。


「そうだね」


 学校の音楽室に置かれているピアノと同じぐらいな気がする。


「お箏みたい」


「洋琴とも呼ばれていたぐらいだし」


「なるほど」


 そう言って歌帆は弦に触れようと手を伸ばす。


「歌帆。洋風の琴と言っても弦に直接触るわけじゃないんだ」


 触っちゃ駄目だよ、と窘められた歌帆は手を引っ込める。


「確かに、弦に触らなくても音が鳴ってた。どうやって音が鳴るの?」


「弦を叩いているんだ。この辺りを見てて」


 ほら、と言って湊太は適当な鍵盤を押す。ほどよい重さの鍵盤に反応してぽーんと音が鳴る。


「あ、動いた」


 湊太が指さした辺り、鍵盤側でぽこんと木と布でできた塊が動き、弦を叩いた。


「面白い楽器」


 歌帆は跳ねるように歩きながら湊太の隣に戻ってくる。艶々とした黒のボディに二人の顔が映る。


「弦もたくさんあったけど、この黒と白の四角? もたくさんあるんだ」


「鍵盤って言うんだ」


「鍵盤……。どうして白と黒なのかしら」


 別に他の色であってもいいだろうに、と歌帆は思う。


「何だったかな……。一色よりも見やすいからって理由で色が分けられていて……。ああ、そうだ。使った材料が象牙と黒檀だから白黒になったんじゃなかったかな」


「そのまま定着して白と黒になったんだ」


「確かそうだった気がする」


「湊太は物知りさん」


「たまたま知ってただけだよ」


 湊太自身、知識が偏っていると思う。大学に入ってから身を持って知った。湊太の周りは海洋学を専攻している友人が多いのだが、一言で海洋学と言っても広いため、湊太の知らないことを知っている友人が多い。また、他の学部の友人と話しているとまた別世界が広がっている。

 中でも、文学部の本をよく読む友人は物事を広く知っている。湊太たちまでとはいかなくとも、何となく話についていけるだけの知識を持っている。海洋学に限らず、他の学部の友人との会話も成立しているほど博識なのだ。彼が専攻している文学の話となると話が止まらない。その友人を思うと、幅広い知識を持っているとよく思う。


「歌帆、何か聞きたい曲はある?」


 湊太は歌帆に椅子に座るよう促しながら尋ねる。歌帆は言われるがまま腰掛けると瞳をキラキラと輝かせる。


「湊太がいつも弾いてる曲」


「わかった」


 湊太も椅子に腰かけると鍵盤に手をのせる。ふうと一息ついた後、鍵盤の上の指を滑らせる。

 ぽろんと音が響く。柔らかな指使いに応じるように音色も優しく、伸びがいい。

 穏やかな波の音にも聞こえるその曲だ。歌帆の知らない曲だが、伸びやかでしっとりとした趣のある曲だ。響く低音はしっかりと支え、伸びやかな高音が映える。音は大きくなったり、小さくなったりと波の音のようだ。

 湊太の顔を盗み見れば、穏やかな表情をしている。一時期は眉間に皺を寄せてばかりだったが、大学に進学してから顔つきが穏やかになった。元来はこのような顔をしていたのだろうと思う。

 真剣な眼差しは鍵盤の上を滑っている。左右で全く違う動きをする湊太の手と足元の細長い円状の物を踏むという器用なことをしているものだと歌帆は感心する。

 曲の速度が落ちていく。名残惜しむように湊太の指が動く。音色も小さくなっていき、そして、最後の音が空と海へ吸い込まれていく。

 音はどこまで響いたのか。もう聞こえなくなるぐらいの時間が経つと湊太は手を下ろす。


「素敵だった」


 歌帆はパチパチという拍手と共に吐息混じりの賛辞を贈る。音が自分たちの方に押し寄せる感じが重厚感を与えていた。


「久しぶりに弾いたからぎこちなかったと思うけど」


「そんなことない。とても聞き心地のいい演奏だった」


 静かな海上に馴染むような演奏だった。


「何ていう曲なの?」


「『未明の船』だよ」


 少し古い曲にはなるが、湊太が多感だった時期によく聴いた一曲だ。荒々しい心を落ち着かせるような優しい曲調であり、歌詞も胸を打つ曲だ。


「まさに、今の状況に似ているのかしら」


 そう言って歌帆は水平線を見やる。東の方はまだ暗く、明け方までまだ時間がありそうだ。未だ明けきっていない誰そ彼時の時間だ。


「そうだね。……あのね、歌帆。僕からもお願いがあるのだけど、いいかな?」


「私にできることなら。何?」


 歌帆は小首を傾げる。


「君の歌が聞きたいな」


「いいよ」


「ありがとう。あと、もうひとつお願い」


「もうひとつ?」


「うん」


 湊太はそっと鍵盤を撫でる。


「僕が弾くピアノの伴奏で歌ってほしい。ほら、君がよく歌っているあの歌」


 湊太が来るのを待っているとき、歌帆は歌いながら待つことが多い。海の生き物たちから教えてもらった歌や流行りの歌、昔の歌といくつもあるが、中でもいつも歌っている歌があるのだ。それはどこか遠くでクジラが歌った歌らしい。そのクジラの歌を聞いた者曰く、今まで聞いたことのないクジラの歌声だったという。歌帆はその歌が気に入り、また、湊太の耳によく残っていて、ピアノで弾くこともある。


「いいけど……。私、ピアノに合わせられるか……」


「僕が合わせる。入るところも合図出すから」


「……わかった」


 どんな旋律を湊太が弾いてくれるのか。不安と楽しみが綯い交ぜになりながら、歌帆は了承する。

 湊太は、ありがとう、と礼を言うと鍵盤に手をのせる。


「じゃあ、弾くよ」


「うん」


 湊太は歌帆に微笑みかけると、最初の音を鳴らす。

 静かな低音が響く。湊太の手が滑るように左から右へと動いていき、音が流れて行く。

 星がまたたくような軽やかな音が歌帆の目の前で鳴り、旋律に区切りができる。ここだろう、と思った歌帆は湊太の様子を窺うと彼が視線を向け、ひとつ頷く。すっと歌帆が息を吸い、発声すると同時に湊太の指が動く。

 ピアノの音と歌帆の歌声が重なる。歌帆の歌声を邪魔しないように小さくも甘い音を奏でるピアノと帆の頭上の天まで届きそうなほど澄み切った歌帆の歌声が船上から響き渡る。

 互いの音が寄り添い、重なり合う。どちらか一方が目立ったり、控えめになったりするわけでもなく、対等な響きが心地いい。

 長い曲ではないため、歌帆は歌い終わる。歌帆の隣で湊太は音を奏でる。優雅で甘美な音色は波間に揺蕩うようにひっそりと、ゆっくりと消えて行く。

 余韻に浸るように湊太は最後の音を奏でた後、手を離す。

 静寂が広がる。天の星々も広がる海も静けさを受け入れる。


「……綺麗な旋律だった」


 歌帆が興奮気味に言うと湊太は安堵の息をつき、椅子の背もたれに身を預ける。


「はあ、よかった……」


 湊太は目を閉じる。

 歌帆に合わせる。そう言っておきながらも、正直自信があまりなかった。彼女の歌はいつも伸びやかで、拍の取り方が絶妙なのだ。何度も聞いている歌ではあるのだが、拍の取り方は彼女のそのときの気分次第で変化する。それを見定めながらの一発勝負。ピアノだけでなく、歌帆の様子を窺いながらの演奏で全神経を注いだ。


「本当に、よかった」


 湊太は目を開ける。降り注ぐ星々の光に目を細めながら、視線を隣の歌帆にやる。潤んだ海色の目が湊太をじっと見つめている。


「歌ってくれてありがとう」


「こちらこそ、素敵な旋律を作ってくれてありがとう」


 歌いやすい伴奏だった。歌帆が一人で歌った歌に厚みが生まれた。

 ぽろりと歌帆の目から涙が零れ落ちる。一拍遅れて湊太は身を起こす。


「歌帆、どうしたの?」


「感動しちゃって」


 歌帆は目元を拭う。

 この時間がこのまま続けばいいのに。歌帆の胸がわずかに痛む。


「今日の歌帆、様子がおかしい」


 湊太は椅子ごと歌帆の方へ近寄ると顔を覗き込む。何が原因か思い当たる節がない湊太はじっと海色を見つめる。


「……おかしいかな?」


「うん、おかしい。何だか、悲しそうな顔をする」


 泡沫のように消えてしまいそうな危うい儚さがある。

 どうしたの、と再度問おうとした刹那、船がぐらりと揺れる。その揺れと同時に、大きな影がかかる。

 星々を覆い隠す大きなその巨体の主はクジラだ。ぬっと海面から姿を現して、船を跳び越すクジラは湊太たちを一瞥する。


「何だ、あのクジラ……」


 湊太の目はクジラに釘付けになる。姿を現したクジラは湊太の知らないクジラである。シロナガスクジラに似ている気がする。

 そのクジラは二人を一瞥すると、倒れ込むようにして海面にその身を沈める。水しぶきが上がると同時に、また船が揺れる。先ほどよりも大きな揺れに歌帆と湊太の身が船から投げ出される。


「うわっ!」


「湊太!」


 歌帆は反射的に湊太へ手を伸ばすも、届かず、二人ともそのまま海へと投げ出される。

 歌帆は綺麗に着水するとすぐさま湊太の姿を探す。真珠のような泡をかき分け、無防備に沈んでいく湊太の姿を見つける。

 歌帆はすぐさま湊太の元へ泳ぐ。


「湊太!」


 歌帆は湊太の手を取る。軽く意識が飛んでいたのか、湊太はわずかにうめくとゆっくりと目を開ける。


「……歌帆?」


 まばたきをした湊太は首に触れる。


「あれ、海の中……」


 海の中にも関わらず、陸と変わらず息もでき、言葉も話せることに湊太は驚く。


「大丈夫? びっくりしたね」


「うん。何が何だか……。歌帆、元の姿に戻った?」


 湊太の指摘に歌帆は己の下半身を確認する。見慣れた青の鱗に覆われた尾が備わっている。湊太を助けることに必死でとくに何も思わなかったが、言われてみれば人間の脚で泳ぐことなどできない歌帆が問題なく泳げたのは姿が戻ったからだろう。


「本当だ」


「いつもの歌帆だ」


 湊太はほっと安堵する。

 それも束の間、海中に響き渡る声がする。声の主を二人が見やると、そこには先ほどのクジラがいた。二人の背後から悠々と泳ぎながら、何か歌っている。

 その歌は歌帆がよく歌っているあの歌と旋律が同じだ。つい先ほど聞いたばかりの歌だ。

 そして、そのクジラの歌声は湊太も聞いたことがある。湊太の脳裏に波形が走る。

 鳴き声でコミュニケーションをとるクジラの中でも高い声を発する個体がいる。


「まさか……」


 湊太は唾を飲む。クジラはゆっくりと二人の横を通りすぎようとしている。

 目が合う。優しくも、どこか寂しそうな目をしたクジラだ。

 そのクジラの声に応じる者はいないとされ、世界でもっとも孤独なクジラとも呼ばれている個体。


 五十二ヘルツのクジラ


 湊太が呆然としている中、クジラは気にすることなく歌い続けている。


「この歌、私がいつも歌っている歌」


「だよね。ねえ、歌帆。あのクジラ、もしかしたら五十二ヘルツのクジラかもしれない」


「五十二ヘルツのクジラ? 一人ぼっちのクジラのこと?」


 たった一頭だけで旅をするクジラがいる。数年前、湊太が教えてくれた。

 確かに、このクジラの鳴き声は他のクジラに比べると声音が高い。歌帆も聞いたことがない歌声を発する個体だ。


「もしかしたらだけど……」


 何せ、謎の多い個体なのだ。なぜ、五十二ヘルツで歌うのか。どんなクジラなのか。今、目の前で起きていることが夢でなければ世紀の大発見だ。


「歌帆、いつもの歌を歌ってくれないか? クジラに届くかも」


 応じる者のいない歌を歌うクジラ。では、同じ歌を歌い、応じる者がいたら、どう反応するのか。


「姿を現したのは歌帆が歌ったからかもしれない」


 先ほど、歌帆が歌ったからこうして姿を現し、歌い出したのかもしれない。

 歌帆はひとつ頷くと歌い出す。歌帆の歌は海中にもかかわらず、澄み切った歌声だ。海流にのった歌声がクジラに届いたのか、ゆっくりと旋回すると、応じるように歌う。

 歌帆とクジラの歌声が重なる。その響きが先ほど湊太が弾いたピアノの伴奏と似ている。

 短い曲は何度も繰り返される。繰り返していく内に、クジラの身体が淡く光り出す。光の粒は海面へと上がっていく。

 幻想的な世界。現実では起こりえないような不思議な光景に湊太は惹きこまれていく。

 ふっと歌が変わる。歌というよりも、ただの鳴き声に変わると歌帆の歌も止まる。


「……?」


 不自然に途切れた歌に湊太は首を傾げ、隣の歌帆を見やる。強張った面持ちの歌帆はじっとクジラを見つめている。


「歌帆?」


 湊太の呼びかけに答えず、歌帆はクジラの声に耳を傾けている。


 クオォォ クオォォ


 クジラはこちらに向かって泳いでいるはずなのに、木霊するその声音は徐々に小さくなっていく。そして、クジラの身体を包む光の粒が細かくなっていく。

 いいや、光の粒ではなく、泡だ。真珠のような白い泡がクジラの身体からぽこぽこと昇って行く。クジラの身体がだんだん薄く、透けていく。まるで、海に溶けていくようだ。


「……もう時間だって」


 歌帆がぽつりと言う。


「時間?」


「うん」


 歌帆は湊太と繋いだ手に力を込める。


「帰してくれるって」


「帰す?」


「そう」


 歌帆がクジラの方へ視線をやると、クジラの身体は海と一体になるように薄くなっていき、手を伸ばせば届きそうな位置で二人をじっと見つめている。


 クオォォ


 クジラが一鳴きすると、視界が泡に包まれる。

 真珠に囲まれたようだ。キラキラと輝く泡沫はしゃぼん玉のようにも見え、湊太は泡の行方を目で追う。

 気がつけば見慣れた海辺にいた。慣れた岩場に座り、明るくなり始めた空が見える。

 いつも歌帆と会うあの海辺だ。隣を見れば、歌帆がいる。

 しかし、その横顔は涙で濡れていた。海色の瞳から雫が零れ落ちている。


「歌帆?」


 今日の彼女はいつもと様子がおかしい。彼女はこんなにも涙を流す性格だったか。


「やっぱり、何か辛いことがあった?」


 辛いことはないか。そう尋ねるのはいつも歌帆の方だった。湊太の苦しいや悲しいといった感情を汲み取ってくれる彼女が今は泣いている。

 湊太は歌帆の頬を濡らす涙をそっと拭う。しっとりとした滑らかな肌は不思議と温度を感じない。


「……」


 歌帆は湊太の手に自分の手を重ねる。出会った当時はほとんど変わらなかった手は大きくなり、骨ばっている。

 彼も大人になった。少年のような好奇心は変わらないが、声も身体も、そして、心も大人になってしまった。

 人間の時の流れは早い。だからこそ、彼に流れる時間が少しでも有意義であってほしいと願う。

 朝日が射し込む。ふわりと潮の香がした気がする。


「湊太」


「ん?」


 歌帆は湊太の手に己の指を絡める。そっと自分の頬から離すと、もう一方の手も使い、包み込むように湊太の手を握る。


「また、会ってくれる?」


 できるだけ震えないようにと歌帆は努めるも、波がたつように声音が震えてしまう。


「もちろん」


 湊太は応じるように歌帆の手を握る。小さな手が震えると視界が眩くなる。

 強い朝日に湊太が目を細めていると、目の前の人魚の姿が薄くなっていく。

 まるで、泡沫のように、消え入るように。


「待ってるから。どうか、目を覚ましてね」


 そう祈るように呟いた人魚の言霊は波に攫われた。


◇◇◇◇◇


 白い光が拡散している。ぼやけた視界に広がる白をぼんやりと眺めていると、キビキビとした足音がする。


「西野さん?」


 その声の後、男性の顔が視界に飛び込む。見覚えのないその男性は誰だろうかとぼんやりとする湊太をよそに、男性はほっと息をつく。


「西野さん、聞こえますか?」


「……」


 喉に力をいれようとするも、声が出ない。代わりに、頷くも、身体の骨と肉が固まっているのか、ギシと嫌な感覚が伝わる。

 湊太の応答に男性は安堵の笑みを浮かべる。


「よかった……。あ、先生を呼びますね」


 そう言って男性はどこかに連絡している。目を覚ました、容態が、と言う男性の声がどこか遠い気がする。

 湊太は視界を巡らせる。眩い光の射す方を見れば、遠くに彼女の瞳と揃いの青が広がっていた。

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