#3
朝方の風と共に寄せる波の音がする。岩場に腰掛け、ゆらゆらと揺れる水面に映る自分の顔を見ながら、青年はぼんやりとしていた。
「久しぶりだね、湊太」
声をかけられた青年、湊太は微笑を浮かべる。海面から顔を覗かせる歌帆を待っていたという様子だ。歌帆は岩場に手をつき、身体を引き上げ、湊太の隣に腰掛ける。
彼と会うのは一月ぶりだ。大学生の間も忙しそうにしていたが、大学院生になってからというもの、さらに忙しく、歌帆と会う時間が減った。
「中々会いにこられなくてごめん」
彼の忙しさを物語るように、湊太の横顔はやつれている。申し訳なさそうに眉を下げる湊太に歌帆は首を横に振る。
「いいの。勉強、忙しい?」
海のことを研究したい。
出会ったときから彼はそう言っていた。幼い頃から抱いていた彼の夢だ。
きっかけは街にある水族館で見た様々な海の生き物たち。最初は可愛いや格好いいという感想だけだったが、海洋学史にまつわる展示を見て心がひかれたのだ。
「未知の世界への探索 ――海を知ろうとした人々の歴史――」
そう題された展示の衝撃を湊太は今も覚えている。生き物は海から生まれたというプロローグから始まり、現在に至るまでどのような研究が行われているのかという展示だった。
キャプションの中で、幼い湊太の目を惹いた文章があった。幼い子供にもわかるように簡単に書かれていたものだ。
人は海といっしょに生きてきた。これから先も、海といっしょに生きていく。
人間の子供と海の生き物たちが手と手、というよりは手と鰭を繋いで輪になっているイラストと共に締められていた。
海とは魚たちが生きるだけの場所ではない。幼い湊太にそのような感想を抱かせた。研究史の中で、現在地球が抱える問題にも触れられていた。環境の変化により、生態系のバランスや人々の生活が脅かされていることも触れられていたのだ。
もしも、人間が海のことを何も考えなければ、海中で生きる彼らはどうなってしまうのか。そのような不安を小さな胸に抱いたのだ。
それからは水族館と図書館を行き来するようになった。海の生き物たちのことを知るために、親に図鑑を買ってほしいとねだることもあった。
幼い頃から抱いていた夢は少しずつ明確になっていく。小学校の高学年の頃になると、海洋学の道へ進み、解明されていない海の生態系を明らかにしていきたいと思うようになった。
しかし、その夢は彼の両親からすると別の道を進んでほしいと願う道だった。両親としては医者を目指してほしいところだったのだが、湊太は医者になりたいから大学に進むのではなく、海洋生物学を専攻したいから大学へ進学したいと望んだ。
両親との対立は日に日に悪化し、とうとう、例の事件が発生した。事件後はしばらくの間休戦状態であったが、湊太の中学進学の頃にまた再開した。
進路については揉めに揉めた。中学へ入学したばかりの頃から揉め、高校の三者面談でも揉め、高校三年生の夏まで揉めた。
歌帆は湊太から進路の話をよく聞いていた。自分がやりたいことと両親の願いは平行線。理解してもらえないもどかしさを歌帆の前でも何度も吐き出していた。また、金が絡むことでもあり、できることなら両親の意向を汲みたいという湊太の意志もよくわかった。
何度も両親と話し合いをした。多感な時期の湊太にはその話し合いの場が煩わしく、一向に解決の糸口が見えない状態が長く続いた。
決着したのは湊太が高校三年生の夏の頃。二年生の終わりにコンクールに出したレポートに賞が与えられた。それは海の環境問題に言及したものであった。高校の教員の手を借りながら、時には大学教授へ取材に行き、大量の書籍や論文を読んで生み出された物だった。表にはあまり出せなかったが、歌帆の協力もあった。歌帆がわかる範囲のことを湊太に教え、それを元に湊太は書籍や論文を読み漁った。大学のサポートもあり、実験を行うこともあった。
それが認められたことに湊太は達成感を得たと同時に、レポート作成にあたり協力を頼んだ教授からも賛辞の言葉をもらったことが自信となった。
幼い頃からの夢を追いたい。湊太はレポートを両親に差し出し、深々と頭を下げた。両親も湊太が夜遅くまでレポート作成に没頭していたこと、学業や部活との両立をしていたことを知っていた。
結果、両親が折れた。自分が選んだ道を後悔しないよう、精一杯努めるようにと言われ、湊太はのびのびと学業に打ち込めるようになった。
両親の夢のためではなく、自分の夢のためへの学び。そう思えるようになった湊太はぐんぐんと成績を伸ばし、レポート作成の手伝いをしてもらった教授がいる大学へと進学することができた。
それを知っている歌帆としては研究を優先してほしいと思う。彼の幼い頃からの夢なのだから、そのために時間を割いてほしいと思う。
「忙しいけど、楽しい」
湊太は小さく笑う。忙しくて、寝不足気味になることもあるが、何より楽しい。あっという間に時間が過ぎていく。
「楽しいのは何よりだけど、体調には気をつけてね」
根を詰めすぎて今までに何度体調を崩したことか。とくに、件のレポートのときは書き上げて提出したその日に熱を出して早退になっていたぐらいだ。
集中できる。それは湊太の強みでもあり、弱みでもあると歌帆は思う。集中しすぎて自分のことをないがしろにしてしまっては意味がない。これからも進んでいくためには自分のことを大切にしてほしいと思う。
「うん。あ、そうだ、歌帆。最近の海の中の流行りの歌はどんな感じ?」
話を聞いていたのかと問いたくなる歌帆だが、見るからにわくわくしている彼に言葉を飲み込む。
「最近はゆっくりした感じが流行りかも。古典的というか、流行が一巡して落ち着いた雰囲気」
イルカやクジラがそうだ。彼らが歌うのと一緒に歌帆も歌う。最近の流行りなんだ、と彼らが教えてくれるのだ。
「なるほど、なるほど。どんな歌か聞かせてよ」
眼鏡の奥の湊太の目がキラキラと輝いている。太陽の光を浴びる海面のようなその目に歌帆は幼い頃の彼の姿を重ねる。どんな歌を歌うのか、と期待する彼はいつもこうだ。背も伸び、声も低くなり、少年から青年へと成長しても彼のそういった部分は変わらない。
歌帆は変わらない眼差しに応えようと、すっと息を吸う。潮の香と朝の清々しい空気を身体中に行き渡らせる。
朝の浜辺にひっそりと歌声が吸い込まれていく。波の音と重なる歌声は穏やかでたっぷりと余裕のある曲調だ。以前までの流行と比べると、古めかしくも思うも、懐かしさを覚える旋律だ。
短い曲はあっという間に終わってしまう。歌い終わった歌帆は隣に座る湊太の様子を窺うと目を閉じて聴き入っていた彼の瞳が開かれる。
「……いい歌だ」
落ち着いた海を思わせる歌だった。言葉はわからないものの、歌帆の透き通った歌声と音と音とが繋がるメロディが波間に溶け込むように感じた。
「湊太が好きそうな曲」
「寝る前に聞きたくなる」
ふふふ、と湊太が小さく笑うのにつられ、歌帆も笑う。彼は華やかな曲よりもしっとりとした曲を好む傾向にある。教えてもらったときに湊太が好きそうだと歌帆は思った。
「子守歌みたい?」
「そうかも。歌帆の声は優しいから、よく合う」
寄り添うような歌声。湊太に何度もそう評されたことがある歌帆だが、その度に照れてしまう。
「ありがとう」
海から風が吹く。歌帆の髪が潮風に靡く。
波の音が沈黙に流れる。白波に歌帆の尾も揺れ、のどかな朝だ。
「いい朝だ」
ぽつりと呟く湊太に歌帆は頷く。
「湊太は朝と夜だったらどっちが好き?」
「朝かな」
即答した湊太に歌帆は目をまばたかせる。優しい目つきの彼は眩しそうに目を細め、地平線に浮かぶ太陽を見つめる。
「朝は始まりの時間だから」
「そうね」
「それに、明けない夜はないって歌帆が言ったから」
湊太は懐かしそうに話す。
「ずっと荒んでいた心に君が光をくれた」
親からのプレッシャー、見えない未来、見たくない現実。それらに押し潰されそうになったとき、家を飛び出して海へ入ろうとした。
真冬の海の冷たさは手足の感覚をいとも容易く奪っていった。子供の身体はあっという間に冷えてしまった。死への音を波が運んでいた。
そのとき救ってくれたのが目の前の彼女だ。夢かと思った彼女と再会したとき、本当に驚いた。おとぎ話にしか存在しない人魚がいるとは思いもしなかった。
それから何度も歌帆と会った。基本的には最近あったことや海のこと、互いのことを話していたのだが、多感な時期の湊太には耐えられないことがあった。
両親との対立。自分の気持ちを受け止めてくれない両親と過ごす時間が嫌で仕方なかった。中学受験をしたということもあり、周りはレベルの高い生徒ばかり。成績が低迷し、辛い時期もあった。
そんな湊太に歌帆が送った言葉は今も強く根付いている。
『明けない夜はない。ありきたりな言葉かもしれないけれど、いつか希望が見えてくる。とても辛くて耐え難い時期だと思うけど、きっと光が見えてくるから』
綺麗ごとを、と当時の湊太は思ったがあまりにも純粋で真っ白な歌帆の言葉は嫌味がなかった。素直にそう思っている彼女の心は清らかで綺麗なのだろうと思った。
「だから、僕は未明時が好きだよ。完全に日が昇った朝もいいけど、これからの始まりを秘めている未だ明けきっていない朝がいい」
爽やかな声音と清々しい朝の光に歌帆は目を細める。
「その感性、大切にしてね」
「うん。あ、そろそろ時間だ」
腕時計を見た湊太はがっくりと肩を落とす。
「あまりいられなくてごめん」
「いいの。久しぶりに顔を見られてよかった」
「僕も。学会の準備が終わったら少しは落ち着くと思うけど」
「学会? 湊太、発表するの?」
大学院に進んだばかりなのに、と歌帆は疑問に思う。
「手伝いがメインだけど、ちょっとだけ、話すかもしれない」
「そう」
大変そうだ、と思った歌帆は自分の尾に手を伸ばす。透き通った海にくっきりと浮かぶ藍色の尾から鱗を一枚取る。ピリッとした小さな痛みが走るも気にしない。
「はい」
「歌帆、また……」
湊太の表情が険しくなる。
「お守り」
歌帆は鱗を湊太に押しつけるように差し出す。湊太は渋々と鱗を受け取る。
「お願いだから、自分の身体を大切にして」
湊太に受験や大会があると歌帆は自分の尾から鱗をとって湊太に渡す。お守りだと歌帆は渡すのだが、湊太はいい顔をしない。
「一枚ぐらいなら大丈夫。痛くもないし」
「だからって……」
その鱗は歌帆の大切な身体の一部だ。ほいほいと剥がしていいものではないはずだ。
「でも、鱗の効果はお墨つきでしょ?」
「確かに、リラックスして臨めるからいいんだけど……」
湊太はじっと鱗を見つめる。艶々とした鱗は日の光を受けて光沢を見せる。深い青色の鱗は日にかざすと、キラキラと輝く。まるで、日射しを浴びる紺碧の海のような輝きだ。
「今までもたくさんもらってるから」
湊太は眉を下げる。
「いいから。ほら、時間でしょ?」
歌帆は湊太の肩を押す。湊太は小さく息をつくと、鱗をポケットにしまい立ち上がる。
「じゃあね、歌帆。また落ち着いたら瓶に手紙いれておくから」
歌帆と湊太の連絡のやり取りは小さな小瓶に手紙をいれて行われる。湊太が中学生、高校生のときは口約束だったのだが、大学に進学してからはそうもいかなくなったため、この方法に変わった。
「ええ。身体に気をつけて」
「うん。ありがとう。またね」
そう言って湊太は跳ねるように岩場を抜けていった。
爽やかな風が吹き抜ける。清々しい朝日が昇り切り、歌帆の海色の瞳にその光を届かせた。
◇◇◇◇◇
バサバサッと空を切る音に歌帆は目を覚ます。雲のように真っ白なそれが視界に映ると、歌帆の手元に舞い降りる。
「おい、歌帆。こんなところでうたた寝してると、人間に見つかるぞ」
甲高い声でそう言うカモメは羽でバシバシと歌帆の腕をはたく。
「ん……ごめんなさい」
歌帆は目をこすりながら謝罪する。カモメは、危機感がない、無防備だ、しっかりしろ、と甲高い声で歌帆を叱りつける。
日が沈み始めた夕暮れ時。青い海の彼方は赤く染まり、夜の帳が降り始めている。
「そうよ、歌帆。もしもがあったとき危ないわ」
もう一羽、歌帆の近くに舞い降りたカモメは騒ぐカモメの頭をはたく。
「この岩場、人目が少ないとは言え、せめてもう少し奥に身を潜めないと」
ゴツゴツとした岩が多く、身を隠すにはもってこいの場所である。そのため、歌帆と湊太の密会の場ともなっている。しかし、万全ではないのだ。歌帆がうたた寝していた場所は角度によっては見つかってしまう恐れがあるのだ。
「ごめんなさい」
「本当だぞ。しっかりしてくれよ」
「さっきからうるさい」
喧嘩が始まりそうな姉弟カモメを宥めながら、歌帆は彼らが飛んできた方向を見やる。
そちらに湊太が眠る病院がある。歌帆が足を運べないため、いつも彼らに様子を見てきてもらっているのだ。
「あの、湊太の様子はどうだった?」
「変化なし。ずっと眠ったままだよ」
やれやれと肩をすくめる弟カモメに歌帆は視線を落とす。
「そう……」
「でも、夢屋さんの協力を得られるのでしょ?」
落ち込まないで、と姉カモメが歌帆の背を撫でる。
「あの欠片、どうにか窓辺に置けそうだったから安心して」
「本当?」
「ええ。窓のちょっと出っ張ったところに重石と一緒に置けば大丈夫そう」
「飛ぶのに負担にならない?」
「平気。姉貴と俺とでひとつずつ小石持って行けば十分」
任せろよ、と弟カモメが胸を張る。頼もしいその言葉に歌帆は表情を和らげる。
「ありがとう」
「飯よろしく」
彼らとの約束だ。協力してもらうため、彼らが好きな魚をあげるという約束をしている。もちろん、準備を進めているところだ。
「ねえ、当日は歌帆も夢を見るの? 繋いでもらえるの?」
「ええ。私もいただいたから」
寝るときに近くに置いておいてね、と周から言われた。座標がわかれば二点間を繋げることが可能らしいが、できることなら歌帆自身も湊太の近くにいてほしいとのことだ。当日は今いる場所で眠りにつく予定だ。
「そう」
「ま、上手くいくといいな」
「ちょっと、あんたね」
この馬鹿、と姉カモメは弟カモメの頭を叩く。またギャーギャーと喧嘩が始まった姉弟の間に歌帆は割って入る。
確証はない。彼の夢の中に入ること自体、できるかもわからないとのことだ。意識不明の状態の彼への身体への負担はないと思うが、夢を見るための装置、周は核と言っていた部分に異常がなければ問題はないそうだ。しかし、長いこと昏睡していることから、そこに傷がついていたりすると負担をかけてしまうため、できないと言われた。
また、仮に夢を見せることができたとしても目覚めるということは保証できない。
『だから、どんな夢を見せたいのか、よく考えておいてね』
目の細い夢屋の主はそう告げた。
どんな夢を彼は望むのか。歌帆は手を小さく握った。




