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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
第七夜 歌の標と未明の船
55/88

#2

 夏祭り。まだ本番ではないが、すでに盛り上がりを見せている。楽しそうな声から、喧嘩をする声、屋台の香ばしいにおいと常盤街の夏の風物詩だ。

 そんな夏の風物詩に立ち寄った周と望はぷかぷかと川に浮いている顔馴染みを見つける。


「河童君、今手空いてる?」


 桟橋から川面を覗き込んだ周は渡し守に声をかける。


「ああ、旦那。今日は棗先生のところじゃないのか?」


 手持無沙汰の渡し守は愛嬌のある顔で周を見上げると、目を丸くする。


「顔は出したけど、今日は別件。今日は夢屋のお客さんの方。屋台で甘い物買ってから行こうと思ってね」


「そうか。それにしても、随分と買ってきたな」


 周と望の両手はあれこれと塞がっている。屋台で買ってきた甘味ばかりだ。

 へへ、と周は笑うと、袋をひとつ手に取る。


「こっちで待ち合わせだからついでにあげるよ」


 どうぞ、と周はキュウリがごろごろと入った袋を差し出す。瑞々しいキュウリが手頃な価格でまとめ売りされており、日頃世話になっている渡し守への労い品だ。


「いいのかい、旦那」


 河童の声が弾む。大きな目をキラキラと輝かせる河童に周は笑う。


「いいよ。いつもお世話になってるし。ね、望ちゃん」


 周は後ろに控える望に同意を求める。望はひとつ頷く。


「今日もお疲れ様です」


 今はたまたま暇をしているみたいが、祭りの時期、渡し守も忙しいそうだ。観光客の案内だけでなく、舟を用いて出店する者の誘導もしているらしい。


「こちらこそ、いつもありがとう! そんじゃあ、お言葉に甘えて」


 わーい、と河童は無邪気に受け取る。思っていたよりも大量なキュウリに河童はホクホク顔だ。


「なあ、早速食べていい?」


「どうぞ。みんなで分けて食べてね」


「うん! 旦那、嬢ちゃん、ありがとう!」


 にぱっと笑う河童に周と望も微笑む。彼の愛嬌のある笑顔は癒される。


「あ、そうだ。夢屋のお客さんって日輪の旦那と一緒に待ってる子か?」


「そうだと思う」


 夢屋の客だ。

 杏介から昼過ぎに連絡が入った。今晩良ければ、ということで話をつけた。人間界に行くことはおろか、常盤街に足を踏み入れるのも難しいため、日輪で話を聞くこともできない。よって、渡し守たちがいる川沿いで落ち合うことになっている。


「そっか。それなら、あっちの桟橋で待ってるぞ」


 そういって河童は指さす。提灯に照らされる川沿いにも屋台が並んでいる。祭りの最終日に行われる灯篭流しの用意が進んでいるのか、簡易的な小屋にて絵付けの店が設けられている。

 その絵付けの小屋よりも奥の桟橋に人影が見える。桟橋に腰を掛けた姿を見とめた周は、ありがとう、と礼を述べる。


「じゃあ、僕ら行くね。くれぐれも、キュウリの独り占めは駄目だからね」


「わかってるさ。おいらだけで食べたら先輩たちに叱られちまう」


 じゃあな、と愛嬌のある笑顔を送る河童の彼に見送られ、周と望は渡し守たちの詰め所より下流の方へ向かう。

 川辺で涼を取りながら食事をする妖たちの前を通り過ぎ、客の姿を探す。

 提灯が列を成す中、見慣れた杏子色を見つける。その隣にもうひとつ影が見える。


「杏」


 周が声をかけると、杏子色がこちらに視線をやる。


「よっ、周に望。お疲れさん」


 川に足をいれて涼む杏介だ。望は杏介に会釈する。


「こちらがお宅のお客さん」


 杏介は隣に座る女性へ視線を促す。女性はぺこりと軽く頭を下げる。


「こんばんは、夢屋の周です。こっちは助手の望ちゃん」


 望は客の女性に視線をやる。

 姿は人間のようだが、それは上半身のみの話だ。下半身は青い鱗に覆われ、尾の先には鰭がついており、水中でゆらゆらと揺れている。

 人魚。事前に聞かされていた情報だ。深海のような黒髪は腰まで伸び、貝殻を使った髪飾りが彼女の髪を美しく見せる。真珠を思わせるような白い肌、桜貝と揃いの唇、そして、透き通った海色の瞳の可憐な彼女はよくできたドールのような顔立ちの美しい人魚だ。


「初めまして、歌帆(かほ)と申します。こちらの都合でお越しいただいて申し訳ないです」


 寄せては返す静かな波のような声は美しい。心地のいいソプラノの声音なのだが、緊張しているのか声音が硬い。


「いいよー。妖界にはよく来るし」


 周も望も苦にならない。


「それじゃあ、俺はここらで戻るとするかねえ。ここからは夢屋の領分だ」


 彼女の護衛はおしまい。杏介は懐から手ぬぐいを取り出すと、足を拭き、下駄を履く。


「杏、これあげる」


 そう言って周はりんご飴とラムネを杏介に差し出す。


「ありがたくもらっとこうかねえ」


 やったぜ、と満面の笑みを浮かべた杏介は周から受け取る。


「そんじゃあ、歌帆、またな」


「はい、ありがとうございました」


 歌帆は深々と頭を下げる。


「望もまたな」


「はい。杏介さん、お気をつけて」


「ありがと。じゃあな」


 軽く手を振った後、杏介は去っていく。早速りんご飴の袋を開け、かじっていく杏子色が遠ざかっていく。カラン、カラン、と甲高い下駄の音が遠ざかっていくのを背に、周は歌帆に向き直る。


「……さて、涼みながらお話を聞こうか」


 そう言って周は腰を下ろすと履を脱ぎ、杏介がしていたように足を川へいれる。ひんやりとした水の感覚が火照った身体に心地いい。


「望ちゃんもおいで」


 ほら、と周に促された望は周の隣に座り、スニーカーと靴下を脱ぎ、足を下ろす。思っていたよりも冷たい水温に熱気が吹き飛ぶ。


「お話のお伴に甘い物もあるよ」


 そう言って周はりんご飴やわたあめ、みたらし団子と出していく。


「たくさん買われたのですね」


「見ていたら食べたくなっちゃって。どれ食べたい?」


「そうですね……。その雲のような白い食べ物、いただいてもよろしいですか?」


 真っ白な入道雲のようなそれを歌帆は初めて見る。一体どんな味がするのだろうと自然と興味を引かれた。


「わたあめだね」


 周は歌帆にわたあめを差し出す。


「ありがとうございます。お代の方は?」


「僕からの贈り物ってことで」


「いいのですか?」


「うん」


「ありがとうございます」


 歌帆はふわりと微笑むとわたあめを受け取る。入道雲のような雲の塊は重みがなく、風で吹き飛ばされてしまいそうだ。


「望ちゃんは?」


「りんご飴」


「はーい、どうぞ」


 望はりんご飴を受け取る。宝石のように赤いりんご飴は小ぶりで、少し食べる分にはちょうどいいサイズだと望は思う。

 僕はお団子、と周はみたらし団子を選ぶ。


「飲み物もあるよ」


 周は瓶を取り出す。桃のジュースだ。淡く色づいた液体が瓶の中で揺れる。それも歌帆と望に渡す。歌帆は珍しそうにしげしげと瓶の中を見ている。


「いただきまーす」


 間延びした周の声に遅れ、望と歌帆も、いただきます、と食前の挨拶をした後、口に含む。


「……柔らかいお菓子」


 歌帆は目をぱちくりとさせる。

 ふんわりとした触感は口の中に入ってしまえばすぐに溶けてしまう。初めて食べる甘味に、もう一口、とかじりつく。その一口もすぐに溶けてなくなってしまう。


「わたあめは初めてかな?」


「はい。これ、何でできているのですか?」


「砂糖だよ」


「お砂糖だけでできているのですか?」


 歌帆の海色の瞳がキラキラと輝く。砂糖というと海の世界では高級品だ。


「これ、海では食べられないですよね」


「溶けちゃうかな」


「陸でしか食べられないお菓子ですね」


 味わって食べなくては、と歌帆は一口を小さくする。またもすっと消えてしまうが、舌に残る滑らかな甘みが心地いい。


「ふふふ、美味しい」


「お気に召したようで何より」


 周はみたらし団子を口にする。馴染みの店の団子だ。甘すぎないタレは昔から変わらない。

 昔、杏介と一緒に金をちょろまかしてよく食べていた店の団子だ。きちんと返済もし、今ではその場で会計を済ませているのだが、店主には昔のことをからかわれる。望にも知られてしまい、気恥ずかしい。

 むむむ、と難しい顔をしている周の顔越しに望は歌帆の様子を覗き見る。

 綺麗な顔立ちの人魚だ。絵画から飛び出してきたとも、人形が動いているようだとも言えるほど、彼女は美しい。人間で言えば望と同じ年頃の女性の容姿をしている。

 そんな望の視線に気がついたのか、海色の瞳と視線がかち合う。


「何かついていますか?」


 歌帆は口元をペタペタと触る。とくに違和感はないように思う。


「あ、いえ。綺麗な方だなって思って。じろじろ見てごめんなさい」


 望はすぐに謝る。

 人魚は美しい。人魚姫の物語の影響か、望の中ではそのような考えが根づいているようだ。こうして歌帆を見ていても絵本の中の人魚姫に劣らず綺麗だ。声音も美しく、清涼感のある声をしていると思う。


「ありがとう」


 歌帆ははにかむ。うっすらと色づいた頬の色が桜貝のようで、それが彼女を愛らしく見せる。

 それから三人は祭りの話をしながら屋台で買った甘味を平らげていく。常盤街の祭りの様子や海の中の祭りの話で盛り上がる。海の中の祭りも常盤街の祭り同様、無法地帯になることもあるらしく、時々海が荒れるそうだ。


「はあ、美味しかった」


 周は満たされた腹を撫でる。みたらし団子は歌帆と望と分けながら食べ、さらに、りんご飴とわたあめ、たい焼きも食べた。


「よく食べたね」


「もうお腹いっぱい」


「でしょうね」


 まだ食べるとか言ったらどうするのかと思いながら、望はゴミを片付ける。周は大食いの部類でもなければ、食が細いわけでもない。だが、今日は本当によく食べていたと思う。

 歌帆もたい焼きを食べ終え、手を合わせる。


「ごちそうさまでした。餡子がたくさん入っていて美味しかったです」


「ね。頭から尻尾までぎっしりだったね」


 満足、と周は笑う。


「お腹いっぱいになるまで美味しい物を食べられるのって幸せだよね」


「本当に」


 歌帆も笑う。陸地の食べ物は珍しく、そう簡単に手に入れられるものではない。美味しくて、腹も満たされて歌帆も幸せだと感じる。


「周、ゴミもらう」


「はーい。歌帆ちゃんのも頂戴」


 歌帆は、ありがとう、と礼を述べた後、周にたい焼きの包み紙を渡す。周は二枚重ねて簡単に折ると望に手渡す。


「望ちゃん、お腹いっぱいになった?」


「おかげさまで」


 りんご飴にたい焼き、そして、飲み干していないが桃のジュースと意外と腹にたまる。たい焼きの餡子がぎっしりと詰まっていたおかげか、見た目よりも重量があった分の餡子がそのまま腹に入った。ここまで腹に溜まるとは思ってもみなかった。

 鼻歌を歌い、上機嫌の周は桃のジュースを口にする。甘い物ばかり取りすぎた気がするが、今日ばかりはいいだろうと喉を潤す。桃の甘みを舌で転がし、一息つく。


「さて、と。本題に入りますか?」


 周は瓶を片手に歌帆へ視線をやる。歌帆も喉を潤すためにジュースを飲む。細い喉元が上下すると、憂いを帯びた目が伏せられる。甘い物を食べながらの談笑で緊張が解れた歌帆の表情はどこか暗くなってしまった。


「お話してくれるかい?」


「はい」


 歌帆はほう、と一息つくと、今日の目的を口にする。


「……あの、夢を買いたいというよりは、夢へ干渉してほしいのです」


 歌帆の海色の瞳が縋るように周を見つめる。


「夢への干渉か……」


 周は空を見上げる。真珠のように丸い白の月が空に浮かんでいる。


「それは君の? それとも、君ではない誰か?」


「私ではありません。……ずっと目を覚まさない人がいるのです」


 歌帆は拳をきゅっと握る。

 かれこれ二月ほど経っている。それなのに、彼は目覚めない。

 人間は脆い。だからこそ、不安で胸が締めつけられる。もう二度と、と嫌なことを考えてしまう。


「目を覚まさない理由はわかってる?」


「はい。交通事故だそうです。車に轢かれて、それからずっと」


 歌帆の目に涙が溜まるも、零さまいと白魚のような手で拭う。


「あの、その方って……人間ですか?」


 今度は望が問う。

 歌帆の話を聞く限り、海の住人である可能性は低そうだ。通常、海の住人は陸地に上がることはできない。よって、陸地を走る車と遭遇して轢かれることはないだろう。

 何より、歌帆は先ほど目覚めない()と言ったのだ。

 望の問いかけに対し、歌帆はひとつ頷く。


「望さんよりも少し年上の男の子」


 望の予想どおり、人間だった。それも、望と同世代の男性の話だ。見た目だけで言えば、周や杏介と同じ、二十代半ばほどの男性だろうかと推測する。


「人の子か……。歌帆ちゃんとその人はどんな関係?」


「どんな関係……。弟のような、友人のような……」


 彼との関係を改めて考えるとどういうべきかわからない。今までの関係を思えば、弟のような友と言える。しかし、胸の奥の淡い鼓動に歌帆は彼のことを弟のような友と見ていない節があるのだ。

 組まれた歌帆の手がもじもじと動く。わかりやすいほどに頬を紅く染める歌帆に周と望は歌帆から男性への思いを察する。


「大切な方なのですね」


 望が助け船を出すと、歌帆はこくこくと頷く。


「弟のようと言うと、長めのつき合いなのかな?」


「はい。彼が十二歳のときに出会ったので、もう十年以上のつき合いになります」


「差し支えなければ、どんな人か教えてくれる?」


 周がそっと尋ねると歌帆は彼の姿を思い浮かべる。その姿は幼いときの姿から最後に見た姿と流れて行く。人間の成長は早いなと思いながら、歌帆は彼の出会いを思い浮かべる。


「彼はとても真面目な人です。そして、海のことが大好きな男の子」


 出会った当時はまだ幼かった。幼いと言っても、人間で言えば身体が大人のものへと変化していくような年頃だった。

 出会った当時、彼は深い悩みを持っている少年だった。それは真面目がゆえに色々と抱え込んでしまっていたことに起因していると歌帆は思う。今もその悩みに苦しみながらも、大好きな海のことを知ろうともがいているところだ。

 周はメモ帳とペンを取り出すと歌帆の言葉を記していく。


「彼は厳しいご両親の一人息子として生きてきました」


 幼い頃から習い事や勉強をするように両親に強く言われていた。彼からすると、親の言うことに従うのは当然のことで、それをこなすことが当たり前だと思っていたそうだ。

 しかし、それはとても辛く、苦しいと思うこともあり、いつしか疑問を抱いたそうだ。

 両親の言葉は本当に正しいのか。机に向かって参考書やノートを広げ、鉛筆を動かし、問題を解くことが勉強の在り方なのか。

 両親が言う「あなたのため」は本当に自分のためなのか。幼心に疑問と反抗心が芽生えていた。


「私は彼が言っていたことやカモメたちから聞くことしか知らないのだけど、今の時代の人間の子供たちは勉強を熱心にするように大人から言われるのかしら? たくさん勉強して、賢くなって、いい大学、いい仕事をするように言い聞かされるの?」


 歌帆は人間である望に問う。大海原色の瞳の疑問に望は両親や先生、その他大人たちの声を思い出す。


「……歌帆さんがおっしゃるとおり、そう考える人が多いと思います」


 大学受験を終え、現在就職活動をしている望からすると、学歴という言葉が多少なりともちらつく。偏差値や知名度などで大学がランクづけされ、就職活動においても学歴フィルターなるものが存在するとかしないとか。

 生きていく上で金が必要だ。そのために、高収入の職に就くべきだと考える人もいる。そういった職につくのであれば、専門的な知識や高度な技術を要求されることが多く、勉強ができた方が有利になる。

 苦労してほしくない。そう願う親がいる。それは親たちが生活をするために苦労することを実感しているから。自分が叶えることができなかったから。

 だから、子供に背負わせる。そういった事例を聞く機会がある。大学の講義でも子供の心理学を受講したところ、教育熱心な親と子供の関係にまつわる内容もあった。子供に対して厳しく指導しすぎて子供の心に傷を負わせる。そのような事例を講義の中で何度も聞いた。ひどくなると、虐待にまでなってしまい、最悪の場合、子供の命が失われてしまう。

 親から子供への教育の影響は時として一生を左右するほど大きい。望はそう思う。


「その方は親御さんに期待されていたのですか?」


 望は歌帆に尋ねる。

 歌帆の大切な人はどのような子供時代を過ごしたのか。厳しく育てられたと歌帆が言っていた辺り、教育熱心で子供に何か希望を持っていたのではないかと推測する。


「そのようです。その期待に応えようと彼は努力をしてきました。けれど、努力をして、多くを知ったからこそ、自分の進む道は自分の意志なのか、親の夢ではないかと気がついたと大人になった彼が言っていました」


 知れば知るほど、自分がやりたいことは何なのか。彼は疑問を抱くようになったそうだ。

 このまま大人の言うことに従うことが本当に正しいのか。勉強をして、将来、医者や弁護士、大企業の社員となることが幸せになるのか。

 幼いながらに彼はそう疑問を抱いた。そして、気がついた。

 今やっていることは自分の夢のためではなく、親の夢のためだ。幼い頃から親が敷いたレールの上を走り続けているだけではないか。

 レールを見つめるだけで、レールの外を見ていない気がしてならなかったと彼は語っていた。


「彼は中学校の受験が大きな転換点になったと言っていました」


 中学受験。それは彼の意志ではなかった。両親の意志だった。彼が住む町の辺りでは有名な中高一貫校へ入るために彼は塾に通い勉強をした。

 しかし、結果は不合格。他の学校も受験し、合格はしたのだが、両親はいい顔をしなかった。そのとき、彼の中で何かが切れた。

 これでいいのだ、と。

 不合格という文字を見ても落胆はなかった。むしろ、安堵したぐらいだった。そして、他校の結果を見たときは嬉しくなかった。

 合格した、ではなく、合格してしまった。他の受験者には悪いがそう思ってしまったと彼は言っていた。


「それでご両親と喧嘩をしてしまいました」


 第一志望校の結果と進路のことだった。両親から不合格を責められ、仕方なしに第二志望校へ行くように言われた。だが、彼はそれが嫌だった。

 自分は親の言いなりになるために生まれたのではない。親の思うとおりにならない子供が嫌なら生まないでほしかった。

 そう言って彼は家を飛び出した。

 夜も遅い時間。真珠を思わせるような白い月がぽっかりと浮かぶ寒い冬の日だった。夜風にさらされた少年は静かな夜道を歩き、大好きな海へと足を運んだ。


「家を飛び出した彼と私は出会いました」


 歌帆はカモメたちの間で流行っている歌を歌いながらのんびりと夜の海を泳いでいた。夜になれば人間も海辺にはほとんど近づかない。それが日付が変わるような時間帯ともなると、出歩く人間は少ない。

 だが、その日は違った。波が人の子の声を運んだ。ぐすぐすと泣きじゃくるその声に歌帆は何事かと用心しながら近づいた。

 そこにいたのは一人の少年だった。泣きながら彼は沖へと歩んでいた。すでに腰まで海水に浸かっていた少年に歌帆はすぐさま近寄った。まだ幼い命がこの時間になぜ出歩いているのか、そして、海へと入っていくのか。

 嫌な予感がしたのだ。海に入った者たちの末路を海底で見てきたからだ。


『坊や、何をしているの?』


 歌帆がそう問うと、泣き腫らした目が歌帆を捉えた。目を丸くした少年は現状を受け入れられないのか、歌帆をじっと見つめたまま動きを止めた。


『悲しいの?』


『……僕はいらない子だから』


 そう答えた少年は堰を切ったようにぼろぼろと泣き出した。わんわんと泣く少年に歌帆は身の安全の確保を優先しようと彼の手を引いた。波に押されるように少年を浜辺へ上げると、少年はぺたんとその場に座り込んだ。


『うぅ……もう、嫌だ……』


 波が少年の足や服を濡らす。真冬の海から吹く寒風が薄着の少年の体温を奪う。人魚である歌帆は水を操ることができるため、少年の衣服の海水を取り払った。水滴は海へと返した。

 そのとき、車の走る音がした。その音は近くで止まったと思うと、人が降りるように影が動いていた。

 見つかってはいけない。危機を察知した歌帆は少年の手を取る。


『また嫌なことがあったらおいで』


 そう告げて歌帆は海へと戻り、遠くの岩場の影から少年の様子を窺った。車から降りてきたのは彼の両親だったらしく、母親らしき影に抱きしめられ、父親はどこかへ連絡しているようだった。そして、三人は車へと向かった。

 道中、少年は海を振り返った。そのとき、目が合った気がした。少なくとも、人間の目では見えない位置から歌帆は様子を窺っていたのだが、彼は小さく頭を下げた後、両親に手を引かれていった。


「それが最初の出会い」


 時々、彼との会話に出る最初の思い出だ。彼は恥ずかしそうに、そんなこともあった、と言う。


「その日を境に彼と交流が始まりました」


 またおいで、と歌帆が言った一週間後、彼は訪れた。歌帆がすぐに海水を払ったとはいえ、真冬の海に浸かっていたことは事実。身体を冷やし、風邪をひいてしまったそうだ。

 その風邪が治り、塾の帰り道に彼は海へ寄った。きょろきょろと何かを探す様子の少年に歌帆はそっと岩陰から顔を覗かせて手を振ると、彼は驚いた表情で歌帆に手を振り返した。他の人間に見つかってはいけないと岩場の影で改めて対面した。


『あの日はありがとうございました』


 彼の第一声は感謝の言葉だった。そして、歌帆の姿をしげしげと見つめた後、難しい顔をした。


『夢じゃなかったんだ』


 所詮は夢だ。風邪をひいた少年はそう思っていた。

 風邪が治ったとき、両親と改めて話をした。心配したこと、責めすぎてしまったことへの謝罪から始まり、少年も家を飛び出して心配をかけたことを詫びた。

 その際に自分以外に誰かがいたような話が出なかった。夜の海を若い女性が泳いでいたら何か言いそうなものだと思ったのに、両親の口から彼女のことは一切出なかった。だから、夢だったのだろうと思っていたのだが、もしかしたら、と少しの可能性にかけていたと言う。

 二度目の出会いの日、歌帆は彼の家庭の事情を聞いた。両親が彼に厳しく接する理由はわかるものの、彼自身はそこまでされるのは窮屈で苦しいと訴えた。あの夜は抑え込んでいた感情が爆発してしまい、とにかく両親から離れようと飛び出した。その勢いのまま、自分が好きな海に呑まれてしまえばいいと思い、海へ入って行ったそうだ。


『まさか、人魚に会うなんて思わなかったですけど』


 膝を抱えた彼はそう言って笑った。意外にも彼は人魚の歌帆をすんなりと受け入れた。


『私のこと、怖くないの?』


 あのときは思わず姿を見せてしまったが、少年の本心はどうなのかと気になった。

 そう尋ねる歌帆に彼は首を傾げた。


『怖くないです。だって、僕の周りにいる大人よりもずっと優しい目をしているから』


 そう言って少年は小さく笑った。両親や塾の先生の厳しくも、期待しているあの目よりも、見ず知らずの広大な海の瞳の方が安心できた。

 結局、中学校は第二志望校へ進学することになったと歌帆は少年から聞いた。入学後、少年は海を訪れて歌帆に制服姿を見せてくれた。彼は小さな身体をすっぽりと覆うような大きな制服を着ていた。制服を着ていると言うよりも、着られているという印象が強かったことを歌帆はよく覚えている。

 初めの頃は帰りに歌帆の元を訪れていたが、さすがに帰りが遅いと両親も心配するし、疲れた身体が休養を欲した。そのため、梅雨が明けた頃から彼は朝に海を訪れるようになった。早めに学校に行って勉強している、と両親に嘘をついて彼は海へ足を運んだ。

 テストや受験の時期が重なると頻度は下がったが、それでも彼は歌帆の元を訪れては様々な話をした。彼は海のこと、とりわけ、海の生き物が好きで、水族館へよく赴いていた。そこで知ったことを歌帆に尋ねたり、本で調べたりと熱心だった。


「海が大好きな彼は大学院で海の研究をしているって言ってた」


「海のことが本当に好きな方なのですね」


 大学院へ行くというのは望からしてみると立派なことだと思う。本当にその道のことが好きで、深く知りたいと思う人が進む場所だと先輩を見ていると思う。


「ええ。彼が訊いてくること、難しくて答えられないことも多かったのだけど」


 歌帆とて海のことを全て知っているわけではない。彼が図鑑や画像を見せてくれても知らない魚もいたのだ。むしろ、歌帆以上に彼の方が海について詳しいと思うことが多いぐらいだ。


「でも、好きなことや興味のあることを話してくれる彼の顔はすごく好き」


 キラキラとした目で、にこにこと笑いながら話す。話し声も興奮していると少し高くなり、早口になる。素っ気なくなった時期もあったが、それでも楽しそうに話す彼の顔や声が歌帆には心地よかった。


「歌帆ちゃん、その子のこと好きになっちゃった?」


「えっ!?」


 にこにこ笑いながら問う周が予想するよりもいい反応をする。顔を赤くする歌帆にわかりやすいな、と周と望は改めて思う。


「いや、あの、その、彼にはいいところがたくさんあって、私も好ましいと思うけれど……」


 歌帆は視線を下げる。

 そのとき、杏子色がよぎり、熱が引いていく。


『人は長く生きられない。思っているよりも一緒に過ごせる時間は短い』


 そう言う杏子色の瞳は寂しそうだった。海が好きな彼との話をしたとき、陽気な彼の表情が曇った。気のいいお日様のような彼に雲がかかるような寂しい横顔だった。その笑顔に人間との悲しい別れがあったのだろうかと歌帆は察した。

 それと同時に、歌帆が考えないようにしていた現実を突きつけられた。


「でも、彼は人間だから」


 いつか来る別れを思うと、この淡い思いは泡沫のように消えてしまった方がいい。日輪の主の言葉と表情が歌帆をそう思わせた。

 無意識の内にわかっていることではあった。しかし、歌帆の周りにその事実を突きつける存在がなかっただけに、狐の彼の言葉が重くのしかかった。


「……そっか」


 周は笑顔を引っ込める。頼む、と必死に頼み込んだ腐れ縁の顔が浮かぶ。

 周は小さく息をつくと望を見やる。周とて、他人事ではない。すっぱりと関係を断ち切ることになったとき、無感情に切ることはできないような気がするのだ。

 今はそのことを考えている場合ではない。周はじんわりとまとわりつく熱さを振り払うように頭を振る。


「大事な人がずっと眠っているのは心苦しいよね」


「はい」


 彼が眠る場所に歌帆が足を運べたらいいのだが、それはできない。歌帆は青い鱗で覆われた尾をわずかに揺らす。

 何かしたくともできないのだ。眠る彼を見舞うことすらできず、仲のいいカモメに頼んで彼の様子を聞くことしかできないのだ。


「だから、夢屋さんにお願いしたいのです。眠っている彼に起きてほしいと自分で言葉を届けたい。彼が夢を見ているのなら、夢の世界で彼に伝えたい」


 目を覚まして。あなたに会いたい。

 彼へ伝えたいことが歌帆にはたくさんあるのだ。彼ともっと一緒に過ごしたいという願いがある。

 切ないソプラノの声は真剣そのもの。大切な人を助けたいと強く願っているようだ。


「……わかった。君の依頼、承ろう」


 周がそう言うと歌帆は表情を明るくする。


「ありがとうございます」


「うん。……ただ、ひとつ問題が」


 周は鞄から小箱を取り出すと、ふたを開ける。中から小さな木片を摘まみ上げる。


「それは?」


「槐の欠片。夢を作るのに必要な道具なんだけど」


 槐の欠片があれば遠く離れた地でも周は夢を取り出したり、干渉したりすることができる。槐の欠片を歌帆の思い人の元へ届けるまではいいのだが、問題は彼が眠っている場所だ。


「問題はこれを入院している彼のところにどう持っていくか、だよね」


 枕元に、難しければできるだけ彼の近くにあってほしい物だ。だが、入院している彼の元へ届けるとなると難しい話だ。


「お見舞いですーって言って置いていくにしても難しいよね、望ちゃん」


「そうだね。状況がどうなのかわからないけど、ずっと眠っているような患者さんの近くには看護師さんがいるだろうし、親御さんもつきっきりかもしれない。何より、衛生面のことを思うと、見つかったら捨てられちゃいそう」


 見舞いと称して行くにしても、面会できない可能性もある。できたとして、どう槐の欠片を置くのか。置けたとして、爪ほどの小さな木片は捨てられる可能性の方が高い。

 小さな木片を彼の枕元に置くだけのはずが、あれこれと難しい。


「だよね……」


「あの、彼の手元にあった方がいいですか?」


「できることなら。せめて、窓越しでもいいからあると助かるけど、何か伝手がある?」


「はい。カモメの友達がいるので、お願いすれば窓越しなら届けられるかもしれません」


 彼の容態を知らせてくれるカモメ。彼らの手、いや、翼を借りることができれば窓辺にでも欠片を置けるかもしれない。


「そう?」


「はい。お願いしてみます」


「じゃあ、問題は解決かな。じゃあ、本題に入ろうか」


 周はペンをくるりと回す。


「夢への干渉と言うけど、どんな夢なら彼が目覚めるように刺激できそう? もしくは、歌帆ちゃんが彼に見せたい夢の世界はある?」


 そう尋ねる細い目に歌帆は寄せては返す波のような声音で答えた。

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