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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
第六夜 逢ふからも物はなほこそ悲しけれ
53/88

#10

 春の黄昏時、日が長くなってきた。そう思いながら望は、本日の営業は終了しました、と札を掛ける。冬の寒さを残す風が望の髪を翻す。薄雲の掛かる空を一瞥した望は店へ戻る。

 カラン、とベルが物寂しく鳴る。どこか妙な空気が流れる店内で、周が壁を見つめていた。


「周?」


 彼も閉店後の片づけをしているところだ。今日も売れなかった夢の整理をすると言っていたが、その手は止まり、壁、正確に言えば、壁に掛けられた絵を見つめている。

 望は周から二歩ほど離れたところで足を止め、周が見ている絵を見つめる。

 一羽の蝶が描かれた絵だ。その絵が掛けられていたその場所は、以前、カワセミのステンドグラス風のパネルが掛かっていた。しかし、それは周が手を滑らせて割ってしまった。その後、客として訪れた烏天狗の絵描き、春海に絵を依頼した。後日、彼から完成したと送られてきた絵がこの一枚だ。

 透き通った色合いの一羽の蝶。硝子細工のようなその蝶はそこにいるようで、いないような透明感を持つ美しい蝶だ。今にも飛び出してきそうだが、飛び出した瞬間に消えてしまいそうな儚さを持つ。

 その蝶の横にのたりとした文字が連なっている。望には読めないその文字の流れは春海が尊敬する文人画家であり俳人である人間の句が書かれている。


「うつつなき、つまみ心の、胡蝶かな」


 ぽつりと周が詠む。その句は絵に書き添えられたものだ。


「……」


 周の背から感じられる哀愁。望はふと杏介のことを思い出す。

 杏介が来店してから三日が経過した。杏介が何かしら働きかけてくれたのか、周の様子がまた一段と不自然になった。ヘラヘラと笑う胡散臭い店主が妙に思い詰めた顔をしているためか、常連客からも心配されている。周は、ちょっと頭痛くて、と客人に言葉を濁しているが、その表情はちょっとどころではない様子である。


「……望ちゃん」


 弱々しい声が望を呼ぶ。いつかの夏の夜を思い起こさせる声音に望は身構える。


「何?」


 硬い声音で尋ねると、周がわずかに振り返る。肩越しに見える彼の顔はあの日と同じ、触れれば壊れてしまいそうなほど脆い弱さが出ていた。


「この後、時間あるかな? 聞いてほしいことがあるんだ」


 震える声音に望はひとつ頷く。とうとう来たか、と望は気を引き締める。

 深呼吸した周が先行し席に着く。望も席に着く。先ほど、常連客が来ていたため、ひとつのテーブルに椅子が三脚並んでいる状態だ。周が先に座り、望は周から見て九十度になる辺の椅子に腰かける。

 カウンセリングで用いられる座る位置のひとつだ。対面型もあるが、九十度型の方が相談者に向けられる視線が少なくなるという点で採用されている位置である。周も夢を買いにきた客に対してこのような位置関係で座ることがある。

 周が話そうとしていることの重み。それはあの夏の夜の日や篁の話、最近の周の様子からして見てとれることだ。望が何かできることは、少しでも周がストレスなく話せるようにすることだ。

 ただ聴いてやってほしい。相槌も意見もいらないと杏介が言っていた。そうするつもりもあるが、他に望ができることがあるのなら、そうすべきだと考えたのだ。


「……」


 周は望を一瞥する。周自身もこのような座り方をすることを知っているからこそ、自身も実践する。

 つまり、望は周が今から話そうとしていることの内容に薄々勘づいていることの現れだ。今までの行動を振り返ってみれば、不審に思われても仕方がない。それほどまでに今まで周の様子はおかしかったのだ。

 気を遣わせてしまった。これから話す内容でまた気を遣わせてしまうだろうに、ともやもやと周の脳裏に靄が浮かびだす。

 が、それを振り払うように頭を振る。またこうして考えだして待たせてしまう方が望に余計な気を遣わせてしまう。そうなるぐらいなら、座る位置のことを考えるよりも、望に何を伝えるべきかを考えた方がいい。


「……あのね」


 周の声が掠れる。喉の奥の方が締まり、張りつく不快感がする。それでも話さなければと周は言葉を思い浮かべる。

 嫌な記憶が蘇る。一方的に浴びせられた言葉や視線が思い出されるも、話さなければという義務感で次の言葉を紡ごうと口を開く。

 喉が渇く。


「僕、望ちゃんに話していないことがあるんだ」


 絞り出すようなその声に望は小さく、うん、と応じる。


「その……貘の一族のことで」


 やはり、と望の背筋が伸びる。篁が望に対して知るべきことだと言っていた事柄だ。


「……本当はね、頼るべきだと思うんだ」


 周の知らない情報を持っている可能性が高い。貘の長に訊けば何か知っている可能性が高い。彼こそ、貘の中で一番多くの夢に触れてきたのだから、何か心当たりがあるかもしれない。

 貘の一族を頼ることが最善。それは周がよくわかっていることだ。

 長の声が周の脳裏に浮かぶ。その声は周に対して冷たく言い放つものだ。普段は温厚で優しい長だが、覚えている声はあの冷めた声のみだ。


「でも、頼れない理由があって」


 出ていけ。そう言われた声を思い出し、周の心臓が大きく脈打つ。


「僕、一族から絶縁されちゃったんだ」


 一族から最後に浴びせられた言葉は何だったか。お前のせいだ、二度と顔を見せるな、と言の葉を浴びせられた。鋭利な言葉に押し潰されながら、周は彼らから離れざるをえなかった。

 いっそのこと、殺してほしいと思ったぐらいだ。だから、あてもなく旅をして、死に場所を探していたこともあった。


「だから、頼ることができなくて。……隠していてごめんね」


 のらりくらりとかわしていた。思い出さないようにしていた。

 そこに切り込んできたのは涼し気な濡れ羽色の二枚目だ。

 周よりも長命な男に言われることは覚悟していた。自分よりも先に頼るべきところがあるだろう、と言う彼の言葉は正しい。しかし、それができるのなら、周はとっくに手を打っているのだ。


「……並々ならぬ事情があるんでしょ?」


 辛そうな顔をしている。周の横顔に滲む表情に望は先を促す。

 杏介の口ぶりからして、深い事情があるのは明白である。あの夏祭りの夜、ごめんなさいと謝っていた姿は今も望の脳裏にこびりついて離れない。

 望に指摘された周は苦笑する。


「ちょっとね。上手く話せるかわからないけど、聞いてくれるかな?」


 事前にこう話そうと決めてはいる。しかし、それを上手く伝えられるか、自信がない。

 力なく笑う周に対し、望はゆっくりとまばたきをすると、細い目の奥に潜む暗闇を見据える。

 悲しい。寂しい。辛い。負の感情が細い目の奥で揺蕩っている。迷いのある目だ。

 望はすっと息を吸う。杏介や篁の言葉に迷い、望なりに考えたことがある。


「話の上手い、下手は気にしない。私が周の言葉を拾うから」


 周の話を受け止め、周が伝えたいことを拾い上げる。当たり前のことであるが、その当たり前をすることが望にできることであり、話そうと一歩踏み出した周に対する敬意だ。

 凛とした望の物言いに周は目を見開く。

 視線が交差する。透き通るように美しい瞳はいつもと変わらない。真っ直ぐなその視線があまりにも普段どおりなのだ。一点の曇りのない水鏡のような瞳だ。

 望の目は出会った頃から変わらない。彼女にも思い出したくもない過去があるだろう。それでも、磨き上げられたその瞳はすっと前を向いているのだ。


「ちゃんと聴くから」


 その言葉に周の胸の内が少しだけ軽くなる。


「……」


「一度に全てを話せなくてもいい。時間がかかっても私は周の言葉を聴く」


 それが望にできることだ。誰かの重い過去を受け止める側も覚悟を持たねばならない。その日が近い内に来てもいいように、望は考え、そして、結論を出した。

 周はわずかに目を伏せる。望の瞳は変わらず真っ直ぐで、あのときもこうして目を合わせてくれる誰かがいてくれたら思ってしまう。


「……うん、ありがとう。望ちゃんはいつもそうだ」


 今日だけじゃない。舟橋望という人間はいつだって誰かの声に耳を傾けてくれる。それを当たり前と言う者もいるだろうが、周からするとそれが嬉しいことこの上ない。

 あのとき、誰も周の言葉に耳を傾けてくれなかったから。一方的に言葉という刃で切りつけられた。だからこそ、周の話を聴いて望が話を聞いてくれなくなったらと思うのが怖かった。

 しかし、その心配はなさそうだ。周の言葉を拾うから、という言葉の頼もしさがたまらなく嬉しい。

 周は淡く微笑む。彼女が見せてくれた誠意に答えようと無意識に下を向いていた顔を上げる。


「えっとね、本題に入る前に、ちょっとだけ昔話を聞いてほしいんだ」


「昔話?」


「うん。僕が生まれるよりもずっと昔。篁卿が生まれるよりも、もっと昔のお話」


 篁が生まれたのが千二百年前。それでも遠い昔だが、さらに昔のことだと言う周に望はスケールの大きさを思い知らされる。


「望ちゃんは荘子って知ってる?」


「中国の思想家?」


 漢詩や世界史の授業で出てきた名前だ。紀元前に活躍した人間の名前だ。


「うん。その人の代表的な説話に胡蝶の夢っていうのがあるんだ」


「聞いたことある。蝶になった夢なのか、蝶が見ている夢なのか……みたいな話だっけ?」


「かなり端折るとそんな話」


 胡蝶の夢。蝶が舞う夢を見た荘子は、蝶になった夢を見ていたのか、それとも、蝶が見ている夢が今こうして目覚めている自分なのか、という話だったと記憶している。転じて、現実と夢の区別がつかないことを喩える際に用いられる。

 今、自分が見ている光景が夢なのか、現実なのか。その問いがこの説話の重要な部分であると周は考えている。


「胡蝶の夢って夢という形の理想だと思うんだ。現実なのか、幻なのか、区別がつかない。……それぐらい、夢の中に溶け込んでいるってことだと思う」


 夢というものは所詮、偽りの世界だ。その偽りの世界であっても、現実と見紛うほどの夢がある。それは、記憶を元にしているため、現実的になりうるのだ。


「胡蝶の夢がどうしたの?」


 昔話をすると周は言った。確かに、紀元前に活躍した思想家にまつわる話であるため、昔話であることには変わりない。篁も生まれていない、はるか昔の話だ。

 しかし、今のところ、周とどのような関係があるのかわからないのだ。荘子と周の生まれにも長い時間がある。交わることなどないに等しい。篁のように、死後もこの世に残るようなことがなければ接点は持てないだろう。

 望の率直な疑問に周は苦笑する。


「その胡蝶の夢、貘の一族が持っていたんだ」


「え? それって、荘子の夢を取り出したってこと?」


「まあ、そうなるかな」


 貘の一族を従える長がそうしたそうだ。子供の内に教わる昔の話だ。


「取り出したってことは、夢玉になってるってこと?」


 望は夢玉が並ぶテーブルを見やる。灯を受けてキラキラと光を弾くガラス玉。あれと同じように荘子の胡蝶の夢も球体になっているのかと思った。


「そうだよ。さっき言ったけど、夢としての理想形であり、最高峰でもある。だから、貘にとっての宝物なんだ」


「宝物……。すごく大事にされているんだ」


「そう。大事にされていたんだ」


 とても大事にされていた一族の宝。貘だからと言ってそう易々と触らせてくれない代物だった。一族の者以外に見せるなど、言語道断とされるほど、大切に扱われる夢だった。

 別格。その扱いに相応しいほど、美しい夢玉だった。透き通った夢玉の中、蝶がひらりひらりと舞っていた。通常、取り出された夢が夢玉となると、夢の内容に関する色や文様が浮かび上がる。

 しかし、胡蝶の夢は違った。一見すると、透き通った水晶のような球体なのだが、じっと見つめていると、蝶がひらひらと舞う光景が見えるのだ。それをしばらく眺めていると、夢を見ているのか、現実なのか、区別がつかなくなってしまう。

 見惚れる夢玉。そう呼ぶ貘もいるぐらいだ。


「貘の一族にとって、何にも代えがたい宝物だったんだ」


「……」


 望は周の物言いに引っかかる。


「ねえ、周。その宝物は今どうなったの?」


 一族が持っていた。大事にされていた。宝物だった。

 全て過去形なのだ。まるで、今は違うとでも言いたげな口ぶりだ。

 望の指摘に周の瞳が揺れる。細い目の奥で明らかな動揺が見えた。


「……胡蝶の夢は貘の一族の手から離れた」


「どうして?」


 何にも代えがたいほど、大切な物。貘の一族が自らの意志で手放すとは考え難い。

 奪われたか、壊れてしまったか。望が予想する隣で、周はテーブルの上に置いた手を握る。


「……僕が、逃がしたから。今はどこにあるのかわからない」


 絞り出すような周の言葉に望は一瞬思考が停止する。

 周が逃がした。周は先ほど、悪いことをしたから絶縁されたと言っていた。その絶縁の理由が胡蝶の夢を巡ってのことであることかと紐づけるも、一点気になる言葉があった。


「逃がしたって……どういうこと?」


 逃がすとは何か。まるで、閉じ込められた蝶を外に出したかのような言い回しだ。


「そのままだよ。夢玉に閉じ込められた胡蝶を逃がした」


「それってまるで」


 望は言葉を飲み込む。

 胡蝶の夢はあくまで夢だ。実態のない幻だ。夢玉を割ると靄が出てきて消えてしまう。消えるのであって、戻す、逃がすではない。それが望の知る夢玉の特性だ。

 しかし、周は胡蝶を逃がしたと言う。


「……荘子の夢の中の蝶が実態を持っているってこと?」


 望は意志を持つ靄を見たことがない。


「そういうこと」


 周の脳裏に蝶が舞う。透き通った羽を持つ蝶は薄いガラス細工のようで、空気に溶け込むように空へ羽ばたいて消えたのだ。一切の軌跡を残さず、胡蝶はどこかへ去って行った。


「それは、特別な夢だから?」


「多分」


「多分?」


「うん。詳しいことはあまり知らされていないんだ」


 周が追放されたからという理由ではない。幼い内から胡蝶の夢の存在は知らされるし、何度か目にする機会はあった。

 しかし、詳細を教わることはない。胡蝶の夢を閉じ込めた夢玉を割って食べようとすることも、どんな夢だったのか見ることもない。よって、胡蝶の夢という説話や貘の長の話は知っている貘は多いものの、実際はどんな夢なのか、なぜ貘の長が取り出したのかまでは知らない。訊いても教えてくれない。聞くところによると、一族の本当に限られた者のみが詳細を知っているようだ。


「篁卿から借りた本にも胡蝶の夢についての記述があったんだけど、荘子の説話ぐらいしか載っていなかった」


 貘の一族が詳しいといった程度の記述しかなかった。


「胡蝶の夢の夢玉はトップシークレットなんだ」


「そうだね。存在自体は知っている妖は時々いたけどね」


 それこそ、長く生きている妖は知っている者が多い。妖ではないが、篁も知っている辺り、冥府も把握していると思われる。

 とにかく、胡蝶の夢玉については表に出ていないことが多い。それは、貘である周も知らないことばかりだ。


「……」


 望はちらりと周を見やる。胡散臭い笑顔を貼りつけている横顔に問うていいのかと思う疑問があるのだ。


「……」


「望ちゃん、訊きたいことがあるって顔だね」


 周は力なく笑う。

 目は口ほどに物を言う。彼女の性質がよくわかってきた。綺麗な眼差しから送られる視線はすぐに気がつく。


「……まあ」


 望は視線を逸らしつつ気まずそうに言う。

 周がしてしまったことはわかった。それが原因で貘の一族と絶縁状態になってしまった。

 では、と気になる点があるのだ。


「いいよ。ちゃんと話すと決めたから」


 穏やかな口調で言う周に望は逡巡した後、口を開く。


「……どうして、胡蝶を逃がしたの?」


 周は胡蝶の夢が別格の扱いを受けていることを知っている。口ぶりからして、厳重に保管されていたのだろう。

 絶縁されたということだ。かなり重い罰である。悪戯では済まされないほどのことをなぜしてしまったのか。

 周の伏せ気味の瞼が震える。


「出してくれと胡蝶が願ったから」


 周のあっさりとした回答に望は首を傾げる。


「それは……胡蝶がそう言ったの?」


「喋ったというとちょっと違うんだけど……」


 うーん、と周は当時のことを思い返す。


「夢玉の外に出たそうに飛んでいたんだ。まるで、殻を突き破ろうとしていたみたいに」


 力強く羽ばたいて殻を破ろうとしていた。夢の世界の住人というには意志をはっきりと持っているように思ったのだ。

 一度取り出した夢は大きく変化することはない。その夢の世界に何かしらの干渉、例えば、第三者が入り込む、貘がいじるといったことがなければ変わることはないのだ。よって、夢の世界は取り出した際の状態そのまま、玉に閉じ込められる。

 夢玉を使うことによって、同じ夢を何度も見ることができるし、夢を見ている者の動き次第では多少変化する代物だ。しかし、元々用意された舞台はほとんど変化を見せない。夢を見ている者の干渉がなければ同じ夢を繰り返し見るだけだ。

 それが、胡蝶の夢は違った。いつもはひらひらと蝶が夢玉の中で舞い遊んでいるだけなのに、出してくれと言わんばかりに体当たりしていたのだ。


「でも、そんな簡単に逃がせるものなの? 宝物だから、厳重に保管されているはずでしょ」


「普段はね。でも、そのときは違った」


 いつもは一部の者しか入ることが許されない宝物庫の中に保管されている。長が管理する鍵がなければ入ることが許されない場所にいつもはあった。


「胡蝶の夢は儀式があると出されるんだ。宝物であると同時に、儀式の道具でもあった」


 主に、貘が生まれたときや、成人の儀、結婚、そして、葬儀のときに表に出る宝物だった。

 夢の理想形である胡蝶の夢は昔から貘の一族と共にあった。そのため、節目がある際には胡蝶の夢にもその様子を見てもらおうと宝物庫から出されると決まっているそうだ。


「そのときの儀式は元服の儀のときだった。あ、このとき、僕は元服済みだから、別の貘ね」


 周よりも年下の貘が大人の仲間入りをするときに出された。彼とは仲がよく、歳が近かったため、よく一緒に遊んだ。努力家な彼は元服の儀にて、長を補佐する立場になりたいと宣言していた。共に過ごすことが多かった周は彼の夢をよく知っていた。


「彼と一緒に胡蝶の夢玉を見たんだ。って言っても、僕は数年前に見てはいるんだけど」


 一緒に見よう、今度見られるのはいつかわからないから、と彼と一緒に夢玉を見た。

 そのときだった。夢玉の中の蝶が出してくれと羽ばたいていたのは。


「前見たときも見とれたけど、そのときは目が釘付けになったというか」


 出して。ここから出してくれ。

 美しい胡蝶がそう訴えていた。ガラスのように透き通った羽は体当たりする反動で細かく揺れていた。

 壊れてしまう。あの美しい羽がもげてしまう。

 そう思った周の目は胡蝶しか見ていなかった。


「正直、夢玉を壊した瞬間のこと、覚えていないんだ」


 パリーン、と夢玉が砕け散る音がした。それと同時に、細かな光の粒子と共に胡蝶が舞い上がった。空気に溶けてしまいそうな羽を羽ばたかせ、天へと消えて行った。そのときの光景をよく覚えている。


「気がついたら、周りに貘が集まっていた」


 友の彼が、周が割ってしまった、と証言した。証拠に、周の衣から胡蝶の夢の残滓がまとわりついていたのだ。

 言い逃れのできない状況。お前は何てことをしてくれたのだ、と糾弾された。

 貘は穏やかだと言われる。物腰が柔らかく、怒鳴ることなど滅多にない。そんな貘が周に対して、罵詈雑言を浴びせた。

 許されないことだ。それは周もわかっていた。

 ごめんなさい。そう言っても彼らは聞く耳を持たなかった。


「一族の長も当然その場にいたわけで、追放を言い渡された」


 二度と顔を見せるな。そう冷たく言い放たれた後、身ひとつで追い出された。抵抗する気力もほとんどなく、呆然とする周は引きずられ、轟々と唸る川へと放り投げられた。

 背中から叩きつけられたあの感覚が背筋を走る。鼻や口に入る水の痛みも思い出す。何とか川から這い上がったときには、どれだけ流されたのかわからないほど遠くにいた。


「それからずっと、僕は貘の一族とは連絡をとっていない」


 周から連絡をすることもなければ、一族から連絡があることもない。同族と顔を合わせることもなく、今まで生きてきた。たまに噂を聞くぐらいのいとも容易く切れてしまいそうな細い糸のような関係だ。


「だから、僕は貘の一族との繋がりがないんだ」


 淡々とした口ぶりで周は語る。


「これで粗方話せたかな」


 伝えるべき大筋は話せたと周は安堵する。もっと支離滅裂な話になってしまうかと危惧していたが、想像よりは話せた方ではあると思う。


「何か訊きたいことはある?」


 こうして話してみると、あっさりと話せるぐらいの過去だ。くよくよ悩んではいたが、淡々と、感情を乗せずに話せば取り乱すこともないようだ。


「……」


 望は周の話を整理する。

 貘の一族には宝があった。それは、荘子の胡蝶の夢だった。夢として理想の形である大切な宝物だった。

 その宝を周が逃がした。そのせいで、周は貘の一族から追放され、今日に至る。

 周が今まで望に話してこなかった内容だ。

 話さなかったのか、話せなかったのか。どちらの可能性もあると思いつつ、望は深く呼吸をする。


「……周」


 静かながら凛とした声音に周は首を傾げる。


「苦しくない?」


 望の問いに周の瞳が揺れる。


「周の話し方、あまりにも淡々としていて他人事みたいだった」


 周自身のことのはずが、第三者視点のように話していた。まるで、ナレーターのようだ。その理由はなぜか、と望は瞬時に考える。


「感情を抑え込んでない?」


 望の指摘に周は沈黙する。言葉のない肯定に望はゆっくりとまばたきをした後、周を見据える。

 磨き上げられた鏡のような澄んだ眼が周を捉える。齢二十の、言ってしまえば小娘のその眼力に周の背筋が凍る。


「何となくだけど、言葉の端々から辛かった、怖かったっていう感情は伝わってくる」


 淡々と話す一方で、視線が合わなかったり、笑顔が少なかったり、普段の周と違うところはあった。最初は少し強がっているように見えたが、徐々に表情が険しくなり、言葉を選ぶように慎重な話し方になっていった。

 それは当時のことを思い出しながら話しているから。望はそう判断した。そのわりには口調は淡々としていて、周の心の奥底に潜む感情と乖離していると感じた。


「孤独とか、寂しいとか、そういう感情があったんじゃないかとも思う」


 貘の元服が何歳で行われるのか知らないが、元服したとは言っても、まだまだ子供のようなものだろう。大人扱いされるにしても、未熟であることに変わりない。まだ独り立ちできていないような貘の子がたった一人で追い出されて、生きてきたと思うとその心労は計り知れない。

 脳裏によぎるのはあの夏の夜のこと。花火の火薬のにおいが思い出される。

 ごめんなさいと謝りながら、涙を流したあの顔が脳裏を離れない。あのときの謝罪は貘の一族に向けられたものなのかもしれない。それは、周の奥底に潜む何かしらの感情の現れだったか。

 伝えたくとも伝えられなかった事実だろう。


「そういった感情を吐き出せる場所や相手はある?」


 ここ最近の上の空の周を見ていると心配になる。

 先日、杏介の手を借りることを約束した。その結果、今日という日を迎えられたのだろう。杏介との会話で少しでも吐き出せたからこうして望に話せているのかもしれない。

 では、今はどうなのか。今、周が抱いている感情はこのあとどう処理されるのか。このまま抑え込まれてしまい、周が押し潰されてしまうのではないかと心配になる。

 どこか苦い煙がけぶる夏の夜のときのように、らしくもない潰れ方をしないか。


「……」


 周は望の射貫くような瞳から視線を逸らす。

 目は口ほどに物を言う。クールな表情をしている望の目は真っ直ぐと周を、いや、周の心の内を覗き込んでいるようだ。何もかもを言い当てられたような気がする周は苦笑する。


「望ちゃんは鋭いなあ」


 敵わないと思いつつ、周は天井を見上げる。暖色の照明が降り注ぐ。


「……あまり、考えないようにしていたんだ」


 周は目を閉じる。暗くなった視界に当時のことがよぎる。

 思い出すと辛くなるから。寂しくなるから。死にたくなるから。


「忘れようとした」


 喧嘩に明け暮れた頃もあった。喧嘩をしている間は忘れられたから。死ぬことができれば何も考えずにいられると願ったから。

 それでも、痛みに耐えられず、治療する。忘れたい、考えたくない、死にたいという欲とは矛盾した行為はあの黄金色が招いたこと。


『過ぎ去ったことよりも、未だ来ていないことを楽しみたい』


 前向きに言う彼に引きずられるようにして医師の元へ通う日が続いた。

 いつしか、兎の医師の元で働くようになった。忙しなく働いていたあの頃は一族とのことを思い出す暇もなかった。そのおかげか、精神的にも安定してきたと思った。


『胡散臭くてもいいから笑っておけ』


 棗からそう言われたこともあった。そのとき身に着いた笑顔は、望に胡散臭いとまで言われるところまで定着した。

 あるとき、世話になった診療所を辞めた。それからは貘の一族のことを思い出すことはほとんどなかった。


「実際、最近までは思い出すことがなかったんだ」


 ふと思い出すことはあったものの、そんなことよりも別のことを思い出すことが多かった。腐れ縁の彼が言ったとおり、当時は想像もしていなかった楽しいことを振り返り、今を生きることに集中していた。

 そんな日々が覆されたのは舟橋望という人間の登場だ。彼女の体質に興味が引かれたことは事実だが、それと同時に、一族の顔が思い浮かんだ。


「彼らのことを打ち消そうとした」


 一族の力を借りなくとも、自分だけでどうにかできる。

 いや、どうにかしてみせる。自分でもやれる。

 そう言い聞かせるように調べ物に集中した。しかし、解決策は見つからず、頼った冥官からも目ぼしい情報は得られなかった。それどころか、叱責された。あの瞬間、今までふたをしていた記憶が突き落とされた川のように流れてきた。


「でも、やっぱり完全に忘れることなんて、できないよね」


 舟橋望という人間に出会ったことで、嫌でも彼らのことが脳裏をよぎった。

 いつかは頼らなければならないのかもしれない。それが望のためになるはずだから。

 しかし、周にはできなかった。なぜなら、彼らから絶縁されている身だ。また、あのときのように鋭利な言葉を向けられる恐怖もあった。


「ごめんね、愚痴みたいになっちゃって」


 今にも泣き出しそうな顔の周に望は首を横に振る。


「ううん。それでいい」


 感情を吐き出せる場所はあるのか。その答えが出たようなものだ。

 望は小さく笑う。


「そうやって心の内を吐き出してくれていいから」


 抱え込みすぎて疲れ果ててしまう前に愚痴でも構わないから吐き出してしまった方がいい。望はそう考える。


「ありがとう」


 周は小さく笑う。ほっとした周の安堵の笑みに望は頷く。


「こちらこそ、話してくれてありがとう」


 全てではないにしろ、周から話を聞けた。結果として、これでまた一歩前進できたのではないかと思う。


「周、お茶にしない?」


 色々と訊きたいことはあるが、疲れた顔をしている周にこれ以上無理をさせるのは酷だ。


「さっき、ひとみちゃんがお菓子持ってきてくれたから」


「お菓子? ……もしかして、カウンターに置いてあるあれ?」


 久しぶりに見た紙袋はちょうど一年ほど前にひとみが持ってきたものと同じだ。


「うん。第一志望校への入学が決まったことと、中学卒業したことの報告に」


 ご挨拶が遅くなってしまってごめんなさい、と彼女は報告に来た。周を呼ぼうと思ったのだが、奥でお仕事をされているのならまた改めます、と言って菓子を渡してくれた。


「そうなんだ。おめでたいね」


 中学生から高校生へ。昨年出会った少女は新たな環境へと一歩進むこととなったそうだ。


「……ゆり子ちゃんも喜んでいるよね」


 彼女の曾祖母が亡くなって一年経った。常連客から彼女の墓地を聞いた周は花を手向けに行った。彼女の名前と縁のある雪のように白い百合を供えてその場を後にした。

 彼女の夫と一緒に可愛い曾孫の成長を見届けていることだろう。


「うん。真っ先に報告に行ったって」


「そうだよね。ひとみちゃんに今度会えたらちゃんとおめでとうを言わないとね」


 周は小さく笑う。

 人の子の歩みは早い。周が思い悩んでいる間にも、どんどん進んでいってしまう。

 止まっている場合ではないようだ。周は隣に座る望を見据える。


「お茶にしようか」


 どこか憑き物が少し落ちた周の言葉に望は頷く。

 始まりのお裾分けをいただく春の初めの黄昏時、花のように甘い茶の香りが夢屋の中へ広がった。

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