#9
「杏介さん?」
心配そうに呼ぶその声に杏介は我に返る。顔を上げれば、澄み切った綺麗な瞳がこちらを真っ直ぐに見つめている。
「ん?」
「もしかして、私、気に障ることを言ってしまいましたか?」
彼女の眉がわずかに下がる。
「いいや。昔、望と似たようなことを言った子がいたなって思っただけ」
言葉は多少違えど、言っていることは同じ。彼女も望も杏介のことを春の太陽と言う。彼女と望の感性は近いのかもしれない。
「不快とか思ってない。ただ、妖怪の俺に太陽みたいなんて言うのは変わっているなあ、て」
「妖怪と言えば夜のイメージですが、杏介さんは昼夜問わず活動しているじゃないですか」
今日もこうして、昼の人間界に来ては、人間の集まる場所へ出向き買い物をしている。頭の三角形の耳さえ隠してしまえば大半の人間は気がつかない。それぐらい、彼は人間の世界に紛れ込めている。
「んー、まあな。でも、昔は昼は人間の時間、夜は妖の時間だった」
昔の夜は今よりもずっと暗かった。夜闇に乗じて悪戯をする。もしくは、人間が寝静まる時間だからこそ、人々を襲う者たちもいた。
しかし、それは暗いからできたことだ。炎の頼りない灯や夜と空にまたたく星々、そして、満ちては欠けてを繰り返す月が主な光源だった。それが、いつしか、ガス灯が導入され、電気というものが入ってきた。
昼間と変わらない明るさ。そう例える妖もいるぐらい、この国の夜は場所によっては明るすぎる時間となった。昼と夜の境界線が曖昧になってきたと言う妖もいるぐらいだ。
「時が流れたものだ」
彼女が亡くなってどれぐらい経ったか。彼女の子孫が今も生きているのなら何代目になるのか。
それだけの時が流れ、この国は変わったのだ。
しみじみと思っている杏介の耳に足音が届く。そちらを見やれば、腐れ縁が顔を覗かせている。
「杏」
疲れた声の幼馴染だ。根詰めているな、と思いながら、杏介はにかっと笑う。
「よっ、周」
ひらひらと手を振る杏介の姿を周は上から下まで見た後、テーブルの上に転がる化粧品に眉をしかめる。
「君、その恰好……」
「どうも、杏子でーす」
イエーイとピースまでする友にため息をついた周は店に出てテーブルに茶を出す。
「望ちゃん、変なことされなかった?」
「別に何も」
「俺のこと何だと思ってるんだよ」
えい、と杏介は軽く周を小突こうとするも、その周はいとも容易くかわす。
「ちっ」
「で、何の用で来たの?」
舌打ちする杏介を無視した周はテーブルの上に転がる化粧品をしげしげと見つめる。
「別に。ちょっと寄っただけ」
杏介は出された茶を啜る。甘酸っぱい風味の紅茶だ。
「……アプリコットティーか?」
「うん、そう。杏子の花が咲く頃だし」
「ああ、もうそんな季節だよな」
彼女と別れたのも杏子の花咲く季節だった。懐かしいと思いながら杏介はアプリコットティーを飲み干す。
「ごちそうさま。いやー、誰かが淹れてくれたお茶は美味いな」
「お粗末様で」
「いいや、そんなことはねーけど。そんじゃあ、俺は帰るかねえ」
「うん、帰って」
「周、冷たいぞ」
冷たいというか、張りつめている。表情はどこか疲れていて、望が言っていたとおり疲労困憊していそうだ。
杏介はテーブルの上の化粧品をしまう。見慣れた色のアイシャドウを最後に袋に放り込むと立ち上がる。
「あ、杏介さん、これ」
望は桜色のグロスを差し出す。しかし、杏介はその手を突き返す。
「いいって。素直にもらっておけよ」
ヘラヘラと笑いながら杏介は踵を返そうとする。が、何か思い出したかのように望の傍に駆け寄ると身を屈める。
「例の話、またな」
耳打ちされた望は小さく頷く。春の日射し色が細められると、眩い金糸が離れる。
「杏?」
「女子だけの秘密でーす。そんじゃあ、まったなー」
首を傾げる周に応じる気はないと言わん様子で杏介は店を出る。
カラン、とベルが鳴り、杏子色が去って行く。わずかに甘い香りが残る店内で、周はため息をつく。
「望ちゃん、本当に変な話されてない?」
「うん。化粧品の話をしていただけ」
望は杏介からもらったグロスをどうしようかとじっと見つめる。桜の季節にぴったりの色の物だ。本当にもらってよかっただろうか、と思っていると頭上から視線を感じる。
ここ最近、向けられる視線だ。望は迷いながらも視線の主を見上げる。
細い目が明らかに動揺する。望と視線がかち合うとわざとらしく逸らされる。
「……」
望は再びグロスに視線を落とす。俺に任せろと言ってくれた彼に委ねていいのだろうかと金色を思い浮かべた。
◇◇◇◇◇
熟れた実を思わせる黄金色に白い花が散りばめられている。杏介はその日輪を囲むように昔使っていた耳飾りを指で撫でる。薬師となり、日輪を開いてから着ける機会が減った。最後に着けたのはいつだろうかと思うほど昔だ。
思い出されるのは彼女と過ごしたあの日々だ。やけにあの子のことを思い出すな、と思っていると店の戸が開く。来客の姿を見るといつもどおりの笑顔を浮かべる。
「いらっしゃい」
「……昨日来てくれたときに用があるなら言えばよかったのに」
周は口を尖らせながら、杏介の手元に視線をやる。
「ちょうど今ぐらいの季節だったね」
「そうだな。まあ、上がれよ」
杏介は周に対して促すと踵を返す。厨で茶を淹れて店先へと戻ると行儀よく座った周が待っていた。すっと背筋が伸びた姿勢は不思議と目を惹く。
そういうところだ。昔、一緒に喧嘩をして回っていたときも、周はどこか育ちの良さを感じる男だった。杏介の知らないことを多く知っていた。教養があるというのはこいつのようなことを指すのだろうなと何となく思っていた。彼の生い立ちを聞けば、しっかりとした教育を受けていた者だと証明もされた。
杏介は机に湯呑を置く。周に茶の淹れ方を教わったのだが、どうも彼のように淹れられない。同じ茶葉、茶器を使っても周が淹れた茶とは味が違うのが不思議である。周にお客さんに出しても恥ずかしくない味と言われる腕前にはなったものの、彼が淹れる茶と味が違うことに納得できない。
「ほーれ、粗茶だぞー」
「ありがとう」
周は早速口をつける。ほろ苦い新緑色を喉の奥へと流し込み、一息つく。
「久しぶりに君に売った夢を見た」
「……久しぶりに彼女のことを思い出した」
杏介は文机から夢玉の入った箱を持って来る。
杏介は一度だけ、周から夢を買った。その夢がこの黄金の夢玉だ。いや、正確に言えば、買ったというよりは、取り出してもらったという言い方の方が正しいのかもしれない。
箱の中の夢玉と耳飾りに懐かしさを覚えた周は目を細める。
「とても綺麗で、美しくて……。でも、切ない夢だったね」
腐れ縁の彼を象徴する金色の夢玉に白い花が咲き誇っている。この夢は彼女から取り出した夢なのだが、彼色の夢だった。
周は彼女と話したことはない。ただ、ある夜、彼女が見ていた夢を覗き込んだ。
日の降り注ぐ世界に、彼と彼女はいた。二人とも楽しそうで、幸せそうだった。しかし、その世界はあくまで夢だ。あっけなく、その時間は崩れてしまう。
行かないで。一緒にいて。
彼女の悲痛な訴えは彼女自身を苦しめていた。
「周には無理言ったな」
「危ない綱渡りだった」
周は当時のことを振り返る。頼みがあると真剣な眼差しで言った腐れ縁はとんでもないことを言ったのだ。
『夢を取り出して、記憶を消せないか』
そう言った腐れ縁に周はできないと理由つきで説明した。
夢は記憶だ。眠っている間に記憶を整理する際に、見るものだ。貘である周はその夢を取り出して、時には売り、時には食す。
夢を取り出すときに気をつけなければならないことがある。それは、取り出す量だ。記憶だから、多く取りすぎてはいけない。取り出した分だけ、記憶が薄れてしまうそうだ。よって、全て食べつくしたり、取り出すようなことは原則禁止されている。特別な事情がない限り、全ては取り出さない。
夢を全て取り出すことは記憶の抹消と同義。記憶を消すことは禁忌だ。たとえ、貘の一族から距離をとっている周でもしてはならないことだ。
『記憶を消したいの?』
なぜそう望むのか。そう訊ねた周に杏介は彼女のことを話した。日の射すところで暮らせるようになった彼女に杏介という存在はあってはならない。
夜が活動時間である妖。そんな妖が日の出る場所にいる彼女の傍にいてはまた戻してしまうかもしれない。また、彼の妖力はか弱い彼女を弱らせるだけだ。
人間の彼女の幸せを祈る妖狐の頼みだった。
頼む、と杏介が周に対して頭を深く下げたのはそのときが初めてだった。それ以降、杏介が周に対してあそこまで深く頭を下げたことはないと記憶している。
周も悩んだ。貘としての禁忌を犯すか否か。正直、もうひとつぐらい増えてもいいかとも思ったが、彼女のことを考えるとできないと思った。
なぜなら、記憶の所持者は彼女だからだ。彼女の同意なしにそれはできない。杏介の話を聞く限り、外の世界を知らない娘だ。その娘の貴重な記憶を奪っていいのかと思った。
ならば、と周ができる本当に際の条件を出した。
『夢として記憶を全て取り出すことはできない。だから、完全に消し去ることはできない。……が、薄れさせる、もしくは、奥の方へ隠すことならできる。……忘れてもらうんだ』
それが周にできる精一杯だ。
彼女の大切な記憶を雲隠れさせるのだから。周は杏介にまつわる彼女の記憶を最奥に隠した。よほどの刺激がない限り、彼女は杏介のことを思い出さない。
それと同時に、彼女の記憶にぽっかりと穴を空けることになった。杏介にまつわる記憶と言っても、杏介単体のことを消すことは難しい。どうしても、周辺の記憶を巻き込んでしまう。杏介との会話に出てきた人物のことや、事柄のことも奥へと隠した。そのため、杏介が話した侍女や警護の者、弟君のことを忘れてしまっている。
『彼女の記憶を改竄する。それは彼女の時間を奪ったも同義』
そして、杏介が背負うべき責任だと言い放った。周や杏介からすると本当に短い時間だが、命の短い彼女からすると貴重な時間だ。その時間分の記憶をごっそりと忘れてしまう。場合によっては、周りの人間たちと食い違いが起きるかもしれない。
また、副作用でしばらくの間、頭が働かなくなってしまう恐れがあった。その後の彼女の容態を知るために、周は彼女を見張っていた。それほど重くはない様子だったが、ぼんやりとしている時間が多かった。
それも彼女の時を奪う行為だ。
何より、彼女が大切にしていた宝物を隠す形になったのだ。
『君は彼女に対して、責任を負わなければならない』
それができないならやらない。言外にそう伝える周に杏介の目は揺るがなかった。
その後、杏介は周に正式に依頼した。
彼女を外へ連れ出す夢を。現実ではもう叶わないから、せめて、幻の世界でいい。記憶を薄れさせることになるが、最後に杏介が話して聞かせた世界を彼女に見せてやりたかった。
「本当に綺麗な夢だったね」
周は見慣れた杏子色に目を細める。
二人の夢はとても儚いものだった。一方は現実の世界だと疑わなかった。一方は別れと記憶を消すに近い行為を覚悟していた。
逢うからも 物はなほこそ 悲しけれ 別れむことを かねて思へば
彼女は上の句のみを諳んじていた。杏介に対して、すっとこの和歌が出てくる辺り、きちんと教育を受けていたのだろうと思った。
杏子の花咲く夢の最後は彼女が泣き叫ぶところで幕を閉じた。その声があまりにも悲痛で、本当にこうするしかなかったのかと思うような夢だった。
それからだった。杏介が相手の懐にズカズカと踏み込まなくなったのは。出会った当時は嫌がる周に対して、あれこれ訊いてきて不快に思うことが多かった。それは周に対してだけでなく、他の者に対してもそうだった。
相手が行動しないのなら、自分から働きかける。積極的な行動ではあるものの、好奇心旺盛な性格ゆえ、初対面の相手に対しても平気で礼を欠く態度をとっていた。奥手な者からすると、杏介の距離の詰め方は怖いだろうと思うほど、遠慮がなかった。自由奔放に生きてきたからこそ、相手のことを見極めるということが苦手だったと周は思う。
それが、姫君との別れを経てから、杏介は距離を取るというようこと、待つということを覚えた。それでも距離は近い方だと思うが、鍵がかかっていない部屋に勝手に入らないようになった辺り、常識を持ち合わせたように思う。
棗にしごかれたから。そうとも捉えられるだろうが、姫君の話をする杏介が彼女を気遣うような言動をし始めたときに変わったなと思った。
「……そうだな」
杏介は弱々しく笑う。
音は忘れやすいとか言うらしい。しかし、彼女の泣き叫ぶ声は今でもよく覚えている。お願いだから、と幼子のように縋りつく彼女の記憶はほろほろと零れ落ちる箏の音色のように、あの夢の中で散った杏子の花のように、儚くなっていった。
楽しかった彼女の記憶を閉じ込めた夢玉。眩い太陽のような黄金色の夢玉にはもうひとつの顔がある。
彼女から杏介という存在を忘れさせた責任。それが、この夢玉のもうひとつの顔だ。杏介が負わねばならない戒めの形だ。
一度だけ、その後の彼女の姿を見た。幼さの欠片もない、屋敷の女主人として振舞っていた彼女は夫と子供と屋敷の者に囲まれて幸せそうに笑っていた。
その姿が見られたのなら十分。杏介の傍では見られなかっただろう笑顔に杏介はすぐにその場を立ち去った。
「俺にとっても、大切な夢だ」
杏介は日だまり色の夢玉を指先で撫でる。艶やかな球体の隣には紐がぼろぼろになった耳飾りが並んでいる。棗の元で働くようになってからずっとつけていない。使わないと物は駄目になっていく、と周が言っていたことがよくわかる。
杏介は茶を飲む。しんみりとした話は性に合わない。
湯呑を置く音で思考を切り替えた杏介は箱に蓋をする。
「俺のことはさておき」
周の肩が跳ねる。杏介は予想通りの反応に苦笑する。
「弱ってるな」
杏介がそう言うと周の視線が下がる。
元々、周は精神的に強くはない。杏介はそう思っている。荒れていた頃は感情の起伏がほとんどなかったが、それは己を押し込んでいたからだ。無表情の仮面の下では、どろどろとした粘着質な感情が澱んでいた。
それが見られなくなったのはいつからだったか。それこそ、満月医院が診療所だったあの頃、棗の厳しい指導下にあった頃だ。忙しかったため、考える余裕がなかったのだろう。そこから周は本来の性格に戻っていった。
笑うようになった。心の底からの笑顔を見せるようになった。薬師を辞めるという頃には暗い表情は消え、どこか晴れ晴れとした顔つきになっていた。
だからこそ、久しぶりに弱っている姿を見た。見るからに動揺し、簡単につついただけで壊れてしまいそうな様子だ。
その様子は去年の夏祭り後に見られていた。篁のことがよぎった辺りから周の精神状態が不安定になった。そして、篁を訪れたことで、見事に崩れ始めた。
そして、その異変に望も気がついている。
「見るからにわかる?」
「ああ、わかる。可愛い子ちゃんも心配してたぞ」
周を案じるあの表情が全てを物語っていた。あの場では全てを聞かなかったものの、おおよその検討がついていた。だから、自ら話を聞くと切り出したのだ。
「だよね」
はあ、と周はため息をつく。
彼女の綺麗な瞳がどうしたのだと問うのだ。目は口ほどに物を言うとはよく言ったものだと思うほどに。
「恰好よくない……」
「もうすでに醜態晒しまくってるからいいだろ」
「嫌だよ、これ以上増やすの」
周は机に伏せる。
「……言わないとって思うんだ」
篁の言葉が蘇る。彼の低く、圧のある言霊は強い。歌人でもあり、政治家でもある彼の言葉は強いものだ。
「あの子も気がついている」
周の様子を案じているだけではない。周の言葉を待っているように見える。
何を言いたかったの? どうして言葉を飲み込んでしまうの?
あの瞳が訴える。涼しげな表情の下、目だけで伝えてくる。
彼女の表情は乏しいと思っていたが、違う。口元や頬の動きではなく、目で訴えてくる。それが何とも強く、そして、印象に残る。
「望も馬鹿じゃないからな」
杏介は頬杖をつく。
聡い娘だ。勘が鋭く、こちらの心情を読み解く才に長けている。
長けているがゆえの悩みを杏介に打ち明けてきた。あの花火の残り香が漂う夏の日と春の香りが吹き込んだ先日と望は杏介に相談したのだ。
周に直接尋ねる前に杏介に訊く。それからどう動くべきかを考えている。
慎重とも言える行動でもあり、どこまで踏み込んでいいのか迷っている様子でもある。そこが望のいいところでもあり、悪いところだ。そのせいか、今もこうして遠回りしている。
「そうだよ。あの子は賢い。賢いからこそ、全てを言わない」
言葉にせず、目で訴えてくる。それがまた周を苦しめる。
いっそのこと、言葉で詰め寄ってくれ。そう思うのだが、望はそれをしない。わりとはっきりと物を言うことが多い望は相手のことに踏み込むような話、とくに、過去のこととなるとあまり言わない。相手を傷つけてしまうからと躊躇しているようだ。
「僕が何か言おうとしていることを待っている」
踏み込めないなら、向こうから近寄ってくるのを待つ。それが望の態度だ。周が歩み寄ろうとしているから、望は待っている。
だが、肝心の周が一歩を踏み出せていない。何度も何度も踏み出そうとした。けれど、発しようとした言葉を何度しまい込んだか。その度に、望の目が何を言おうとしたのか聞きたがる。
「そうすることがいいんだとあの子は考えていると思う」
「心理学勉強してるから、心の機微に敏感なのかもな」
望の勉強内容について、杏介は詳しく知らない。心理学と言っても、色々あるらしい。
知識もあり、聡いところもある。その両方が互いに絡まり合った結果、望は心の動きに敏感なのかもしれない。
「望の長所って相手の話によく耳を傾けることだよな」
話し手ではなく、聞き手に回ることが多い。自ら積極的に話す性格ではないからこそ、余計に周の言葉を待っているのかもしれない。杏介の言葉も影響しているだろう。
しかし、そんな望はこのまま待っていていいのかと疑問を抱いた。
「篁卿から何か吹き込まれたっぽいけど」
望が疑問を抱いたのは杏介ではない、黒が一際似合う男の言葉の影響だ。彼の言霊は強い。感化されるのも当然のことのように思う。
「だよね。あの人なら何かすると思うよ」
周は顔を上げる。篁から借りた書物を読み込んでいる間、望は篁たちと共にいた。そう思うと、周の目や耳がない。周がいないところで篁が望に何かを言っている可能性はおおいにある。篁も策士だ。望に何か言って行動を起こさせようとしかねない。
「ただまあ、篁卿が思うような行動は起きてなさそうだけど」
杏介は茶を啜る。
周に貘のことを訊くように。望はそう言われたみたいだが、現状、望はそれを行動に移せていない。
それは、周の過去に踏み込むことになるから。不安定な精神状態の周を見れば、足踏みしてしまうのも理解できる。
「もうあの人怖いよ……」
「相も変わらず元気らしいしな」
杏介が最後に会ったのは随分前のことだ。周の話を聞く限り、昔と変わりなさそうだ。
「周はあの人に何言われたんだ?」
「……貘の一族を頼れって」
「言いそう」
杏介の頭の中で想像できる。あの鋭い目と高圧的な物言いが浮かび、寒気がする。
「そのためにも、望ちゃんに話せって」
「そうなるよな」
「多分、望ちゃんには貘のことを訊けって言ってそう」
「言ってるだろうな」
だから、彼女は杏介に相談してきたのだ。
「周は貘とのこと、話すつもりなのか?」
その意思確認をすることが杏介に課せられたことだ。望を悩ませた一端でもある杏介がしなければならないことだ。
「……一応。ただ、上手く話せる自信がないんだ」
周の脳裏を蝶がよぎる。宙に溶けるようにして羽ばたいたあの蝶が全ての始まりだ。
「上手くなくていいだろう」
杏介の言葉に周の瞳が揺れる。
「どれだけ言葉を詰まらせようが、拙い話し方だろうが、望は聴いてくれる子だ」
待つ。その行為ができる娘だ。たとえ、周がたどたどしく話しても望は急かさないだろう。周の口から出てくる言葉を待つ。無理に全てを話さなくともいい、ゆっくりでいいと彼女は促すだろう。
「そんな顔するなよ、周。胡散臭くてもいいから笑っていろ」
沈んだ面持ちの周に叱咤するように杏介は言う。
『愛想のない面で患者に接するな。胡散臭くてもいいから笑え』
そう言って周の頬を引っ張ったのは棗だ。満月診療所で働かされるようになったときのことだ。今の周とは比べ物にならないぐらい愛想がなかった周に対し、棗はそう言い放った。任された雑用を嫌々こなす二人を叱りつけるとき、周については表情が硬いと追加の説教があったのだ。
「棗先生に怒られるぞ」
「……うん」
自信なさげな返事に杏介は事務所の外、向かいに構える満月医院の方へ視線をやる。
棗の手を借りるか。一瞬よぎるも、その案を打ち消す。望にああ言ったのだ。できることなら杏介がどうにかしたい。もしも、難しいのであれば棗にも相談しようかとも考える。
ただ、その前に杏介ができることを。杏介は腕を組み、思考を巡らせる。よぎるのはあの夏の朝のことだ。
そのときが来るまで待ってほしいと言ったのは自分だ。それを律儀に守る望はどれだけの時間待ったか。その内一年経ってしまう。
それに気がついた杏介は眉間に皺を寄せる。これは自分が取らねばならない責任だ。
「……あのさ、周」
「何?」
「あの子、ずっと待てるぞ」
「知ってる」
「いや、お前が思ってるより前から」
「え?」
どういう意味だと細い目が問う。
「ほら、去年の夏、お前が泥酔した日があっただろう? 俺も詳しく聞いてないからわからないけど、望は何か勘づいてたみたいで、俺に何があったのか訊いてきた」
「そんなことあったの?」
夏祭りの夜、やけ酒を飲んだのは覚えている。が、周の記憶は曖昧なのだ。気がついたら布団の中にいて、痛む頭を押さえながら目覚めたのだ。
「あった。お前が潰れている間にな」
「あう……」
二日酔いで潰れていたのは確かだ。直人につつかれたのも覚えている。
「そっか。そんなに前からあの子は待ってるのか」
「ああ。もしかしたら、もっと前から待っているのかもしれない」
「そうだと思う」
周以外にも貘はいる。望はそのことを知っている。
他の貘に力を借りることはできないのか。そう尋ねられたこともある。それをのらりくらりとかわして以来、望が訊くことはなかった。
「彼女の時間を奪ってしまった」
二年という歳月。周たちからすれば大した時間ではないが、人間からすると二年は大きいだろう。これから三年目に突入する関係だ。
「就活も始まるだろうしな」
望がどのような進路を希望しているのか、周も杏介も知らない。就職するのか、大学院へ進むのか、はたまた、別の道に進むのか。いずれにせよ、大学生というわりと自由な時期は折り返し地点にまで来ていることは事実だ。
「……これ以上、あの子の時間を奪うわけにはいかないか」
「まあな」
杏介は茶を啜る。
「わかってはいるよ。……ただ、話せるかどうか」
思い出すだけで嫌な汗が伝う。胸の内がかき乱されるのだ。
「僕が罪を犯した過去は変わらない」
だから、望は周のことをどう思うか。あの綺麗な瞳に軽蔑の色が乗ったらくじけてしまいそうだ。
杏介は湯呑を置く。沈んだ面持ちの腐れ縁にかけるべき言葉は何かと思索する。
杏介自身はあまり過去を気にしない質である。周、茜、直人のように過去に囚われて苦悩するという経験がないからだと思う。せいぜい、彼女のことで少し引きずったぐらいで、三人の過去と比べるとそこまで重いものではないと思っている。
過去を気にしないのなら、何を気にするのか。杏介は未来を気にする。これから先、どうなるのかが気になるのだ。それは、昔から変わらない。実際、杏介が生きている間にこの世界は大きく変わった。常に変わり続ける世界の行きつく未来を見てみたいと思う。
そして、時々、過去を振り返る。振り返ると言っても、あんなことがあった、こんなことがあったと思い返し、また先を見据える。杏介はそうやって生きてきた。
その過程で思うことがあるのだ。
「……こういうことがあったという過去は変えられないが、過去は変えられると思う」
同じ事実を見ても、今の杏介と昔の杏介とでは考え方が変わった。それは、認識が変わったから。そうして、杏介の中の過去は変化するのだ。
「どう認識するかは周次第だ」
そして、望がどう受け取るか。それは周が認識した言葉によって変化する。
望が周の胸の内をどこまで拾えるか。それは周の言葉にかかっている。
「過去は変えられるし、変えられないのか」
周はぽつりと呟いた。




