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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
第六夜 逢ふからも物はなほこそ悲しけれ
51/88

#8

 春の夜の夢はいとも儚い。薄雲のかかる朧月の夜、周はぼんやりとする腐れ縁に蹴りを一発お見舞いする。我に返った金色は周を見とめると、おい、と周の脚を小突く。


「何だよ、蹴りいれるなんて」


「僕は何度も呼んだんだけど」


 苛立ちを抑えた声で周は反論する。杏、と何度呼んでも反応がなかったのは彼の方だ。今宵の朧月のようにぼんやりとした目をしていた。

 明らかな原因を思い浮かべながら、周はため息をつく。


「恋煩いかい?」


「何でもねえよ」


 ふい、とそっぽを向く唐桃色に周は顎に手を当てる。


「そうかな?」


「そうだよ」


「ふーん。その割には手が止まってるけど」


 薬草の選別を任されているはずの杏介の手はずっと止まっている。棗から様子を見て来いと言われて顔を出しに来たのだが、ほとんど進んでいない状態だ。無造作に置かれたままの薬草の束と時間を計算すれば全く進んでいない。


「いや、これは……」


「まあ、いいけど」


 周は言いよどむ杏介の隣にしゃがむと、懐からある物を取り出す。周の手の中の物を唐桃色は捉える。


「夢玉?」


 周の掌に収まる球体に杏介は首を傾げる。

 夢を閉じ込めた球体。貘である周は夢を見る者から夢を取り出すことができる。取り出した夢は夢玉と呼ばれる球体となり、枕元に置いておくだけで夢玉に閉じ込めた夢を見られる。杏介も何度か使ったことがある物だ。

 その夢玉の色に杏介は唐桃色の目をつり上げる。自分の視界に映る金糸と同じ色合いの夢玉に心の臓が強く脈打つ。


「……それ、どうした?」


 いつもの夢玉よりも小さな球体だ。


「どうしたも何も。この色、見覚えあるでしょ?」


 周は掌で夢玉を転がしながら杏介に問う。

 杏介はその夢玉をじっと見つめる。見覚えがあるも、常に見る色だ。

 何せ、己の髪や瞳の色なのだから。視界の端に必ずと言っていいほど入り込むその色を知らないなど言えない。


「夢玉の色は夢の内容に応じて変化する」


 周は灯に向けて夢玉をかざす。透けるように花の模様が刻まれた夢玉だ。その花は薬師になる前の腐れ縁の耳に飾られていた物と同じだ。あの軽やかなチャラチャラとした音を聞かなくなり、久しい。


「……誰の夢だ?」


「さあ、誰だろうね」


 周は指先に力を込める。夢玉にひびが入り、黄金色の靄が漏れ出でる。と同時に、周の瞳と髪色が淡く光り出す。

 春の日差しのような柔らかな金色。赤みを帯びたその靄から声がする。


『杏介殿』


 切なく呼ぶその声に杏介の肩が跳ねる。


「どうしてそれを……」


「杏がずっと上の空だから。一回ぐらい顔を拝んでおこうと思ったんだけど、興味深い夢を見ていたからついね」


 周は靄を掬い取ると口の中へ放り込む。唐桃の実と同じ甘酸っぱい味がする。

 そして、どこか、涙の味がする。寂しいという感情の味に周は目を細める。


「お前……」


「彼女とはどうするの?」


 何度も同じような夢を見ているようだ。杏介と過ごす日々や杏介と一緒の外を出歩く夢と行かないでと杏介にすがりつく夢。二種類の夢を繰り返し見ている。

 未練。彼女の夢から窺える胸の内に燻り。それがひしひしと伝わる夢だ。

 それは杏介も同じだ。薬師になってから休む暇もなく朝から晩まで働き詰めで、二人揃って泥のように眠ってしまう。出歩くことを許さない棗の策にまんまとのせられている状況で、杏介が彼女に会うこともできない。

 否、棗がそれを良しとしない。棗から杏介に人間と別れるように告げたと聞かされた。実際のところ、きちんとした別れがあったのかは定かではない。ただ、周が覗き見た夢の内容からして、杏介の一方的な別れのようだった。


『行かないでください、杏介殿』


 夢の中の彼女は泣きながら杏介にすがりつく。その姿を見ると、彼女の中では別れを吹っ切れていない様子だった。

 それは杏介も同じだ。ぼんやりとしていることが多いのだ。疲れもあるかもしれないが、普段の杏介らしからぬ様子に周も心配している。

 周の知る杏介は溌剌とした男だ。相手の心に勝手に上がり込んでは寛ぐような狐。堂々としていて、逆に清々しい彼の今は表情が曇っている。一人にしたときはとくに、心ここにあらずといった様子で呆然としていて、薬を焦がしたり、調合を間違えたりする。

 今もこうして棗から言われて様子を見に来るほどだ。今日が初めてではない。棗もまだ引きずっているのか、と難しい顔をしていた。

 好奇心旺盛。杏介を言い表す言葉のひとつだ。良くも悪くも杏介の興味は移ろう。薬のことも興味深そうにしているからこそ、彼女のことはすぐに忘れると思っていたのだが。

 周の予想から外れた杏介は隣で悩んでいる。彼がここまで悩んでいるところを初めて見る。それぐらい、今の杏介は思い詰めているように見えるのだ。


「……どうも何も、人妻に会うわけにはいかないだろう。旦那の方は見鬼の才持ちだし」


 不貞腐れたように言う杏介に周は屋敷内にあった強い力を思い出す。


「そう言えば、そうだったね」


 神秘的な力を感じた。その力は彼女からも感じられた。

 彼女の夢の中に出てくる青年がまさにそうだ。神秘的な瞳を持つ若い男。研ぎ澄まされた刀のように鋭利で、それでいて真っ直ぐな目をしていた。

 夢の中の青年は杏介に泣きつく彼女を引きはがそうと手を引くのだ。


「君は会うつもりはなくて、彼女は未練があるみたいだよ」


 あの泣き顔を杏介が実際に見たらどう思うだろうか、と周は思う。今の杏介は彼女の手を振り払えるのだろうか。

 それぐらい、今の杏介は揺れているのだ。


「んなこと言っても……」


 杏介は頭を掻く。

 そう簡単に会っていい相手ではなくなった。以前のように昼間から上がり込んで話をするなど、不可能だ。

 それに。棗と道蔭の言葉がよぎる。

 お前の妖力は彼女には毒だと。彼女のことを思えば、会わない方が身のためだ。今まで肉体的にも精神的にも負担がかかっていた彼女の身体はぼろぼろだ。よくなってきたところに杏介の妖力を浴びせれば、いずれはその身を滅ぼしかねない。

 棗によく言われた。医師としての観点から人間の身体の説明を受けた。外つ国の医学的観点も交えた説明に杏介は何も言えなくなった。妖だけでなく、人間の身体についても詳しい棗は杏介に容赦ない言葉を言い放った。


『お前は傍にいるだけでも人間を殺しかねない』


 その言葉に杏介の背筋が凍った。それも、元々身体の弱い人間ならなおさらだと言われた。すぐに表に出なくとも、身体の内側には蓄積されていく。その蓄積された分が表に出たときにはもう遅く、手の施しようがないこともある。


『身の奥底に潜む病と同じだ』


 そう棗にきっぱりと言われ、あの日の夜、別れを告げるために棗から許可を取り、人間界に赴いた。

 幸せになってほしい。杏介がいない場所であっても。それは本心だ。


「その内忘れるだろう」


 道蔭は彼女のことを大切に思っている。それは彼女に与えられた部屋を見るとよくわかる。高価な物や松風が好みそうな物が並んでいた。彼女のことを思っている証拠だろうと杏介は思う。

 妻思いの夫、主思いの従者、姉を慕う弟。彼らに囲まれた彼女は、今後、夫との間に子をなすだろう。環境に恵まれれば、杏介のことも忘れて行く。

 過去を振り返る必要がないほど、幸せになればあの日々も彼女の中から消えて行く。杏介のことを忘れるほど幸せになってほしいとこの頃思うのだ。

 希う腐れ縁の横顔に周は黄金の目を閉じる。


「そうかな? 結構根深いよ」


 夢を覗いた周はよくわかる。こうして目を閉じれば、夢の内容がありありと浮かぶ。

 彼女の視点の夢はとても眩しい。日の光を浴びることが少なかった彼女からすると、どんな高価な宝物以上に価値があるようだと周は感じた。


「忘れようとしてるみたいだけど、忘れらない。夫がいる身でありながら、君のことがよぎってしまう。それがまた苦しそう」


 板挟みの姫君は夢の中で夫への謝罪もしていた。

 杏介も夫も恩人。どちらも大切な存在であるのに、身近にいる夫よりも、杏介のことを考えてしまう。妻として、人として失格だと彼女は嘆き悲しんでいる。

 周は目を開く。燻る腐れ縁の黄金色に小さく笑う。


「恋って大変だね」


「……お前、完全に他人事だと思って」


「事実そうだし」


 周はけろりと笑う。

 診療所で働き出してから、表情を表に出せるようになってきた周を喜ばしいと思う反面、この場に限っては恨めしいとも杏介は思ってしまう。


「……」


 最後に会ったときの松風の姿が脳裏をよぎる。ぼろぼろと泣いていた彼女に突き放すような別れを告げてしまった。別れを告げると決めていたのだが、いざ、彼女を目の前にしたら寂しいと思ってしまった。

 今まで何かにこだわることがなかったのに。退屈だと言ってふらふらしていたあの頃の自分が見たら何と言うだろうかと思うほどだ。


「……なあ、周」


「ん?」


 夢を食べて黄金色に色づく友に杏介は眉を下げる。


「俺の頼みを聞いてくれないか? 夢売りとしてのお前に」


 杏介の黄金色に影が差す。それを周の目は見逃さなかった。


◇◇◇◇◇


 春の風が優しく音を攫う。今までは控えめに弾いていた箏だが、好きに弾いていいと言われてからは彼にこの音が届くようにと弾いている。

 麗らかな春の日、松風は箏を弾く。母の遺品である箏をのびのびと弾けるようになって嬉しい反面、寝転ぶ唐桃色が近くにないのが寂しい。

 ため息が出る。あの夜、唐桃が手をすり抜けて消えてしまった光景が何度もよぎる。夜もまともに眠れず、道蔭や侍女たちに心配をかけている。弟からも姉上の箏の音色が寂しそうと言われる始末だ。

 道蔭の妻として支え、侍女たちの主として胸を張らねばならないのに情けない。赤みを帯びた金色の彼のことを忘れようとするのに、彼との思い出ばかりがよぎる。


「……」


 初めは煩わしかった。死を願う自分に突っかかってきては、勝手に居座る。困った妖だと思っていた。

 いつから彼のことを心待ちにしていただろうか。雨の日は来られないだろうと思って沈んでいたところに、ひょっこりと太陽が顔を覗かせたように姿を現したときは本当に嬉しかった。昼間から居座るときも、たくさん話せると思って心が弾んだ。

 一緒に見たいものがある。そう彼が言ってくれたとき、舞い上がりそうなほど嬉しかった。彼の口から聞くばかりで、実物を知らない松風からすると、とても魅力的な誘いだった。

 松風の手が止まる。名残惜しそうに弦が揺れ、音が空へ上っていく。


「……」


 視界が滲む。叶わぬ夢に松風は俯く。

 道蔭に彼との関係を問われた。大切な存在だと訴える松風に対し、道蔭は表情を曇らせた。


『彼は妖だ』


 道蔭は何度もそう言った。彼との思い出を話すと複雑そうな顔をするものの、彼のことを貶すことはなかった。

 間もなく、夫婦になってからは道蔭から彼のことをほとんど訊かれない。松風も話に出すのを避けた。どこかぎくしゃくした関係に侍女や弟がはらはらしているのを見ると申し訳なくなる。


「駄目だなあ……」


 またなといつも言う彼がさよならと言った。彼も松風の立場をわかってそう言ってくれたのだろう。ひどくあっさりとした別れに松風も彼のことはあまり考えないようにしようと思った。

 それなのに、よぎるのは彼のことばかり。無邪気に笑う姿、喧嘩をして怪我をした姿、無防備な寝姿、こんなことがあったと語る軽い口ぶり、一緒に見たいものがあると告げた真剣な眼差し。

 忘れられない。忘れようとしても忘れられない彼の姿だ。


「……」


 せめて、あと一度。今度は松風もさよならと告げられたら忘れられるのではないかと思う。それとも、未練がましく縋りついてしまうだろうか。

 風が吹き込む。春の麗らかな空気を運ぶその風に甘い香りが乗る。いつかに彼からもらった香と同じ香だ。


「松風」


 その声に松風は顔を上げる。チャラ、と音を立てた唐桃の花はのどかな春の太陽と揃いの髪に囲まれている。


「……!」


「また泣いていたのか?」


 彼は苦笑する。いつもよりも優しいその眼差しに松風の目頭が熱くなる。


「杏介殿……」


 春の日差しに溶け込んでしまいそうな淡い笑みを浮かべる杏介は松風と視線を合わせようとしゃがむ。


「どうした? どこか痛いのか?」


 目に涙を溜める彼女に優しく問う。どこも怪我をしていないことは明確なのだが、泣き顔を見たくないせいかおどけたことを言ってしまう。

 ん? と首を傾げる杏介に松風は首を横に振る。


「先日、さよならとおっしゃったから」


「……」


「さよならなんて言わないでくださいよ」


 金色の瞳が揺れる。その瞳の揺れに松風は彼の衣を握る。


「まだ、約束を果たせていません! 一緒に見たいものがあるとおっしゃったではないですか。私もあなたと見たいものがあります」


 杏介が語ってくれる外の景色。外を知らない松風からすると、絵巻物を見るよりもはるかに楽しい話題だった。

 道蔭もあれこれと出かけようと提案してくれる。しかし、松風は首を横に振ってしまう。

 気分ではない、と。せいぜい庭を一緒に歩く程度で、それがまた道蔭には申し訳ない。彼はまだ身体も万全ではないし、と気を遣ってくれるが、いつも寂しそうな笑みを浮かべるのだ。


「……」


 真っ直ぐ見上げる松風に杏介の心が揺らぎそうになる。

 が、杏介は駄目だと自分に言い聞かせ、小さく頷くと松風の手を取る。


「今日はその約束を果たしに来た」


「……え?」


 握られた手の中、何か硬い物が触れる。木のような材質のそれが関係しているのかと松風が思うと、急に眠気が襲ってくる。


「約束を果たそう。ゆ……ぼろ……せ……い……」


 眠気に耐えられず、杏介の言葉が一部聞き取れない。

 淡く微笑む杏介を囲むようにひさかたの光が射し込んだ。


◇◇◇◇◇


 ホーホケキョと鶯が鳴く。鶯の初音を聞いただろうか、と思いながら松風は目を覚ます。


「起きたか?」


 見慣れた金色が垂れさがる。金糸と一緒に垂れる花の飾りが風に揺れる。


「え、あの……」


 松風は辺りを見渡す。視線の先、軒を連ねる建物の群れに目を見開き、身体を起こす。どこか高い場所にいるようで、道行く者たちも見下ろすことができる。


「ここは……」


「常盤街。俺がよく出入りしている妖の街さ」


「常盤街……」


 杏介からよく聞く場所だ。彼の友や兎の医師、団子屋や絡繰り技師など、様々な妖たちが生活する場所だそうだ。

 杏介も常盤街で過ごすことが多いらしく、自然と街の話題が多くなる。


「いつの間に?」


 先ほどまで屋敷にいたはずだ。急な眠気に襲われ、目が覚めたと思いきや妖の街とはあるわけがないはずだ。


「ほら、人間が簡単に妖街を出入りできるんじゃあ困るだろう? だから、松風が眠っている間に連れてきたってわけ」


「そうでしたか……」


 運ばれている間、呑気に眠っていたものだと松風はぼんやりとした頭で思う。


「さあ、一緒に見て回ろうぜ。どこから見る? 絡繰り屋でも、甘味処でも、呉服屋でも、何でも!」


 ほら、と杏介は松風に手を差し出す。松風はその手に向かって手を差し出す。控えめに差し出した小さな手を杏介の手ががっしりと握る。


「よし! 行こう!」


 よっ、と言って杏介に松風の身体が引き上げられる。松風の背を押すように風が吹き、難なく立ち上がった松風は満面の笑みを浮かべる。


「はい」


 杏介に手を引かれ、松風は常盤街を歩く。春の麗らかな日差しの下、二人は歩く。

 道行く者たちは全て妖だ。人の姿の者から獣の姿の者、はたまた、付喪神なのか、小道具が松風たちの足元でせっせと歩いている。

 松風にとって、初めて見る物に溢れている。

 杏介がよく話してくれる絡繰り技師の元ではカラカラと音を立てながら歩く人形や御神籤を届ける絡繰りや矢を番えて的を射る人形など、どのような仕組みで動いているのか興味を惹く絡繰りたちが並んでいた。

 他にも、呉服屋を覗いたり、芸者を見たりと歩き回る。

 杏介がよく行くという団子屋にも立ち寄る。たくさん歩いて疲れただろう、と杏介が気を遣ってくれた。団子屋の店主とは親しいようで、少しばかりやり取りをした後、いつものな、と店主は店の奥へ引っ込んだ。しばらくして出てきたのは素焼きの団子、醤油団子、餡子がのった団子の三種の団子の盛り合わせだった。食べ比べをしながら二人は芸者たちの話に花を咲かせた。火を吹く妖の芸が一番盛り上がり、松風も見ていて驚いた。妖には芸達者な者が多く、舞踊や出し物など見ていて飽きない。

 ご馳走様でした、と二人は手を合わせて団子屋を後にする。温かな茶も飲めて満足な松風は、はっと団子屋を振り向く。


「どうした?」


「杏介殿、お金払ってません」


 こういう場では金銭が発生するものだ。食前か食後かまでは知らないが、払わなければならないことに変わりはない。


「ああ……。もう払ってある。今日行くから用意しといてくれって」


「そうなのですか?」


 事前に話していたから、団子がすぐに出てきたのかと松風は納得する。


「うん。だから、心配するな」


 次行くぞ、と杏介に手を引かれるまま、松風は歩きだす。

 どこへ向かっているのか、二人は街から離れていく。道行く妖たちが少なくなり、松風は首を傾げる。


「杏介殿、どちらに向かっているのですか?」


「秘密の場所。ちょっと街から離れているんだ」


 ちょっと歩くぞ、と言う杏介に松風は小さく頷く。

 どれほど歩いたか。完全に二人だけとなり、坂道を上る。ひらひらと舞う黄金色の蝶とすれ違う。杏介の髪色を思わせる蝶は茂みに紛れて消えてしまう。


「……よし、着いた」


 蝶に気を取られていた松風は杏介の言葉に視線を前方へやる。


「あれは……」


 そこには淡い花をつける木々が並んでいた。ここを通れと言わんばかりに連なる木々に松風は目を丸くする。

 二人は近くの木の下まで歩み寄る。


「唐桃の花だ」


「これが、唐桃の花」


 松風は杏介の耳飾りと実物を見比べる。杏介の耳飾りはよくできており、本物の花そっくりだ。


「初めて本物を見ました」


 淡い色の花は桜の花のようにも見える。最初、杏介の耳飾りを桜だと勘違いしたのも頷けるぐらいよく似ている。


「綺麗なお花ですね。実がなるのはいつ頃ですか?」


「まだ先だな。梅雨の辺り」


「先ですね」


 彼の髪と同じ色合いの実はすぐには見られないようだ。

 もう少し奥に行こう、と杏介に誘われ、松風は応じる。

 春の麗らかな日、こうして杏介と出かけられて嬉しい。彼の名にある花も見られていい日だと松風は思う。


「ご機嫌だな、松風」


「え……顔に出てました?」


「満面の笑みだぞ」


 松風は空いた手で顔に触れる。自然と頬が緩んでいたようだ。


「笑ってくれている方が俺は嬉しいけど」


 楽しんでくれたなら何よりだと杏介は胸を撫で下ろす。

 それと同時に胸が痛む。松風の笑みを暗くさせるのだけは嫌だと思いながらも、告げなければならないことがあるのだ。


「杏介殿?」


 足を止めた杏介を見上げる瞳の純粋さに苦笑する。


「……松風」


 しっとりとしたその声音に松風は首を傾げる。あの日の夜を思い起こさせる声音に松風は嫌な予感がよぎる。


「今日、楽しかったか?」


「はい。初めて経験したことがたくさんありました。いつも杏介殿がお話してくださることがいっぱいで」


「そうか」


 それならよかったと杏介は思う。

 そう思うと同時にこれ以上、松風に与えることはよした方がよさそうだと思う。

 春の日差し色の蝶が舞う。こいつ、と思いながら、杏介はその蝶を手で追い払う。蝶はしっかりしろと言わんばかりに力強く羽ばたくと空へ溶けていく。


「それなら、今度こそお別れだな」


 別れという言葉に松風の瞳が大きく揺れる。


「……お別れですか」


 予想どおりの言葉に松風の声が震える。


「松風には夫がいるんだから」


 杏介は幼子に言い含めるように言う。

 ほいほいと松風の元に転がり込むわけにはいかない。夫の道蔭の目が許さないだろう。


「はい……」


 松風は視線を下げる。杏介の言うことはよくわかっている。侍女たちから姫様ではなく、奥様と呼ばれ、道蔭からも名を呼ばれると実感する。

 もう以前のように杏介と出会うことは許されないのだと。


「……二度と会えないのですか?」


「すっぱり切った方がいいだろうな」


 それが松風のためだ。せっかく日の当たる暮らしができるようになった松風の立場を怪しくするわけにはいかない。


「そのつもりで、今日はいらしたのですか?」


「そう。約束を果たすためにも、な」


 本当はもっと見せたい物があった。ふらふらとしていた杏介が各地で見聞きした物。できることなら、松風に見せてやりたかった。

 だが、それも時間がない。杏介の妖力は彼女の身体を滅ぼしてしまう。そうなる前に別れを告げるべきだ。美しい物なら、道蔭が見せてくれるだろう。そちらに託そうと決めたのだ。

 唐桃の花が二人の間にはらりと散り行く。


「逢うからも、物はなほこそ、悲しけれ……。そういうことですか、杏介殿」


「遅かれ早かれ、別れは来るものだ」


 松風は視線を落とす。

 今日も来てくれる。そう思うことが当たり前になっていた。しかし、その当たり前はもう来ない。

 松風の視界が滲む。


「泣いてばかりだな、松風は」


 先日と言い、今日と言い、泣かせたいわけではない。しかし、松風は泣く。声もあげずに静かに泣く彼女に杏介の眉が下がる。


「泣く顔を見たいんじゃないんだ」


 先ほどまでの満面の笑顔がいい。寒い冬を乗り越えた蕾が花開くように、彼女にはずっと笑っていてほしい。

 せっかく、幸せを手にしたのだから。道蔭も彼女に仕える者たちも松風のことを大切に思っている。厳しい生活を乗り越えた彼女には今後平穏に暮らしてほしい。

 そう願う杏介の胸に風が吹き込む。艶を取り戻した髪が軌跡を描き、杏介に縋りつく。


「……松風、これ、道蔭様に見られたら危ないぞ」


 杏介は松風の肩に手を置き、引きはがそうとする。しかし、松風の腕は離れまいと抱きついてくる。


「……最後なら、これぐらいお許しください」


「んー、積極的になったな」


 距離が近いだとか、馴れ馴れしいだとか、言われた記憶が蘇る。そんなことを言っていた松風が急に距離を詰めてくるとは思ってもみなかったことだ。


「泣き顔を晒したくないので」


「そうかい」


 杏介は苦笑すると、松風の髪を撫でる。射干玉色の髪は艶やかだ。


「杏介殿」


「ん?」


 杏介は頭上に咲き誇る唐桃の花を見上げる。白い花がはらり、はらり、と散っていく。その合間を縫うように、唐桃色の蝶が舞う。


「お願いがあります」


「何だ?」


「私の松風という名前、仮名じゃないですか」


「そう言えば、真名を教わってなかったな」


 松風という名は彼女の母が遺した箏の銘だ。琴に松風ならわかるけど、箏に松風か、と周が難しい顔をしていたのをよく覚えている。何でも、琴と松風は漢詩や和歌において共に詠まれるらしいのだが、箏と松風はそうではないらしい。なぜだろうと周が不思議がっていた。


「最後に私の真名を呼んでくださいませんか?」


 松風からの可愛らしいお願いに杏介の心がまた揺らぎそうになる。

 だが、決めたのだ。


「……それは駄目だな」


 杏介は淡く微笑んで答える。

 胸の中で松風の身体が震えたのがわかる。杏介の様子を窺うように、上目遣いをする松風に杏介は優しく笑う。


「なぜですか?」


「狐は神様のお使いだぜ? 真名を教えたら、隠してしまうかもしれないぞ?」


 と言っても杏介は神の使いではない。稲荷明神の狐のように高貴な存在ではない。だから、神隠しなどするわけがない。

 ないのだが、知ってしまったら引き返せなくなってしまう。神隠しでなくとも、彼女をどこかへ隠してしまいそうだ。

 それはあってはならない。彼女の目に映る景色はあの狭い小屋から見えた景色だけではないのだ。これから先、彼女は様々な景色をその目に焼きつけるのだ。それをまたどこかに閉じ込めてしまうのは楽しそうに杏介の話を聞いていた彼女の意志に反する。

 縛りつけては駄目だ。杏介という存在から離れなければ彼女は人の世界に帰れなくなってしまう。そして、同族と同じように、自分の妖気が彼女の身体を蝕み、苦しめてしまう。

 杏介は松風の目元の涙を拭う。


「松風、どうか幸せに。今までのことは全て夢だ」


「夢?」


 どういうことですか、と尋ねようとした松風の意識が離れて行く。今まで杏介と共に過ごしてきた日々が川が流れるように次から次へと溢れていく。

 そう、溢れて行くのだ。まるで、松風の身体から水が溢れるように。

 松風の視界を蝶が覆う。次から次へと羽ばたく蝶に松風の意識が遠のく。

 見慣れた唐桃色も遠ざかっていく。


「この世界も、俺と過ごした日々も。全てが夢幻だ」


 夢幻。その言葉に松風は首を横に振る。

 はらはらと花が散る。白い花弁が雪のように降り注ぐ。

 その白が春ののどかな陽射しを覆い隠そうとしている。暗がりで暮らしていた松風に射し込んだ唐桃の実の色が霞んでいく。


「嫌、杏介殿!」


 遠ざかる意識に抗うように、松風は杏介の衣を握る。


「ごめんな、松風。強引なことをして。でも」


 唐桃の実の色を持つ一人の青年が儚く笑う。


「松風が幸せになるためだ」


 白い花と蝶が松風の太陽を覆い隠した。


◇◇◇◇◇


 誰かが呼ぶ声がする。その声は夫の声だ。

 浮上する意識の向こうで、切羽詰まった声が自分を呼ぶ。


「……殿?」


 何度かまばたきした後にこちらを心配そうに見つめる彼に首を傾げる。彼はほっと息をつくと、肩の羽織を自分に掛ける。


「どこか具合が悪いのか?」


「いいえ。とくには」


 目をこすりながら答えると、夫は、そうか、と再び安堵の息を漏らす。


「春の陽気に誘われてうたた寝か?」


「うたた寝? 私、眠っていたのですか?」


「ああ。部屋を訪れたら、箏の近くで倒れ込むようにして眠っていたから……。何かあったのかと思った」


 夫の視線の先には母が遺した箏、名器松風が横たわっていた。眠っている間に箏を蹴飛ばしたりしないようにと片付けてから寝るのだが、こんな間近にあるところを見ると、弾いている途中で眠ってしまったようだ。

 箏に傷はないかと視線をやると、春風が誘い込んだのか、白い花弁が庭の方へ連なっている。箏の弦にも数枚、花びらが並んでいて、川を流れる花のようだ。


「あまり眠れていないようだし、無理はしないでくれ」


「はい。……でも、何だか目覚めがいい気がするのです」


「そうかい?」


「ええ」


 なぜ、今まで眠りがよくなかったのだろうか。それが思い出せない。生活が変わったせいかもしれないが、それだけが理由ではない気がする。

 脳裏を黄金がよぎる。どこか懐かしいその黄金は眩しく、春の日射しのようだ。


「暖かくなってきたからでしょうか?」


「そうかもな。桜も咲いたようだし」


 そう言って夫は箏の弦の花びらを拾う。薄い花弁は頼りなく、風がわずかに吹き込むだけで小さく震える。


「……?」


 松風は首を傾げる。点々と連なる花の足跡を見つめ、手近な花を拾う。額がついた花をじっと見つめると夫を見上げる。


「殿、この花は桜ではないですよ」


「桜ではないのか? 時期的に早い気はしていたが……」


 桜ではないなら、何の花なのか。不思議そうにしている夫に妻は微笑む。


「唐桃の花ですよ。桜や梅とよく似ているそうですが」


「なるほど……。そうか、似ているか」


 夫は妻の手の中の花を見つめる。その花はわずかに震えると、ころりと妻の手から転がり落ちる。


「詳しいな」


「私も間違えたことがあるのです」


 妻はくすくすと笑う。


『それ、桜の花ですか?』


『いいや。唐桃の花』


 そんなやり取りをした。


「……?」


 そのような話をしたのは誰とだったか。春ののどかな日射しがちらつくも、思い出せない。さほど昔の話ではないと思うのだが、思い出せない。


「どうした?」


 夫が不安げに覗き込む。それに対し、妻は首を横に振る。


「いいえ、何でも。少し、ぼんやりとしていて」


「どこか具合が悪いのなら、すぐに言ってくれ」


 心配性な夫に妻は微笑んで頷く。


「大丈夫ですから」


「……」


「本当に、大丈夫ですよ」


 妻はからりと笑う。軽やかに笑うその姿に夫は疑心暗鬼の目を和らげる。


「久しぶりに笑う姿を見た」


「そうですか?」


「ああ。よく眠れてすっきりしたからか?」


「そうかもしれませんね。春の陽気に誘われて」


「と言っても、まだ冷える。身体を冷やさないようにな」


 夫は妻に掛けた羽織をしっかりと掛け直す。夫の羽織は妻の身体をすっぽりと覆う。


「はい」


 妻はくすぐったそうに笑う。その笑顔に応じるように、唐桃の花も揺れる。


「そうだ。先ほど、新しい反物が入ってな。着物を作らないか?」


「そんな。先日、新しい着物をいただいたばかりですから……」


 今着ている物もそうだ。彼は十分すぎるほどの物を与えてくれる。これ以上は望まない。


「何を言う。似合いそうな反物がたくさんあるのだ」


 彼女の好みが一番だが、似合うだろうと思う物を用意した。ぜひとも、妻に選んでほしいものだ。


「遠慮することはない。ほら、行こう」


 夫が立ち上がるのに続き、妻も立ち上がる。

 チャラ、と背後で音がした。しかし、妻が振り返ってもそこには最近見慣れてきた庭が広がっているだけだ。


「……?」


 聞いたことのある音のような気がする。箏の音ではないのだが、何の音だろうか。気のせいかと思いながら、妻は一歩踏み出す。

 春風が妻の背を押したような気がする。暖かな風が心地いい。


「春風だな」


「はい。のどかなお日様の季節ですね」


「ああ。お日様というと、あなたのことのようだ」


「そうですか?」


「ああ。そっと射し込む日射しのようだ」


「ふふ。買いかぶりすぎですよ、殿」


 妻がくすくすと笑うと、そんなことはないと夫が否定する。

 遠くで、殿、奥様、と侍女が呼ぶ。昔から妻に仕える侍女の声だ。二人揃って返事をすると、お待ちしてますからね、と彼女の声が通る。


「待たせているようですね」


「ああ。侍女たちも張り切っている」


 神秘的な瞳が細められる。愛しそうに見つめる夫の先にはこの屋敷の日輪になる彼女がいる。


陽奈(ひな)、行こう」


「はい、道蔭様」


 そう言って夫婦は手を取り合った。

 二人が部屋を去ると、風が吹く。その風は白い花を攫う。白い花は空に溶けるようにどこかへと消え去っていった。

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