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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
第六夜 逢ふからも物はなほこそ悲しけれ
50/88

#7

 じっとりとした熱を残す夜、小鳥が小さく囀る。枝に停まり、羽を広げるその鳥を見とめた道蔭は手を伸ばす。招き入れるようにひらひらと振られた手に小鳥は導かれるように彼の肩に停まる。ほろ苦い薬草の香りをまとう小鳥を乗せたまま、道蔭は自室へと入っていく。


「……人払いはしてある」


 道蔭がそう言うと、小鳥は道蔭の肩から飛び上がり、唐桃色へと移り変わる。愛らしい小鳥の姿から中性的な顔立ちの青年へと転じた杏介の耳飾りがチャラと揺れる。


「道蔭様、俺を簡単に屋敷に上げていいのかい?」


 杏介は辺りを見渡す。人払いをしてあると道蔭が言ったとおり、道蔭以外の人の気配がない。仮にも跡取りが妖と一対一でいいのかと不思議に思う。


「万が一があったら、斬り捨てるまでだ」


「恐ろしいねえ」


 杏介はケラケラと笑った後、居住まいを正す。


「どうも、ご無沙汰で」


「本当に。まあ、そこに座るといい」


 杏介は道蔭が視線を送る円座に座る。道蔭も対面に座る。


「なあ、あの子の具合はどうだ?」


 杏介の脳裏に彼女の赤い顔が浮かぶ。

 あの雨の日、杏介と道蔭は道蔭の屋敷へと向かった。そこまではよかったのだが、道蔭は杏介と屋敷の敷地へ足を踏み入れることを許さなかった。杏介としても、それは致し方のないことであった。誰かに化けるにしても、道蔭の屋敷の者の顔を知らない。松風の屋敷の者に化ける手もあったが、道蔭側の今後の対策に影響が出る恐れがあるということで、杏介は松風を道蔭に預けた。

 あの日から十日。屋敷の様子を窺うに、落ち着いている様子だ。


「熱もひいてきた。ただ、過酷な環境にいたせいか、身体が弱っている。回復に時間はかかるため安静にしなければならないが、峠は越した」


「そうか」


 杏介はほっと息をつく。まだ完治したわけではないため、油断はできないが、とりあえず熱がひいたのは大きいだろう。


「あなたはどうなのだ? 姫君が心配していた」


「俺? あー……俺もちょっと寝込んでて」


 杏介は気まずそうに頭を掻きながら話す。

 雨に打たれて身体を冷やしたのは松風だけではなかった。松風を道蔭に預けた後、杏介は常盤街へ向かった。宿を借りたまではいいのだが、張りつめていた糸が切れたかのように着替えることもなくそのまま眠ってしまった。

 その結果、次の日、熱を出した。最初は疲労で視界がくらむのだと思っていたが、激しい頭痛にまともに歩くこともできなくなっていた。自然と足が向かった兎の医師の診療所で倒れ込んだらしい。目が覚めたときは診療所に倒れ込んで丸一日が経過していた。


「妖でも寝込むのだな」


「いや、寝込んでいた時間はそこまでなんだけど……」


 風邪自体は三日ほどで治った。

 そこから先が問題だ。杏介の体調が回復してきた頃、周が大怪我をして帰ってきた。頭から血を流しながら、ふらついた足取りで診療所まで歩いてきた。そこから倒れ込み、今もなお、彼は絶対安静の状態だ。


「……色々と事情があるのだな」


「まあな。ぱぱっと金を稼げる方法があるといいんだが」


 いい加減金を払えと棗からきつく言われている。どうしたものかと杏介は考えているところだ。


「そんなもの、真面目に働くしかないだろう」


「それはそう」


「あなたは器用にそつなくこなしそうだから、どうとでもなるだろうに」


「そうか? っていうか、道蔭様詳しいな」


 あの日、必要最低限のことしか話をしていない。あの短時間で杏介という妖のことを見抜いたとなると大したものだ。

 そう関心している杏介に対し、道蔭は眉を下げる。


「……姫君がそう話していたから」


「ああ、そういうこと」


「楽しそうにあなたのことを話していた」


 純粋な姫君だと道蔭は思った。疑うということを知らない、外を知らない姫君は真っ白で、それ故に危なく、守らねばならない存在だ。


「仲がいいのだな」


「嫉妬しちまうか?」


「そうだな」


 道蔭は目を細める。神秘的な瞳は羨ましそうに杏介を見つめた後、ただ、と言葉を続ける。


「これ以上、姫君との接触は避けた方がいい」


「と言うと?」


 杏介の片眉が上がる。怪訝そうにする杏介に表情を引き締めた道蔭は杏介の頭にある三角形の耳を見据える。それは彼が人ではない証だ。


「あなたの妖力は普通の人間にとっては毒だ」


 杏介は妖の中では若い部類だろう。今後、年を経るごとに尾が増えるように妖力を増していくだろう。妖狐とはそういう生き物だ。

 そして、杏介という妖狐は若いながらも強い力を持っていることが窺える。洞穴で見つけたときは上手いこと妖力を隠していたが、道蔭の目は誤魔化せなかった。

 それ以前に、あの小屋に姫君を迎えに行ったとき、身代わりの姫君から感じる妖力にただならぬ者の手によるものだとも思ったのだ。


「強い妖の力は傍にいる人間にも影響を及ぼす」


「だが、あの子は別に何もなかった」


 いつ訪れても松風は杏介を迎え入れた。初めこそ、顔色が悪かったが、最近はよく笑い、血色もよくなった。彼女の身体に異変は感じられなかった。今回、体調を崩したのも雨のせいだと杏介は考えている。

 杏介の言葉に対し、道蔭は緩やかに首を横に振る。


「すぐに影響が出るとは限らない。ある程度蓄積されてから体調を崩す……最悪の場合は死に至ることがある」


 道蔭は近くの文机に置かれた書を取ると、杏介に差し出す。


「これは?」


「あなたの同族にまつわる伝承だ。玉藻前を知らないだなんて、言わせない」


 杏介はその名に息を呑む。『玉藻前』と題された書を開く。

 平安の世の末、鳥羽上皇の寵姫に玉藻前という女性がいた。その美貌から鳥羽上皇に非常に愛された。だが、その後、鳥羽上皇は体調を崩し、原因がわからないと医師たちを悩ませた。

 原因不明の病。その原因を突き止めたのは一人の陰陽師だった。陰陽師は原因は玉藻前にあると指摘し、真言を唱えたところ、玉藻前は本来の姿を現した。

 彼女の正体は九尾の狐だった。追い詰められた彼女は、最後、石に封じ込められ、今もなお、近づく者の命を奪う存在になった。


「……」


 杏介は書を閉じる。確かに、同族の話ではあるが、当時のことを知る者は杏介の周りにはいない。噂で聞いたことがあるという程度のものだ。


「そのつもりでなくとも、あなたの力は姫君を弱らせてしまう」


 鳥羽上皇を苦しめた玉藻前のように。


「玉藻前以外にもそういった伝承を聞いたことがある。私のような見鬼の才を持つ者はともかく、そうではない人間と妖が交わっても、弱い人間の方が参ってしまう」


「……さっさとあの子と縁を切れと言いたいのか?」


 低くなった杏介の声に怯むことなく、道蔭は神秘的な目で杏介を真っ直ぐに見つめる。


「ああ。……彼女の回復が遅いのは、身体が弱いだけではない。彼女の身体からあなたの妖力を感じるのだ。それも、長いこと通っていたせいか、中々薄れない」


 姫君の身体から杏介の妖力を感じる。まるで、梅雨の頃の湿った空気がじっとりとまとわりついているようだ。

 その妖力がじわじわと姫君の身体を侵食する。それが進めば進むほど、姫君の命は。

 道蔭は視線を落とす。


「彼女のことを思うのなら、姿を現さないでくれ」


「……」


 杏介は道蔭から渡された書を見つめる。

 弱い人間である松風にとって、杏介の妖力は毒。今まで、そのような素振りはなかった。だが、道蔭の目には毒が松風の身体を巡っているところが見えているようだ。

 道蔭の目は嘘をついていない。心の底から松風のことを思っての言葉だ。


「……道蔭様はあの子のことが大切か?」


「もちろん」


「ほとんど会ったこともないのに?」


 松風が幼少の頃に会ったきりだと言っていた。

 なぜ、道蔭は松風のことをここまで思っているのか。杏介の疑問に対し、道蔭は凛とした眼差しで杏介を見据える。


「幼い頃から彼女のことを思っていたから」


「へえ、一途だね」


 杏介はからからと笑う。幼少の頃の恋を今の今までずっと抱いているとは、この男も純粋だと杏介は思う。


「その割には、あの子の救出、遅かったな」


「それは……確かに、動くのは遅かった」


 姫君に仕える警護の彼とやり取りはあった。彼や彼を通して侍女から救援の願いは届いていた。道蔭としてもすぐに動きたいところではあったものの、そうもいかなかった。


「……言い訳にしかならないが家のことがあったから」


 杏介は家という言葉に眉をひそめる。松風もよく言っていた言葉だ。


「あんたも、随分と苦労しているんだな」


「苦労とは思っていない。私からすると、当たり前のことだから」


 家のことを思うのは当然のこと。幼少の頃からそう教育されて道蔭は育ってきた。


「そういうもんか?」


「私や姫君はそうだと思う」


「ふーん」


 杏介は里の風習が合わないと思ったから出てきた。一人で飛び出したは飛び出したで苦労はあったが、後悔はしていない。のびのびと自由気ままに生きていられるのだから。

 だからこそ、松風や道蔭の境遇が大変そうでならない。苦労している姿を見ているからこそ、自分は恵まれているのだと実感する。


「まあ、いいや。最終的なことを訊きたい」


 杏介は書を床に置くと道蔭の神秘的な瞳の奥を覗くように見つめる。


「道蔭様はあの子のことを幸せにしてくれるのか?」


「ああ。必ず、私のできうる限りのことをする」


「それは、つまり、彼女を娶る覚悟があると?」


「そうしたいと考えている」


 凛とした声音に込められた意志は強い。杏介はそう思うも、脳裏に松風の姿がよぎる。


「……あの子の意志は?」


「……」


 道蔭の瞳が揺らぐ。

 その揺らぎに安堵する自分がいる。それに驚きながらも、杏介は一息つく。


「俺にも考えさせてくれ。さすがに、会うのは止めてくれと言われてもすぐには答えられない」


「……そうか」


 道蔭は目を伏せる。その姿から動揺していることが窺える。

 歳の割にどっしりと構えていると杏介は思った。冷静な彼はあの雨の日も松風のことを第一に何が最善かと考えられる男だった。

 そんな男でも心を取り乱す。それほどまでに松風を思い、どうすればいいのか、考えているようだった。


「じゃあ、今晩は失礼する」


 杏介は立ち上がると、道蔭の部屋を後にした。


◇◇◇◇◇


 真っ直ぐにそびえたつ耳に杏介はひくっと息を呑んだ。仁王立ちする棗にえへへ、と乾いた笑みを浮かべるも、円らな瞳は許してくれない。


「杏介、お前、何抜け出してんだ?」


「いやあ、俺にも事情があって……」


「その言葉はもう聞かん!」


 空気が激しく揺れ動き、杏介は耳をふさぐ。


「金を払うあてができたならそう言え」


「いや、そうじゃないんだけど」


「は?」


 ぐっと低くなった棗の声に杏介はまたも乾いた笑みを浮かべると、眼前に兎の足が止まる。ひゅっと空を切ったその音に杏介は生唾を飲み込む。


「俺は決めたぞ。お前たちが金を払わないなら、その丈夫な身体を使って返してもらおうってな」


「……ん?」


 首を傾げる杏介の眼前から足を下ろした棗は軽やかに飛び上がると、杏介の耳飾りを取ろうと手を伸ばす。が、瞬時に身を引いた杏介により、その手は空を掠める。


「え、ちょっと、先生、何しようとしたの?」


「だから、その耳飾りを外そうと」


「何で?」


「言っただろう? 丈夫だけが取り柄のその身体を使えって」


「いや、だから、どういう意味?」


「そのままの意味だ。お前ら、うちで働いて金返せ」


 不敵に笑う棗に杏介は三拍ほど遅れた後、目を見開く。


「えっ!? ちょっと、待ってくれよ」


「俺は待ったぞ。お前らが金返すの。だが、もう待てない。返すつもりがそちらにないなら、返させるまでだ」


「んん!?」


 何とも強引なことを言い出したものだ。それも、お前ではなく、お前らと棗は言った。


「もしかして、周も?」


「当然だ。二人まとめてうちで雇って馬車馬のように働かすと決めた」


「俺も周も馬じゃないけど?」


「は?」


「あっ、すみません」


 とぼけて上手いこと逃げようとしたが、棗の顔から表情が消え、杏介は無理だと悟る。


「とにかくだ。お前たちに拒否権はない。今からお前らはうちの薬師になるんだ。修行の身でお気楽な恰好するな」


「いや、本当に待ってくれ、先生。俺、時間がほしいんだ」


「時間なら今までくれてやっただろうが」


「そうじゃなくて」


「何だ? まだ人間の元に通うのか?」


 棗の言葉に杏介は唐桃色の目を丸くする。


「え?」


「やめておけ。お前の力は人間には毒だ」


 道蔭と同じ言葉だ。円らな瞳に映る自分は何とも間抜けで、拍子抜けしている。


「そんなに俺の力って危ないのか?」


「そうだ。まあ、人間が弱いとも言うがな」


 棗は髭を撫でながらそう言うと、目を細める。


「妖狐ってのは、年々力をつけていく妖だ。対して、人間は年を経るごとに弱っていく生き物だ。そんなもん、どうなるか想像は簡単にできる」


 人間は脆く、弱い。ただでさえ弱い身体に強い妖力を浴びれば、弱くなる速さが上がるだけだ。

 そして、最悪の場合、死に至る。それほどの力を杏介は備えているのだ。


「……」


「聞いたところによると、お前のお気に入りの姫君はいいところの男のところに匿われたんだろう? それでいいじゃないか」


「先生、どうしてそれを……」


「んなもん、お前をうちでこき使うために決まっているだろうが」


 棗は舌打ちすると、杏介の胸倉を掴む。


「とにかく、うちとしてはお前たちからさっさと金を回収したいんだ。人間のこと忘れて働け」


 いいな、と念押しする棗に声に杏介は何も返事をすることができなかった。


◇◇◇◇◇


 杏介は空を仰ぎ見る。春風が冷たい夜、塀の向こうから寂しげな箏の音色を運んでいる。

 しばらくの間、人間界に出ることはおろか、外出許可も中々出なかった。日々、こき使われていた杏介と周に対し、やっと棗が許可を出した。許可が下りた途端、杏介の脳裏に浮かんだのは松風のことだ。彼女のその後を一切知らない杏介は人間界を出入りする妖たちから情報を集めた。

 彼女は嫁いだそうだ。よくわからない爺さんのもとではなく、道蔭の元へ。あの雨の日以降、道蔭からは教えてもらっていなかったが、松風の家では修羅場が繰り広げられたらしい。松風に対する対応に道蔭だけでなく、彼の父も激怒した。友が自分の娘を蔑ろにしていたことが許せず、絶縁。また、北の方や娘たちへの制裁も行われ、現在、あの家はひどく荒れているらしい。松風が容赦を、と頼み込んでいなければ家を廃する勢いだったそうだ。それを面白おかしく伝える妖に創作も入っているのではないかと疑っている杏介だが、結婚したことは間違いないと確信した。

 そんな松風はと言うと、道蔭の元へ嫁ぎ、日の当たる部屋を与えられたそうだ。彼女に元々仕えていた者たちも松風と共に道蔭の元へ移り、平和に暮らしているらしい。松風を慕っていた弟も引き取られ、箏を弾いてほしいとねだる日もあるとのこと。

 しかし、その箏の音はいつも沈んでいるという。灰かぶりや鉢かづきのように、日の当たらない暮らしから幸せな暮らしになったというのに松風の表情はいつも曇り空のようだ。夫である道蔭がひどく案じているものの、松風は平気だと笑っているそうだ。


「……」


 途絶えた箏の音色に、杏介は細い脚に力を入れて跳躍する。音を立てずに塀へ飛び上がった唐桃の実色の瞳は箏が聞こえた音の方へ視線をやる。寝静まっているのか、屋敷は暗い。

 杏介は静かに庭を横切り、屋敷へ上がる。箏の音がした部屋の前まで行くと、すすり泣く声がする。

 松風の声だ。そっと部屋を覗き見ると、彼女が一人で泣いている。

 いい着物、いい調具、いい部屋。あの頃とは比べ物にならないような広く、綺麗な場所で松風は小さくなっている。


「……」


 杏介は細い身体を滑り込ませると、足音を立てずに松風に近寄る。


「松風」


 杏介の声にすぐさま黒髪が翻る。艶を戻した髪は美しく、射干玉色だ。


「……杏介殿」


 掠れた声が名を呼ぶ。そして、白玉のような涙をすっと零す。


「久しぶり」


 あれから九つの月が過ぎた。杏介からすると大した時間ではない。だが、ふと口をついてでた挨拶だ。

 杏介の言葉に松風は目を潤ませる。


「……よかった」


 松風はぽつりと言うと顔を覆う。

 夜闇に浮かぶ太陽の色を久しぶりに見た。元気そうな声に今までの不安が一気に晴れる。

 杏介は目を閉じると人の姿に化ける。ぐすぐすと泣く松風に眉を下げる。


「泣くなって」


「だって、ずっと……ずっと心配していて」


「悪かったって」


 笑い飛ばしたいところが、号泣する松風を前にそのようなことはできない。眠れていないのか、顔色は悪く、目の下に隈が薄っすらとできている状態だ。疲労困憊している彼女に負荷をかけたくないと杏介は微笑する。


「ごめんな、心配かけて」


「本当ですよ! ずっと音沙汰がなくて」


 もしかしてと嫌なことを想像してしまうほど、松風は杏介を案じていた。


「元気そうで本当に……」


 ただそれだけだ。杏介がこうして姿を現してくれたことがどれだけ嬉しいか。


「ああ。……松風こそ、無事でよかった」


 杏介は心の底から安堵する。あのひどい仕打ちを受けていた頃よりも格段にいい環境に身を置いている。

 本当によかった。そう思うと同時に、あの頃には戻れない寂しさが杏介の胸を占める。

 杏介に宥められた松風は涙を拭うと顔を上げる。ぼんやりと輝く金色が眩しい。が、見慣れた花が見当たらない。


「あの、杏介殿。耳飾り、していないのですか?」


 彼が動くとチャラチャラと小気味いい音をたてていた花がない。杏介は耳に触れると苦笑する。


「俺、薬師として修業中なんだ。耳飾りつけるなって先生に言われて」


 修行の身であるのなら、簡素な装いに。棗から言われて、杏介は耳飾りを外した。気に入っていたのだが、外さなければ耳ごとちぎると物騒なことを言う棗にすぐに外した。


「薬師ですか」


「そう」


「……耳飾りがないと寂しいですね」


 彼の名前にある花の飾り。松風はあのチャラチャラという音が好きなのだ。それが聞こえないと物寂しい。


「まあ、しょうがない」


「もうつけないのですか?」


「さあな。少なくとも、仕事のときはつけないかな」


 つけようものなら、棗に耳ごと引きちぎられてしまう。それだけは嫌だ。


「よくお似合いでしたから、またつけてくださいね」


「ああ。……んー?」


 杏介は首を傾げる。そんな杏介につられて松風も首を傾げる。


「杏介殿?」


「んー……いやあ、うん、な」


 杏介は苦笑しながら、部屋を見渡す。

 彼女に当てられた部屋だ。そこは、以前まで住んでいた小屋とは違う。貴婦人が住まう場所だ。

 それも、北の方と呼ばれるような女性に相応しい部屋だ。


「……松風、今、幸せか?」


「え?」


 突然の問いかけに松風は目を丸くする。


「遅くなったけど、結婚おめでとう」


 杏介からの祝いの言葉に松風は視線を落とす。


「……」


「何だ? 道蔭様は嫌いか?」


「そういうわけでは……」


 松風は膝の上の拳を強く握る。

 あの雨の夜、杏介と一緒に小屋を出た。洞穴で一時休みつもりが、気がつけば道蔭の屋敷にいた。なぜか警護の青年と侍女もいたのだ。

 その後はとんとん拍子で事が運んだ。松風の父と北の方、妹たちへの制裁が行われた。ひどい仕打ちは受けたが、松風は仇討ちを望まなかった。彼らや仕える者たちの今後が不安だった。何より、松風を慕ってくれた弟にまで影響が及ばないかと心配したところ、道蔭親子は加減をしてくれたらしい。優しすぎると道蔭や侍女から言われた。

 ほどなくして、松風は道蔭の元へ嫁いだ。しかし、最初は道蔭に求婚されても松風は断っていた。

 彼に相応しくない。いずれ、家を背負っていく彼と日陰の者として扱われた自分とは天と地の差があると松風は思った。

 だが、道蔭は松風がいいと言って譲らなかった。結局、侍女たちに背を押されて彼の求婚に頷いた。

 彼のことは決して嫌いではない。松風のことを気遣い、松風に仕えている者たちも屋敷に引き取ってくれた。好きなように箏を弾かせてくれるし、母の遺品も取り返してくれた。彼には返しきれないほどの恩がある。

 夫というよりも、恩人。松風からすると、そちらの方が強いのだ。結婚した実感もないのだ。

 仄暗い面持ちの松風に杏介は苦笑する。


「まあ、幸せになってくれよ」


 せっかくあの暗い場所から出られたのだ。とくに問題もなく、平穏に暮らせているのならいいと杏介は思う。

 幸せになってほしい。そう願うことしか杏介にはできない。

 寂しく笑った杏介は近づいてくる気配に立ち上がる。


「杏介殿?」


「じゃあ、俺、帰るよ」


 杏介は振り向きざまに松風に微笑みかける。

 太陽が雲に隠れるような笑みに松風は何とも言い難い感情が溢れてくる。


「どうか、幸いで。……さよなら」


 またな、と言っていつも立ち去る背中がさよならと言う。

 まるで、今生の別れのようだ。


「待ってください!」


 松風は手を伸ばすも、唐桃の実はするりと松風の手から離れていってしまった。

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