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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
第六夜 逢ふからも物はなほこそ悲しけれ
49/88

#6

 しとしとと降る雨の中、唐桃は塀を超える。


「……?」


 塀の上で杏介は雨で濡れて重い首を傾げる。

 雨の音に混ざって声がする。しとしとと降る雨に紛れてしくしくと押し殺して泣くその声を久しぶりに聞いた。最近の彼女は泣くことがなかったため、珍しいと思った。その声を宥めるように若い女性の声もする。

 木の陰に入り、梅雨のまとわりつく熱気と天から降り注ぐ雨を振り払うように身体を震わせた後、耳を傍立てる。


「姫様、どうか泣かないでくださいませ」


 その声は松風に仕える侍女の物だ。いつもはもっとはきはきとした話し方をする彼女が珍しく焦っているようだ。いや、懇願するに近い声音か。

 杏介は小屋の陰に隠れ、壁に耳を押し当てる。気配からして、小屋の中には松風と侍女の二人しかいないようだ。


「道蔭様にもお伝えいたしました。必ず何とかするとお返事もきましたし」


「いいえ、このようなことで道蔭様のお手を借りるわけには……」


 しゃくりあげる松風の声に杏介は眉をひそめる。

 怪我をしたため、しばらく松風の元を訪れなかった間に何かあったようだ。一体何が起きて松風が泣いているのかわからない。そして、いつかののどかな春の日に聞いた男の名が出てくるのも訳がわからない。


「ですが、道蔭様は姫様のことをひどく案じておられます。だからこそ、すぐにでもと準備を進めてくださっています」


「だからと言って、あの方に助けを求めるわけにはいきません」


 絞り出すような苦しげな松風の声だ。今にも押しつぶされてしまいそうなほど追い詰められているその声に杏介は眉をさらにひそめる。


「父上が決めたことです。私は従うしかありません」


「姫様、違います。この件を決めたのは奥様です。それを殿が鵜呑みにしているだけ」


 侍女の大きな声が雨音に勝る。壁につけていた耳を離した杏介はわずかに顔をしかめる。


「姫様のような方があんなじいさんと夫婦になるなんて、あってはなりません!」


 そう断言する侍女の言葉に杏介は聞き間違いではないかと再度壁に耳をつける。

 じいさんと夫婦とは一体どういうことだ。屋敷の中の下男に一人心当たりがある。未婚のだらしない老人だ。かの老人はとにかく若い女性にちょっかいをかけては、必要のない触れ合いを求める。何度か屋敷に侍女に化けた杏介も標的にされかけたが、適当なことを言って逃げてきた。一発ぐらい殴っても許されるのではなかろうかと思うほど、嫌悪感を抱かせる老人がよくこの屋敷に仕えていられると思うほどだ。

 そんな下品な彼と気弱な松風が夫婦だなんて、杏介は想像したくない。押しに弱い松風に対し、老人がどう出るか、簡単に予想できる。侍女の心中を思うと、道蔭の手を借りられるのなら借りるべきだと思う。


「あの助平じじいの元に姫様を嫁がせるわけにはいきません!」


「そうは言っても……。もう話は進んでいるんでしょう?」


「道蔭様の協力もありますから、何としてでも止めてみせます」


 力強い侍女の声はするものの、すすり泣く声は止まらない。


「……もう時間よ。そろそろ戻りなさい」


 衣擦れの音がする。松風が侍女に背を向けたのだろうか。


「姫様、諦めてはなりません。私は何としてでも姫様とじいさんの結婚を阻止してみせます。ですから」


「戻りなさい」


 凛とした声が侍女の声を遮る。弱々しい姫君の声ではなく、侍女の主としての声だ。その声に侍女の息を呑む音がする。


「……はい。最後にひとつだけ。どうか、ご自分が幸せになることをお考えくださいませ」


 失礼します、と言って衣擦れの音がする。間もなく、侍女が戸から姿を現して小屋を去っていく。傘を差して急ぎ足で屋敷に戻る侍女の背を見送った杏介はいつものように小窓を見上げる。閉じられた窓の向こうでまだ泣く声がする。押し殺しているものの、雨音に混ざって杏介の耳に届く。

 杏介は足元の小石を壁に向かって投げつける。


「……!」


 息を呑む音がする。


「松風」


 杏介は静かに呼ぶ。すると、衣擦れの音がする。


「杏介殿」


 わずかに震える声は何もなかったかのように声を張っている。それがあまりにも露骨で、杏介は目を眇める。


「ごめんなさい。今日は体調が悪くて……。申し訳ありません、お引き取りを」


「こんな雨の中、帰れって?」


 いつものように軽やかな口調で杏介は言う。しかし、内心は複雑な気持ちが支配している。

 彼女が嫁ぐ。それも、親が決めた相手の元。それは、別に珍しいことではない。親が決めた相手と夫婦になるなんて、それも、武家の娘となればよくある話だ。歳の離れた相手の元へ嫁ぐこともある。

 頭の中ではよくわかっている。だが、実際に松風がそうなると思うと嫌だと思う自分がいるのだ。

 相手の問題なのか、それとも。浮かぶ思考を毛に吸いつく雨粒と共に振り払う。松風の顔を見るまでは去るわけにはいかない。


「なあ、松風。寒くて風邪をひいてしまいそうだ」


 へっくしょん、と杏介はわざとらしくくしゃみをする。すると、衣擦れの音がした後、窓が開く。杏介は身体を震わせ、雨粒を払う。そして、足に力を込めて飛び上がると窓の内に飛び込む。


「よっ、松風。具合悪いって?」


 するりと中に入った杏介は人の姿を取る。頼りない灯に照らされた松風の背中は小さい。身体を縮こまらせて、こちらに背を向けているその姿がいつも以上に小さく見える。


「……ええ」


「悪いな、具合悪いのに」


 何でもないように杏介が言うと松風は背を向けたまま首を横に振る。


「いいえ。お相手はできませんが、雨が止むまでお休みください」


「そうさせてもらおうかな」


 杏介はそっと松風の顔を盗み見る。艶が戻ってきた黒髪から覗く彼女の顔は今日の空模様と同じで暗く、重い。日の光が射さないという理由では片付けられないほど、松風の表情は沈み切っている。

 泣き腫らした目元、横に引き結んだ口、青白い顔色。

 死にたそうな顔。最近はずっと見ていなかったその顔は杏介と出会ったばかりの頃の松風の顔だ。

 唐桃色の視線に気がついたのか、暗い色を滲ませる瞳が見開かれると、ふいと顔を逸らされる。


「あー、本当に顔色悪いな」


 杏介は視線を逸らしながら窓を閉める。雨音がくぐもり、音が小さくなる。


「眠れているか?」


 その問いかけに松風の身体が震える。


「……衣の支度が遅れていて、夜更かししただけです」


「そうか。そりゃあ、目の下に隈ができるわけだ」


「隈?」


「そう」


 杏介は松風の隣に腰を下ろす。灯に照らされるその頬には涙の跡がくっきりと残っている。その頬に杏介は手を添える。ぴくりと震える松風に杏子色の瞳を細めながら杏介は隈を指でなぞる。灯がゆらゆらと揺れ、松風の顔にかかる影が不安そうに踊る。


「出会ったときと同じ顔をしている。死にたそうな顔だ」


 松風の目がさらに見開かれ、視線が逸らされる。


「……さっきの話、本当なのか?」


「……」


 ふい、と松風は杏介の手から逃れるように身を翻す。無言の肯定にる杏介は温もりが消えた空から手を下ろす。


「嫌なんだろう? 従うしかないと思っていても、本当は嫌で仕方がない」


「……それが普通ですから」


「普通ねえ……。道蔭様だっけ? 手を借りれば?」


 使えるものは使えばいいと杏介は思っている。相手が協力的であるのならば、絶好の機会だ。後ろ盾のしっかりしている青年だ。思う存分甘えればいい。

 しかし、松風は首を横に振る。


「あの方は私とは違って未来があるお方です。未来のない私に手を差し伸べ、彼の未来を潰したくありません」


 諦めた口調の松風に出会った当時の松風の様子が思い起こされる。全てを諦め、退屈そうで、死を願うあの頃の松風だ。


「だから、彼の手を借りるつもりはない。で、祖父母ほど歳の離れた爺さんの元に嫁ぐのか?」


 よりにもよってあの老人だ。松風の気弱な性格では老人のことを押し返せず、されるがままになってしまうだろう。老人が死ぬまで、毎日のように求められるかもしれない。松風の意志など、お構いなしに、あの老人は好き勝手しそうだ。

 だからこそ、杏介としては松風には使えるものは使ってほしい。侍女の口ぶりからして、道蔭は好意的だ。それを思えば、道蔭が松風に見返りを求めることはないのではないかと思う。


「……」


 杏介の思いに反し、松風は小さく頷く。

 嫁ぐしかない。松風が反抗したところで変わるわけがない。道蔭の手を借りて、彼の将来に影響が出ては申し訳が立たない。


「……全てが円滑に進むためですから」


 決まってしまったことだ。今さらどうこうできる問題でもない。むしろ、この件に介入した道蔭や侍女たちがひどい目に合う方が松風としては嫌だ。松風のことで、松風のことを思ってくれる人々が傷つくことだけは絶対に避けたい。


「道蔭様も、母が存命の頃から守ってくれる彼らを傷つけたくない」


 大切な人たちを守るため。そのためには松風が嫁げば綺麗に話がまとまるのだ。


「そのためなら、自分のことはどうでもいいと?」


「もうどうとでもなってしまえばいい」


 松風は吐き捨てるようにそう言う。

 何も考えなければいい。感情を持たなければいい。それでただ死を待てばいい。

 そうすれば、松風も傷つかない。振り返らずに、いつか来る死をぼんやりと待つのみで構わない。


「つまらないな」


 自暴自棄になっている松風に対して、冷たい声が貫く。温かな金色の瞳に冷たい光が宿って松風を見つめる。


「そんなにつまらない人生でいいのか?」


「……考えなければつまらないなんて感情も湧きません」


「そうやって自分を押し殺して苦しくないか?」


 人形のように感情を持たず、操られるがままの人生は果たして楽しいのか。自分という存在を俯瞰しているような人生では面白味の欠片もない。


「松風。ここから出て行かないか?」


 杏介の口から出た言葉に松風は目を瞠る。あまりにも自然と彼の口から出た言葉に松風の胸から熱いものがこみあげてくる。


「そ、それはどういう意味ですか?」


 震えそうな声で松風が尋ねると唐桃色が優しく細められる。春ののどかな日差しが射し込むような優しい光だ。


「俺が手を貸す」


「ですが……」


「また松風には笑ってほしいから。幸せになってほしい」


 健気な娘だ。そこが美徳ではあるが、自己を顧みないところが悪いところでもある。もっと自分を大切にしてほしい。侍女も言っていたとおり、松風の周りは彼女の幸せを願っているのだ。


「松風が、松風自身のことを考えられるようになってほしいんだ」


「私が私のことを考えられる……」


「そう。……松風が松風を殺すなんて俺は嫌だよ」


 あまりにも優しい杏介の声と表情に松風の胸が痛む。悲しそうに微笑む杏介の顔を初めて見た。触れれば崩れてしまいそうな花のような繊細な杏介の表情に松風の瞳から涙が一筋流れる。瞬間、堰き止めていた何かが溢れ出る。


「わたし……わたしは……」


 嗚咽を漏らす松風は袖で顔を覆う。


「…………わたしも、楽しく生きていたい」


 母が遺してくれた箏を自由に弾きたい。誰かのためでなく、自分のための衣を仕立てたい。

 日の光がもっと射し込む明るい場所で生きていきたい。


「わたしらしく、ありたい……」


「ああ」


 杏介は泣きじゃくる松風を抱き寄せる。小さく、薄い身体から溢れ出る感情は複雑で、大きい。この感情を小さな身体の内に秘めていたのかと思うとやるせない。

 杏介は松風の背をさする。


「もっと気楽に生きられたらいいのにな」


 自由に、思うがままに。何にも縛られず、自分のことだけを考えられたどれだけ幸せだろうか。

 そんなことを考えながら、杏介は腕の中を少女の幸いを祈った。


◇◇◇◇◇


 暗がりに小さな炎が灯される。ゆらゆらと揺れる炎に照らされたその顔は寝苦しそうで、杏介は重くなった髪を払ってやる。

 できるだけ早く。善は急げと言う。杏介は昼の間に屋敷の人間に化けて鍵を木の葉を用いて術で複製した。そして、夜になるや否や、松風の身代わりを置いて松風を連れ出した。

 しかし、今夜の天気はひどく荒れていた。木の葉を雨具に化けさせたが、完全に防げるわけではないため、松風の身体のことを考えて雨宿りすることにした。夜が明ければ晴れると信じ、洞穴で休むことにした。

 正直に言って、時間がない。雨宿りする洞穴と屋敷の距離はさほど離れていない。身代わりを置いているとは言え、できることなら屋敷から離れ、常盤街へ入りたい。常盤街へ入ってしまえば、とりあえず一安心だ。

 杏介は洞穴から見える空を恨めしそうに見上げる。唐桃が熟す頃、雨がよく降る。どうして今日に限ってと恵みの雨が憎らしく思う。

 濡れたままでは風邪をひいてしまうため、木の葉を化けさせた代えの衣に二人は着替えた。できることなら、松風の髪を乾かしてやりたいが、灯で見つかることを避けたいため、最小限の火の玉しか灯すことができない。


「杏介殿」


 松風の瞳がゆっくりと開かれる。


「眠れないか?」


 一枚布を敷いているとは言え、地面で横になっても寝心地は悪いだろう。申し訳なさそうに眉を下げる杏介に松風は目を伏せる。


「ごめんなさい、私だけ休んで」


「いいんだよ。妖は夜の方が得意なんだから」


 万が一に備え、杏介は見張りをすることにした。雨が止んだらすぐにでも出られるよう、松風には休んでもらいたいのだ。

 杏介は松風の頭を撫でる。濡れた髪が杏介の手にまとわりつく。


「目閉じて横になるだけでも違うから。気にするな」


「はい……」


 松風は申し訳なさそうに返事をすると、目を閉じる。

 その様子を見届けた杏介はこれからどうしようかと思考を巡らせる。

 第一の目標は常盤街へ入ることだ。時々、人間が迷い込むことがあるが、そう簡単に入ることのできる場所ではないため、身代わりの術が解けて屋敷の者が捜索してもまず見つかることはないだろう。

 問題はそこから先だ。松風を連れ出したものの、先のことを考えていなかった。いや、考えてはいるのだ。松風と一緒に旅をするのも悪くないと思っている。各地を巡り、様々な景色を見る。春の桜や、夏の蛍、秋の紅葉、冬の雪など、見せたい物や景色がたくさんあるのだ。

 この季節なら何がいいだろうか。蛍の飛び交う季節だ、蛍を見に行くのがいいかもしれない。蛍なら、常盤街でも見られるし、と考えながら杏介は火の玉をぼんやりと眺める。

 何はともあれだ。常盤街へ入ってから考えても遅くはない。とにかく、雨が止まないかと重い雲を見上げる。

 刹那、白刃が空を裂くように走る。眩いその光に視界が奪われた後、雷鳴が響き渡る。地を突き上げるようなその音に杏介は驚く。その隣で、松風が飛び起きる。


「今の……」


「すごい音だったな」


「はい……。あの、杏介殿」


「ん?」


 杏介は隣の松風を見やる。目に涙を溜めた彼女が何か逡巡した後、こちらを真っ直ぐ見据える。


「その、雷、苦手で……」


 雷鳴が苦手なのだ。昔から苦手ではあったのだが、あの地響きにも似た音が継母の怒号を思わせるため、松風からすると恐怖の対象なのだ。

 また雷鳴が響く。先ほどのものよりも小さい音ではあるが、松風は小さく悲鳴を上げて身を縮こまらせる。


「そうか、雷苦手か」


 確かに苦手そうだ。屋敷を出て、この洞穴へ向かう途中も雷が鳴り響いていた。その度に、小さく悲鳴を上げていたところを見ると、駄目そうだとは思ってはいた。


「童のようなことを言って申し訳ありません」


「別に。さっきの雷は俺もびっくりしたし」


 あそこまで大きな音の雷を聞いたのは久しぶりだった。目を突きさすような光もまた慣れないものだった。


「雷が駄目で、眠れないか?」


「うっ……」


 また雷が走る。そして、ごろごろと空が割れてしまいそうなほどの轟音に松風は耳と目を塞ぐ。

 すると、松風の身体に覆いかぶさるように温もりが包み込む。


「大丈夫だ」


 優しいその声に松風は手を下ろして目を開ける。暗がりに射し込む春の日射し色が視界の隅に映る。宥めるような手が松風の背を優しく叩く。抱きしめられていることに不思議と緊張はなく、彼の少し早い鼓動が落ち着く。


「……はい」


 松風は春の心地よい陽だまりのような温もりに身を委ねる。遠くで雷の音が聞こえるも、不思議と安心感が勝る。

 どれほどそうしていたか。安らかな寝息が聞こえてきた杏介はほっと息をつく。こちらに身を預ける松風の顔を覗き込めば安心しきった表情で眠っている。幼さの残る寝顔に微笑を浮かべるも、すぐに表情が曇る。

 松風の身体が熱い。抱き寄せたときに体温が高いと思った。おかしいと思いながら、雷を怖がる松風に余計なことを言えず、眠らせることを優先した。今こうして見ると、頬は赤く、呼吸もわずかに荒い。先ほどまではとくに異変はなかったはずだ。

 杏介は松風の額に手を当てる。衣越しに伝わる熱以上に高い。


「……くそっ」


 気をつけてはいたが、松風は人間だ。それも、外に慣れていない娘だ。過酷な環境に置かれていたと言え、身体が強いとは限らない。むしろ、その線の細さや、結婚の話が出て疲れているところを見れば弱い部類だ。

 杏介の脳裏に真っ先に兎の医師の顔がよぎる。しかし、彼はここにはいない。今の松風を連れて常盤街へ行くのも危険なぐらいだ。

 どうすればいいのか。ぐったりとする松風の額に浮かぶ汗を拭う。

 衣擦れの音に紛れて足音がする。泥濘を踏みしめる音がするのだ。足跡は雨が流してくれたおかげでないはずだが、近づくその音に火の玉を消す。真っ暗になった洞穴の中で、杏介は木の葉を懐から取り出し、松風の額に当てる。すると、松風の姿が変わる。可愛らしい狐の姿へと変えると、杏介も変化の術を解き、一尾の狐姿へと戻る。見つかったとしても、雨宿りをする狐とでも思わせればいい。取って食われたりしなければいいが、と思っていると、足音がどんどん近づいてくる。

 白刃が空を切り裂く。洞穴の入り口に姿を現したのは蓑に身を包んだ一人の青年だった。その青年の目は美しく、神秘的だ。

 瞬間、杏介は悟る。彼は見鬼の才持ちだ。厄介な人間に見つかったと身構えると、青年が洞穴へ入ってくる。


「……」


 じっと見下ろす青年に威嚇するように杏介は松風の前へ出る。


「……ああ、お前だな」


 凛としたその声音の主は杏介ではなく、奥で丸くなる狐に化けた松風を見据える。


「姫君を連れ出した妖は」


 青年は奥にいる狐に化けた松風をよく見ようと目を細めるも、その目はすぐに見開かれる。


「……具合が悪いのか?」


 瞬時に見抜いた青年に杏介は驚く。青年はぐったりしている松風に駆け寄ると、しゃがんで松風の容態を見ようとする。


「この狐は姫君だろう?」


 その言葉に杏介はまたも驚く。杏介が変化させた者の姿を見抜く者は早々いない。

 それほどまでに彼の見鬼の才は強いようだ。さらに警戒する杏介に青年は顔をしかめる。


「この姿では姫君の容態を確認できない。変化させているのなら、解いてくれ」


「……」


「何とか言ったらどうだ。彼女の命に係わることだ」


 杏介は青年をじっと見つめる。美しく、神秘的な目は意志の強い光を宿している。

 杏介の勘が彼は道蔭ではないかと囁く。この狐は人間だろう、ではなく、姫君だろうと尋ねてきたのだ。もしかすると、松風の救出の予定が重なり、こうして捜していたのかもしれない。


「……わかった」


 少なくとも、松風のことに関しては道蔭は味方だ。松風の身を思えば、考えることは同じはずだ。

 杏介は松風に歩み寄ると、松風の変化を解く。そして、火の玉を灯す。小さな炎たちに照らされる松風の顔は赤く、額に汗を浮かべていて苦しそうだ。


「あんた、道蔭様かい?」


「……妖に名乗ったりなどしない」


 青年はふいと顔を背けると、松風の額に手を当てる。


「これはまた……。早く医師に診せなければ」


「すぐに医者に診せられるのか?」


「ああ」


 やはり道蔭だと杏介は確信する。すぐに医者に診せられる立場の者はこの辺りでは限られる。


「……」


 だが、それは。杏介の中で考えたくない思いが浮かび上がる。


「まつ……姫君は医者に診せればすぐによくなるか?」


「わからない。だが、どんな手を使ってでも彼女を救ってみせる」


 力強く言った青年は杏介を見下ろす。


「お前がどういう理由で姫君を連れ出したのかは知らない。だが、姫君の身を案じるのであれば私に任せてほしい」


「それなら、名前を訊きたいね。変な奴に預けるなんてできっこないから」


 生意気に杏介が言うと、青年は仕方なさそうに息をつくと、神秘的なその目を向ける。


「道蔭。先ほど、お前が言っていたとおりの者だ」


「やっぱりね」


「そういうお前は?」


「俺? まあ、名乗ってもらったからには、こっちも名乗るのが筋だよな」


 そう言って杏介は目を閉じると、人の姿を取る。熟した唐桃色の瞳で真っ直ぐ道蔭を見据える。


「杏介だ」


「そうか。色々と訊きたいことはあるが……」


「まずはその子のことだろう。お屋敷まで距離あるだろう? 彼女を連れて行くの、手伝わせてくれ」


 松風の体調を悪くさせてしまった責任もある。それに、道蔭一人で連れて行くのも難しいだろう。であれば、できることをするのみだ。


「……不思議な妖だな」


 見える道蔭からすると、妖は悪戯好きな者が多く、いつも道蔭の邪魔をするのだ。しかし、この杏介という名の狐は自ら協力を言い出した。


「責任もあるし。それに」


 杏介はぐったりとする松風に視線をやると、寂しそうに笑う。


「この子が幸せになってくれることの方が大事だから」


「……そうか。わかった。手を貸してくれ」


「へえ、意外と俺のこと警戒しないんだ」


「悪意を感じないから。そちらこそ、私を警戒しないのだな。道蔭という名を借りる賊かもしれないのに」


 嫌味っぽく言う道蔭に対し、杏介は首を横に振る。


「そっくりそのまま返すね。あんたから悪意を感じない。むしろ、その子のことを案じていることがよくわかる」


 狐姿の松風を人目みて具合が悪いと見抜いた。暗闇でまともに見えないはずの彼の目はそう捉えた。それに、どんな手を使ってでも救ってみせると言った彼の言葉の頼もしさを信じたいと思った。

 事態は一刻を争う。今できる最善をするのみだ。

 それがたとえ、松風と別れることになろうとも。まだ気持ちの整理はできていないが、杏介は道蔭を見据える。


「これでも、あんたたちよりは長生きしてきた。どんな奴なのか何となく見抜けるさ」


 退屈な日を過ごす杏介からすると、視界入るもの全てが観察対象だ。見ていれば何となくわかる。

 彼になら松風を託しても大丈夫だろう。そう思える男だ。


「急ごう。これ以上、容態が悪くなる前に」


 はっきりと言う杏介に道蔭は頷いた。

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