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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
第六夜 逢ふからも物はなほこそ悲しけれ
48/88

#5

 麗らかな春の昼下がり、ほろほろと音が漏れ出る。まさに爪弾くという音だ。その音に誘われるように今日も今日とて唐桃が敷地に転がり込む。

 コツン、コツン、と手近な石を投げつければ音色が止み、窓がそっと開かれる。そこに細身の金色を滑り込ませると彼女が迎え入れる。


「よう、松風。今日もいい音色だな」


 着地するやいなや、青年の姿に化けた杏介は足元の龍に見立てられたそれに目をやる。焦げ茶のそれは松風の宝物だ。

 十三本の弦が張られた木の塊。そこから紡がれる音色は優しく、気品のあるものだ。疎い杏介でもわかるいい代物だ。


「箏がいいだけですよ」


 そう言って松風は龍の姿を模した楽器、箏の琴の傍に座ると、それを優しく撫でる。


「箏もいいだろうが、松風の腕前がいいんだって」


 よいせ、と腰を下ろした杏介は箏を見つめる。正直、杏介には物の良し悪しはわからない。明らかに粗雑な物ぐらいは判別がつくのだが、こうも風流な物に関してはわからない。が、松風曰く、母から譲り受けた名器だそうだ。

 銘、松風。この箏の名であり、彼女の仮名の由縁だそうだ。琴の音色が松風に通うことから母の遺品に与えられたそうだ。そうは言っても、七本の弦を持つ琴と十三本の弦を持つ箏とでは意味合いが違うのだが、そこはそれとしてあやかろうとのことらしい。いい物の割には、名づけが適当だと杏介は思った。

 琴と松風の関連について、杏介にはよくわからない。松風や周から琴と松風の組み合わせの説明を受けてもよくわからなかった。そういうものなのだと二人は言うのだが、そういった知識に疎い杏介は余計にわからず、調べてみたものの、書いてある内容が読めず書を閉じてしまった。

 そんな風流な代物、松風の箏は何とも簡素な見た目をしている。余計な飾りは一切なく、美しい木目で勝負をしているようだ。簡素な見た目からは想像もつかないほど、演奏者によって様々な音色を届けるという。その素朴な見た目のおかげか、派手好きな継母からは大した物ではないと判断されて松風の元に残っている。


「いい楽器を使っても、奏者が大したことなければ音が死んでしまうって周が言ってたぞ」


 相性というものがあるのだと周は言っていた。楽器だけでなく、武器や商売道具にも同じことが言えるそうだ。

 杏介からすると、名器と呼ばれるこの箏の良さはいまいちわからない。が、松風が奏でる箏の音色が好きだ。


「松風が弾くと優しい音がする。箏ってもっと張りのある音がする楽器だと思うけど、松風が弾く音は柔らかい」


 窓から射し込む春の麗らかな日差しのように温もりのある優しい音色がするのだ。杏介も何回か触らせてもらったのだが、あの柔らかい音を出せない。松風だから出せる音なのだ。


「あまり大きな音を出すわけにはいかないので、控えめに弾いているだけですよ」


 松風は弦に触れるように軽く弾く。微かな音が静かに吸い込まれていく。


「奥方も面倒くさいなあ。さっきも怒鳴ってたぞ」


 かれこれ松風の元に通うようになって一年。変化して屋敷の中を歩くようになった杏介は何度か継母を見かけている。我の強い人間だと杏介は思う。自分の思うとおりに事が運ばないと気を悪くする女性だ。

 継母は松風の母が残した物を松風から取り上げては自分や娘たちの物にしてしまっている。中には粗雑な扱いを受けている物もある。

 いい品であっても扱う者によって質が落ちる。周がそう言っていたことがよくわかる事例だ。

 そんな継母は相も変わらず松風に対しての当たりが強い。下女同然の扱いを松風に強いて、裁縫の腕を頼りにして衣の仕立てを回してくる。現に、今も部屋の片隅に仕立てられた衣が畳まれている。松風はこの衣の仕立てが終わらなければ箏を弾くことも許されず、進捗が遅いと食事を抜かれることもある。

 当然、松風には話していないし、侍女たちも松風に言わないが、屋敷内では松風の悪口を吹聴している。仕事もせずに遊んでいるだとか、食事を残すだとか、自分に反抗するだとか、あることないこと言っている。実際の松風は針仕事に追われて睡眠時間を削ることもあるし、仕事が終わっていないから食事をするなと怒鳴りつけたり、ひたすら謝り続ける松風の姿が現実だ。

 継母が継母なら、妹たちも妹たちだ。松風から取り上げた品々をぞんざいに扱っている。知る人が見れば価値の高い品を手入れもせずに使っている。松風や松風の母が大切に使っていた品々は美しさを失い、その品の以前の姿を知る者たちは嘆き悲しんでいる。少しでも綺麗に保とうと奮闘している松風側の侍女たちが気の毒で仕方がない。

 そして、これまた厄介なのが、松風の父である屋敷の主だ。継母の言葉ばかりを鵜呑みにし、松風に関心を示さない。杏介が知る限り、松風の父が松風の元を訪れたことはない。侍女の話を聞いた限りでは、正月に顔を合わせているようだが、所詮、その程度だ。いない者扱いされたそうだ。

 とんだ家族である。その家族に仕える者たちの大半は松風をいない者扱いしているし、一緒に悪く言っている。それを耳にする松風側から引き抜かれた者たちが悔しそうにしているところを見ると、彼らも苦労していることが窺える。とくに、松風の元をよく出入りするしっかり者の侍女は表面上は取り繕っているが、誰もいないところでは一人で泣いていることもあるぐらいだ。

 引き抜かれて、身動きが制限されようとも松風のことを思う者たち。松風にとって数少ない味方だ。継母側に靡いてしまった者も中にはいるが、大半の者が今でも松風のためにと裏で手を回している。その姿を見ると、松風自身や松風の母の人望が窺える。


「また屋敷の中を歩いていたのですか?」


「おう。ほら、菓子を持ってきた」


 そう言って杏介は袖から包みを取り出す。それに松風は眉を下げる。


「またそのようなことをして……」


 誰かが叱られやしないかと松風は不安になる。


「最近、杏介殿は行動が大胆すぎると思います」


「そうか?」


 杏介は包みを開くと、菓子を頬張る。


「ええ。白昼堂々の行動じゃないですか」


 松風は窓から射し込む光に目を細める。

 初めの頃は夜に訪れることが多かった杏介はだんだんと滞在時間が伸びていた。日が昇る前には去っていたのが、昼前に帰るようになった。そうかと思いきや、日が沈んでから訪れるようになったり、今日のように昼間から来るようになったり、挙句の果てには屋敷の者に化けて屋敷内を歩き回ったりとあまりにも大胆すぎる。


「いいじゃん。別に、見つかったことないし」


「そうですけど……」


 仮に、松風が過ごす小屋を訪問する者がいたとしても、調度品に化けて見つからずに済んでいる。


「私が独り言の多い女だと思われているのです。どうにかなりませんか?」


 誰かいらしたのですか、と侍女や見張りの者に問われることもあるのだ。その度に誤魔化す松風の身にもなってほしいものだ。


「今までどおり、適当言っておけばいいだろう? 幸い、いつも来る侍女や警護の彼は松風の味方だろう? 継母に変なこと言わないだろ」


 彼らと松風の話を聞く限り、仲のいい主従関係だと思う。とくに、例のはっきりとした物言いの侍女との仲は姉妹のようでもあり、友人のようでもある。その侍女は松風のことを本当に大切に思っているようで、上手く立ち回っては褒美としてもらった品物を松風へ流している。彼女の立ち回りを屋敷で見る度に素直に尊敬する。警護の彼の方も、食事や着物に気を遣っているらしく、侍女が松風の元を訪れないときは彼が支えているようだ。

 あの二人なら松風の印象が悪くなるようなことはしない。杏介の目から見てもそう断言できる。だから、松風の味方に悪い影響が出ないように彼らに化けることはしていない。


「変な疑いがかかっているのです。誰か殿方でも来ているのかって」


「ふーん」


 杏介は松風の姿をさっと見る。出会った頃はまだ幼さの残る顔立ちだったが、この一年で大人びた顔立ちとなった。元々、境遇のせいか大人びていると思ってはいたが、言動も見た目も大人のものになってきたと思う。きちんと着飾れば、さらに美しくなるだろうと思うほどだ。

 とくに、最近の松風は明るくなった。死にたそうな暗い表情を見せることが減り、笑顔が増えた。自然体な笑顔が嬉しくもある。

 松風は変わった。それは侍女たちの間でも話題に上がり、彼らも嬉しそうだ。そういった話題が上がると同時に、いい相手でもできたのか、気になる者でもいるのではないかと盛り上がる侍女たちの姿を何度か見てきたのも事実だ。


「で、そういう話ないのか?」


「ないです」


 松風はふいとそっぽを向く。こうして時々、年相応の振る舞いが見えると微笑ましい。無理に感情を押し殺してきた彼女が素直に気持ちを表に出せるようになってよかったと思う。


「なぜ笑っているのです?」


「いいや」


 杏介が喉の奥で笑っていると松風の頬が膨らむ。

 最初は警戒していたくせに、今となっては口調が砕けるほどまでになった。死にたいのか、生きていたいのか、矛盾した感情を持ち合わせていた姫君は意外にも心を開いた相手には素直だと思う今日この頃だ。


「そう言う杏介殿はどうなのですか?」


 自分ばかりで不公平だと思った松風は杏介に尋ねる。


「俺? 俺は別に」


「そうでしょうか? 気さくな方だから、好意を寄せている方もいらっしゃると思うのですが」


 松風自身もあっさりと彼の手の内に落ちたと思う。軽やかな話しぶりにころころと変わる表情が杏介の良さだ。好奇心旺盛なところが彼の話し上手、聞き上手を引き立たせていると思う。時々、距離感を間違えて相手を不快にさせかねないところではあるが、おおむね、彼の話しぶりは好かれやすいと思う。

 そんな彼と一緒に過ごせる相手は楽しいと思う。話し好きな相手なら、杏介に好意を寄せると思うのだ。


「うーん、どうだろう。周には距離感が近いって言われるんだけど」


 君は距離が近すぎるときがあると呆れた顔で言われた。杏介としてはそのような自覚はないのだが、はたから見ると距離が近いらしい。


「親しみやすいとは思いますよ」


 松風は苦笑する。

 正直、初対面の相手とはもう少し距離をとってからの方がいいような気がする。気さくな雰囲気はいいのだが、最初から距離が近いと困ってしまう。


「って言ってもなあ」


 杏介はちらりと松風を一瞥する。


「ん?」


 小首を可愛らしく傾げる松風に杏介は唐桃色の瞳を細める。


「……いいや。今のところ、縁がなさそうだ」


「そうですか」


 意外ですね、と松風が言うのに対し、杏介は本当に縁がないとため息が出る。


「まあ、いつか来るであろうご縁を楽しみにするってのも悪くないだろう?」


「来るのでしょうか?」


「さあな」


 物語のように上手くはいかない。彼女と似た境遇の落窪の姫君は殿方と巡り合い、幸せになると周は言っていたが、松風はどうなるのか。それでも、彼女には幸せになってほしいと思う。

 杏介は自分の手をじっと見つめる。


「……」


「杏介殿?」


 松風に呼ばれた杏介は顔を上げるとからっと笑う。


「いいや、何でも。それより、この饅頭美味いぞ」


 ほら、と杏介は松風に促す。


「もう……」


 松風は苦笑する。よくもまあ、呑気に取ってきてはいけしゃあしゃあと食べる。

 松風は手を合わせる。


「いただきます」


 松風は饅頭を割って一口食す。甘い餡子の味が広がる。美味しい茶の供に相応しい代物だ。


「美味しい」


「だろう? 俺の目に狂いはなかった」


 得意げにする杏介に小さく笑いながら松風は饅頭を小さくしていく。


「屋敷の連中の目は節穴みたいだけど」


「またそのようなことを言って……」


 ほんの少しでも姿を見たり、声を聞けばそっくりそのまま化けることができる。話し方まではさすがにある程度時間をかけないと真似できないそうだが、その他についてはとくに問題がないらしい。


「大丈夫。松風の味方に化けたことはないよ」


「そういう問題ではなくてですね」


 松風が眉を下げると、杏介の耳がぴくりと動く。戸の方へ視線を向けた杏介は近づいてくる足音に急いで菓子の包みを袂にしまうと、羽織に化ける。薄桃色の羽織がひらりと落ちると戸を叩く音がする。


「姉上。今よろしいですか?」


 少年の声が戸の向こうから聞こえる。


「ええ」


 松風は羽織に化けた杏介を背後に隠すようによける。鍵の開く音がすると、十に満たないような幼い少年が顔を覗かせる。

 可愛らしい少年は松風の腹違いの弟だ。兄弟の中でも唯一、松風を慕い、こうして会いにきてくれる。


「姉上、箏を弾くのですか?」


 少年はいそいそと戸を閉めて、履物を脱ぐと嬉しそうに箏の前に座る。


「ちょっと弾こうかと思って」


「聴いていてもいいですか?」


「うん」


 弟君はぱあっと表情を明るくさせる。弟は松風の箏をいたく気に入っていて、こうして継母たちには内緒で弾いてほしいとねだるときがある。


「じゃあ、弾くね」


「はい」


 松風は箏に向き直る。一息ついた後、ほろほろと弾きだす。

 母が作った曲だ。譜面も残っていないこの曲は「春の日」という名と松風の記憶に残るのみとなってしまった。


 ひさかたの 光のどけき 春の日に しづ心なく 花の散るらむ


 『古今集』の編者の一員であった歌人の和歌が好きな母がこの歌を元に作ったそうだ。


『優しい響きの和歌でしょ? だから、この曲は優しい音で奏でてね』


 母はいつもそう言っていた。

 綺麗で優しい音の響きを持つ和歌。素直な音の和歌と同じように、母が弾く「春の日」はすっと入ってくるような曲だった。

 はらはらと花が散るように儚い音色が小屋に響く。弟君は聴き入るように目を閉じている。

 松風の背後、杏介も箏の音色に耳を傾ける。松風が弾く音色も相まってか、桜の花が散るときの音を想像したらこのような音色なのだろうと思わせる曲だ。凛として張りのある音色ではなく、霞がかってはっきりとしない、ぼんやりとした音色だ。弦を弾くというよりも触れるような優しい手つきがわずかに見える。

 最後の音が光ののどかな空に消え入る。名残惜しそうなその音色に目を開けた弟君は瞳を輝かせ、手を叩く。


「やっぱり、姉上の箏は素敵だね」


「ありがとう」


 素直に褒めてくれる弟が可愛らしい。彼はいつも松風が弾く箏を楽しそうに聴いてくれて、松風としても弾いていて気持ちがいい。


「もっと堂々と弾いているところを聴きたいなあ」


 弦にそっと触れるような優しい音色も好きだが、箏本来の張りのある音色も聞きたい。弟君はそう思うも、松風は緩やかに首を横に振る。


「それは駄目よ。奥様がお許しにならないのだから」


 呑気に箏を弾くなんて、と何度嫌味を言われたか。今日は心地のいい日であるため、窓を開けて弾いたが、普段は窓を閉めて弾く。でなければ音が漏れて継母の耳に届いては叱られてしまう。窓を開けて弾きたいときはいつも以上に音を潜めて弾くよう注意している。


「でも、他の姉上が弾く箏よりうんといい音色だよ」


 違いない、と杏介は松風の背後で同意する。屋敷に忍び込むと時々箏や他の楽器の音がする。しかし、そのどれもが松風と比べると大した物ではない。聴いていて心地がいいのは松風が弾く箏だ。


「そのようなことを言って」


「本当だよ」


「褒めてくれるのは嬉しいけど、他の方を下げるような言い方は良くない」


 名前を出された本人に対して失礼だ。妹たちには軽視されているが、それでも見下す理由にはならない。


「うーん……。ごめんなさい。気をつけます」


「ええ。いい子ね」


 よしよしと松風は弟君の頭を撫でる。


「もう、赤ん坊じゃないですよ。もう少ししたら元服するんですから」


「そうね。もうそんな歳になったのね」


 松風は寂しそうに笑う。幼かった彼も大人の仲間入りが近いとなると時が経つのは早い。

 それと同時に、母が亡くなってからの時を実感する。母を亡くしてからこの狭い世界で生きてきた。


「また背が伸びたかしら」


「そうですか?」


 弟君は頭に手を置いて首を傾げる。


「すぐに追い抜かれてしまいそう」


 今はまだ松風の方が背が高いだろう。しかし、あと少しもすれば逆転する。姉上と呼ぶ少年の声もいつかは低く大人のものへと変わっていく。


「最近、剣術の稽古はどうかしら?」


「先日、先生から上達したと褒めてもらいました!」


 弟君は嬉しそうに報告する。松風も自分のことのように嬉しい報告だ。


「ちゃんと稽古に励んでいるのね。話を時々聞きます」


 侍女や見張りから弟君のことを聞くことがある。とくに見張りの者は時々相手をするらしく、中々いい筋をしていますよ、と嬉しそうに話してくれる。


「これからも、先生のご指導の元、稽古を怠らないようにね」


「はい! あ、そう言えば」


 弟君はふと思いだしたかのように言う。


「明日、宴を催すそうです」


「ええ。そうみたいね」


 侍女を通して話は聞いている。父の友である一家が来るらしい。そのため、忙しいんですよ、と侍女が愚痴を言っていた。


「そこで、道蔭(みちかげ)様に剣術を見てもらえることになったんです」


「道蔭様に?」


 道蔭というのは父の友人の息子だ。剣術の天才で、幼少の彼の師は早々に教えることがないと彼の父に進言したという噂がある。そんな彼は跡取りとして期待されている若者だ。


「光栄ですが、ちょっと自信がなくて……」


 弟君と同じ歳の頃はすでに大人たち顔負けの剣の腕を持っていたという。それを聞くと弟君としては自信がなくなる。


「怖気づくことはないよ。おおらかでお優しい方だから」


 一度だけ、松風は彼と出会ったことがある。母が存命だった頃、幼少の彼と顔を合わせた。朧気な記憶の中の彼は綺麗で神秘的な目をした少年だった。以来、一度も会っていないが、彼と親しい警護の彼曰く、剣術については厳しいが普段は昔と変わらずおおらかだと言っていた。


「緊張してしまうとは思うけど、あまり自信なさげにしていると道蔭様に怒られてしまうわ」


「ううっ……。わかりました。頑張ります」


 弟君は力強く頷く。松風はそんな弟君に目を細める。


「さあ、そろそろ戻りなさい」


「えー、そんなあ」


 落胆する弟君に松風は、ほら、と立つように促す。


「剣術の稽古はいいの?」


「そうですけど……」


 弟はぷくっと頬を膨らませる。


「せっかく道蔭様に見ていただく機会なのだから、少しでも鍛錬なさい」


 自信がないと言うのならなおのことだ。少しでもよく見せたいと思うのであれば、すぐに稽古に励むべきだ。


「はい。では、姉上、失礼します」


 弟君はぺこりと頭を下げ、小屋を出る。カチャリと鍵がかけられた音の後、松風はほうと息をつく。

 視界に金糸が垂れる。


「松風も姉ちゃんしてんなあ」


 真横にある顔に松風は思わず身を引く。


「近いです!」


 逸る心の臓の辺りに手を添え、深呼吸をする松風に対し、杏介はけらけらと笑っている。杏介の耳飾りもチャラチャラと音を立てている。


「ははは、いい反応するなあ」


「からかわないでください!」


 弟君が去ってすぐ変化を解くなんて、万が一弟君が戻ってきたときにどうするつもりなのかと思う。

 それと同時に、最近、杏介との距離が近いと感じる。元から距離の近い青年だが、拍車をかけて近くなっている。触れてはいないものの、彼の体温を感じるほど、距離が近いときがあるのだ。

 本当に大胆だ。その大胆な行動のせいで、松風の心の臓がどれだけ逸っているのか、杏介は知らないだろう。

 ふわりと風が吹き込む。暖かな春の風である。その風が赤みを帯びた金糸を揺らし、その金色に紛れるように花を模した耳飾りが揺れる。


「……!」


 さらさらとした絹のような髪、悪戯っ子の目。彼を象徴するような唐桃色が日の光を浴びてさらに際立つ。


「ん?」


 じっと見つめる松風に杏介は首を傾げる。


「松風?」


 呼ばれた松風ははっと息を呑むと顔を背ける。


「すみません」


「いいや。俺の顔、何かついてた?」


 杏介はペタペタと己の顔を触る。触った感じ、とくに何もないように思う。


「その……杏介殿って春ののどかなお日様みたいですね」


「お日様?」


 杏介は窓から射し込む日の光を見上げる。昼間の光は夜を得意とする妖である杏介からすると眩しい。


「髪や瞳の色ももちろんですが、春ののどかな日に射し込むお日様の光みたい」


「そうか?」


 杏介自身、あまり考えたことがない。お日様、それも、春ののどかなお日様なんて言われるとは初めてだ。周にも言われたことがない。その色目立つと言われたぐらいだ。


「麗らかな春の日差しのようにお優しい方だと思いますよ」


 あの日、飛び込んできた熟れた唐桃色は暗く、沈んでいた松風に一筋の光を下ろした。その光は温かく、優しい光で、まるで光ののどかな春の日を思わせる。

 死にたいと願う日が減った。それは杏介が飛び込んできて以来、そう思うことが減った。いや、最近ではそう思うこともなくなった。次、杏介が来るのはいつかと心待ちにしている松風がいるぐらいだ。


「夜を生きる妖にお日様みたいって変なこと言うな」


「そう言っておきながら、白昼堂々出歩いているではありませんか」


 おまけに、屋敷から食料を盗み出す始末である。昼も夜も関係ないではないかと松風は思う。


「この時期は暖かいから、とくにな」


「もう……」


 呑気な妖だと思った松風はひとつ息をつく。


「いいじゃねえかよ。昼間からだと、松風も退屈しないだろう?」


「否定はしませんが……」


「ほらな」


 無邪気に笑う杏介の動きに合わせて耳飾りも揺れる。


「……そう言えば、唐桃の花が咲く季節ですね」


 桜よりも早くに咲く花である。以前、彼の耳飾りを桜だと間違えたことがひどく昔のことのように思う。


「そうだね。見に行くか?」


 杏介はちらりと松風を見やる。


「……え?」


「結局、この一年、外に出なかったし」


 杏介は何度か松風を連れ出そうとした。しかし、松風は杏介に誘いを拒み続けた。見つかったときが危険すぎると松風は言うのだ。

 この一年、松風の元へ通った杏介からすると、警護の順路的にそう簡単に見つかることがなさそうなのだが、松風は頑なに首を縦に振らない。


「……」


 松風は視線を逸らす。


「……外が怖いのです」


 松風は視線を下げる。細い自分の手首が頼りない。


「杏介殿のお話は非常に興味深いです」


 彼の友のこと、妖界のこと、食べ物のこと、噂になっていること、景色のこと。

 杏介は松風に多くのことを語ってくれる。その話を聞くのが松風の楽しみになっている。

 しかし、だ。


「ですが、あなたが話す外の世界のことを自分の目や耳で見聞きしたとき、絶望してしまうかもしれない」


「絶望?」


 唐桃色が揺れる。眩いその金糸が松風の表情を暗くさせる。


「どれだけ美しい物を見ても、どれだけ楽しい経験をしても、いつかはここに戻らなければならない」


 暗く、澱んだこの小屋。帰ってこなければならないのだ。それを考えてしまうと、外に出ることが怖い。見てみたいものはたくさんある。触れてみたいものもたくさんある。

 だが、脳裏に継母の言葉がよぎってしまう。


「『お前はここでずっと暮らすのだ』と」


 継母の言葉が松風を縛りつける。生きられるだけでもありがたく思えと欲にまみれた目が言うのだ。


「絶望したくないのであれば私は」


 外へ出ない方がいい。松風は続く言葉を飲み込む。


「……多くを望まない、か」


 ぽつりとこぼれた杏介の言葉に松風は顔を上げる。

 溶け出してしまいそうな金色が注がれる。


「俺は松風と一緒に見たいものがたくさんあるんだけどな」


 軽やかな口ぶりではない、花がはらはらと散り行くような憂いを帯びた声だ。そんな声とは対照的に彼の瞳は熱を帯びている。


「春の桜も、夏の蛍も、秋の紅葉も、冬の雪も」


 どれもが刹那的な物だ。ずっとは残らない、散り行く瞬間的な物だ。だからこそ、松風と一緒に見てみたいと思う。共有したいと思うのだ。


「まあ、見に行けなくても、俺が持ってくることができるものなら持ってくるさ」


 からりと笑う杏介のその表情はいつにもまして寂しげなものだ。春の陽だまりのような彼のことが霞がかって見えた松風はごめんなさいと小さく声を震わせるのであった。

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