#3
コツン、と何か音がする。それからすぐ後にまた、コツン、と音がする。その音にとくに反応せずにいると、今度はカリカリと引っ掻くような音がする。カリカリ、カリカリ、と続くその音に少女は身体を起こし、窓を開ける。すると、隙間を縫うように、ひょい、と唐桃が飛び込んでくる。入って来た瞬間は可愛らしい狐の姿なのだが、着地すると同時に人間の姿へ変わる。三角形の耳につけられた飾りがチャリ、と音をたてる。
「よっ、お姫様」
暗がりに陽気な声が飛び込む。
「……」
じとっと据わった眼差しを送られる青年は首を傾げる。
「言ったじゃん、また来るって」
「……本当にいらしたのですね」
「ふふん。お詫びとお礼にね」
青年は懐に手を入れ、掌に収まるぐらいの小さな袋を取り出す。
「あげる」
「……」
姫君は目を凝らす。今夜は曇っていて、月も星も灯の役割を果たさない。青年の手に顔を近づけるわけにもいかず、目を細める。すると、ぽっと灯が点く。真っ暗闇の室内を照らす灯は炎だ。小さな炎が青年の空いた手に宿る。
初めて青年の顔をはっきりと見る。赤みを帯びた金色の髪と瞳が目立つ。肩の辺りまで伸びた金髪が囲む中性的な顔立ちはまだ幼さを残している。狐の妖らしく、人の姿でも狐顔だ。つり気味の目をしているが、冷たさはなく、むしろ人懐っこい。軽やかな声音から想像していたとおりの顔立ちの青年だ。
そんな青年の頬には傷ができている。擦ってしまったのか、その傷は痛々しい。
「怪我を?」
「ん? あ、これ?」
青年は頬に手を添える。
「ちょっと受け身取るの失敗して。でも、大した怪我じゃないし」
喧嘩をしてできた傷だ。こうも隠せないところに傷を作ると面倒だ。
「まあ、綺麗な顔に傷ができちまったのは残念だけど」
青年はわざとらしくため息をつく。
「……」
「おっと、またその目をする」
へらっと笑う青年に対し、じとっと据わった目をする姫君。そんな姫君に青年はケタケタと笑う。それに合わせるように小さな炎がゆらゆらと揺れ、青年と姫君の間に漂う。
「そんなことよりも、ほら、これあげる」
青年は姫君の手を取り、掌のそれを渡す。青年の手は大きく、中性的な顔立ちに反してしっかりしている。
「……これは?」
姫君は渡された物をじっと見つめる。それは何かの包みのようだった。
「開けてからのお楽しみ」
青年はニコニコと笑っている。姫君は青年と包みを交互に見た後、ゆっくりと包みを開ける。包みからふわりと華やかで甘い香りが広がる。
「……匂い袋?」
包みから可愛らしい桜色の袋が顔を覗かせる。
「おう」
「……」
姫君は匂い袋を鼻へ寄せる。
「……甘い香」
「だろう?」
「清らかで、気品があって優しい香ですね」
香りの奥でひっそりと控えめに澄んだ香がする。
「聞いたことのない香」
「お姫さん、詳しいのか?」
「……別に、そんなことは」
姫君はふいと顔を背ける。ただ、どことなく母が愛した香に近しいような気がして、懐かしく思う。
「気に入ってくれた?」
「ええ……。頂いていいのですか?」
「うん、あげる。お姫さんによく似合う香りだと思ったから」
青年は、どっこいしょ、と言って腰を下ろす。
「……え?」
「ん?」
当たり前のように寛ぐ青年に姫君はまばたきを繰り返す。
「帰らないのですか?」
「もう少しゆっくりさせてくれたっていいじゃないか」
ほら、と青年は炎をひとつ、ふたつ、と増やす。部屋がかなり明るくなる。
青年の目は夜闇でもよく見えるのだが、こうして灯を点けると姫君が過ごすこの建物の中がよく見える。やはり、どう考えても大名家の縁の姫君が過ごすような場所ではない。全体的に室内にある物は古く、質素だ。彼女が身にまとう衣も繕った跡がかなり見られる。髪に艶がなく、顔色も覇気がない。
隔離されている。屋敷からも離れた小屋ということもあり、彼女の扱いは到底姫君という扱いを受けていない。罪人と大して変わらないと思うぐらう、姫君の扱いが粗雑だ。
「ここには何もありませんよ」
ここには何もない。必要最低限の生活用品ぐらいだ。誰かをもてなせるような物などない。むしろ、客を招くことなど、できるわけがない場所だ。
「本当、何もなくて退屈そうだな。どうしてこんなところに?」
「……あなたには関係のないことです」
姫君はつっけんどんに返す。
「ふーん? 気の毒にな」
宙に浮かぶ炎で遊ぶ青年に、何とも自由気ままな、と思いながら姫君はため息をつく。妙な者に目をつけられてしまったようだ。夜、窓を開けていなければこんなことにならなかったのに、と後悔する。
結局、昨晩の騒動の犯人は捕まらなかった。現に、こうして青年がいるのだから、彼は上手いこと逃げたのだろう。歳の近い侍女が、大丈夫でしたか、と朝方尋ねてきたときに取り逃したと話を聞いた。
「そう言えば、お姫さんの名前聞いてなかったな」
話題が突然飛ぶ。正直、話が逸れてよかったと姫君は胸を撫で下ろす。
「私も、あなたの名前を聞いていないのですけど」
「あ、そう言えばそうだった。俺は杏介」
青年は自分を指さして名乗る。
「杏介殿……」
唐桃の実を思わせる色を持ち合わせているだけあって、その名がしっくりくる。
「杏介殿だなんて恐れ多い。杏介でいいよ」
ヘラヘラと笑う青年、杏介に対し、姫君は目を伏せる。
「いいえ、杏介殿と呼ばせてください」
彼は妖だ。見た目は若いが、自分よりも年上だろうとわかる。狐姿の彼の二本の尾がその証明だろう。狐の妖は百年経ると尾が一本を増えるという。つまり、彼は二百年は生きているということになる。
「俺、そんな敬称をつけられるほど偉くもないし、何もないんだけど」
杏介は頭を掻く。
杏介はただの妖狐だ。何か地位があるわけでもない。何か偉業を成し遂げたわけでもない。杏介殿と呼ばれるほどの何かを杏介は持ち合わせていないのだ。
それこそ、扱いはどうであれ、姫と呼ばれる彼女に敬称をつけられて呼ばれるなんて、予想外だった。妖である自分に対し、杏介殿と呼ぶとは変わっていると思うぐらいだ。
杏介殿など、呼び慣れないため、違和感が強い。腐れ縁の彼がいたら、もったいないと言いそうだ。あの細い目が冷めた眼差しを向けてきそうだ。
「で、お姫さんの名前は?」
呼び名はともかく、杏介は彼女に名乗った。名乗ったのだから、教えてくれよ、と杏介は促す。
「……」
姫君は杏介から顔を背ける。
「……名乗るような名はございません」
姫君は消え入りそうな声で答える。
「名乗りたくないなら、そう言ってくれていいぞ」
「いいえ、ないのです」
姫君の声が震える。
「じゃあ、こう呼ばれているとかはないのか?」
「それもありません。わかるでしょ? このようなところにいる私の扱い」
屋敷から離れた物置のような小屋にたった一人。姫とは名ばかりの扱いを受けているのだ。
もう自分のことを名前で呼んでくれる者はいない。自己を紹介することもない。長いこと、自分の名の響きを聞いていないのだ。
その名は果たして自分の物なのか。そう疑問に持つほど、姫君を表す名は薄れかけている。今更名乗っても、それが己の名だと認識できるだろうかと不安になる。
「……それなら、こう呼ばれたいとかはないのか?」
杏介の言葉に姫君は目を見開く。
「お姫さんって呼ぶのも悪くはないけど、何だかね……。せっかく知り合ったんだし、呼び名があったっていいだろう?」
杏介殿、お姫様、と呼び合うのは何だか仰々しい。杏介としては好ましくないのだ。
「……これからも来るのですか?」
呼び名があってもいい、という彼の言葉からそう感じた姫君は杏介を一瞥する。
「そのつもり」
ケロリと言いのける杏介に姫君は唖然とする。何もないこの小屋になぜ来るのか。みすぼらしい恰好の自分は何の面白味もなく、魅力もない。ここに杏介が楽しめるようなことなど一切ないのだ。
対して、杏介はと言うと目を細める。炎の光と受けて、温かみのある橙色を宿した瞳が姫君を逃がさまいと捉える。
「だから、俺は名乗った」
「……」
「言ってくれないと、俺が適当につけるぞ」
うーん、と腕を組んで杏介は考えだす。どこまでも奔放な口ぶりの杏介に姫君はため息をつきたくなるも、ぐっと飲み込む。
「……松風」
飲み込んだため息の代わりに姫君はぽつりと名をこぼす。
「松風?」
杏介が尋ねると姫君は小さく頷く。下手に名をつけられるよりも、こちらから名乗った方が賢明だと姫君は判断した。その名だ例え、偽りの名だとしてもだ。
「そうお呼びくださいませ」
「松風か。わかった」
松風、松風、と杏介は繰り返す。
明らかに仮名だろう。そう思いながらも、彼女に何かしら縁のある名だろうと推測する。
「……あの」
「ん?」
浅い思考から意識を戻した杏介は首を傾げる。真剣な眼差しの松風が杏介を見据えている。
「色々とお尋ねしたいことがあるのですが」
「俺も」
よいせ、と言って杏介は横になる。ここはあなたの自宅ですか、と問いたくなるほど杏介は寛ぐ。
「まあ、お先にどうぞ」
うつ伏せで頬杖をつきながら杏介は松風に促す。長丁場になりそうだと覚悟した松風は杏介に向き直って座る。
「杏介殿はなぜこれからもここに来るつもりなのですか?」
「そりゃあ、興味そそられるでしょ。物置みたいな場所で暮らすお姫様」
無邪気に言う杏介に松風は顔をしかめる。
「私は見世物ですか?」
「俺からすれば……というか、世間一般的に見れば珍しいよな」
松風を見れば、召使以下の扱いである。屋敷で働く侍女たちの方がいい着物を着ている。もしかすると、そこらの地主の娘の方がいい物を着ているかもしれない。
しれっと言いのける杏介に所詮自分は見世物と変わらないのかと思った松風は胸の内をそのまま投げ出す。
「あなたがここを訪れる理由は物珍しさからですか?」
「そういうこと」
にこりと杏介は笑う。それに対して、松風はさらに顔をしかめる。
「……私がここにいる理由をお話すれば二度と来ませんか?」
正直、厄介だ。杏介の人懐っこいところにつけいられそうになっているが、彼は妖だ。何を考えているのかわからない者と交流を持ちたくはない。
「教えてくれるのか? 俺が知りたかったことなんだよな、松風がここにいる理由」
挑発するような松風の物言いに対し、杏介は目を輝かせる。その姿に何とも言えない不快感を覚えながら、松風は視線を逸らす。
「簡単なことです。継母が別の女の娘である私を気に入らないから。それだけです」
松風の母は松風が幼いときに亡くなった。松風の母は継母よりも格式のある家柄の娘だった。そのため、継母はその血を引く松風のことを嫌っていた。母が亡くなり、祖父母もいない松風を邪険に扱う継母は、ありもしない松風の悪口を父に吹き込んだ。その結果、父から嫌われてしまい、小屋へ追いやろうとした継母の案に乗ってしまった。
そして、小屋に追いやられてからというものの、下女と変わらない扱いになってしまった。針仕事の大半が回ってくるようになったのだ。この量をいつまでに、と無茶ぶりされ、間に合わなければ食事を抜かれる。手を休めたり、寝ようものなら殴られもする。そんな日々が送るようになってしまった。
それだけではない。母や祖父母が遺してくれた調度品も奪われた。これ借りるわね、と言って持っていかれた物はずっと返ってこない。それがないと困ると言うと、これを代わりに使って、と見るに堪えないほどひどい調度品を押しつけてくる。針仕事は嫌いではないため、まだ耐えられるのだが、母や祖父母の遺品だけは返してほしいと思う。それを伝えたところ、住まわせてやっているのだから感謝しろ、と汚い言葉で罵られる。侍女が気を回してくれているようだが、継母や腹違いの妹たちの調度品の扱いはひどく、物によっては壊れてしまった物もあるという。
また、松風が追いやられてからの味方は少ない。屋敷の者の多くも継母の言葉に従ってばかりだ。母が存命の頃から仕えてくれた者たちの多くは継母側へと抜き取られてしまった。昨晩声を掛けてくれた警護の者や朝方訪れた侍女を含めたごくわずかな者のみが松風を気にかけてくれているのだが、彼らも表立って松風のことで動くことができない。以前、松風を気遣ってくれた侍女がいたのだが、継母に見つかり、暇を出されてしまったのだ。以降、彼女が戻ってくることはなかった。それを知った松風としても、慕ってくれる彼らを危うい立場にはできないため、継母側の仕事を最優先にするよう命じている。それでも、彼らは松風のためにと動いてくれるのだが、何もできない松風はいつも申し訳なくなってしまう。
松風は視線を落とす。その視線を杏介は見上げる。
「苦労してるんだな、松風も」
杏介はぽつりと呟く。親友の顔が浮かぶ。彼もまた、背負って生きている。
松風の横顔は昨晩の顔と同じ、死を願う顔だ。生きていても意味がないと諦め、絶望している顔だ。親友と出会って最初の頃は、彼もそんな顔をすることが多かった。
最近は笑うようになったけども、と杏介は友の顔を思い出す。幼い頃に傷を負うとそれを引きずってしまうのは彼も松風も同じようだ。
「じゃあ、もうずっとここから出てないってことか?」
追いやられた松風に与えられた自由は少ない。戸に鍵がかけられていることも確認済みだ。
松風の意志で好きなように動けるわけがないだろうと推測した杏介の問いに対し、松風は憂いを帯びた眼差しで窓を見上げる。今は閉じられている窓の向こうの世界は狭く、切り取られている。四季折々で変わるものの、変わり映えのない物寂しい光景である。
「そうですね。母屋に行くことも滅多にありませんし」
最後に行ったのはいつだろうか、というぐらい足を運んでいない。侍女や警護の者から母屋の様子を聞きはするが、その程度だ。庭を歩くことすら許されないため、日の日差しを浴びることもほとんどない。そのため、松風の肌は恐ろしいほどに白い。
「つまり、屋敷の敷地から出たこともない、と」
「はい」
「それはまた……」
うーん、と杏介は考え込む。
継母の感情に振り回されて気の毒だ。いつからこうして暮らしているのかわからないが、いつ気が触れてもおかしくないような状態だ。
外の世界を知らない姫君は多いだろうが、松風の場合はまた違う。
「面白味がなくて死んでしまいそうだ」
それこそ、死にたいと顔に出るぐらい、辛く、苦しく、退屈だろう。そのような状況に陥ったら杏介は耐えられない。
「松風はそれでいいのか?」
「この現状を変えられるとお思いですか?」
変えられるのであれば変えたいと松風は思う。贅沢な暮らしでなくていい。華やかな着物や綺麗な調度品に囲まれる生活でなくても、継母の目がないところならばどこでもいい。どこか遠くへ行って、静かに暮らしたいと思う。世を捨ててしまってもいい。
しかし、それができたら苦労しないのだ。現状、数少ない協力者たちは松風が生きていくための根回しをするので精一杯だ。この屋敷の外へ出るなど、簡単にできるわけがないのだ。
「それもそうだなあ……。それこそ、誰かが連れ出しでもしない限り難しいだろうな」
杏介は身を起こし、座り直す。チャリ、と耳飾りが揺れる音に松風は無意識の内に俯いていた顔を上げる。
「そんな、物語のようなことがありますか」
光り輝く皇子や恋多き男のようなそんな物語のようなことが起こるわけではない。松風は夢見たことはあるが、所詮物語の中の話だと重々承知している。
「それとも、あなたが連れ出してくださるのですか?」
松風は試すように言う。すると、杏介はぽんと手を叩く。
「いいぞ」
「……え?」
思わぬ返答に松風は呆気に取られる。できない、と断られると思っていたのに、すんなりと了承の言葉がでてきて驚きを隠せない。それも、当然のように受け入れたのだ。
「な、何を言っているのです!?」
「何って別にそのままだけど。松風が望むなら手伝う」
自分で言いだしておきながら何を慌てているのだと杏介は不思議に思う。
「え、いや、ちょっと待ってください。私たち、まだ出会って二日目ですよ。そんな二つ返事ができるほどの関わりないです」
それも、出会いは決していいものではなかった。今思い返すと、飛び込んできたときの姿は可愛らしい狐であったが、こうして人の姿を取ると男だ。男性に押し倒されたも同然である。思い出すと頬が熱くなる。
「関係が必要なら築くぞ」
杏介は首を傾げながらけろりと言う。その態度に松風の口が塞がらない。
「……もしかして、罠ですか?」
ふと平静を取り戻した松風は体温が下がったと感じる。
彼は妖だ。それも化ける能力を持つ。上手いこと口に乗せられているのではないかと勘繰ってしまう。
「警戒心強いなあ」
「当然です」
妖を怪しむのは当然のことだ。こうして言葉を交わしている状態が異常事態だ。
「殺してくれないかと言っていたくせに、今さら何を怯えることがあるんだ?」
黄金色の瞳がすっと細くなる。部屋の空気が下がったような気がして松風は身を震わせる。
「……」
「死にたいんだか、生きていたんだか……。よくわからないお姫様だが、そこが面白いんだよな」
杏介にはよくわからない。なぜ、死にたいと思うのか。生きていて辛いことも多いことはわかっているが、逆に、生きていればいいことだってあると思うのだ。どれだけ、今がつまらなくとも、これから先の未来には何かがあると思うと過去をずっと引きずるよりも、まだ見ぬ未来を迎えたいと強く思う。だから、杏介は死にたいと思わない。
松風は今が辛いから死んでもいいと思っているのだろう。だが、いざ、死が近くなると怯える。この矛盾がまた興味深く、可愛そうな人間だとも思う。杏介よりも随分と若い姫君の境遇に自然と興味を惹かれる。
「……この環境ではもう生きていたいとは思いません」
「環境が変われば生きたくなるかもしれないと?」
「変わった環境にもよりますけど」
「ふーん」
杏介は腕を組む。
「じゃあ、ここから抜け出してみるか?」
「……」
松風は目を伏せる。
母が生きていればこうはならなかっただろう。母が亡くなって、継母が力をつけたから。環境が変わったから、松風の扱いが変わった。姫として与えられていた物全て奪われた。形見も奪われた。
また環境が変われば。今のこの環境から抜け出すことができれば。
「……本当に連れ出してくださるのですか?」
「もちろん。松風が望むなら」
杏介はすんなりと答える。松風はそんな杏介に視線を送る。
「どうしてそこまでしてくださるのですか?」
杏介には利がないように見える。実は、松風を連れ出して喰らおうとしているのかもしれない。
熟れた唐桃色の耳がピクリと動く。
「俺の趣味、興味のため。退屈が凌げればいい。言うなれば観察だ」
「観察……」
観察のために連れ出すというのもまた変な話だ。どう考えても松風を観察しても面白味はないだろう。ただ、杏介からすると、変わった境遇の娘を見ていただけのようだが。
「んー、松風が松風のこと話してくれたから、俺からも俺のことを少し話そうかな」
そう言って杏介は耳飾りに触れる。桜のような花の耳飾りだと松風は思う。
「俺、退屈なの好きじゃないんだ」
ふらふらと歩き回る。それが杏介だ。
生まれは妖狐たちが暮らす里。幼少期は家族や同族と共に暮らしていた。そこでは変化の術や狩りなど、生きていく上で必要なことを教わった。
しかし、ある日、飽きてしまったのだ。変化の術を覚えたところで、その力を使うことはほとんどなかったし、化けられる姿は限られていた。
杏介が化けられる姿は杏介自身が見たりした者の姿のみ。声も聞けば真似られる。もっと力をつければ思うがままに変化できるのだが、里の妖狐たちはその力を持て余してした。
つまらない。退屈。そう思った杏介は里を出ることにした。里という限られた世界ではなく、里の外、杏介の知らない世界を見たいと思ったのだ。
家族や同族たちはあっさりと承諾した。むしろ、出て行きたければ好きにすればいいという態度だった。よくも悪くも放任主義の里であったこと、もうしばらくすれば二尾になれるという条件が重なったため、杏介は里を出た。
その道中で彼と出会った。最初は嫌がられたが、徐々に杏介を受け入れてくれた彼とはあちこちで悪戯したり、喧嘩したりとぼちぼち楽しい日々を送っている。
「っていうときに、松風と出会ったわけだ」
杏介に指をさされた松風は嫌そうに顔をしかめる。友と出会ったときも同じような顔をしていた。
「はあ……」
何とも自由気ままな生を送っていると松風は思う。その行動力は羨ましくもあるが、松風にはその勇気なく気が沈む。
「ってことで、今後もよろしく」
杏介はくわあと大きな欠伸をし、横になる。
「……まだいらっしゃるつもりですか?」
呑気に寛ぐ杏介に嫌気が差してきた松風は直球に問う。
「いいだろう、別に。どんちゃん騒ぎしなければ、ここまで見張りは来ないだろう?」
「そうですけど……」
「まだ朝まで時間がある」
太陽が昇るまでは月が支配する時間だ。春の冷たい夜風が窓の隙間から漏れ入る。
「まあ、ちょいと話をしようぜ。まだ互いのことを知らないのだから。もっと楽しい話をしよう」
杏介はゆっくりとまばたきをする。小さな灯が杏介の熟れた唐桃色の髪と瞳を照らす。その光が反射され、少しばかり明るいと松風は感じる。
「湿気た場所で湿気た話をしても気が沈むだけだから」
なあ、と見上げる杏介に松風はため息をつく。
「……」
退屈。松風にとって、この小屋は退屈な場所だ。針仕事があるときはあっという間に時間が過ぎてしまうのだが、眠れない夜は本当に退屈だ。気を紛らわせることができるものは少ない。
それなら、彼の話につきあった方がまだ有意義な時間を過ごせそうな気がしてきたのだ。
決して絆されてはいけない。松風は自分にそう言い聞かせる。
「……わかりました」
「おっ、いいねえ」
子供のように無邪気に笑う杏介の耳飾りがチャラチャラと音をたてる。
「早速なのですが」
松風は軽やかな音をたてるそれに視線をやる。何を話せばいいのかよくわからないところだ。彼自身について訊くのも手ではあると思うのだが、ちょうどよく視界に入ったそれに興味がそそられた。
「その耳飾り、桜ですか?」
「いいや。唐桃の花だよ」
似てるけどなー、と耳飾りをつまんだ杏介はのんびりとした口調で答える。
「似ているのですか?」
唐桃の実は絵で見たことがあるが、花は見たことがない。桜とよく似ているのかと思っていると、杏介が耳飾りを外す。
「色とか似てるかな」
ほら、と杏介は耳飾りを差し出す。
「え?」
「あくまで唐桃の花を模した物だけど、近くで見てみた方がいいだろう」
「え、あの……」
戸惑う松風の手を杏介は取る。小さく、かさついた手は冷たく、頼りない。
「はいよ」
杏介は松風の手に耳飾りを置く。
「結構よくできていると思うんだ」
「へえ……」
松風はしげしげと耳飾りを観察する。白い石か何かでできている唐桃の花の耳飾りはよく見ると細かな装飾が施されている。
「……これ、かなりいい物なのでは?」
紐は大した物ではないが、花の飾り自体は繊細な作りをしている。松風の爪の大きさほどの小さな飾りは並みの職人の手によるものではないだろうと悟る。
「お目が高いな、松風。それ、俺が初めて稼いだ金で買った物なんだ」
「そうでしたか。いい物を買われましたね」
初めて稼いだ金で買ったというだけあって、手入れもされているのだろう。石に曇りがない。
「どんなお仕事をされているのですか?」
ふらふらしていると言ってはいたものの、金を稼いだと言うぐらいだ。どんな職に就いているのかと松風は気になった。
「ん? 喧嘩して、勝ったら金もらう。もしくは、金目の物もらって売る」
「……え?」
予想の斜め上を行く回答に松風の目が点になる。
「ふはは、間抜けな顔」
「予想外でして……」
血なまぐさい話になってきた。そう思うと、この耳飾りは戦利品というべき認識になってしまった。
「俺としては満足のいく買い物だったけど」
「……左様ですか。ですが、これ、紐の方がちょっと」
花の飾りに対して、紐は不釣り合いだ。粗雑な感じがする。
「ああ、紐は切れたりして俺が適当なのに付け替えてるから」
「そうなのですか? それは勿体ない」
せっかくいい飾りなのだから、紐もいい物にすればいいのにと思う。
ふと、松風の脳裏に一筋の糸がよぎる。
「……杏介殿。差し支えなければ、この紐、変えませんか?」
「ん?」
確か、と松風は背後の裁縫箱の蓋を開ける。その中から何本か紐を取り出し、杏介に見せる。
「匂い袋をいただいたお礼に。せっかく綺麗な飾りなのですから、紐も相応の物にした方が杏介殿にお似合いだと思うのですが」
「そんなこと気にしなくてもいいのに」
匿ってもらった礼の匂い袋だ。お礼のお礼になってしまって杏介としては悪い。
「んー、でも、松風の言うとおり、紐がな……」
今の色は杏介の髪色とも合わない。それなら、と杏介は松風が出してくれた紐をじっと見る。
一本、深緋の紐が目に留まる。杏介が見つめていると、細い指が紐を掬い上げる。
「これ、いい色だと思いますよ」
「俺もそう思う」
「では、この色にしてみましょうか」
ね、とどこか楽しそうな松風に杏介は頷く。
松風は慣れた手つきで紐を取り換える。いとも容易く行われる手の動きを杏介は興味深げに見つめる。
「はい、どうぞ」
杏介は差し出された耳飾りを受け取る。こうして見ると印象がガラリと変わる。
早速つけた杏介は松風が差し出す鏡を見る。装飾が剥げた鏡だが、鏡面は綺麗に磨かれていて曇りがない。
「いい感じだ!」
唐桃色の髪に深緋色が映える。また、深緋と白い花の対比がまたいい。
「よかった」
松風はほっと息をつく。橙色の灯が照らす杏介の髪と釣り合っていてよく似合う。
「あ、笑った!」
ぱっと表情をさらに明るくした杏介はすかさず鏡を松風に見せる。
鏡に映る松風は淡く微笑んでいた。久しぶりに笑った顔を見た松風はまた目を丸くする。
こうして笑ったのはいつぶりだろうか。侍女たちの前では無理に笑っていたのだが、今こうして笑えたのはなぜなのか。
松風は唐桃色を見上げる。キラキラと輝くその色は眩しい。夜のはずなのに、春の日射しのような彼に目を細めた。




