#2
外が何やら騒がしい。声を押し殺して泣いていた少女は顔を上げる。何事だろうか、と思い窓を少し上げると屋敷の者の声が聞こえてくる。何を言っているのかははっきりと聞き取れないが、怪しい者が侵入したようだ。どこに逃げた、あちらは、と家人の声が響く。
照りもせず、曇りもはてぬ静かなはずの朧月夜の下、屋敷は騒がしい。武器を持っている者がこちらに逃げてきたら、と思うと少女は身体が震える。春の夜の風が冷たいこともあるだろうと言い聞かせ、古い羽織を肩に掛け直す。
怖い。早く捕まえてくれないだろうか。そう願いながら少女は窓を閉めようと手を伸ばす。
刹那、黄金がしなる。雲の向こうの細い月とは違う金色だ。かすかな月明りと共に熟れた唐桃が少女の方へ飛び込んでくる。
「……え?」
咄嗟のことに少女は情けない声を漏らすことしかできない。頼りない月明りに照らされた唐桃がゆっくりと近づいてくるように見える。
一瞬の出来事に何もできず、少女は唐桃が飛び込んでくるがままに任せてしまう。
「いたっ……」
飛び込んできた唐桃は勢いのまま少女を押し倒す。その衝撃が少女の背に走る。幸い、布団の上に倒れ込んだため、硬い板に叩きつけられることなく済んだが、少女の布団は薄い。多少衝撃を緩和できたに過ぎない。
「だ、誰……っ!?」
「静かに」
小さな前足が少女の口元を押さえる。暗闇に浮かぶ唐桃色の体躯に少女は目を瞠る。
狐だ。その狐から言葉が発された。それだけでも十分可笑しいのだが、目を引くのはその狐の尾だ。
二本の尾がゆらりと揺れる。柔らかそうなその尾に少女の目は釘付けになる。あるはずのない一尾にこれは夢かと思うも、胸の上の温もりと重みに現実であると思い知らされる。
狐の細い眼がさらに細められ、外の方へ向けられる。こちらの方か、と男の声が張り上げられる。その内、足音がひとつこちらに近づいてくる。
「夜分に失礼します、姫様」
その声に少女は入口の方へ視線をやる。声を出そうとするも、狐の前足がぐっと少女の口を覆う。
「……はい」
その声に少女は狐を見上げる。今、少女は声を出していない。が、その声は明らかに自分の声だ。先ほど、静かに、と言った声とは違う声音を狐が発した。
「何か物音を聞いていませんか? もしくは、気配を感じたなど」
「いいえ。今、起きたところで何が何だか……」
焦りを含んだ己の声に少女は寒気を覚える。自分の声であるはずが、まるで別人の声のように聞こえる。
「そうですか……。申し訳ありません、すぐに捕えます故」
「ええ、お願い」
失礼いたしました、と言ってその声の主は遠ざかる。足音の集団は遠ざかり、外は静まり返る。
「……もう行ったかな」
狐は少女の口元を押さえる手を緩める。
「……んん、む」
「あ、もうちょっと黙っててくれるか? 悲鳴あげられちゃあ、すぐに来るだろうし」
悪いな、と狐は呑気に言う。しかし、少女は首を横に振る。細身の体躯の割には重さがある。正直、口元も押さえられているし、胸の辺りに黄金の毛玉が乗っているしと息苦しい。背中も痛む。
そもそも、この毛玉は何だと少女は問いたい。突然、飛び込んできたと思いきや、こうして口を塞がれた。人の言葉を話すだけでなく、少女がわずかに発した声だけで声真似をしてみせた。通常は一本しかないはずの尾は二本あり、訳がわからない。
妖。少女の脳裏にその言葉がよぎる。九尾の狐の姿がよぎり、血の気が引いていく。殺されるのではないか、と思うと少女の身体の熱が下がっていく。払いのけようにも身体は動かず、このまま死んでしまうのではないかと思う。
いや、それならそれで。恐ろしい人間よりも、可愛らしい見目の獣になら。
そう考える少女の視界が霞んでいく。獣の毛並みが滲んでいき、まるで、朧月のようにはっきりと見えなくなってしまう。
「あ、お、おい。泣くなって。苦しかったか?」
狐は少女の口元を押さえる手を離し、彼女の身体から下りる。ぽろぽろと泣く少女に狐は耳をぺたんと折る。
「突然飛び込んできて悪かったよ」
このとおり、と狐は前足を合わせる。人間で言う手を合わせる仕草に似ている。しかし、少女の目は狐を見ていない。天井をぼんやりと見つめながら静かに涙をこぼしている。
「もう何もしないからさ。外が落ち着いてきたら出ていくから」
狐は、クーン、と喉の奥から情けない声を発する。ふさふさとした尾は床にぺたんと垂れる。
「驚かせてごめん。取って食ったりしないから」
そう言って狐は後ずさる。少女と距離を取った狐は戸に聞き耳を立てる。まだ外は騒がしく、自分を探しているようだ。盗人はどこだ、と怒号が飛んでいる。
「……」
狐は戸から耳を離す。まだ動こうにも動けそうになさそうだ。
それにしても、と狐は目を凝らし、飛び込んできた部屋を見渡す。それほど広さのない場所である。逃げることに夢中でたまたま窓が開いていた場所に飛び込んだのだが、どうにも人が過ごすような場所ではない。
飛び込む前に見えた建物の雰囲気は古びた小屋だった。狐は物置か何かかと思っていた。しかし、布団が敷かれ、物は少ないが生活に必要な物が整頓されて置かれている。物置に使われそうな建物にたった一人、それも少女が過ごすには不釣り合いな場だ。
先ほど、見張りの男は少女に向かって何と言っていたか。姫様と呼んでいた。この屋敷の主は確か大名家に縁のあるような人間であったはずだ。詳しいことは興味がないため、それ以上のことを狐は知らないが、姫と呼ばれるような身分の彼女がこんなところにいるなんて不可解でしかない。
そんな彼女の身なりは何ともみすぼらしい。長い黒髪は艶がなく、身にまとう衣も古く、何度も手を入れて使っていることが窺えた。身体の線も細く、頬がこけていて、目が虚ろで実年齢よりも老けて見える。
姫と呼ばれるにしては貧相で地味。狐の目に少女はそう映る。姫と呼ばれた少女は今も天井を見上げたまま静かに泣いている。
可愛そうな子。そう思っていると、少女はおもむろに起き上がる。濡れた頬を手で拭い、泣き腫らした目で狐の方を見る。
「……あなた、何者です? 人の言葉を使うなんて、妖ですか?」
少女は暗闇にぼんやりと浮かぶ黄金に淡々とした口調で問う。
「まあ、そうだけど。まだ二尾だから、大した力はないけど」
狐はゆらりと尾を揺らす。何度見ても柔らかそうな尾は二本ある。
「ねえ、落ち着いてきた?」
「まあ……」
見た目に反して落ち着いた口調の少女だ。いや、落ち着いたというよりは、覇気がない。訳ありだな、と狐が思っていると少女は目を伏せ、肩に掛けた羽織を直す。
「一体、何をしたのですか?」
盗人が、という家人の言葉からしてこの獣が何かを盗んだことは容易に想像できる。
「腹減ったから、食料をちょろっといただきました」
狐は舌なめずりをする。さすが、大名家に縁のある家だ。食料が豊富で、美味かった。適当に果物を食べていたところ、見つかってしまったのだ。
「そう……。美味しかったですか?」
「美味かった。いいなあ、毎日美味いもの食べられて」
少女の身体が震える。その様子に狐は目をすがめる。少女の身体つきからして、まともに食べていないことは一目瞭然だ。
「ねえ、君、お姫様なの?」
そう呼ばれていたよな、と確認の意図を込めて狐は問う。
「……」
対して、少女は口を閉ざす。
「お姫様にしては適当な扱いを受けているな」
狐はゆっくりと少女に歩み寄る。
「何か悪いことしてここに閉じ込められているのか?」
「……」
少女は羽織をぎゅっと握る。ほつれている羽織に余計な皺が刻まれる。
「退屈だよな。こんなところに閉じ込められるなんて」
物がほとんどない狭い空間だ。人形や絵巻物など、姫君なら持っていて当然という物が一切ない。
この小屋には華がない。姫君と呼ばれる人間の空間ではないのだ。
「可愛そう」
狐が何気なく言うと、少女はゆるゆると顔を上げる。
「ほら、その顔だ」
狐はにやりと笑う。
「死にたそうな顔だ」
狐は足に力を込め、宙に飛び上がる。そして、くるりと回ると、音もなく着地する。
少女の目の前に現れたのは瓜二つの自分。少女は突然現れた己の顔に目を見開く。
狐が化けた少女は意地の悪そうな顔をしていると思いきや、その顔が歪む。今にも泣きだしそうな、だが、虚ろな表情だ。
その顔は鏡に映る自分の顔と同じだ。曇る鏡に映るその顔は、悲しくて、辛くて、消えてしまいたいと思うときのものと一緒だ。
「さっきはこんな顔してたのにね」
少女に化けた狐は少女の声でそう言う。
「随分訳ありなんだな」
次は狐の声で話す。
「……あなたは私を殺してくださるのですか?」
「おっと、そういう話になる?」
少女に化けた狐は顎に手を添える。気弱そうな少女から随分と物騒な言葉が出てきたものだ。
「だって、あなた、妖なんでしょ? 私を殺して、私の肉を食べればいいではありませんか。お腹も満たされますよ」
「いや、俺、人を食べる趣味ないし」
そもそも食べたこともない。妖怪の中には少女が言うように、人間の血肉を喰らう者もいる。が、全ての妖怪がそうという訳ではない。
「何? 本当に死にたいの?」
「……私が死んだって、悲しむ人はいないから」
少女の脳裏に一人の女性が浮かぶ。自分の名を呼び、優しく微笑んでくれた彼女はもうこの世にはいない。彼女が生きていたら、と思うも、それはもうどうしようもないことだ。
「ふーん」
狐は宙を見つめ、しばし考え込む。彼女と同じようなことを言っていた友がいる。彼と初めて出会ったとき、退屈そうな生を過ごしていると思った。そんな彼は己の命に無頓着で、とにかく自棄になっていた。彼女は彼とは違い放心状態に近い気がする。
だが、根っこにあるのは諦めてしまった心のように思う。友も彼女もどうしようもない現状や未来に悲観し、絶望しているようだ。
「つまらない人生送ってるんだな」
「……あなたは楽しい日々を過ごしているのですか?」
「楽しいっちゃ楽しいけど、最近はちょっと刺激が足りないかな」
日常は好ましいが、あまりに単調すぎるのは狐にとって楽しくない。時々でいいから何かしらの刺激が欲しくなる。
「少なくとも、お姫さんよりは楽しいね」
少女に化けた狐はにこりと笑う。
「そう。……あの、まだいるつもりですか?」
もう家人の声はほとんど聞こえない。出るなら今ではないか、と少女は視線を狐に送る。
「あれ? 俺、追い出される感じ?」
「外が落ち着くまでという話では?」
「まあ、そうだけど」
少女が指摘するとおり、家人の声はもう遠い。
「……」
少女は狐に背を向け、布団を整え始める。
「あらら、振られちまった」
軽口の狐を一瞥した少女はしっしっと手を払う。狐はやれやれと肩をすくめると、少女の背後を取る。少女の肩越しに見えた黒髪がみるみるうちに黄金に染まっていく。それに気がついた少女は背後を振り返る。
熟れた唐桃の色。赤みのある金色の髪と瞳を持つ若い男がいた。暗がりでその顔ははっきりとはわからない。
「匿ってくれてありがとう。また遊びに来る」
軽やかな声音でそう言いのけた狐は小さく笑う。
「……はい?」
今何と言ったか。
困惑する少女に対し、人間の男性の姿になった狐は怪しく笑うと、少女から身を引く。彼の耳についた飾りがチャラと音をたてる。
「じゃあ、また」
そう言って青年は立ち上がる。
朧月が彼を照らす。柔らかな光はほとんど届いていないものの、彼の黄金色の髪は明るく、部屋を照らすようだ。
青年はひらひらと手を振り、狐の姿に戻る。軽やかに飛び上がった唐桃色のしなやかな身体は窓からするりと抜け出る。名残惜しそうに揺れた二本の尾を見送った少女はぽかんとしたまましばらくの間動くことができなかった。




