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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
胡蝶の迷い 雪にまじりて見えぬ夢
42/88

#3

 休憩と昼食を挟み篁、周、望の話し合いは続いた。しかし、これと言って目ぼしい情報は他になく、篁の方から出せる情報は全て出したということで話が終わった。

 周はいくつか気になる点があったようだ。昨夜、篁から借りた本やこちらの妖街の貸本屋から借りた本を読み込むため、現在、部屋にこもっている。望は手伝うと申し出たのだが、借りた本は全て古い文献ばかり。漢文であったり、崩し字で書かれていたりと、望が読むには難しい本しかなかった。そのため、望は周から、遊びに行っておいで、とやんわりと戦力外通告をされてしまった。どうしたものかと思案している望に案内してあげると朱莉が申し出てくれたため、小さな式神と一緒に周囲を観光した。

 夕食や風呂も済ませた現在も周は部屋に引きこもっている。先ほど、様子を確認したところ、ちょっと気になるところがあるんだ、と言っていたが、内容を教えてもらえなかった。

 とくに何かできることのない望は朱莉とおしゃべりしていたのだが、途中で朱莉は玄に呼ばれ、一人になった。持ってきた本を読んで時間を潰していたのだが、それも読み終えてしまった。

 時計を見ると十時過ぎ。明日は周と一緒に京都観光をする約束をした。観光した後、夕方には京都を出るという予定だ。動き回ることが予想されるため、早めに休んでしまってもいいかと思う反面、眠気がない。どうしようかと思いながら、何か飲み物をもらおうと思い、客室から台所へ向かう。すると、台所には電気が点いていて、人影がある。その人影は望に気がつき、振り返る。


「舟橋さん?」


「あ、篁さん」


 望は篁に会釈する。昨晩と同じく、黒い衣に身を包んだ篁が台所に立っていた。


「どうした?」


「お水をいただこうかと思いまして……」


「水? ココアでもいれようか?」


「え?」


「今からいれるところだし、嫌いじゃなければ」


 篁の手元を見れば、粉末と牛乳、鍋が用意されている。


「篁さん、ココア飲まれるのですか?」


「たまに飲みたくなる」


「へえ……」


 意外だ。こう言っては失礼だが、ココアを飲むというような顔立ちではない。加減にもよると思うが、ココアのような甘い飲み物は苦手そうな印象がある。


「じゃあ、舟橋さんも飲むということで」


「え、あの、いただいていいのですか?」


「構わない。一人分も、二人分もかわらないし」


 そう言って篁はもうひとつマグカップを取り出す。


「ストーブいれてリビングで待っていなさい。寒いだろう?」


「あの、お手伝いは……」


「気持ちだけもらっておこう」


 リビングへ、と望は回れ右させられる。申し訳なく思いながら、望は篁の言葉に甘えることにする。

 望はリビングの電気とストーブを点ける。暗かったリビングはぱっと明るくなり、飴色の床が眩しい。ストーブから吐き出される熱に冷えた手を温めつつ、台所で作業する篁の背を覗き見る。

 リビングからわずかに見える篁の背。ネットで調べた情報によると、篁の背は一九〇センチ近い長身であったそうだ。実際に会ってみると、確かに一九〇センチはありそうな背丈の持ち主だ。夕食に出掛けた際、通された個室の鴨居をくぐっているところを見たとき、本当に背が高いのだと実感した。周とて、背は低くないはずなのだが、二人が並ぶと周が小さく見える。望たちと歩くときは気を遣ってくれているが、一人のときは一歩が大きく、さっさと歩いて行ってしまう。

 何をしたらここまで背が高くなるのだろうかと望は不思議に思う。平安時代の男性の平均身長が一六〇センチ前後らしい。篁ほど背の高い人間は本当に稀だろう。若い頃は弓馬を好んだとのことだ。それでここまで背が伸びるのか。


「舟橋さん、どうした?」


 こちらを向かずに篁に呼ばれ、望はびくりと身体を震わせる。背中に目でもついているのかと思うほど、篁はさらりと呼んだ。


「えっと、篁さん、背が高いなあって」


 視線で気づかれたかと思いながら望は率直に答える。


「よく言われる」


 これだけ背が高ければよく言われるだろうと望は思う。すれ違ったときに、二度見しそうなほど背が高い人だと思う。加えて、整った顔立ちに人々は目を向けるだろう。


「一九〇近いとか」


「六尺二寸……一八八センチぐらい」


「四捨五入したら一九〇ですね」


 自動販売機と同じぐらいの男がいた、と言う春海が集めた烏の証言は間違っていなかった。外を歩いているときに、自販機と篁が並ぶとほぼ同じ高さだった。


「そうだな。昔、野山を駆けまわったからかな。ここまで背が伸びたのは」


「身体動かすの、お好きなんですね」


「勉強よりは。それで帝に叱られもした」


 漢詩文に明るい父を持つのに、と帝に嘆かれた。あの岑守の子なのに、と帝に言われたとき、父に申し訳なく思った。


「それからは勉学に励んだものだ」


「……」


 望は小野篁という人の経歴を調べた上で、昨日、今日と接してきた。インターネットや図書館で調べた情報によると、生前は漢詩文の才もあり、法律にも詳しい人物だったそうだ。律令の解説書の編纂に関わるということもしていたとのこと。遣唐使に任命されたという経歴もあり、知識人なのだろうと窺えた。

 そのような事前知識があった上で話してみて、かなり博識な人物であると思った。望の周りに篁のような豊富な知識を持っている人物はいない。千二百年という時を過ごしているからとも言えるのかもしれないが、それにしても多くのことを知っている。経験が物を言っているのだろう。

 他愛ない話をしながら夕食を共にした。望の大学での学び、とくに、心理学のことを話した。その際、専門用語が次から次へと篁の口から出てきて望は驚いた。他の話をするにしても、知らないことなどないといった口ぶりで話をする。望がわからないような話を周としているときも、言葉をかみ砕いて望も話に入ることができるようにと話をしてくれた。


「篁さんは物知りですよね」


「長いこと生きているからな」


 二十歳の娘と比べれば当然だ。彼女の六十倍の時を過ごしてきた。その時間に見合うだけの知識や経験を得てきた。


「よく本を読まれるのですか?」


「本も読むし、ネットで調べたりもする」


「結構電子機器使いこなしていますよね」


 スマホもタブレットも見事に使いこなしている姿を見かけた。電子書籍も購入しているし、映画も見ると朱莉が教えてくれた。


「せっかく便利な物が多いのだから、使った方がいい。若い内はとくに多くのことに接して、多くのことを吸収して自分のものにするといい」


 時間がある内にできることを。篁はそう思う。


「社会人になったら、金はあっても時間がないと思ってしまう。歳をとって定年したら、時間や金はあっても身体が思うように動かなくなる。……そう思うと、学生って金はないかもしれないが、自由が多い。何も、机に向かうだけが勉強じゃない。旅行に行くもよし、美味いもの食べるもよし、趣味に没頭するもよしだ」


 それも学び。学びの形は自分で設計していい。むしろ、そうした方がいいと篁は考えている。

 教科書に載っていることが全てではない。日常生活の至るところに学びの種は転がっていると思う。その中から興味のある種を撒いて水をかけ、育ててやればいい。花が咲いたところで終わらず、次の種を得て、また撒いてを繰り返していけば、自然と知識の幅が広がると考えている。


「そうですよね」


 家族や親戚からもよく言われる言葉だ。学生の内に遊んで、勉強しておいた方がいいと。働き始めると時間がないんだよね、と社会人の従姉が言っていたのが印象的だ。

 篁は二人分のココアを用意し、望がいるリビングまで運ぶ。ほろ苦い香りが漂う。


「ありがとうございます」


「どういたしまして」


 篁はソファに腰かけ、早速ココアを飲む。望はふうふうと息を吹きかける。


「今日も寒かったな。昼間も冷えただろう」


 昼間、望は朱莉と共に観光へと出ていた。ただいま、と元気よく帰ってきた朱莉の様子を見るに、楽しかったようだ。その後も朱莉は望の後ろをつきまとっていて、望のことを大層気に入った様子だった。


「お日様が出ていたので風さえなければ、そこまで寒くなかったです」


「そうか。清水寺と祇園の方に行ったと朱莉から聞いたが、どうだった?」


「楽しかったです。清水寺の舞台から見る景色が綺麗でした。清水寺の坂や、祇園のお店を見て周るのも楽しくて」


 境内を周るのも楽しかった。舞台から見る景色はこんなにも大きかっただろうと驚いた。小学校の修学旅行で来たときよりも、寺社仏閣の良さがわかったような気がする。

 土産屋を見て周るのも楽しかった。朱莉が、あそこのお店いいよ、と教えてくれたカフェで一服したり、店を見て周りながら歩く道は楽しかった。


「洒落た店も増えたからな」


 昔に比べて京都という土地も変わった。篁が生きていた時代の祇園や岡崎の方は都の外だったのに、今は栄えて観光の名所となっている。


「帰りに六道珍皇寺に行きました」


「これはまた、俺に縁のあるところに行ったんだな」


「朱莉さんが色々と説明してくださいました」


 得意げに話す朱莉に相槌を打ちながら、望は境内を眺めた。それほど大きな場所ではない。意外にも、物静かな住宅地の中にあった。篁の縁の地であることは事前に知っていたため、お参りをしておこうと思っていた。


「朱莉さんから聞いたのですが、あの井戸は今は使えないのですね」


「歴史的遺物になってしまったから、使うに使えないんだ。境内の管理の問題が出てくるし」


 冥土通いの井戸と呼ばれる井戸を昔はよく使ったのだが、現在はそうもいかない。遺産となってしまった井戸に下手に触れるわけにはいかなくなってしまったのだ。


「昔は人目がなかったからいいものの、今はなあ……。夜も明るくなったから難しい。井戸を出入りしていたら誰もが驚くから」


「井戸を出入りに使う人は今も昔も普通いないので、誰しも驚くと思いますが……」


 それも、篁のような背の高い男が出入りしたとなれば大騒ぎである。全身黒の衣に身を包んだ大男が井戸へ飛び込んだ、もしくは、出てきたとなればすぐさま話が広まりそうだ。下手をすると、真似をするような者も出てきそうだ。


「それもそうか。見つかったことはないんだよな、幸いなことに」


 妖怪たちに見つかることはあったが、人間に見つかったことはなかった。一応、見計らって出入りしていたためだろうか。


「そうなのですね。ちなみに、結構深いんですか?」


「深いぞ。今はその役目を果たしていないが、冥府に繋がる井戸だ。かなり深い」


「怖くないのですか?」


「別に。しれっと冥府に繋がるからな。あれだ、楽しくないジェットコースターみたいな感じでゆるっと落ちていく感じだから」


 篁の口から思わぬ単語が出てきて望は驚く。


「篁さん、ジェットコースター乗ったことあるんですか?」


「ある。高いところから勢いよく落ちる感じいいよな」


「は、はあ……」


 スマホを自由に使ったり、サブカルチャーに明るかったり、しまいにはジェットコースターに乗ったことがあるなど、完全に現代に溶け込んでいる。


「現代を楽しんでおられますね」


「楽しんだもの勝ちだから」


「おっしゃるとおりです」


 篁は適応能力が高いのかもしれない。千二百年も生きている人物だ。時代の移り変わりをずっと見てきて、経験してきた。むしろ、篁自身も変わって時代に適応しなければ冥官として働けないのかもしれない。

 望がそんなことを考えている向かいの席で、篁はそう言えば、と口を開く。


「明日は貘と出かけるんだったな。どこに行くか決めてあるのか?」


「はい。八坂神社、知恩院、高台寺、三十三間堂を見に。あと、時間が余ったら、水族館に行きたいって周が言っていたので、行けたらいいなと」


「あいつ、水族館行きたいのか」


「はい。新しい水族館だから行きたいって」


「確かに、最近できたからな」


 篁の記憶に新しい。できて十年ほどになる新しい水族館ということもあって、綺麗な場所だ。公園もあってのびのびとした場所でもある。


「あいつ、イルカとか見たいのか?」


「みたいですよ。海の生き物と縁がないからって。夢の回収もままならないしと」


 夢屋としては、海にまつわる夢は周が現地に赴いて回収ができないため、槐の欠片を海に住む者たちに渡して夢を集めている。そのため、海に関する夢は取り扱いが少なく、少しだけ値段が高めに設定されている。周は海とは縁がないため、海の生き物が見られる水族館が好きらしい。


「海ねえ……。昔もそんなこと言ってたな、あいつ」


 海に住む知り合いいませんか、と訊かれたことがある。何でも、海中にまつわる夢がほしいからとのことだった。篁にとって、海とは切っても切れない縁があるものの、海中に知り合いがいるかどうかはまた別の話である。

 海に知り合いがいるか否か。篁の生前の記憶が蘇る。あのとき、助けてやれなかった彼らは今も海底で眠っているのだろうと思うとやるせない。


「篁さんは周と長いつき合いなのですか?」


 望の問いかけに篁は頭を切り替える。あのときの記憶が波にさらわれるようにさあっとはけていく。


「貘が子供の頃から知ってはいるが、別に深いつき合いではない。互いの行く先でたまに会う程度だ」


 会ったところで何か話をするでもない。大抵は篁の仕事が忙しいため、近況を軽く話して別れることがほとんどだ。


「顔見知り程度の関係だ」


「そうでしたか」


 それにしては、周は篁のことを恐れていたように見える。接してみると怖い人ではないと望は思うのだが、過去に周が何かやらかしてこっぴどく叱られたりしたのだろうかと推測する。杏介とやんちゃしていた時期となれば、篁に何か言われていても不思議ではない。

 望はココアを一口飲む。砂糖が少なめなのかほろ苦いが、ミルクでまろやかな味わいになっている。


「もしかして、杏介さんのこともご存じですか?」


 周が子供の頃から知っているということは、腐れ縁と互いに言い合っている狐の彼のことも知っているのではないかと望は思う。杏介も篁と面識がある様子だったため、篁が知っていても不思議ではない。


「ああ、あの狐か。貘と二人でいるところを見かけたよ。今も何でも屋やっているのか?」


 名前のとおり、杏子色の髪と瞳を持つ青年の顔が篁の脳裏に浮かぶ。似たもの同士なのか、二人ともヘラヘラとしていて、言動が軽い。類は友を呼ぶとは彼らのことのようだと思う。

 周と同じく、杏介もふらふらとしていた。そんな彼が薬師になり、独立して何でも屋になったと周から聞いたのを覚えている。


「はい」


「そうか」


 杏介の性質からして薬師よりも何でも屋の方が向いている。変化できるという妖狐の大きな武器がある。尾行や潜入をするにあたって、かなり有利な能力である。また、杏介は軽やかに物事をこなす能力が高いと篁は見ている。運動能力が高く、体力があることからも、力仕事も請け負う何でも屋と相性がいいように思うのだ。彼の性格からしても、ひとつの道に打ち込むよりも、様々なことに挑戦する方が杏介らしい。


「杏介も貘も身を置くようになったということか」


 篁はココアを飲む。やんちゃで、いつもふらふらしていた二人がきちんと職に就いたと思うと彼らも成長したということだ。


「……そんなに昔の二人は荒れていたのですか?」


 本人たちや棗から何度か聞いたことがある。だが、今の二人にはその面影が見られない。武道の心得があるのは知っているのだが、それで暴れていたというのは想像できない。何度診て、薬を出したことやら、と棗が呆れていた。


「二人とも悪戯小僧だった。内裏にまで忍び込んでやんちゃしていたからな」


 驚かされていた女官たちが気の毒だった。中には気を失って数日寝込んでしまう者もいたのだ。


「杏介の方はずっと見ていないから知らないが、話を聞く限り、丸くなったと思う。貘もいつもヘラヘラ笑っているし」


 やんちゃ盛りの年頃を過ぎたからか、医師にしごかれたからか。他の理由も思いつくが、何はともあれ、周と杏介は昔よりも落ち着いてきたように思う。


「……あの、篁さん」


「ん?」


 篁はマグカップに口をつけようとした手を止める。


「今のお話を聞いて気になったことがあるのですが」


「何だろうか?」


 濡れ羽色の瞳が望に先を促す。


「……周と何かあったのですか?」


「と言うと?」


 望の水鏡のような瞳がすっと篁を見据える。綺麗なその瞳はどこか不安そうに揺らぐ。


「周のこと、名前で呼ばないのですね」


 望や式神のことは名前で呼ぶのに、周だけ名前を呼ばない。それは、周が妖怪側の立場だからなのかと思っていた。しかし、周と腐れ縁の杏介のことは名前で呼ぶ。杏介と親しいのかと思いきや、むしろ会っていないような口ぶりだ。関係値としては、周の方が高いにも関わらず、一貫して貘と呼ぶ。


「篁さんだけでなく、式神の皆さんもです」


 玄をはじめ、篁の式神四人も周のことを貘と呼ぶ。それも、望のことは朱莉を除いて舟橋様や望様と様付けで呼ぶのに対し、周に対しては貘殿だ。今、この家の中で、彼のことを周と呼ぶのは望だけだ。扱いからしても、望の方が丁重だ。


「何か問題でも?」


 濡れ羽色の瞳がすっと細くなる。冷たいその視線に望はマグカップを包み込む手が震える。

 篁の声音も表情も変わらないが、目だけ鋭さを帯びる。しかし、その射貫くような光は一瞬で消え、元通りの穏やかな目つきになる。


「あ、いえ……。ちょっと気になっただけです」


「君の方こそ、彼のことは呼び捨てなんだな」


 見目の幼い玄と朱莉に対しても敬称をつけて呼んでいるような娘が、貘の彼のことを呼び捨てにするとは変な話だ。また、敬語でもない。しっかりとした娘がなぜ、と篁は思った。


「それは、その……周に押し切られたというか」


「押し切られた、ね……」


 篁はココアを飲む。ミルクや砂糖は控えめのココアなため、ほろ苦い。


「舟橋さんははぐらかされたりするとあまり追及しない性格か?」


「時と場合によりますけど……。確かに、あまり深追いしませんね」


 相手が話したがらないのであればそれを問い詰めるようなことはしない。無意識の内に望はそうしているように思う。


「そうか。……それは、あの貘に対しても?」


「ええ」


「なるほどな。そりゃあ、君が貘のことを知る術がないわけだ」


 篁の濡れ羽色の瞳に鋭い光が宿る。真剣味を帯びた篁の声と表情に望は息を呑む。ストーブから送られる熱で部屋が温まっているはずなのに、ひゅうっと冷たい風が吹き込んだように温度が下がったような気がする。


「あの、どういうことですか?」


「話さないあいつもあいつだが、君も君のようなところがあるのかもしれないなあ」


 篁はマグカップをテーブルに置く。大きな手から離れたごく普通のマグカップは不思議と存在感がある。


「君は貘という生き物について、どれだけ知っている?」


「どれだけ……と言いますと?」


「知っているだけ全て。貘という生き物について、もしくは、貘としての彼について」


 望は篁の問いの意図に理解できないものの、有無を言わせぬ篁の圧に貘について知っていることを言葉を発しながらまとめる。

 貘というのは眠っている間に見る夢を食べる生き物。周が夢を食べているところを何度も見ている。周は夢を取り出せるという貘としての力を使って夢を売っている。昔は各地を転々としながら、今は店を構えて、人間、妖怪問わず夢を売る。夢売りとして彼は活動している。

 それが望の知る貘という存在であり、貘としての周だ。


「なるほど」


 望の話を聞いた篁は不満そうに呟く。


「君は彼のことも、貘のこともほとんど知らないのだな」


 篁の指摘に、望は言われてみれば少ないのかもしれないと思う。

 貘という存在については知らないことばかりだ。周と出会って、貘という生き物について周から説明は受けたものの、何となく望が知っている夢を食べるという貘の印象とほとんど同じだった。

 では、望の一番身近な貘である周についはどうか。共に過ごしている間にわかってきたことはある。いつもヘラヘラと笑っていて胡散臭く、チャラチャラとした軽やかな雰囲気の男だ。一方で、気遣いのできる優しいところがよく見える。

 ただし、今、望が整理したことは周という個のことであって、貘としての周ではない。貘としての周とは何かと問われるとわからない。夢売りであるという答えしか導き出せない。


「……」


 よぎるのはあの夏祭りの日の夜。酔って寝ぼけた周が望ではない誰かに謝罪をしていた。そのことについて杏介に尋ねると、彼は答えられないと言っていた。温かみのある杏子色の瞳が悲しそうに歪んでいた。

 あのとき、杏介を問い詰めていたら。あのとき、周を起こしていたら。そうしたら、周の過去を、貘としての周について何かわかったのかもしれない。

 しかし、あのときの望はそれをすべきではないと思った。杏介から話はできないと言われたとき、周の過去に何か大きな出来事があったのだろうと察した。それを象徴するかのようなあの涙と謝罪の言葉が今も忘れられない。

 もしかしたら、周を傷つけてしまうかもしれない。あの夜の周は触れると壊れてしまいそうなほどに脆かった。砕けてしまいそうなほど脆いガラスのような涙が物語っていた。消え入りそうなあの声が辛そうだった。


「別に君を責めるつもりはない」


 視線を下げる望に篁は声を掛ける。心理学を学ぶ彼女だからこそ、心が揺れ動く様に敏感なのかもしれない。だから、深く踏み込むことを避けるのではないかと推測する。よくも悪くも、影響が出ているようだ。

 望の性質の問題もあるが、それ以前の問題もある。それは望がどうこうしようと思っても難しい部分もあるのだ。


「何せ、貘という存在からすると君は部外者だ。彼が全てを話す必要はない」


 望の問題ではなく、貘や周の問題もある。だから、望だけを責めるというわけにはいかないのだ。


「ですが、先ほどの篁さんの口ぶりからすると、私が知っているべきことを知らない。それは周の責任だというように聞こえました」


 今の篁の声音は談笑していたときに比べて低い。責めるとまではいかないものの、咎めるような圧を感じた。


「何か、私が知っておくべきことがあるにも関わらず、周が意図的に私に話していないことがあるのですか?」


 望は勢いのまま、しかし、静かな声音で問う。

 篁の濡れ羽色の瞳が揺れる。ほんのわずかな空気の揺れで葉が揺れるような、ごくわずかな揺らぎだ。


「……君はそもそも、貘は彼以外にいるということは知っているのか?」


「はい。周以外にも貘がいることは彼の口から聞いています」


 周以外にも貘はいるのかと訊いたところ、いると周は答えた。


「では、彼以外の貘はどうしているのかは聞いたことあるか?」


「周は独立してから連絡を取っていないと言っていました。だから、今どこでどうしているかは周は知らないのかもしれません」


 貘は各地を転々とする。それは、夢を追い求めるからだそうだ。

 周の過去を聞くと、ふらふらと各地を転々としていたそうだ。それは周も自覚しており、棗、杏介、茜もそう言っていた。望が知る周も、店が休みの日にふらっとどこかへ出かけることが多い。目的はどうであれ、そういったところを見るとあちこち移動する貘としての習性のように思わなくもない。


「舟橋さんとしては、彼以外の貘については知らないと」


「そうですね。会ったこともないですし、私の件に関しては自分で解決すると周が言っていました」


「君はそれでいいのか?」


 篁は鋭い声で尋ねる。


「彼以外の貘なら、解決策を知っている者がいるかもしれない。そいつを頼れば、すぐに解決できるかもしれない」


 可能性の話ではある。手がかりが少ない以上、どんなことでもいいからと頼るのが自然だ。


「確かにそうですけど……。訊いてみたことはあるのです。他にも貘がいるなら、手を貸してもらえないのかと」


 最初の頃は望の話を整理し、情報を集めることが主だった。しかし、それだけではとくに解決に至るようなこともなかった。だから、望は他の貘を頼ることはできないのかと尋ねた。


「あいつは何と答えた?」


「はぐらかされてしまいました」


 他の男のところに行くなんてひどい、浮気をするのね、とか何とか、芝居がかった様子でのらりくらりとかわされてしまった気がする。


「はぐらかしたか。最近、尋ねたことはない?」


「はい」


「……舟橋さん、そもそもの話なのだが、どうして夢を見たいと望むんだ? 別に心身共に健康なのだろう?」


「そうではあるのですが……」


 望が夢を見たいと思う理由。それは漠然としたものだ。


「不安だからです。篁さんがおっしゃるように、身体も心も健康です。ただ、どうして私だけ夢を見ないのか、不安に思うのです」


 全ての生き物は夢を見る。夢屋で働くようになってから知ったことだ。人間も妖怪も関係ない。動物も植物も夢を見る。それは、実際に周に夢へ連れて行ってもらったり、夢玉を使ったりして見たからよくわかった。

 生きているのなら夢を見るはずなのに、なぜ自分は夢を見ないのか。最初は単純に夢を見ないのは身体のどこかがおかしいのかと健康面の不安があった。しかし、周に見てもらって健康面に異常はないと言われた。貘の周も知らない事象にどうして自分だけという不安が望に襲い掛かった。

 それと同時に蘇る黒い影。あの影の存在が無意識の内に望の心の奥に澱んでいる。現在はフラッシュバックして辛いと思うようなことは減ったのだが、幼いときは苦しめられた存在だ。


「夢を見られるようになれば、少しは心が軽くなるのかな、と」


「逆に、夢を見られるようになったら、あの影のことを繰り返し見ることになるかもしれない。夢は必ずしも幸せなものとは限らない」


 悪夢と呼ばれるような夢もあるのだ。夢の中のこととは言え、思い出したくもないような、ぞっとする経験をする可能性があるのだ。


「それでも、不安なのです。夢を見られない原因がはっきりすれば、話は変わるかもしれませんが……」


 原因がわかった上で、あなたは夢を見られません、と言われたらまだ納得できるのかもしれない。それでも、不安なことに変わりはない。どうして自分は、と悩んでしまうかもしれない。


「ちなみに、篁さんも夢を見るのですか?」


「……ああ」


 生きている者は全て夢を見る。それは、一度死に、死後も冥官として生きている篁にも適応しているようだ。

 だから、篁も悪夢を見る。荒れ狂う波が全てを飲み込む夢を何度も見る。

 篁は頭を振る。忘れたくとも、覚えていなければならない夢であり、記憶だ。篁が忘れられない記憶は夢としても繰り返し見るのだ。千二百年分の記憶があるにも関わらず、あの頃の記憶を夢として見る。


「そうですか」


 望は肩を落とす。篁の存在をどのように扱えばいいのかわからない。生きている人間に限りなく近いのだが、彼は一度死んでいる。そんな彼も夢を見るという。


「どうして、私は……」


 結局、原因だと思われる影の正体はわかったが、その影が望に何かをしたことによって夢を見なくなったというところまでは辿り着いていない。影が何かしたからと考えるのが自然ではあるが、では、何をしたのかというところまではわからない。


「君が夢を見たい理由はとりあえずわかった」


 例の件を四六時中引きずってはいないと思っていた篁だが、望の心の奥底にこびりついていることがわかり、何とも申し訳なくなる。記憶の処理をしっかりしていれば、と思う反面、していなかったからこそ手がかりがあるという状況になった。これがもしも、手がかりがない状態であったら、望は何とも言えぬ不安に押しつぶされていたのかもしれない。


「今回、舟橋さんに関わると決めたのは冥官としての小野篁というよりも、小野篁個人として決めたことだ」


 当時関わったのは冥官小野篁だが、今こうして関わっているのは小野篁個人だ。小野篁個人も生前は見鬼の才や妖怪絡みで苦労したものだ。怪異に巻き込まれた望に同情する面もある。


「冥官だからこそ仕入れられる情報は君に教えるし、小野篁として動けることなら協力する。それを約束する」


 それが巻き込んでしまった償いだ。この償いで望に全てを返せるとは思っていないが、関わった以上、どうにかしてやりたいと思う。


「……そこまでしてくださるのですか?」


「ただし、全てが終わったら、俺や冥府に関する記憶は全て消させてもらうけどな」


 上手いこと辻褄を合わせて篁たちのことを忘れてもらう。これは冥官の顔を持つ小野篁が従わなければならない掟だ。


「それで、話は戻るのだが、俺としてはあの貘に他の貘のことを尋ねた方がいいと思うんだ。あいつ以外の貘ならどうにかなるという確証はないが、何かしらの手がかりは得られると思う。これから先、就活も本格的に始まるし、さっさと解決できた方がいいと思うんだ」


 春には望も三年生になる。大学生活も折り返し地点だ。就職活動、卒業論文、そして、社会人となると今のように時間を作ることが難しくなる。その前に決着をつけられるのであれば、動いた方がいいだろう。


「そう、ですね」


 大学のキャリアセンターや就活支援サイトからのお知らせを見るたびに気が重くなる。インターンやES、面接など、準備しなければならないことが多い。


「もしも、舟橋さんがあいつに発破をかけにくいと言うなら、俺から直接貘の一族に掛け合うことも視野に入れることも考えている」


 篁の言葉に望は顔を上げる。


「それ、本当ですか?」


「あいつもそうだが、貘は転々とする一族だから。まあ、居場所を突き止めるところか始まるけどな」


 夢を追い求める彼らの習性だ。基本的に一ヶ所に留まることはなく、数年から十年単位であちこちと動き回る。そのため、現在どこにいるか探し出すところから始まるのだ。


「冥官としての仕事の兼ね合いもあるから時間はかかるが」


 正直なことを言えば、望の件は冥官としてギリギリの線で動いている。冥官として、生者へ干渉しすぎだと言われてしまう基準なのだ。いくら記憶を消すとは言え、望が篁の協力を得ている事実は消えない。冥官の干渉により、望の寿命に予期せぬ影響が出たとき、始末書では済まされない可能性がある。よって、望の件に関わるのは冥官小野篁ではなく、小野篁個人でなければならない。この辺りの兼ね合いがまた難しく、面倒で、ややこしいのだが、冥府の事情を望に押しつけてばかりになってはならない。だから、篁としては、篁が二人に情報を流し、後は周と望が動いてくれた方が楽ではあるし、二人も動きやすいはずだ。


「時間がかかることは了承してほしい」


「はい。……一番は周から貘の一族へ掛け合った方がいいということですよね」


「そうだな。あいつに何冊か本を貸したが、それでどうにか解決できるとは俺は思っていない」


 少なくとも、篁の知識と本に書かれたことを掛け合わせた状態では難しい。夢に詳しい貘の周が読んで何か思い当たることがあればそれはそれでとっかかりになるだろう。


「いずれにせよ、貘の一族を頼ることになると思う。遅かれ早かれな」


 篁はそう言って時計を見上げる。あれこれ話していたらいい時間だ。


「篁様」


 声の主、玄が墨染の外套を腕にリビングへ入ってくる。


「そろそろお時間になります」


「ああ」


 篁はココアを飲み干す。


「舟橋さん、つき合わせて悪かったな」


「いいえ、こちらこそ、ありがとうございました。ココア、ご馳走様です」


「明日は観光に出るのだし、しっかり休みなさい。……清佳」


「はい」


 澄んだ声と共に清佳は姿を現す。


「悪いが、片づけを頼む」


「承知しました」


 清佳は恭しく頭を下げる。


「じゃあ、舟橋さん、おやすみ」


「はい。篁さん、いってらっしゃい」


 篁は片手を上げ、玄から外套を受け取ると袖を通す。そして、玄が窓を開けると庭へ下りる。玄も篁の後に続き、庭へ下りる。冷たい風が吹き込むと二人とも夜闇に溶け込むように姿を消した。

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