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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
胡蝶の迷い 雪にまじりて見えぬ夢
41/88

#2

 マグカップを置く硬い音に緊張感が走る。篁の大きな手がマグカップから離れる際に影を作る。


「さて」


 篁はカップを置いた手を玄へ差し出す。玄はその手に紙束を渡し、一歩下がる。

 朝食を済ませた後、昨晩の続きを。朝、起きてきた周と望は篁の言葉を預かった清佳からそう告げられた。朝食後、各々身支度を済ませたところで篁から声がかかった。

 昨晩と同じく、周と望は横に座り、篁の様子を窺う。昨晩の夜闇色に身を包んだ姿ではなく、ワイシャツにベストを着た洋装姿の篁は紙束をパラパラとめくる。

 パラリ、と最後の一枚が音を立てる。静かな室内にその乾いた音が嫌に大きく聞こえる。


「話の続きをしよう。その前に」


 篁は紙の束から顔を上げる。真っすぐ見つめる濡れ羽色の瞳に望は背筋を伸ばす。


「舟橋さん」


「はい」


「昨日も言ったが、これから話すことは君にとって、辛い記憶に関することだ」


 幼い望が精神的にひどく傷ついたときの話だ。篁の脳裏に幼い望が涙を流して気を失う姿がよぎる。気を失ってから篁が舟橋家の庭に望を送り届けるときまで一度も目を覚まさなかった。当時は記憶の処理ができているとばかり思っていたが、実際は失敗。そのせいで、彼女は外の世界に怯えるようになってしまった。


「もしも、気分が悪くなったりしたらすぐに申し出てくれ」


「お心遣い、感謝します」


 篁は優しい。望はそう思う。望としては、当時のトラウマを克服できたと思っている。恐怖が消えたというわけではないが、こうして誰かに話すことができるぐらいには乗り越えられたと思うのだ。


「では、早速本題に入らせてもらおう」


 篁は玄に目配せする。玄はひとつ頷くと、持っていた資料を周と望に渡す。


「俺が渡せる情報をまとめた物だ。それを見ながら話をしていこうと思う」


 いいだろうか、と訊ねる篁に周と望は頷く。


「何から話そうか……。怪異の正体から話した方がわかりやすいし、舟橋さんも気になるところだろう」


 全ての始まりとも言うべき存在。篁が関わることになり、望を襲った元凶。

 望が夢を見なくなったきっかけ。それを解明するために重要な存在であるにも関わらず、一切の情報がなかった。周と望からすれば、喉から手が出るほどほしい情報である。


「お願いします」


 望がそう言うと、篁はひとつ頷く。


「舟橋さんを襲った存在……彼としようか」


 黒い靄のような者。枯れ枝のような腕、鋭い爪を持つ影。篁も彼に遭遇している。

 篁は該当頁を指示する。二人は指示された頁を開き、明朝体が並ぶ資料に目を落とす。


「彼の正体は神の成れの果てだ」


「神の成れの果て?」


 望は篁の言葉を繰り返す。メモを取ろうと用意していたシャーペンを持つ手が震える。


「その神は堕ち、荒れ狂った。一度封印されたものの、その封印が解かれて、世に放たれた。世に放たれたその神は死者の魂を吸収して回っていた。それが舟橋さんを襲った怪異の正体だ」


 篁は当時のことを回想する。

 十二年前の盆過ぎ、盆に現世へと帰った魂が冥府へ戻ってくる頃の話だ。毎年あるのだが、盆の時期が過ぎても冥府へ戻って来ない魂が一定数いる。そのような魂たちを帰還させるようにと冥官たちへ命令が下される。

 それだけならいつものことだと片付けられるのだが、その年は戻ってこない魂の数が妙に多かった。それも、きちんと戻ってくるだろうと思われていた魂も戻ってきていなかった。行方をくらませた魂たちのことを調べている内に件の影、もとい、神の成れの果てである彼が原因であると判明した。彼は盆に現世へ帰ってきた魂や彷徨う魂を身の内に収めていたことがわかった。

 吸収された魂の救出を最優先に、禍つ存在の捕獲、もしくは、討伐せよ。それが当時の篁に緊急で下された命令だった。

 人の世に溶け込み、生活をしていた篁の元に冥府から命令が下された。篁の耳にも影の話は届いており、担当の冥官たちがひどく苦戦していたことも知っていた。担当の者たちの手だけでは足りないという判断の元、被害の拡大を防ぐために篁や他数名の有力な冥官に命が下された。至急、担当の冥官たちと合流せよ、との指令を受けた篁は現場へと向かった。

 荒ぶる神を追っていた冥官たちの推測では、かなりの数の魂が巻き込まれているという。魂を喰らう神は禍々しい気に染まり、瘴気を放っている。担当の冥官たちでは力をつけている神に歯が立たず、何度も取り逃がしているという。その内、生きている人間をも襲うのではないか、と推測が出ており、急ぎ対処する必要があるとのことだった。篁よりも上位の冥官が何人か招集されるほどの事態に冥府の緊張感が窺えた。

 逃げ回る影は中々足取りをつかませてくれない。昼間はどこかに潜んでいるのか、動きが見られない。しかし、日が沈む逢魔が時から日が昇る彼は誰時の間に動きが活発になる。そのような報告を受け、夜を中心に捜索を行っていたのだが、先に調査している冥官たちが苦戦していたのも頷けるほど、例の神は姿を隠すのが上手いらしい。篁自身も捜すが、怪異の残滓を見つけるに留まっていた。式神たちも烏に身を転じて捜査していたのだが、こちらも中々尻尾を掴むことができずにいた。

 そんなときだった。


「こちらが苦戦していた九月の中頃、一人の少女が彼が作り出した異界へ取り込まれたとの報告が飛び込んできた」


「異界……」


 鬱蒼と茂る竹林。英会話教室の帰り道を進んでいたはずが、見ず知らずの竹林の中を彷徨っていた。どれだけ歩いても景色は変わらず、どれだけ声を上げても応える者のいない寂しい場所。

 望はその光景を朧気ながら覚えている。そこで見た影の姿もぼんやりと記憶に残っている。


「そう。君が遭遇した怪異は異界に君を取り込んだ」


 彼は時空を歪ませて望を取り込んだ。そこで何をしようとしていたのか。篁は眉根を寄せる。


「異界に連れ込み、君の命を食そうとしていたと思う」


 篁の言葉に望の背筋が凍る。あのとき、鋭い爪は望の魂を喰らおうと喉元を狙っていたのだろう。


「死者の魂にしか被害はでていなかったが、とうとう生者にも手を出そうとしていた」


「なぜ、望ちゃんが狙われることに?」


「単純に逢魔が時に八つの少女が歩いていた。……幼い娘がまともに抵抗できるとは思えない。であれば、狙うだろうという話だ」


 周の問いかけに答えた篁は目を伏せる。

 昔から人を喰らう存在がいる。彼らがよく狙うのは女、子供が多い。味がいいからという話も聞くが、共通して言えることは力の弱い存在であることだ。捕獲する際に無駄な労力を使わずに済む。

 望が襲われた時刻は逢魔が時。人ならざる者たちの動きが活発になり始める時間帯である。狙いは少女、時間帯は逢魔が時。相手からすると絶好の機会だったのだ。

 篁は胸の内で整理する。これは望には言わない。篁の言葉に周は理解したのか、視線を逸らし望の様子を窺っている。望は周の隣で落ち着いた様子で篁の話を聞いている。水鏡のような目は今日も澄み切っていて美しい。


「私が狙われたのは、たまたまその時間帯を歩いてからということですか?」


「それもある」


 篁の含みのある言い方に望は引っかかる。篁の濡れ羽色の瞳がすっと細くなる。


「見鬼の才だ」


 篁の静かだが、張りのある声に望はわずかに身体を震わせる。

 人ならざる者の姿を見抜いたり、感じたりする力。現代では数が減り、希少な存在となっている。とくに、望の力はずば抜けて高い。篁や周が今まで見てきた中でもかなり強い部類に入る。


「やっぱり」


 周はぽつりと呟く。

 なぜ、望が狙われたのか。ただそこにいたからという理由も考えられたが、望の能力を知るとそちらの筋も疑ってしまう。

 望の見鬼の才は桁違いに強いものだ。以前、夢屋に来店したひとみは見る力よりも感じる力が高く、勘が鋭かった。彼女も現代においては珍しいものの、望に比べれば足元にも及ばない。

 周を見てすぐに人ではないと見抜いた望の目。類まれな美しい瞳の人間だと周は思った。望から影の話を聞いたとき、望の見鬼の才を狙ったのではないかとすぐによぎった。


「元々狙っていたのか、それとも、たまたま攫った子供が鬼見の才持ちだったのか。どちらかはわからないが、いたくご執心だった」


 篁が望と影の間に割り込み、望を背に庇ったとき、影はしゃがれた声でこう言った。


『コノ子供ヲ喰エバ……コレダケノ才ヲ持ツ子供ナラ』


 望の見鬼の才をわかっていての言葉だろう。

 力の強い者を喰らえばその力が身に着く。それはたとえ、血の一滴や髪の毛一本でも力を手に入れることができる。全てを喰らいつくしたらなんて想像に難くない。


「才持ちだろうが、なかろうが、魂が喰われることを避けたかった。鬼籍に影響が出てしまうからな」


 人の生死は生まれる前から決まっている。よほどのことがない限り、その決まりが覆ることはない。普通に過ごしていれば、決められたとおりに寿命を迎え、冥府へ魂が辿り着くようになっている。

 万が一、冥府が決めたとおりにいかないと何が起こるのか。輪廻転生に影響が出てしまう。本来の寿命とは異なるようなことが起きてしまうと、輪廻の均衡が崩れ、今後にも影響が出てしまう。場合によっては、魂が消滅してしまうのだ。

 それを避けるためにも篁のような冥官がいる。鬼籍への影響は冥府を混乱させる。未然に防ぐためにも冥官たちは望や魂を守り、影を捕獲、もしくは、討伐せねばならなかった。


「結局、影はその後どうなったのですか?」


 望は篁に訊ねる。

 篁は捕獲、もしくは、討伐の命を受けたと言っていた。望が気を失った後、どうなったのかが気になる。


「……討伐した。彼はもう戻れないところまできてしまっていた」


 篁は視線を落とす。

 守るべき存在の神が災いをもたらした。死者の魂を喰らい、生者にも手を出そうとしていた。

 許されぬことである。禁忌を犯した彼はもう神とは呼べない。悪しき存在となり、これから先も人間を襲うことがあるのなら、冥官である篁は人間を守らねばならない。

 彼は堕ちるところまで堕ちてしまった。篁は彼の息の根をこの手で止めた。思っていたよりもあっさりとした手ごたえに反し、彼の断末魔は何とも苦しげで、恨みを持っているものだと思った。

 そう思うと同時に、悲しみを背負った影だとも思った。目があるべきところは落ち窪み、赤黒い涙を流していた。瘴気で大きく見えていた彼の身体は実際に近くで見ると小さく、簡単に折れてしまいそうなほど細かった。


「討伐後、君を急ぎ人間界へ戻した。……だが」


 篁の声がぐっと低くなる。


「俺たちは失敗をした」


「失敗ですか?」


 話を聞く限り、失敗と思えるようなことはない。望としては助けてくれた感謝しかない。


「ああ、失敗だ。君の記憶処理が不十分だった」


 冥府の動きを生きている人間に見られてはならない。目撃された場合、記憶処理を施すことと厳命されている。

 巻き込まれてしまった望に対し、当然のことながら記憶処理を施した。篁たちのことはもちろん、影のことも記憶から消すことにした。トラウマにならないようにと細心の注意を払って記憶処理を施した後、望の身体に異常がないことを確認した。そして、異常なし、という判断が下され、篁が望の家まで送り届けたのだ。


「本来、君は俺たちのことも、彼のことも忘れているはずだったんだ」


 しかし、望は覚えていた。厳密に言えば、篁たちのことは覚えていないようだが、影のことは覚えていたと昨日判明した。そもそも、周の文が届き、舟橋望という人間のことが書かれていた時点で嫌な予感がしていた。望のことを調べ、例の事件の被害者だとわかったとき、その予感は的中したと篁は思った。

 周の文には望が当時経験したことが簡単に書いてあった。どこかで聞いたことのある怪異の話だと思った。そして、昨晩、望から直接話を聞いたとき、記憶処理が不十分であることがはっきりとわかった。


「それも、一番嫌な記憶が残っているという醜態だ。この件に関して、本当に申し訳なく思っている」


 篁が深々と頭を下げると、背後に控える玄も頭を下げる。


「そ、そんな……。顔を上げてください」


 望からすると、特別待遇のように思う。影の件は、冥府が関わっていたから記憶処理を受けるという話で、冥府が関与していなかったら記憶を消されるということはなかったはずだ。

 冥府が関係しているか、否か。これだけで記憶を消されるかどうかが決まるようなものだ。


「それに、こんなことを言っていいのかわかりませんが、私が今回の件を覚えていたからこそ、夢を見ない原因に心当たりができたわけで」


 もしも、記憶処理が完璧に行われていた場合、望は影のことも忘れていた。過去に行方不明になったという事実はあっても、なぜ行方不明になったのかわからずに終わっていただろう。

 朧気ながらも覚えているから夢を見ない原因として、例の影が挙げられる。望からすると、ひとつでも手がかりが欲しい。

 篁たちは望の言葉に申し訳なさそうに顔を上げる。


「……そうだな。皮肉にも、怖かったという記憶を覚えているから手がかりになり得るわけだ」


 そうでなければ、望は手がかりがない状態で調べなければならなかった。篁を頼るにしても、もっと時間がかかったのかもしれない。

 宿命か。怪異に襲われた望は夢を見なくなった。夢と関わりの深い貘と出会い、彼を頼ることになった。そして、篁の元までたどり着いた。その篁は望と怪異の接触に関わっていた。


「これも縁というわけか」


 篁はそう言葉をこぼす。奇遇というには話が上手くできすぎている。誰かが仕込んだわけではないはずのこのめぐり合わせには篁も縁を感じざるをえない。


「すまない、少し話が逸れたな。戻そう」


 篁は珈琲を一口飲む。ほろ苦い味が口の中に広がる。マグカップを置き、並んで座る二人に視線を送る。


「以上が舟橋さんが影に攫われたときの我々の動きだ。何か気になることはあるか?」


「僕からいいですか?」


 周は軽く手を挙げる。篁は視線で先を促す。


「影は望ちゃんに何かしていたのですか? 望ちゃんの記憶では、手を伸ばされたところで記憶が途切れている。その前後で篁卿たちが到着したと思いますが、何かしている様子は見ましたか?」


 今の話はあくまで篁たち、冥府の動きだ。篁が望を助けた理由や影を討伐したこと、望を帰したことはわかった。

 では、望が夢を見ない原因として考えられる影の動きはどうなのか。何かしらの動向がわかれば、望が夢を見ない理由に繋がるかもしれない。


「それが本題であり、俺を訪ねた理由だよな」


 篁は紙束をぱらぱらとめくり、紙束から一枚取り出し、残りはテーブルに置く。


「さて俺の式神、当時関与した冥官から話を聞いた。最初に言っておくが、あまり期待はしないでくれ」


 思い当たるような行動はない。篁は言外ににおわせる。


「……まあ、何事も上手くいかないってことですよね」


 周は苦笑する。篁たちの到着以前に望に何かされていたらわからないのだ。望自身も気がついていない、もしくは、覚えていないならどうしようもない。


「ただ、気になることを言っていたとの話を聞いた。それがどこまで関係しているのかわからないが……」


 篁は該当頁を開くように指示すると、眉を潜める。パラリと紙をめくる音を聞きながら、当時のことや関わった冥官、式神の話をまとめた文章を見つめる。


「夢という言葉を発していたのを聞いたそうだ」


 篁の発言に周は資料を食い入るように見つめる。そこには冥官、式神たちの証言、とくに、夢に関する言葉が並んでいる。


「夢、ですか?」


 望も資料に目を落とし、夢という文字を指でなぞる。


「ああ。冥官たちが彼を追っていたときや、式神が舟橋さんを保護した後の戦闘のときに聞いたそうだ」


 夢に関するような言動はなかったか。篁の聞き込み調査のとき、そう言えば、と当時影を追っていた冥官たちが口を揃えてこう言った。


『夢という言葉を発していたような気がする』


 その話を聞いて、皓と朱莉が思い出したように戦闘中にも言っていたような記憶があると証言した。


「篁卿自身は聞いていないのですか?」


「俺は聞いていない」


 篁が初めて影と対峙したのは望を発見したときだ。望の安全を確保した後、戦闘が始まった。邪魔だとか、憎いだとか、恨めしいだとか、そのような言葉を聞いた覚えはあるのだが、夢という言葉は聞いていない。


「しゃがれた声をしていたから、戦闘の最中では聞き取りにくかった」


 とどめは篁が刺した。しかし、とどめを刺すまで、篁は中々影と距離を詰めることができなかった。


「皓と朱莉が聞いたと資料にも書いた。あの二人は比較的距離を詰めることが多かった」


 篁が使役する四名の式神の内、戦闘に特化しているのは皓と朱莉だ。清佳は防御に秀でた式神であるため、結界を張って望を守らせた。玄はどちらも得意なため、あのときは望の身の安全を優先させ、清佳と共に望を守りながら後方支援を任せていた。

 影から距離を取っていた玄と清佳よりも、影と距離が近い篁、皓、朱莉が声を拾いやすい。その中で、篁がとどめを刺せるようにと影への道を切り開いていた皓と朱莉が切り込み役で距離を詰めていたのだ。


「戦闘中は断片的に夢という言葉が聞こえた程度で、どのような意図で言ったのかは不明だ。追跡していた冥官たちの証言の方が明瞭だった。その中でも、何度か繰り返し聞いたと何人かの冥官が言った言葉がある」


「その内容は?」


「……」


 周の問いかけに篁は濡れ羽色の瞳を向ける。


「資料の一行目」


 篁の言葉のとおり、周と望は一行目の文章を目で追う。


「夢か現か、現か夢か」


 篁が該当の文章を読み上げる。


「そのようなことを何度か言っていたからこそ、冥官たちの間で印象に残っているようだ」


 夢と現。対になる言葉である。二つの言葉が印象的になるほど、何度か聞いたと冥官たちは証言していた。


「他にも気になることを言っていたが……。数が多いものでな。そちらで目を通してほしい」


「わかりました」


 周は応じると、篁が読み上げた文章を黙読する。

 夢と現。この対となる言葉を繰り返していた。何度も繰り返し聞いていたから、冥官たちの中では印象に残っていたという篁の推測だ。

 では、影がなぜその二つの言葉を繰り返していたのか。一体、彼の身に何が起きたのか。


「結局、影のことは他に何もわかっていないのですか? 封印されていたと先ほどおっしゃっていましたけど、封印された経緯とか、誰が封印したとか。元はどんな神様だったとか」


「……元々、人間だったんだよ。彼は」


 周の問いかけに対し、篁はぽつりと言う。


「人間だった神様ですか?」


 望はきょとんとした顔で篁の言葉を繰り返す。


「ああ。人間も神になる。有名な例だと、菅原道真公だな」


「そう言えば、そうですね」


 確かに、彼は元々人間であり、現在は学問の神として祀られている。受験生がお世話になる神。望もお参りした。

 人から神へとなった代表格として名を知られた存在だろう。


「天神さんの梅の時期だな」


 篁たちの住まいよりも北西、かの御仁がおわす地では彼に縁のある梅が咲く。毎年見に行っている梅を今年はまだ見ていない。祀られている彼とも久しぶりに話をしようかと篁は思う。


「とまあ、人間も神になるものだ」


 著名な者からそうでない者まで、理由は様々だ。御霊を鎮めるためであったり、功績を称えるためであったりとその人物の評価を表すようなものだ。


「どのような経緯で神となったのか。彼の偉業が称えられたからだ。異形の者を退治したことが彼の功績だった」


 輝かしい功績を生前は持っていた。そして、死後、彼はそれが認められて祀られた。土着の神となった彼はその後、人々を守る立場であり、慕われていた。


「でも、彼は神として堕ちてしまったわけですよね?」


 望は篁の言葉を思い返す。

 荒れ狂う神、と。冥府からの命令では禍つ存在とまで言われていた。


「信仰されなくなってしまったんだ。そして、彼は堕ちた」


 篁は手を組む。

 彼が祀られた地から人が減っていった。時が流れれば忘れられ、口伝されていなければ誰も知らない存在となる。誰もいなくなった土地に残された彼を信仰する者はなく、孤独の身となってしまった彼は徐々に力を弱めた。

 はずだった。通常は力が弱まるにつれて姿を保つことができなくなり消えるのだが、彼には憎悪の念が芽生えてしまったのだ。

 なぜ忘れられたのか。死後、祀っておきながら置いていかれた。許さない。

 そんな思いが彼を変えてしまった。


「それで、暴れまわったそうだ。そんな彼は才ある者に封じられた」


「才ある者と言うと陰陽師や呪術師と呼ばれるような人なのでしょうか?」


 何となく、望が思う陰陽師像として式神や術を使って封印するという姿が浮かぶ。小説や映画の影響が強い気がしないでもない。


「そうだな。それからというもの、彼は長い眠りにつくわけだが……」


 また孤独の時間を彼は過ごすことになるのだ。


「元が人間だった彼は、長いこと独りで過ごすようにはできていないんだよ」


 篁は目を閉じる。

 千二百年。篁が過ごしてきた時間である。千二百年分の記憶がさあっと瞼の裏に浮かぶ。

 昔、篁が走り回っていた都は姿が大きく変わった。国の中心は東に移り、この地は古都と呼ばれるようにもなった。時代と共に移ろい行く世界を篁は見てきた。


「俺が生まれるよりも前に生を受けた人間がたった独りとなれば狂うのは簡単だ」


 篁とて、いつ狂うかわからない身だ。幸い、影とは違い、孤独ではない。そのため精神を保っていられるが、これが独り、それも封印されたとなれば余計に孤独に包まれてもおかしくはない。


「……気の毒にな、彼の神は」


 首を落としたときの断末魔。憎悪の言葉を吐いていたが、その表情はどこか晴れやかだった。


『寂シカッタ』


 そうぽつりと言って彼は消えた。彼の最期の涙は綺麗な透明な雫だった。塵のように崩れた彼の身体は風が優しく攫って行き、跡形もなかった。

 彼の姿はいつか来るかもしれない自分の末路。篁はそう思った。


「それが彼についての話だ」


 濡れ羽色の瞳が覗く。かすかに揺れたその瞳の奥、薄暗い何かが見えたような気がした望は視線を逸らす。


「……」


 ひとつの昔話を聞いたようだった。一人の人間が神として崇められるも、信仰されなくなってしまったために憎む気持ちを抱くことになってしまった。長いこと独りであった人間の悲しい昔話。

 長いこと独りで過ごすようにはできていない。篁のこの言葉が望には印象的だ。孤独は人間を狂わせてしまう。その結果が、望を襲った影の正体であった。


「悪い人ではなかったのでしょうね」


 あの影のせいで、と望は思うことが何度もあった。影に出会わなければ幼い望がトラウマを抱えることもなかったし、夢を見ないことで悩むこともなかっただろう。

 しかし、影の過去を知ると同情してしまう。祀っておきながら忘れられ、恨み、憎しみといった強い負の感情を抱く一方で、孤独に苛まれる時間は辛いだろうと思う。誰かに胸の内を明かすことができず、ずっと独りでいれば耐えきれなくなってしまうのもわかる。


「悪い人間でなかったとしても、何の罪もない子供や魂に手を出していい理由にはならない」


 篁ははっきりと言う。

 彼はもう引き返せないところまで来ていた。彼は人間でもなく、神でもない。

 禍つ存在。善か悪かで問われれば悪。だから、篁は彼の首を討ち取った。いや、討ち取るしかなかった。同情はあれど、あの最期は彼に対する罰だ。


「……以上が怪異に関する情報だ」


「そうですか。ちなみに、彼は夢に干渉するような能力を持ち合わせていたのですか?」


 周の問いに対し、篁は首を横に振る。


「ないだろうな。そのような力は見られなかった」


「うーん……。望ちゃん、今の篁卿の話を聞いて何か思い出したことある? 影が何か喋ってたとか」


「どうだろう……。何かぶつぶつ言ってたかもしれないけど、言葉まではわからない」


 それこそ、夢と現という言葉を発していたかどうかも覚えがないのだ。


「そっか」


 覚えていないのも無理はないだろうと周は思う。何せ、望は混乱状態、後に気を失ってしまっていた。覚えていることがわずかにあるだけでも奇跡に近い状態だ。

 望はほうと息をつく。長年、望の脳裏にこびりついていた影の正体が判明した。だからと言って、何か解決に至るというわけではない。一歩にはなっているが、決定打とまではいかない。


「一度休憩をいれよう。清佳、頂いた羊羹を」


「かしこまりました」


 名を呼ばれた清佳が姿を現す。彼女の春風のような声音に場の緊張が解れる。


「舟橋さん、大丈夫か?」


「はい」


 望は手元の資料に視線を落とす。さすがと言うべきだ。紙束の量からして、相当な数の情報をまとめてきたことが窺える。まだまだ先は長そうだと思い、気を引き締める。


「無理はしないようにな」


 篁の濡れ羽色の瞳が優しく細められた。

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