#6
衣擦れの音と共に、足音がする。急ぎ足なのか、音は荒い。バタバタと走るに近いその足音は屋敷で共に暮らす兎の彼のようだ。
その音に引っ張り上げられるように茜は目を開ける。薄暗い室内の天井は見慣れないものだ。
「……」
視線だけ動かし、室内を見渡す。茜以外に誰もおらず、物の少ない部屋だ。枕元には桶が置かれていて、手ぬぐいがかけられている。
ここがどこなのか把握しようと、茜はゆっくりと身体を起こそうとする。しかし、身体中が悲鳴を上げ、鈍い痛みと共にぐらりと視界が揺れ、茜は布団に戻される。
がんがんと痛む頭、じんじんと熱を持つ喉、鼻も詰まっている。手で己の額に触れると、明らかにいつもよりも体温が高い。風邪だ。茜は瞬時に自分の状況を理解する。
ぼんやりとしていると、足音がする。二人分の足音はすぐ近くで止まると、戸の開く音がする。
「お、目が覚めたか」
眩い金色が覗く。三角形の耳を持つ青年が部屋に入ってくる。狐顔の彼は茜の様子をじっと窺うと、戸がある方へ振り向く。
「周、先生呼んできてくれ」
「わかった」
もう一人いたのか、周と呼ばれた者は早足でどこかへ行ってしまう。先ほどの荒々しい足音が消えていった方だ。
「よう、鼬の嬢ちゃん。気分はどうだ?」
狐顔の青年は茜の傍にしゃがんで尋ねる。
「……あ、の」
掠れた声は弱々しい。そして、頼りない。そよ風でも攫えそうなほど細い声だ。
何とか絞り出した声だが、喉の奥からせり上げてくる咳に先の言葉を紡ぐことができない。ゴホゴホと茜は咳き込む。
「無理するな」
青年は茜の額に人差し指で触れる。
「うーん……。まだ熱があるな」
つり目を下げる青年は茜から指を離す。
「ちょっと待ってろよ。今、先生を呼んでるから」
青年は茜の頭を撫でる。すっぽりと青年の頭に収まる頭に茜は自分の手を見つめる。
真っ白な足袋を履いたような手。小さく、頼りないその手は毛で覆われている。
鼬の姿。茜の本来の姿である。普段は妖気に満ちた場所で暮らしているため、人の姿を取るのは苦ではない。しかし、体調が不安定だったり、妖力が足りていないと、この姿になってしまう。この辺りも妖気で満ちているが、それでも人の姿を保てないぐらい衰弱していることがよくわかる。
「おう、具合はどうだ?」
声をかけて入ってきたのは兎だ。ピンと真っ直ぐに立った耳を持つ兎は静かに茜の傍に歩み寄る。
「まだ熱があるみたい」
狐顔の青年が言うと兎は茜の額に触れる。
「そうだな。杏介、薬の用意を」
「普通に風邪薬でいい?」
杏介と呼ばれた青年は立ち上がる。
「ああ。解熱剤と傷薬も一緒に。食事の手配も頼む」
「はーい」
すぐ戻るな、と軽く手を振って金髪の青年は部屋を出ていく。
「さて、と。鼬の嬢ちゃん、風邪以外の症状はどうだろう? ひどい怪我をしていたし、どこか痛むとかないだろうか?」
「けが……?」
「ああ。かなり衰弱している。嬢ちゃんを運んできた者によると、人の姿を保てないぐらい弱っている。現に、今は鼬の姿だしな」
こちらへ運び込まれた時点で、しなやかな身体を持つ鼬の姿だった。運んできた者曰く、山を下りている途中で鼬の姿になってしまったと言っていた。意識もなく、中々目を覚まさない彼女のことを心配していた。
「……あの、ここは?」
茜はずっと思っていた疑問を兎に尋ねる。
「ここは常盤街の満月医院だ。俺は医師の棗という」
常盤街、満月医院、医師の棗。聞き覚えのない場所でもあり、棗という名の医師も知らない。
「嬢ちゃん、名前は?」
「……あかね、と、いいます」
茜はゆっくりと言葉を発する。
「茜か。お前さん、鎌鼬か?」
棗は自分が座る反対側に目をやる。籠が置かれ、その中身は全て茜の持ち物だ。可愛らしい見た目に反して、鎌を二振りも持っていたのだ。鼬と鎌とくれば鎌鼬しか思い至らない。
茜は棗の問いに対し、こくりと頷く。
「お前さんの鎌を含め、荷物はそこにまとめてあるから」
棗が指さす先を茜は視線で確認する。籠の中身はよく見えないが、籠から飛び出ている柄とその先に結ばれた茜色の紐に己の得物であることがわかる。
「また後で確認するといい」
「はい。……あの」
「ん?」
円らな瞳が先を促す。
「わたし、どうやってここに?」
見ず知らずの地までどうやって来たのか。棗や杏介の様子、自分の身体の状態を鑑みるに、自分の足で辿り着くのは不可能のように思う。
棗は丸い目を細める。
「三日前に運び込まれたんだ。うちで働いていた奴が倒れている嬢ちゃんを見つけた。お前さんを見つけた場所の近くで何やら争いがあったらしいが……。巻き込まれたか?」
争い。茜の脳裏に二人の背がよぎる。
また落ち合おう。そう言って茜を吹き飛ばした二人。赤々と燃える炎と茜色に染まった空。鉄の臭いが鼻についた場所。
地獄のような場所を茜は思い出す。
「……っ」
茜はがばりと身を起こす。くらっと眩暈が起きるも関係ない。籠に視線を移せば、茜色の紐が目に入る。くったりとしたその茜色の紐にあの現場の赤がよぎり、身体が熱くなる。
「おい、無理して起きるな」
「でも」
傷む身体を無理やり動かし、籠へと手を伸ばす。あのとき、父と兄に手を伸ばしたように。
しかし、籠が遠ざかる。茜の頭上へと消えた籠を見上げると、黒髪の青年が籠を抱えている。
いつの間に。まったく気配を感じさせなかった。風もなく、本当に静かだった。
「まだ君は寝ておくべきだよ、鼬のお嬢さん」
青年は細い目をさらに細め、にこりと笑う。
「骨は折れていないとは言え、ひどい怪我をしているんだから。治るのが遅くなるよ」
穏やかな声で青年は言う。ひとつに結ばれた髪がさらりと肩から零れ、背中の方へ流れる。
「大人しくしておかないと、棗先生の飛び蹴りが炸裂するよ」
「飛び蹴りをするのは正当防衛か、お前ら相手ぐらいだ」
「えー? どうして僕らぐらいなんですか?」
ぶう、と口を尖らせた青年は籠を背に隠すように遠くへ置くと、棗と向き合うように座る。
「お前たちは俺の話をよく聞かずに、完治してなくとも喧嘩に明け暮れていただろうが」
「何のことかな?」
ふふふ、と青年は髪を指に絡めながら笑って濁す。
「……とにかく、今はしっかり休め。何が起こったのか、俺にはわからないが突っ走ることだけはやめておきなさい」
棗は茜を横にさせる。細く、小さな身体は熱を帯びている。まだ安静にしているべきしなやかな身体に布団をしっかりと被せる。
「食事の用意をさせている。それを食べて、薬を飲んで、休みなさい。いいな?」
「……」
「詳しいことはそいつに訊きなさい。嬢ちゃんを運んできた張本人だ」
「あれ? もしかして、僕、お目付け役?」
「その子への説明義務を果たせたなら、あとはうちの仕事だ」
そう言って棗は立ち上がると、部屋を後にする。
二人きりになった部屋は静かだ。外から風の音が聞こえるぐらいだ。茜は布団の傍に座る青年を見上げる。細い目の青年は、ん? と首を傾げる。胸の前に垂らした髪が彼の動きに合わせて揺れる。
「僕のこと、覚えてる? 君をここまで運んだ者なんだけど」
「……ごめんなさい、おぼえていなくて」
「いいよ。熱で意識がはっきりしてなかったしね。僕は貘の周。君は?」
周と名乗った青年は軽やかな口調で答える。
「……あかねといいます」
「茜ちゃんね。よろしく」
周は微笑むと、脚を崩し、胡坐をかく。
「えーっと、話すべきことはいくつかあるんだけど、先にご飯と薬を済ませた方がいいかもね」
三日も寝てたからねえ、と周はのんびりと言う。
あの一件から少なくとも三日は経っている。父と兄はどうしているのだろうか、と思うと今すぐにでもここを出て捜しにいきたいところだ。しかし、身体は重く、先ほど無理に動いたせいか、激痛が全身を駆けまわっている。
茜の胸が痛む。どうか、二人とも無事で、と願うしかできない自分が情けない。
「とにかく、今は回復に努めないとね」
ね、と念押しする周に茜は押し黙るしかなかった。
食事と薬を済ませた茜はほうと一息つく。鼬姿の茜の大きさに合うように小さな食器で出された食事は温かく、美味かった。しかし、ひどい倦怠感のため、あまり食べることができなかった。
残してしまってごめんなさい、と頭を下げる茜に、無理するな、と金髪の青年、薬師の杏介が言ってくれた。
「さて、と」
食器を片付けてきた杏介はどっかりと腰を下ろす。
「周、この子に説明してやったらどうだ? 気になってしかたないって顔してるぞ」
胡桃色の円らな瞳はわかりやすいほどに何が起きたのか知りたいとずっと訴えていた。それを周は遮るように、はいご飯だよ、はいお薬飲んでね、はい温かくしようね、と押し通していた。
棗の円らな瞳よりも遥かに心情が読みやすい目をしていると杏介は思う。それは周も同じなのか、眉を下げて小さく笑う。
「茜ちゃんが聞ける状態なら話すけど。具合は大丈夫?」
細い目は茜を案じるように見つめる。棗の診断によると、絶対安静であることに変わりはなく、無理をさせないようにと杏介共々言われている。
「はい」
茜は周の言葉に応じる。少しだが、食事を摂ったことで調子がよくなった気がする。渇いた喉も潤った。まだ声音は掠れていて聞き苦しいものではあるものの、何とか聞き取ってもらえる声色になったと思う。
「じゃあ、話すけど、具合が悪かったら遠慮なく言ってね」
周は、約束だよ、と念押しする。茜はその言葉に頷く。
「僕が茜ちゃんを見つけてから、ここに連れてきたところまで話すね」
そう言って周は話し出す。
茜を見つけたのは三日前の夕刻。空が茜色に染まり始めた時間だった。
雪が降り積もる中、雪を被って倒れている少女、茜を見つけた。声をかけたところ、反応はあったものの、呂律が回っていなかった。立った状態でもわかるぐらい、茜の顔は赤かった。
朦朧としていたのだろう、茜は周と少し話をすると意識を手放してしまった。茜の身体に積った雪を払いつつ、茜の容態を確認した。小柄な身体は意識が朦朧としていてもおかしくはないほどの高熱だった。周はすぐさま医者の元へ連れて行かねば、と思い、茜を抱きかかえて山を下りた。
麓の妖街に医者を訪ねよう。そう思っていた周だが、どこの医師も茜を受け入れられないほど逼迫していた。近くの山で何やら争いが起きたらしく、怪我人が次から次へと運び込まれていた。
緊急性がないなら他所にやってくれ。そう言われ、追い払われてしまった。茜も十分急患と言えるのだが、どこも取り合ってくれない。仕方なく、周は以前勤めていた満月医院へと足を運んだのだ。
たらい回しにされている間に茜は衰弱し、人の姿を保てなくなってしまっていた。胡桃色の毛をまとう小さな身体を震わせる茜を抱きかかえながら、周は満月医院へ飛び込んだ。
「久しぶりに顔出したかと思いきや、女の子拾ったとか言って飛び込んできたからな」
「女の子でしょ」
「こいつ、攫ってきたのかと思ったわ」
「実行犯に言われたくないね」
「やってねーよ、人聞きの悪い」
はあ、とため息をついた杏介はガリガリと頭を掻く。
「で、茜が運び込まれたのが三日前ってことだ。あとは診察して、手当してって感じ」
そして、現在に至るのだ。まだ顔は赤く、熱がある茜はまばたきをする。薬を飲んだとは言え、すぐに効果が出るわけではない。白足袋を履いたような手足は毛に覆われたまま、つまり、鼬の姿のままだ。自分でも妖力が不安定だと思う。
「何か質問あるなら、周に全部ぶつけろよ。混乱してるだろうし」
「はい。……その、遅くなってしまいましたが、助けていただき、ありがとうございました」
茜は二人に対し、頭を深々と下げる。周と杏介だけでなく、棗を含めた医院の者は命の恩人だ。
「ううん。僕はとくに何もしてないから」
「いえ、そんなことは」
周に見つけてもらっていなかったら、凍死していただろう。雪に埋もれ、静かに朽ちていたかもしれない。
「周はお手柄だろ。俺こそ、大層なことしてないからな。礼なら、先生に言ってくれよ」
「今回の件に関わった方、皆さんが恩人です。何とお礼を申し上げたらいいのか……」
茜は再度頭を下げる。謙遜せずとも、茜の命のために動いてくれた者たちだ。最大限の礼をすべきだと思う。
「顔上げてよ」
周に促され、茜は顔を上げる。穏やかに笑う周と、からりと笑う杏介がいた。
父と兄の顔が浮かぶ。二人は大丈夫だろうか。
茜はぎゅっと布団を握る。
「……あの、私が倒れていた辺りのことや、近くで起こったことについてお尋ねしてもよろしいですか?」
「いいよ。と言っても、ここは君が倒れていた辺りから離れているから、話があまり回ってこない。麓の街も混乱していたし、正確な情報がどれだけあるか……。とりあえず、僕が聞いた話でよければ教えるよ」
低くなった周の声に茜は身体を震わせる。覚悟はあるか、と問われているようだ。軽やかな口調ではあるものの、言葉は重い。小さな鼬姿の茜の身体にずっしりとのしかかる。
「……お願いします」
「わかった。……四日ぐらい前かな。妖怪の集団が君が倒れていた辺りの山や麓の妖怪や人間の住処を襲撃したんだって」
そのやり方はあまりに惨いものだった。誰それ構わず、切りつけ、食料や金目の物を盗んでいった。しまいには、住処を焼き払い、逃げ出そうとする者は切り捨てられた。なんと、幼子までも殺されたと言う。
「何とか逃げ延びた妖怪たちの証言によると、相手側の要求は食料や金目の物だった」
「随分威勢を張った盗みだな」
杏介はぽつりと言う。
「食料……」
年の暮、茜たちが暮らす屋敷にも盗みに入った者がいた。鎌鼬親子が捕らえ、尋問をしたところ、素直に理由を吐いた。
食い物が欲しかったから。年末なら、どこの集落もため込んでいると思ったから。
彼らはそう答えていた。
その後、彼らは屋敷の者の手によって、山の麓の奉行所に突き出されたそうだ。
今回の襲撃と彼らが関係あるのか。それはわからないが、目的が一緒となると疑いたくなる。
「今年は北の方は不作だって聞いたしな」
「うん。それでかなって僕も思う」
全国的にどこも不作だった。その中でも、北の方はひどいと聞く。せっかく芽が出ても、気温が低いために上手く育たなかったと聞いている。
「確かにそうでした」
茜たちが育てた作物は出来が悪かった。実は小さく、数もあまりできなかった。それでも、薪や炭、薬、染物、魚、山菜を売りながら上手にやりくりしながら生活していたのだ。
コツコツと節約した結果、年末年始の食料は例年とまではいかないものの、十分な量を確保できたのだ。とりあえず、冬は越せるだろうと皆安堵していたのだ。
「私たちだって苦労したのに」
ぽたり、と布団に染みができる。
畑の作物たちに元気がない、今年は駄目かもしれない、と嘆く者たちを見て、長が言ったのだ。
少しずつ節約しよう。皆には我慢をさせるが、今年を乗り切ろう。
長という立場に相応しい妖なだけあって、屋敷の者たちを奮い立たせるのが上手い。無駄な出費を抑えるため、優先すべきことを順に定めた。また、不要な物や加工した物、山の特産を売ったりして、何とか金銭を捻出した。
茜たち、医療班からすると、道具の買い替えも我慢したのだ。古くなってきたから替えたいと思ったが、まだ使えると手直ししながら使っていた。薬を少しでも多く作り、売れるようにと努力したのだ。
薬草を摘める数にも限りがある。これからのために、たくさん摘むわけにはいかない。屋敷の分も少し売るか、との意見も出た。けれど、万が一のことがあっては、と長を交えて遅くまで話すこともあったのだ。
「なのに、どうして……私たちが、巻き込まれないといけないの?」
どこも大変な生活をしていただろう。他の山から食料を恵んでほしいと頼まれたことがあった。こちらとしても、苦しくて断るほどだ。どうか、と頭を下げる使いの者に申し訳なくなるぐらいだ。
そんな生活をしている者が多い中、無理に奪い取ろうとする輩がいるなんて、最悪だ。盗むだけでなく、殺しまで行っているのだ。
「……許せない」
燃え盛る炎も、悲鳴も、血に濡れた刃も、ギラギラと光る眼も、全て許せない。
父と兄は無事だろうか。あの少女と幼子は逃げ切れただろうか。屋敷の生き残りは誰がいるのか。
襲撃さえなければ、いつものように屋敷で暮らしていたのに。皆どこへ行ったのかわからない。
全てがバラバラになってしまった。突然、日常が崩れてしまったのだ。不安、焦り、悲しみ、恐怖といくつもの感情が綯い交ぜになって、胸がひどく痛む。
「やっぱり、茜ちゃんも被害者か」
「気の毒にな」
杏介は懐から懐紙を取り出すと、鼬姿の茜に合わせて破く。そして、小さくなった懐紙を茜に渡す。
「……すみません」
「いいってことよ。そりゃあ、泣きたくもなる。自分たちは苦労しながら暮らしていたのにな」
「相手も苦労していただろうけど、いくらなんでも、よくないやり方だよね」
周も茜を宥めるように優しく言う。
茜は杏介から受け取った懐紙で涙を拭う。薬草のにおいがする懐紙だ。ごしごしと顔を拭い、ほうと一息つく。
得られるだけの情報を整理すると、怒りが湧いてくる。しかし、それをぶつけるべき相手は周や杏介ではない。当たり散らすのはよくないと茜は気持ちを静めようと深呼吸をする。
「……他に何か聞いたことはありませんか?」
茜は汚れてしまった面が内側になるように懐紙を折りたたみ、周に尋ねる。
「それぐらいかな、僕が聞いたのは。君が気になるなら、休んでいる間に調べてこようか」
「さすがにそこまでは……」
これ以上迷惑をかけるわけにはいかない。助けてもらった上、調べに行かせるなんて申し訳ない。
「……ちなみにですけど、周さんは襲撃に関して無関係ですよね?」
棗や杏介、満月医院の者たちは土地柄無関係であろう。
では、周は何者なのか。茜はよく覚えていないが、襲撃があった山や里の辺りで倒れていたとのことだ。運び込まれたのが三日前、襲撃があったのは四日ほど前となると、茜は一日ほど山を彷徨っていたことになる。
周は、なぜ、襲撃が起きたような場所の近くにいたのか。茜がどこで倒れていたのかは定かではない。が、周は茜を抱えて山を下り、混乱している麓の街に行ったということを話している辺り、事件が起きた現場近くにいたことは確かである。口ぶりからして、あの辺りに住む者ではないし、被害者でもなさそうだ。元々満月医院で働いていたそうだが、今は何をしていて、どのような理由で山へ入ったのか。
「安心して、僕は無関係だよ」
周はヒラヒラと手を顔の横で振りながら否定する。
「では、どうして、私が倒れているような場所に来たのですか?」
「仕事だね」
「仕事?」
「そう。夢売りの仕事でね。売り物になりそうな夢を探していたんだ」
夢売り。風の噂で聞いたことがあった。各地を巡り、夢の売買をする存在。誰かが見た夢、一から作った夢を売ってくれるらしいと山の麓の街で聞いたことがあった。けれど、茜の生活圏では縁のない職だ。麓の街を訪れたとか、見かけたことがあるだとかという話は聞いたことがない。
「お前、よく巻き込まれなかったな」
周とて、場合によっては巻き込まれていた可能性があるのだ。杏介の言葉に周は苦笑する。
「……そうだね」
茜が倒れていた山はすでに手遅れだった。木々はなぎ倒され、近くの集落は焼けていた。襲撃された後の山だったのだ。もし、と思うと周の身は危なかった。
「運がよかったのかもしれない」
「そうだな。茜も、運がよかったな。周に見つけられていなかったら、と思うとな」
「はい。本当に、ありがとうございます」
「いいんだよ」
周は細い目をさらに細める。
「さて、今日はこれぐらいにしておくか。起きたばかりだし、茜は休め」
杏介の言葉に周は頷く。
「しっかり休むんだよ、茜ちゃん」
「はい。お二人とも、夜分遅くまでおつき合いいただきありがとうございました」
「いいってことよ。ちゃんと寝ろよ」
杏介に促され、茜は横になる。
おやすみ、と灯を消し、二人は部屋を後にする。
しんとした冬の夜。外から聞こえる風は静かだ。
「……」
目を閉じる茜の瞼の裏に父と兄の横顔が浮かぶ。
嫌な予感がしてならない。二人の怪我の様子も、穏やかな笑みも、どうしても嫌な方へと考えてしまう。
必ず、どこかで落ち合おう。そう思う反面、二人は無事だろうかと心配になる。
そわそわとする茜は布団へ深く潜り込んだ。
◇◇◇◇◇
大変です、と早朝の満月医院に焦りを含んだ声音が響く。声の主は棗の元へ飛び込む。
「どうした?」
診療に使う器具の整理をしていた棗は息を切らせている職員に尋ねる。
「先生、茜さんが……茜さんが、いらっしゃいません!」
その言葉に棗は目を丸くする。
「何だと?」
まだ動き回れるほど回復していないはずだ。風を使うにしても、現在の衰弱した姿では風を起こすのも一苦労だろう。
「院内を探し回っているのですが、見当たりません。畳まれた布団の様子からして、いなくなってしまってから随分時間が経っているようです」
職員が部屋に入る前に声をかけた。反応がなく、まだ眠っているのだろうと思いながら、様子を窺った。
部屋にあったのは畳まれた布団。籠の中身は空で、布団は冷たかった。胡桃色の毛並みの鎌鼬はどこにもいなかったのだ。
「最後に姿を見たのは?」
「周君と杏介君です。昨晩、茜さんをこちらに連れてきた経緯を話したときが最後の目撃証言です」
それと、と言って職員は懐から紙きれを差し出す。真っ白な紙だ。
「これが茜さんの部屋に落ちていて」
棗は紙きれを受け取る。ただの白い紙のように見えるが、よく見ると何やら線が何本も入っている。触ってみると、わずかだが、凹凸がある。
灯に透かしてみると、何やら文字が刻まれているようだ。棗は丸い目で文字を凝視する。
オセワニナリマシタ
コノオレイハカナラズイタシマス アカネ
何かで引っ掻いて跡をつけて文字を残したようだ。
「先生、何か書いてあったのですか?」
「ああ。……周は?」
「周君は医院内を探してくれています」
「そうか。ここに呼んでくれ」
棗が静かにそう言うと、職員はすぐさま身を翻した。




