#5(※流血表現あり)
本話は流血表現があります。苦手な方はご注意ください。
小正月も過ぎた頃、例年以上に寒さが一層厳しくなり、雪も降る。しんしんと降る雪の中、茜は山を駆ける。
調合した薬を卸しに山を下りていた。お宅の薬は評判がよくてね、とありがたい言葉をもらえて嬉しかった。
父と兄に自慢しよう。そう決めた茜は足早に山を駆ける。
しかし、それは建前で少し前から山の様子がおかしいような気がしている。そのため、自然と足が急ぐ。屋敷の方へ向かうにつれ、風の様子がおかしい。妙に焦げ臭いにおいを風が運ぶのだ。嫌な予感を覚えつつも、杞憂で済めばと思いながら走る。
何もない、ただの気のせい。そう思いたくとも思えない違和感。屋敷が近づくにつれ、風が運ぶそれに心の臓が激しく脈打つ。
木々が焼ける臭いがするのだ。茜は只事ではないと悟る。
「茜!」
地表からの声に茜は足を止める。その声は屋敷の者だ。雪でかき消されそうなほど、頼りない影をふたつ見つける。茜は木から下りると、屋敷の者の姿に驚愕する。
茜に声をかけたのは少女と幼子だ。二人の着物は薄汚れ、急いで出てきたかのような、必要最低限の防寒着だ。泣きじゃくる幼子の手を引く彼女自身も混乱しつつも、何とか平静を保とうと深く呼吸している。
「どうしたの? 何か」
あったのか、と茜が尋ねる前に、彼女は茜の言葉を遮る。
「屋敷が襲撃されて、それで、逃げろって」
少女は震える声でそう告げる。
「襲撃……?」
なぜだ。茜が生まれてからも、度々襲撃はあったものの、ここまで大ごとになるようなことはなかった。
茜の鼻を焦げ臭いにおいが掠める。物が焼ける臭いに混ざって、鉄の臭いまでもかすかにする。
「茜も逃げよう! この道は私たちぐらいしか使わないから、見つからずに済むはず」
「待って! 皆逃げたの?」
「ううん。足止めしている間に、女子供は逃げろって」
「それって……」
茜の脳裏に凱と天の顔が浮かぶ。二人は大人の男だ。二人が振るう鎌の軌跡がよぎる。二人のことだ、残って今も戦っているだろう。
「茜、待って!」
駆けだそうとした茜の手を彼女が引く。彼女は茜と歳が近い彼女は今にも泣きそうな顔をしている。
「一緒に逃げよう。私たちじゃ、何もできない」
まだ子供だから、と少女は言う。少女の手を握る幼子はわんわんと泣いている。
「でも、まだ屋敷には父さんと兄さんが残ってるでしょ!?」
その言葉に少女は口を閉ざす。
「二人は逃げて」
茜は懐から財布を取り出し、少女に差し出す。薬を卸した際に受け取った金だ。
「え?」
「お守りね。ご飯を買ったり、泊まったりできると思うから」
茜は少女に財布を握らせると、一陣の風を起こす。近くにあった少女と幼子の足跡を消し、茜は飛び上がる。
「茜!」
「私、屋敷の方に行く。医療班だもの、手当しないと。二人とも、気をつけて」
「駄目! 茜、戻っては駄目!」
そう言う少女の言葉を遮るように茜は風を起こす。自分の背中を押すように、風を起こして屋敷へと向かう。道中、少女と幼子の足跡を消しながら、急ぐ。
近づくにつれ、生々しい臭いが強くなる。刃が交じり合う音が激しくなる。
赤々と燃えている。黒煙が立ち上り、日が傾き始めている空に炎の赤が重なる。
「……!」
眼下に屋敷の者の姿を捉える。
真っ白な雪に広がる赤。そちらに目が釘つけになる。
茜はその者の近くに降り立ち、様子を確認する。ピクリとも動かない彼の手元には無残にも折れた刃が転がっていて、薄っすらと雪を被っている。彼の首筋に手を添えるも、本来あるはずの命の脈が途切れている。
「……どうか、安らかに」
茜は手を合わせると、屋敷の方へ視線をやる。燃え盛る木々の隙間から見えるその光景に目を丸くする。
炎の中、刃が煌めく。炎とは違う赤黒い雫が散り、白銀の世界を赤く染め上げる。
茜は戦というものをまだ経験していない。話に聞く壮絶な世界が眼前で繰り広げられている。
聞き慣れた声の悲鳴が聞こえる。その声に我に返った茜は震える足を何とか一歩進める。
「……」
怖い。駄目だ。死んでしまう。
そんな恐怖に茜の口の中が渇く。全身が震えるのは、寒さのせいか、それとも。
茜は頭を振る。負の方向へ気持ちが傾いてしまう。
かじかんだ手足を無理やりにでも動かせ。助けを必要としている者がいるのなら、薬師として怪我の手当をしなければ。
刃を振るう以外の戦い方。それは薬師としての茜のやり方だ。
恐る恐る燃え盛る火の中心の方へと歩を進める。近づくにつれ、パチパチと爆ぜる音や刃の音、炎と血の臭いが強くなる。口と鼻を襟巻で隠しながら進む。
「……っ!」
地獄とはこのことを言うのか。轟々と音をたてて燃える炎が焼くのは屋敷や畑だけではない。頬を撫でる風は灼熱で、深く呼吸をしたら胸の内を焼き尽くしてしまいそうだ。
立ち込める異臭に吐き気を覚えながらも、茜は怪我人を探す。手当をしなければ、という思いで茜は炎の中を進む。
目の前に広がる光景があまりにも衝撃的で気分のいいものではない。強張った身体の筋肉を無理やり動かすことに集中する。粗雑な作りの人形のように、関節がギシギシと嫌な音を立てているような気がする。それほどまでに茜の動きはぎこちない。
そのせいか。背後からの殺気に茜は反応が遅れる。はっと振り返ると、大剣が振りかぶられていた。
茜の首があった場所を白刃が走る。間一髪よけた茜だが、頬にチリと熱が走る。
「まだガキがいたか」
大剣を担いだ獣が舌なめずりをしながら笑う。その大剣から赤黒い雫が、ポタリ、と落ちて雪に歪な染みを作る。その染みはじわりと雪を染め上げ、赤い花となる。ポタリ、ポタリ、と垂れる度に、花は花弁を重ねて大輪となる。
「弱そうだな、お前」
「……」
茜は腰の鎌に手を伸ばす。が、鎌の柄に触れても手が震えて抜くことができない。
刹那、風が吹いた。針に糸を通すように正確で、そして鋭い風だ。
「お前の方こそ、弱っちいなあ!」
獣の背後の方から声がする。その声と共に飛んできた鎌が獣の腕を切りつける。鮮血が炎の赤に混ざる。
「何だと!?」
男が振り返るも、声の主はいない。
また風が吹く。その気配に茜は身を屈めると、頭上を鎌が回転しながら通り過ぎる。ひゅっと音を立てながら、勢いをつけた鎌は獣の脚を深く切りつける。そして、鎌は吸い込まれるようにして主の元へ返る。
獣の背後、茜色に染まる世界で天色の紐が靡く。
「に、兄さん……」
絞り出した茜の声に天が目を見開く。
「お前、どうして……」
「先にお前から始末してやる!」
獣が大剣を天に向かって振りかざす。
「兄さん!」
天は両の手の鎌を構える。しかし、鎌で大剣を受け止めるには分が悪すぎる。
そう悟った茜が鎌を抜こうとしたそのときだった。
南の方角から風が吹く。優しい風かと思いきや、突然吹き荒れ、炎を運ぶ。
「な、何!?」
獣を囲む檻のように炎が燃え盛る。そして、獣の足元をすくうように下から風が吹き上げ、獣の身体を倒す。
「天! 茜!」
張り上げるようなその声は頭上から降ってくる。獣と茜の間に降り立った頼もしい背中を見上げた茜は丸い目をさらに丸くする。
炎よりも深い赤。それが父の背を染めている。袈裟懸けに切り裂かれた陣羽織が元々どのような色だったかわからないほど色が変わってしまっている。
「父さん」
駆け寄ってきた天の手を引き、凱は二人を背後に庇う。
「天、お前、怪我の具合は?」
「ちょっと腹に怪我したけど、これぐらい平気」
そう言う天の横腹はわずかに血が滲んでいる。
「茜は?」
いつもよりも低いその声音に茜は背筋が伸びる。殺気を帯びた父の声を初めて聞く。
「わ、私は怪我していないよ」
「そうか。……二人とも、逃げなさい」
凱は鎌を構える。研ぎ澄まされていたはずの鎌は刃こぼれがひどく、激戦だったことが窺える。銀色の刃にこびりつく赤が生々しい。
「そんな、父さんは?」
「俺は道を拓く。だから、二人とも逃げなさい。もう屋敷の生き残りも少ない」
炎と風の檻の中で獣がゆらりと立ち上がる。受け身を取っていた姿を凱の目は捉えていた。
覚悟を決めねば、と凱は鎌を握る手に力が入る。
「父さんも一緒に逃げよう! その怪我じゃ……」
茜は父の背に縋りつこうと手を伸ばす。かなりの出血量だ。こうして立っているのも不思議なぐらいだ。
しかし、茜の手を弾き飛ばすように風が壁のように吹き荒れる。
「おい、父さん!」
天は風の壁を突き破ろうと鎌を構える。
「逃げろ!」
父の一喝に二人は身体を震わせる。嵐が吹き荒れるように空気が揺れる。
「命あっての物種だ」
「嫌だよ! 父さん、手当しないと」
凱がゆっくりと振り向く。穏やかに笑うその横顔に茜は嫌な予感がした。
生きてきた中で、茜は屋敷の者を見送ったことがある。最期を看取ることもあった。苦しんで旅立つ者もいるが、すっと眠るように、穏やかに微笑みながら逝く者もいる。
父の表情が茜が見送った者の表情と重なる。
「なあに、父さんは強いんだぞ。後で追いかけるから」
「待って、父さん!」
茜は再度手を伸ばす。しかし、そうはさせまいと風が吹き荒れる。抵抗できない天と茜の身体が浮く。
「天」
凱に呼ばれた天は凱の横顔を見つめる。あまりにも穏やかなその横顔に母の死の間際が重なる。
「茜を頼むぞ。可愛い妹を守ってくれ」
「……っ!」
『この子を頼むわ。天はお兄ちゃんだもの。妹を、守ってね』
茜が生まれたばかりのときの母の言葉。茜を産んだ次の日、母は静かに息を引き取った。あまりにも穏やかなその顔は、おはよう、と言って起きてきそうなほど、寝顔と変わらなかった。
凱の横顔が、茜を託すと言った母と重なる。
天は唇を噛みながら、茜の手を取る。それを見止めた凱は茜を見下ろす。
「茜、後で手当してくれ」
凱はそう言うと二人の身体を吹き飛ばす。
「父さん!」
茜は手を伸ばす。頑張れば父の陣羽織に手が届きそうだ。
しかし、届かなかった。虚しくも、空を掴んだその手は凱に届くことなく、身体は風によって吹き飛ばされてしまう。
「父さん!」
茜は遠ざかる父の姿に手を伸ばすも、もう一方の手を引かれる。
「兄さん、父さんを置いて行けない!」
「……」
ぐっと手を引かれた茜は為す術もなく、遠ざかるしかできない。遠ざかっていく父の姿と炎に包まれた屋敷は涙が滲んで余計に見えなくなっていく。
「兄さん、戻ろうよ!」
「駄目だ」
「でも、父さんが」
「父さんなら大丈夫だ。追いかけるって言ってたんだから」
震える兄の声に茜はようやく兄の顔を見る。唇を噛みしめ、目を赤くする兄の横顔はもう下を見ていない。真っ直ぐ前を見つめていた。
「兄さん……」
「父さんと合流できるように。……態勢を整えるぞ」
天は茜の身体を抱き寄せ、風を起こす。追い風に背を押されながら、木々に紛れる。
未だ屋敷の者たちが戦っている。しかし、多くの者は立っているのもやっとといった調子だ。天の脳裏に彼らと父の姿がよぎるも、頭を振る。
今すべきことは、と天は茜を見やる。
「茜。とにかく走るぞ」
天は茜の手を引きながら木々を伝う。仲間たちには申し訳ないが、茜と仲間を庇いながら戦える体力は天にはない。
「兄さん、怪我が……」
父ほどではないが、天の衣も血で染まっている。とくに、腹の辺りがひどく汚れている。
「とにかく、安全なところへ」
天は茜の手を握る手に力を込めた。
荒い息をたてながら、二人は一度足を止める。どこまで来ただろうか。ひたすらに、がむしゃらに駆けていたため、場所がいまいちわからない。空を見上げれば、藍色に染まり始めている。まだ茜色を残す空に意外とそれほど時間が経っていないことがわかる。一日中走り回ったような気がしたのに、実際はさほど時間は経っていないようだ。
「はあ……」
天はぐったりと膝をつく。
「兄さん!」
茜は天の身体を支える。高さのある木の上から落ちたらひとたまりもない。
茜は天の身体を幹に預ける。荒い呼吸をする天の額には汗が浮かんでいる。
「兄さん」
「少し休めば大丈夫だ」
目を閉じながら呼吸を整えようとする。そんな天の腹の辺りはじわじわと血が滲んでいる。
「兄さん、怪我見るよ」
茜は天の衣を脱がせる。茜の予想どおり、横腹に傷ができている。内臓までは届いていない傷だが、この傷で駆けていたと思うと無茶しすぎだ。
茜は腰から薬を取り出す。
「とりあえず、薬塗るね」
「ああ」
茜は薬を指に取ると、傷口に薬を塗る。熱を持った傷口が痛々しい。
「うっ……」
「ごめん、兄さん。すぐに終えるから」
茜はてきぱきと薬を塗ると、襟巻を解く。涙を吸った襟巻に父の横顔が思い出される。
大丈夫。父は強いのだから。
茜はまた泣きそうになりながら、襟巻を天の腹に巻く。止血ができれば、と思いながら強めに巻く。
「茜……。寒いだろ」
「大丈夫。兄さんこそ、寒いでしょ」
「上、脱がされたからな」
天はゆっくりと目を開ける。轟々と音をたてて燃えていた屋敷周辺とは違い、この辺りは恐ろしいほど静かだ。赤々と燃えていた屋敷周辺とは対極に、暗い。
「すぐに着せるから」
茜は天の衣の襟元を合わせる。土や血で汚れた衣があまりにも生々しい。
「ねえ、兄さん。どうして、こんなことに……」
「わからねえ。突然襲撃されたんだ。何とか女子供は逃がしたけど、どこまで逃げ切れたか」
茜は道中で出会った少女と幼子の姿が脳裏に浮かぶ。二人は大丈夫だろうか、山さえ下りることができれば、と二人の無事を祈る。
「お前、事情がわからなくとも、状況からして逃げられただろ」
「でも、私は薬師だから」
「だからって、お前……。あまり戦いは得意じゃないんだから、飛び込むなって。あそこで俺と父さんが駆けつけてなかったら、死んでたかもしれないのに」
手のかかる妹だ、と言いながら天は衣をきちんと着直す。
「お前の戦場は運び込まれる怪我人や病人の看護のときだってのに」
「まさにそういう場所だった」
「そういう場所だったとは言え、自ら飛び込むな。怪我人増やして、薬師の数が足りなくなったらどうするんだ、馬鹿」
天は深く息をつく。
「ったく、年明けからこんななんてな」
気が緩んでいた。武器も持たずに過ごしていた者たちが遅れたこともあって、戦況は敵の方が有利だった。形勢逆転することなく、戦士の多くが傷を負いながら戦うしかなく、当然、命を落とした者もいた。
父は大丈夫だろうか、と天は空を仰ぎ見る。父も強い戦士だが、あの傷では、と考えたくもないことを考えてしまう。
風が冷たい。
「茜、お前、行けるか?」
「うん。兄さん、もう少し休んだ方が」
「いいや。お前だけ先に行け」
「でも」
置いて行けない、と言おうとした茜は背後からゆっくりと近づく殺気に背筋が凍る。
「気がつくのおっせーなあ、お前は」
天はゆらりと立ち上がると茜の頭を撫でる。
「俺が食い止める。だから、お前は父さんや俺が少しでも休めるような場所を探してくれよな」
「兄さん、それは」
父の姿。比較的新しいその記憶に茜は涙がこぼれ落ちる。
「泣くなって。……母さんの簪までして、余計に母さんの泣き顔みたいだからやめろよ」
天は小さく笑う。
母の泣き顔を多く見たわけではない。ただ、父がボロボロになって帰ってくると、母は泣いていた。無理をしないでくれ、と泣く母に父はいつも力なく笑って慰めていた。
「俺だって、強くなったんだぜ。これぐらいの敵、一人で十分だ」
力なく笑う天に茜は気配の先を手繰る。風が運ぶにおいからして、十ほどは敵が向かっているだろう。どう考えても一人では無茶だ。怪我をしている天一人に託すなんてできない。
「兄さん、駄目だよ。一緒に行こう」
「今の俺はそこまで早く走れない。茜の足なら余裕だろう。だから、一人で行くんだ」
「兄さんまでそんなこと言わないでよ!」
茜は天に抱き着く。背がぐんと伸びた天の身体は昔抱き上げて遊んでくれた父の身体と似ている。
「何言ってんだよ。死にやしないさ。怪我も軽い方だ」
「嘘! 痛いはずだよ!」
傷口に触れたとき、熱かったのだ。どうして動けるのかと思うほどの傷を天は負っているのだ。
「一緒に行こう! 今度は私が兄さんの手を引っ張るから」
「ははは。そんなこと言うようになるとはな」
天はからからと笑いながら、茜の頭を優しく撫でる。胡桃色の髪を留める菖蒲色の玉を持つ簪に目を細めながら、ひとつ息をつく。
「だけど、そうはいかねえな」
雪が舞い上がる。ふわりと二人の身体が浮き上がる。
「兄さん?」
「父さんにも、母さんにもお前を守れって言われたんだ。兄の務めだ」
天は茜の身体を突き放す。下から吹き上げる風は茜の身体を浮かす。
「兄さん!」
目に涙を溜めた妹に天はくしゃりと笑う。
「……お前、とろいくせに、何でこういうときに限って反応できるんだ?」
茜の手は天の手を握っていた。いつもだったら、咄嗟のことに反応が遅れる茜なのに、こんなときに限って、と天は寂しく思う。ぐっと天の手を掴む茜の手はいつの間にやら大きくなっていた。薬を扱うということもあり、手が荒れている。母の手もそうだった。
「嫌! 兄さんも一緒じゃないと嫌!」
「ガキみたいに泣くなって。今度試練に挑むっていうのに」
天は呆れたように笑みを浮かべる。
もう時間がない。
「茜。お前も独り立ちしないとな」
ふわりと笑うその顔に茜は目を瞠る。
天は意地悪だ。茜の嫌がることばかりする。強引で、無茶ぶりを振り、茜を困らせるのだ。
そのときの顔だ。だが、どこか寂しそうな目を天がしている。勝気ないつもの目ではなく、力ない、どこか焦点の合っていない目だ。
「兄さん、駄目!」
「また落ち合おう、茜」
風が強く吹き上げる。
「兄さん!」
天の手を掴む手がゆるゆると離れようとしていく。
「天津風が、お前の道を切り開いてやる。雲の路を吹き開けてやる」
痛いほどの風が吹く。
「妹を守るのは兄さんの仕事だからな」
兄は妹の手を振りほどく。
「兄さん!」
茜の張り上げる声に天は困ったように笑う。小柄な茜の身体は簡単に風で吹き飛ばされる。うっすらと茜色が残る空を妹の小さな身体が飛んで行く。
「あーあ」
天は吹き荒れる風の中心で頬を拭う。妹の涙なのか、自分の汗なのかわからない。溶けた雪かもしれない。
けれど、今はもうそんなことはどうでもいい。今、兄である自分がすべきことはただひとつ。
「父さん、母さん。兄としての役目、これでいいのかな?」
風が血の臭いを運ぶ。嫌な臭いだ。
天は震える手で鎌を構える。血に染まる鎌の柄の天色の紐が冷たい風に靡いた。
◇◇◇◇◇
ザクザクと雪を踏みしめる音がする。その音に重い瞼を上げる。
霞んだ視界に広がるのは一面白銀の世界。風も吹いていない静かな世界に、雪を踏む音だけがはっきりと聞こえる。
「お嬢さん」
軽やかな声が頭上から降ってくる。声の主を見上げようと視線だけ動かす。傘を差した目の細い青年だ。
「こんなところで寝ていたら風邪ひくよ」
青年はしゃがむと少女の顔にかかった髪を払う。ひんやりとした青年の手が心地いい。
「って、すごい熱だね。すでに風邪……風邪か? 風邪よりひどいかも? いつからここに?」
青年は傘を放り出して、己の衣を被せてくる。彼の身体を包んでいた衣は温かい。
「……」
声を出そうにも、音にならない。空気が漏れる音しかしない。口もあまり動かない。
「ん? 今、何か言った?」
細い目を見開き、青年は尋ねる。
「…………だ、……れ?」
少女は何とか声を絞り出すも、ひどく掠れている。音として成立しているのかと思うほどひどい声だ。喉の奥はじんじんと痛み、熱を帯びている。
「僕? 僕は周。貘の周だよ」
貘の周。考えようとするも、痛む少女の頭はまともに働いていない。
次第に視界が暗くなっていく。
「あ、ちょっと、大丈夫……じゃないよね。うん、いっそのこと眠ってしまった方がいいかもね」
おやすみ、と落ち着いた声が聞こえた気がした。




