#5
浮上してきた意識のどこか遠くで、これはまた、と小さく呟く声がした。里美はゆっくりとまばたきをすると、机に伏せていた身を起こす。
寒気がする。冷房の当たりすぎとは違う寒気に腕をさする。じっとりと嫌な汗をかいているようだ。
里美は周囲を見渡す。夢の中と違い、明るい店内だ。中華風の装いの場所に夢を見る前のことを手繰り寄せる。
望のバイト先である夢屋胡蝶。茶葉を売っているとのことだったはずが、夢も売っているとか何とか言ってそれから、とまだ覚醒しきっていない頭で記憶の糸を手繰り寄せる。
「……そっか、さっきのは」
夢か。テーブルの上で灯を受けてキラキラと輝くビー玉のようなもの。これは夢だと聞かされた。里美の手の近くには澄んだ水の色の玉が川面のようにチラチラと光を弾いている。
川の中の夢だった。水流の穏やかな川だったのだろうとふと思う。
そこから先だ。渦に呑まれたと思いきや、うってかわって薄暗い川の中だった。
どんどん身体が沈んでいくのも気にせず、里美は抵抗することなく身を沈めていった。
深い、深い、川の底へ。重力に身を任せるように里美の身体は沈んでいった。
「里美、大丈夫?」
まだ意識がはっきりしていないのか、焦点の合っていない里美に望は声をかける。はっと息を呑んだ里美は望の声によって意識を戻される。まるで、川底から引き上げられるように。
「うん……」
「お茶飲んで落ち着こうか」
周がそう言ってグラスを差し出す。グラスにはわずかに水滴がついている。里美はそのグラスを手に取る。
まだひんやりとした温度が指先に伝わったことに首を傾げ、腕時計を見やる。眠る前の時間は覚えていないが、カフェを出てからの時間を考えるに、店に入ってさほど時間が経っていない様子だった。
短い夢。夢の中では、それなりの時間が経っていると思っていたのに、現実世界では短時間。だから、麦茶も冷たいままだ。
軽い時差ボケのようだ、と思いながら里美は麦茶を口にする。
「……美味しい」
スッキリとした味わいだ。まだふわふわしていた頭が冴えていく気がする。
「それは何より。落ち着いたら話をしようか」
周は使った夢玉を瓶に戻し、ふたをする。
「はい……」
里美はグラスを両手で包み込む。
あんな夢を見ていたのか。今まで、沈んでいくシーンしか覚えていなかった。沈んでいく里美の目の前にいた少女の存在をこれっぽっちも覚えていないなんてあるだろうかと思うほど、少女の声をありありと思い出せる。
あの声に聞き覚えがある。セーラー服もどこかで見たことがあるようなデザインだ。
彼女は何者なのか。
「……」
ズキリと頭が痛む。受けつけたくない、理解したくないと拒絶しているようだ。
「里美、無理しないで」
望は里美を気遣う。起きたときの顔から変わらず、里美の顔は青ざめている。瞳から激しい動揺が窺える。
「うん。……ねえ、望たちはどこに行ってたの? 途中ではぐれたよね?」
川の中と言っても、三人で見た川の中と里美一人で見た川の中は随分と様子が違った。深さから見ても、違う川なのだろう。最初の川の中の夢から川底へ沈んでいく夢へと移ったとき、周と望はいなかった。
「はぐれた……と言えばはぐれたけど、見てはいたんだよ」
どう説明すればいいのか、と望は言葉を探す。
「見てた?」
望の姿はおろか、周の姿も見えなかった。里美が見えないところで見ていたのか。
「どこにいたのよ」
「どこって言われると難しいけど……。周、言ってもいい?」
「いいよ」
周は麦茶を一口飲む。
麦茶の温度からして、里美の夢は短かかった。短い夢でありながらも、里美の夢は何とも興味深いものだった。思わず、これはまた、と言葉がこぼれるほどに、深い夢だった。
「蝶を見かけなかった?」
「蝶?」
言われてみれば、夢の最後、少女のセーラー服の襟の向こうに二羽の蝶がひらりひらりと優雅に飛んでいたような気がする。
「……まさか、あの蝶が二人?」
「うん、そう」
「ごめんね、説明が後になってしまって」
周は申し訳なさそうに言う。
「君が見る夢だから、僕らがいると邪魔だと思ってね。だから、僕らは傍観者になろうと姿を変えていたんだ」
里美がここ最近見続けているという夢へ引きずり込もう。周は夢へ入る前からそう考えていた。
周たちがそのままの姿で入り込んでもよかったが、里美が見る夢のありのままの姿を見るために周と望は邪魔な存在だ。なぜなら、夢に入り込む二人は本来、里美が見る夢に登場する存在ではないからだ。存在したとしても、夢に入り込んだ周と望ではない。あくまで、夢の中の登場キャラクターとしての周と望だ。
夢に入り込んだという意識がはっきりある二人は身を隠しつつも、里美の夢を覗き見る。そのためにとった策だ。
夢の中に溶け込むために、蝶の姿をとる。これは、周が夢を作り出すときにも使われる手段だ。今までもそのようにして夢の世界へ入った。誰かが見ている夢への干渉を避けるために使う方法だ。夢を見ている者にはただの蝶という認識で終わる。場合によっては、蝶がいたという認識すらされずに目覚めることもある。
「夢の中だし、簡単に姿を変えることも可能か……」
夢の世界だから、という言葉で片付けていいのか疑問だが、夢という世界は結構適当なこともある。
例えば、さほど接点のない人間と親し気に話していたり、現実世界とはかけ離れた世界線の話だったりとよくわからないことが起きやすい。それを思えば、好き勝手できても不思議ではないと思う。
しかし、周の話しぶりはまるで夢を操っているかのようだ。周の思うままに夢の世界を自由に移動できたり、姿を変えたりしている。
「何者なんですか?」
一番の謎は周というこの男だ。明らかに人間離れしたことをしている。人間ではありませんと言ってくれた方がまだ信用できるような男だ。
里美の問いかけに周は細い目をさらに細める。
「ただの夢売りさ」
「夢売り?」
初めて聞いた単語だ。ファンタジー世界でならありそうな職だが、里美がいるこの世界は現実世界。空飛ぶドラゴンや、魔王を倒そうと旅する勇者と仲間たち、王国の可憐な姫君などいないのだ。
「どうやって夢を売るんですか? このビー玉? みたいなのもどうやって作るんです?」
「教えられないなあ。だって、企業秘密だから」
周はのらりくらりとかわしていく。蝶がひらりひらりと障害物をよけるように舞うかのようだ。
「企業秘密どころか、違法な手を使ってるとかじゃないですよね?」
いっそ、この会話こそ夢であってほしいと里美は願う。
「怪しくないって」
「ねえ、周。怪しくないって言えば言うほど怪しさが増すって知ってる?」
「うん、知ってる」
望の言葉に、すんと真顔になった周は、あーもう、と自棄になり始めている。
毎度のことながらこの説明が人間相手には面倒だ。昔はわりと受け入れられていたのに、現代は難しい。いっそのこと貘だと明かしてしまいたくなるほど、面倒でまどろっこしい。妖怪相手ならいらぬ説明の手間が省けるのだが、現代の人間相手には上手いこといかない。
ひとみもそうだったが、里美も中々強者。どうしたものか、と考える周はちらっと望を見やる。
「……望ちゃんは僕のこと助けてくれないの?」
周は雨に濡れた子犬のような目で助けを求める。
「その言い方、どうなの? 助けるも何も、周が真実を述べている以上、私から言うことは何もないよ」
望とて、夢屋の全てを知っているわけではないのだ。周の方が詳しいことについて、望が口を出すのは余計なことだ。下手をすると、誤解を招きかねないし、遠回りすることになる。
「ぶー」
「そんな子供みたいな反応しても駄目」
望は周を適当にあしらう。周が駄々をこねるときは精神年齢がぐっと下がる。
「えーっと、とりあえず、不快にさせたら申し訳ないのですが、宗教とか、マルチ商法ではないですよね?」
里美は慎重に発言する。宗教を否定するつもりはない。救われる人がいるのならいいが、困っている人から搾取するのは反対だ。マルチ商法はそもそもよくわからない手で儲けようとする印象が強く、乗りたくない。
とにかくだ。友人が関わっているのだから、はっきりさせたいところがある。
「このお店、風俗とかに斡旋しませんよね?」
「しないよ、そんなこと」
細い目が真っ直ぐ見据える。声音もはっきりと断じている。
視線がさまよう。まばたきの回数が多い。顔をかく。表情が硬い。呼吸が乱れている。
これらは嘘をついているときの反応の例の一部だ。まがりなりにも、里美は心理学部だ。行動と心の結びつきを研究する分野。考えを全て読み解けるわけではないし、知識があったとしても実践できるとは限らないと理解している。
それでも、あくまで指標にはなるはずだ。
「……」
嘘をついている人間の行動と周の様子を照らし合わせる。発言は不審に思うことが多いが、振る舞いはとくに気にならない。軽やかな口調は調子がよく、低すぎない声音も落ち着いているように聞こえる。詐欺師の特徴のような気がしないでもないが、望の反応を見る限り、嘘はついていないのだろう。望が変に口出ししてこないのも信頼の表れ。
望が洗脳されていなければの話だが。
「望」
「何?」
里美は隣に座る望を見やる。
相変わらず綺麗な目をしている。ピカピカに磨き上げた鏡のように澄んだ目だ。そこに映る里美の飴色の髪が鏡で見るよりも綺麗に見える。
「……ううん」
この目は嘘をついていない。否、望が嘘をついているところなど、見たことも聞いたこともない。
それを思えば。
「……全部は信じなくていいっておっしゃいましたよね」
「うん」
里美の問いに周は答える。
「わかりました。気になることだらけですけど、もしもがあったら訴えればいいということに気がつきました」
周の眉がピクリと跳ねる。
「何のために法律があるのかって、守るためですよね?」
「そうだね」
「守るべきを守らなかったら、罰が与えられる。……ですね?」
「……君、法学部?」
「望と同じ心理学部です」
「んー……うん、まあ、そうだね」
周はテーブルの上で手を組む。
「ただ、ひとつ言わせてもらうと、僕は強制はしない。君が嫌だと言うなら店を立ち去ってくれて構わない」
無理強いをさせるほどの権力を周は持ち合わせていない。それこそ、無理強いをさせてもデメリットしかない。
里美が口にしたように訴えられる可能性があるのだから。人間ではないため、逃げようと思えば簡単に逃げられるため、痛手も少ない。しかし、そのための夜逃げの準備が面倒でならない。できることなら、穏便に済ませたいと周は思う。
「里美、ちょっと間違えると脅迫になるよ」
望がそれとなく窘めると里美は小さく笑う。
「わかってるよ。……信用三割、疑い七割と言ったところでしょうか」
「三割も信じてもらえるなら上々」
周は組んだ手を解くと、穏やかに笑う。
「じゃあ、本題。お友達はどうしたい? 店を出るか、茶葉を買って帰るか、夢のことについて話し合うか」
「……何かしら、助言はくださるのですか?」
「うちでできる範囲のことなら手を貸す。リラックスできるようなお茶がほしいなら紹介するし、夢のことで気になることがあるなら聞くし」
「なるほど……。では、夢について、お尋ねしても?」
「どうぞ」
周に促され、里美は改めて先ほど見た夢を振り返る。
「客観的に見て、私が見ていた夢について、どう思います?」
暗闇を流れる川に落ちた夢。沈んでいくとき、一人の少女らしき人影があった。
「先にお友達の気持ちを聞きたいな」
周はそう言うと、里美はわずかに目を伏せる。
「変な夢……ではありますが、不気味だなっていう感情の方が大きいです」
「不気味とは?」
「ずっと暗くて、どんどん沈んでいく……。何もない水中をずっと」
身を任せたままだった。水中で一切動かなければ浮きそうなのにも関わらず、里美の身体はただただ沈んでいくのみだった。
「あの、こんなこと尋ねていいものかわかりませんが、夢占いってあるじゃないですか」
「あるねえ。だけど、夢占いは百発百中とか思わない方がいいよ。参考にする程度で、絶対と思わないことだね」
「詳しいんですか?」
夢売りと名乗るだけあって詳しいのだろうか、と里美は思う。
「一応知識はある程度だけどね」
「……フロイトやユングの夢分析」
望がぽつりと呟く。講義でそんな内容をしたのを里美は覚えている。精神分析学や分析心理学など、講義の内容を思い出していく。
「ああ、西洋のだね。東西ともに万能ではないと僕は思っているから、あくまで参考に留めておくべきだと思うんだ」
夢は不確定なところが多い。普通なら成り立たない会話も成立したり、現実世界ではありえない現象が起きたりする。予測不可能なことが多い夢で、これが出たから心理状態はこうなる、こんな夢を見たのなら未来はこうなる、など言い切れるわけがないのだ。
「そういう物なんですかね」
里美がそう尋ねると、周はひとつ頷く。
「僕はそう思っているよ。西洋的な考えより、東洋的な夢占いの方が専門だから、さっき望ちゃんが言っていたフロイトやユングと考えは違うかもしれない」
夢は精神状態を映す鏡とも言えるだろう。夢から心理状況を探るという考えはあながち間違ってはいない方法だと周は思う。しかし、型に綺麗にはまるかと言えばそれもまた違う。
周は貘だ。様々な夢を扱ってきた身からすると、精神状態が不安定な者が見る夢と安定している者が見る夢の内容や味は異なる。夢から深層心理を見てみようという考え方はいい線をいっていると思うが、現状、人間たちはその域に達していない。貘である周も分類分けができるかというとそうでもない。様々な夢を扱ってきた貘にもできていないことだ。
まだ先の話だろう。そんなことを考えていた周は里美が見た夢のことを振り返る。
「夢占いには頼らないとして……。個人的にはもっと気になることがあるんだけど」
「あ、それは私も」
里美がそう言うと周は先を促す。
「セーラー服の子が一番気になります」
どれだけ深い川なのだろうかとも思うが、一番気になるのは少女のことだ。
彼女は何を言っていたか。
『美しくなる。綺麗になる。可愛くなる』
ずっとそのようなことを言っていた。そして、最後にはこう言ったのだ。
『その身体を、私に頂戴』
思い返すと寒気がする。
「そうだね。僕も彼女のことは気になる」
「私も。里美、セーラー服の子に心当たりはある?」
望の問いかけに里美の身体が震える。
「……」
「里美?」
里美の横顔は何かに怯えているようだ。望はその様子に眉をひそめる。心当たりでもあるのだろうか。
望はセーラー服の少女のことを思い出す。塗りつぶしたかのように真っ黒な顔の少女。ずっと里美に向かって美しくなると言っていた。その声は暗く、聞いていてあまり心地のいいものではなかった。
嫉妬。少女の声は誰かを妬むような声だった。声音は少女らしく、高かったが、ずっしりと重みのある声。ねっとりとした話し方だった。
「……望ちゃん、一度席を外してもらっていい?」
「え?」
硬い声音だ。周はじっと里美を見つめた後、目を閉じる。
「君がいると話しにくいだろうから」
里美の瞳が揺れる。動揺の色を捉えた望は逡巡し、周の言葉に従おうとテーブルに手をかける。
「待って」
里美は静かに、だが、張りのある声で望を引き留める。
「大丈夫です。ちょっと、昔を思い出していただけですから」
里美は力なくそう言うと深くため息をつく。
「店主さん、何かわかっているんですか?」
「まあね。夢は記憶だから」
夢は記憶の整理をしているから見ると言われている。突拍子のない夢を見ているとあまりその実感が湧かない。
だが、最近よく見る夢は間違いなく里美の記憶とリンクしている。なぜ、起きると夢の内容を覚えていないのかは定かではない。けれど、今は覚えている。心当たりもあるにはある。
あのセーラー服の少女は誰なのか。里美はわかっている。
「里美、無理しなくていいよ。話したくないなら話さなくていいし、私に聞かれたくないなら席を外すし」
「いや、そこまでじゃないんだ」
里美は弱々しく笑う。細い指を絡めながら、考えをまとめると里美は望に視線をやる。
「ねえ、望」
「ん?」
望は里美の言葉を待つ。里美の明るい茶色の瞳はゆらゆらと定まらない。
どれほど沈黙していたか。グラスに結露した水滴がゆっくりと流れ落ちる。
「……」
里美は深呼吸をする。望は何と言うだろうか、と思いながら胸に秘めていた疑問を投げかける。
「私って綺麗?」




