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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
第四夜 顔を隠すセーラー服の少女
28/88

#4

 ぴちゃんと水の跳ねる音がする。その音に里美は目を開けると、ぎょろっとした目と目が合う。驚愕する里美の顔を映したそれはまばたきもせず、無反応だ。鈍く光る硬そうな網目がゆっくりと通り過ぎていく。


「え?」


 里美はその巨体、魚の行く先を視線で追う。里美のことなど目もくれずに泳いでいき、水草にその姿をくらませる。


「何これ……」


 里美は辺りを見渡す。まるで水の中のようだ。プールの底に潜って水面を見上げたときのように、空がゆらゆらと揺れている。先ほどの魚の鱗のような網目状の水の筋が揺蕩っている。射し込む光が水底を照らし、水草が降り注ぐ日光を浴びている。


「気がついたみたいだね」


 背後からの声に里美は振り向く。ニコニコと笑う男の隣で友人が眩しそうに目をまばたかせている。


「ここ、どこですか?」


「さっき言ったとおりさ。魚が見た夢。彼が生活する川の中の夢さ」


「夢の中……川の中……?」


 何を馬鹿な、と言おうとした里美はあることに気がつく。

 水中で当然のように呼吸ができている。魚たちが流れに身を任せて泳いでいるのは水の中だから。彼らが水中で呼吸ができるのは当然として、里美たち人間にそれはできない。それなのに、陸地と同じように呼吸をしている。息苦しさもない。声を発することもできている。

 それはなぜなのか。夢の中だからと言えばありえる話だ。口元から一切泡が出ていないのも証拠だろう。


「……どうやってこんなことを?」


 あのガラス玉だ。彼が夢玉と言っていたあの水色の玉を見ていたら眠気が襲ってきたのだ。催眠術をかけられたとはあんなことを言うのだろうか。


「それも内緒」


「内緒って……」


 頼みの綱よ、と里美は望に視線をやる。どうか望はこちらと同じ考えであってほしい、と願うも望は何も不思議に思っていない様子で川の中を観察している。


「望。どういうこと?」


 問われた望は周をちらりと見上げる。胡散臭いこと、この上ない顔で涼しそうにしている。


「どうも何も、私はとくに何もしていないから。……信じられないって思うのも当然だと思うけど、実際にこうして起こっていることが事実としか言いようがない」


「嘘でしょ……」


 否定しようにも、実物を見せられたら否定のしようがない。

 ありのままを受け入れろ。望の目がそう言っているような気がしてならない。


「ここは夢の中。ただそれだけさ」


「それだけって言われても……」


 ヘラヘラと笑う周に望が肘をいれるのを横目に里美は水面を再度見上げる。空の色と淡い緑が揺れている。意外と浅い川なのかもしれない。

 そんなことを思っていると、ぬっと頭上を魚が横切る。先ほどの魚の倍以上はある魚はゆったりと泳いでいく。魚の尾が水中を揺らし、水の動きを肌に感じたような気がする。弾力のある水の動きだ。


「周、やっぱり簡単には信じてもらえないよ」


「うわー、大きい魚だなあ」


「人の話聞いてる?」


 少年のように目を輝かせながら魚の姿を追う周に望はため息をつく。望は慣れたものだが、普通の人間からすると信じろと言って信じるのも難しい話だ。

 里美の目が今まで見たことがないほど警戒している。この男を信じていいのかという疑念と騙されていないかと望を案じる気持ちが半分ずつ混ざった目だ。


「うん。聞いてるよ。まあ、いいよ。僕としては全てを全て信じてもらおうと思っていないから」


 ただ、と周は人のいい笑みを浮かべる。


「君の身体に危害が加わるようなことはない。これは絶対だ」


「……」


 里美は自分の手を見つめる。この身体は実体ではないのだろう。でなければ、魚たちよりも小さな姿というのもおかしな話だ。


「……本当にここは夢の中なんですね?」


「うん、夢の中だよ」


「そうですか」


 里美は深々と息をつくと、頬を力いっぱいつねる。しかし、とくに痛みはない。夢の中だからか、触覚がほとんどない気がする。確かに頬に触れる指の感触も、指が頬をつねる感触もある気がする。

 そう、ある気がするだけなのだ。


「……望、ちょっと私のこと殴ってくれる?」


「え、いや、それはちょっと……」


「じゃあ、つねって」


「え……」


「早く!」


 困惑する望に対し、里美は声を張り上げる。若干くぐもったその声に望は恐る恐る里美に手を伸ばし、彼女の頬に触れる。いつもよりも濃いチークの頬を指で軽くつまむ。


「……つねるよ」


「力いっぱいよろしく」


「う、うん。痛かったら言ってね」


「むしろ痛いぐらいでよろしく」


 ぎゅっと目をつむる里美に申し訳なくなりながら望は指先に力をこめ、里美の頬をつねる。もっと、と里美に言われてさらに力をこめるも、里美が痛がる様子はない。

 それもそのはず。夢の中で触覚はほとんど機能していないからだ。嗅覚も同じらしい。感じたというのはそんな気がするだけだよ、と周が言っていた。だから、望の指先は里美の柔らかで滑らかな頬を触っている感覚があるような気がしている。

 気がしているだけ。触覚もなければ、痛覚もない。痛いと感じるのは目が覚めているときの経験をもとに痛いと思い込んでいるだけだと言う。


「里美、もういい?」


「うん」


 望が手を離すと里美は目を開ける。


「痛くないってことは夢ってことか」


「そういうことだね」


 周がそう言うと里美は頭を乱暴にかく。


「あー、なるほど。いや、なるほどってあんまり思ってないし、思いたくもないんだけど」


 わからないことが多すぎるのだ。正直、納得していない。夢を売るとはどういうことなのか、夢を形にするなんてどんな手を使っているのかなど、気になることが多すぎる。


「……あまりうだうだ考えると頭パンクしそうだし、ちょっと考えるのやめます」


 入ってくる情報が情報だけに、頭が追いつかない。一気に全てを理解しようなんて無理だと悟った里美はあれこれ考えることを一度中断する。


「それがちょうどいいかもね」


「私もそう思う。……里美ってこんなに気にする人だったんだ」


 言ってしまえばおおざっぱな人間。望からするとそう見える。大体これぐらい、で里美は決めることが多い。


「いや、さすがに事が事でしょ、この場合」


 あまりにも非現実的すぎる。確かに細かいことはあまり気にしない質だと里美自身わかっているつもりだが、さすがに見極めるべきラインがあると思っている。


「詐欺とかだったらどうするのって話よ」


「そうだね」


「そうだねって……。望、大丈夫?」


 しっかり者の望がすんなりと受け入れていることの方が意外だった。慣れというものは恐ろしい。


「うん。胡散臭い店主ではあるけど、洗脳されたわけじゃないよ」


「望ちゃん、僕のことを何だと思ってるの?」


「変な壺や絵や石を売りつけてきそうな胡散臭い顔した店主」


「君ねえ……」


 周は眉を下げて苦笑する。今までにも胡散臭いと望に言われてきたが、彼女の友人を前にそれを言われると何とも言えない気持ちになる。


「存在は胡散臭いけど、信用はしてる」


「そうですか」


 信用されているのは嬉しいが、胡散臭さが目立っているのかと周は肩をすくめる。


「じゃあ、お友達もとりあえず受け入れてくれたみたいだし、夢を見ているついでに、寄り道……と言うか、本筋に行ってみる?」


「本筋って、私が最近見る夢を見るってことですか?」


「ピンポーン。夢は変幻自在だから、この夢から君が最近見る夢に切り替えることもできるのさ」


「はあ……」


 そんなこともできるのか、と里美は怪しむ。が、今こうして夢の中に入って意思疎通が何なくできている時点で周の話は本当らしい。


「いいですけど、どうするんですか?」


 この夢に入ったときは夢玉と呼ばれていたアイテムを使っていた。同じ手を取るならば、あのガラス玉が必要になるはずだ。しかし、里美が見るあの夢は形になっていない。里美ですらほとんど内容を覚えていないのに、どうするのか。

 里美の心配をよそに、周はカラリと笑う。


「大丈夫。そのまま目を閉じて、身を委ねて」


 周がそう言うと、水中がぐにゃりと歪む。ぐるぐるとかき混ぜられるように渦を巻いていると気がつく。髪が風に吹き上げられたかのように揺れ、視界がみるみる内に暗くなっていく。

 渦の向こう、チャイナシャツを着た彼の髪色が暗い青に染まったような気がした。


◇◇◇◇◇


 目の前には川が流れている。川岸にわずかに並ぶ灯以外、光源はなく暗い。ちろちろと緩やかに流れる川を呆然と見つめる自分の姿が川面に映っていた。飴色の髪、ぱっちりとした二重、オレンジ色系統のリップ、華やかなワンピースを着た自分だ。

 なぜこんなところに、と思っていると、後ろに気配を感じる。振り返るよりも早く、里美よりも小さな何かが思い切り体当たりをする。身構えることも、踏ん張ることもできず、里美の身体は簡単に弾き飛ばされる。

 ドボン、と音がする。その音と共に、ポコポコと透明な泡が上に向かって消えていく。シャボン玉みたい、と思っているも、しばらくすると泡は消えてしまう。その様子もシャボン玉と一緒だ。

 里美はぼんやりとする視界の中、周囲を見渡す。薄暗い水族館の水槽の中にたった一人、ぽつんと沈んでいっているような景色だと思った。光はほとんどなく、視線の先には水面があるぐらいだ。その水面も遠ざかっていく。

 沈んでいると同時に徐々に暗くなっているような気がする。海底に沈んでいくとこんな感じなのだろうか、と思いながら里美は身を委ねる。

 ひんやりとした冷たい水中。光の少ない水の中、里美は一人ぼっち。

 そのはずなのに、どこからか視線を感じる。それも、ひとつ、ふたつではない。両手では数えられないどころの数ではない。もっと多くの視線を感じ、辺りを見渡すも誰もいない。

 怖い。里美の見えないところで誰かに見られている気がする。里美は嫌になり目をぎゅっと閉じる。

 今度は声が聞こえる。ひそひそと話している内容はわからないが、声が聞こえるのだ。囁くようなその声は里美に話の内容を聞かれまいとするような話し方だ。例えば、誰かの悪口を言うようなときの嘲るような笑い声も聞こえる気がする。

 怖い。里美の見えないところで誰かが里美のことを話しているような気がする。里美は嫌になり耳を塞ぐ。

 どんどん深くなっている。そう感じると同時に、寒気がしてくる。冬の冷たい寒さではなく、ぞわぞわとする不快な寒気だ。じっとりとした寒気に混ざって、視線も、声も、まだ感じる。一体いつになったら止むのだろうと里美は身体を震わせる。


「見ないで……言わないで……」


 思わず口からそんな言葉がこぼれる。その言葉は泡になったのか、コポコポと音がする。


「美しくなる。綺麗になる。可愛くなる」


 突然、どこからともなく声が聞こえる。はっきりと聞こえるその声に里美は薄っすらと目を開ける。里美の口から出てきたであろう泡がひとつに合わさっていく。


「もっと、もっと、美しく。もっと、もっと、綺麗に。もっと、もっと、可愛らしく。そんな人になるの」


 その声は少女のようだ。その声に聞き覚えのある里美は耳から手を外し、目を瞠る。


「きっとなる。誰にも負けないような美人になる」


 声の主である泡はゆらゆらと形を作り出す。

 低い位置でふたつに結んだ黒髪、揺れるスカーフ、ラインの入った襟、膝下丈のスカート。

 セーラー服を着た少女だ。紺色のセーラー服は水中に溶け込んでしまいそうなほど暗い。


「あなたは……」


 ぷくぷくと泡が少女と里美を包み込む。ぐっと距離が縮まり、少女の顔を見ようとするも、何も見えない。星ひとつない夜空のような真っ黒な顔がそこにあるのだ。


「美しくなる。綺麗になる。可愛くなる。胸を張れるような、自信を持てるような、女性になる」


 暗い声音の少女の言葉が里美の身体にまとわりつく。縄のようにずっしりと、ささくれだったようなあの感覚が里美を縛りつけるかのようだ。

 少女の顔は相変わらず見えない。影になっているにしては、彼女の顔は塗りつぶしたかのように黒い。

 少女の手が里美の顔を撫でる。顔の輪郭を確かめるようにその手はゆっくりと撫でていく。里美はその手つきにぞっとする。

 少女の手は恐ろしいほど冷たいのだ。氷のように冷たいその手に里美は身体が硬直する。


「もっと、もっと、綺麗にならなくちゃ。もっと、もっと、美しくならなくちゃ。もっと、もっと、可愛くならなくちゃ。誰もが羨むほど、綺麗で、美しくて、可愛い人にならなくちゃ」


 少女の言葉は呪いの言葉のようだ。里美は少女を突き放そうとするも、身体が思うように動けない。


「生まれ変わるの、私」


 少女が微笑んだような気がする。顔は見えないのに、なぜかそんな気がした。

 里美の目元を少女の手が覆う。


「その身体を、私に頂戴」


 少女の言葉に身の毛がよだつ。里美はその手を払おうとするも、指先がわずかに動くのみだ。

 意識が遠ざかっていく。少女に抱きしめられた身体は沈んでいく。里美は遠ざかる意識の中、少女の肩越しに二羽の蝶がひらひらと泳いでいる姿を見たような気がした。

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