#3
雨がしとしとと降る朝、周はガンガンと痛む頭に手を添え、机に伏せる。
「……あー、頭が」
雨の降る日、気圧が低いせいか余計に痛む気がしてならない。夢屋を休みに正解だったと思いながら、周は雨の降る外を恨めしそうに見る。日輪の庭の緑は恵みの雨だと言わんばかりに天から降ってくる銀色を全身に浴びている。瑞々しい深緑色が眩しい。
深く息をつく周の傍に茜がしゃがむ。
「周さんが二日酔いするほど飲むって珍しいですね」
茜は用意した薬と水を机に置く。午前は休みをもらっているため、いつもより少し遅めに起きた。二日酔いの薬が欲しい、と満月医院を訪れた杏介に朝食を誘われ、日輪に上がった。杏介、茜、望、直人が朝食を済ませたところで、周が起きてきた。周の顔色は悪く、頭に手を添えて辛そうだった。
そんな周も朝食を終え、杏介が食器を下げたところだ。杏介から水を預かった茜は薬と一緒に出す。顔を上げた周は重い身体を起こし、薬を飲む。
「僕も久しぶりに飲んだ」
「杏介さん、止めなかったんですか?」
「俺は止めたぞ。悪い飲み方はするなって」
追加の酒を持ってきたのは周自身だ。足りない、と言っていつの間に用意していたのか、周は客室から持ってきたのだ。
「意外と大丈夫かって思ってたら、急に寝てよ」
「あー……そうだっけ? 昔の話したよね」
「ざっくりだな。一緒に内裏に侵入して女官たちを驚かせたって話の辺りでお前寝たんだよ」
「そんな話した?」
覚えていない。どこまで覚えているかと問われるとそれもまたわからず、周は疑問符を浮かべる。
「したって。話してる途中でスヤーッて寝やがってよ。お前を部屋まで運んだのも、布団を敷いたのも、俺だぞ」
「そうなの? 言われてみれば、自分で部屋に戻って布団を敷いた記憶ないや。ありがとう、杏」
「ったくよ」
と言ってもあれは酒でも飲んで吐き出さないと辛いだろうな、と思うと杏介は強く言えない。
長生きしていればその分だけいいことも悪いことも経験する。それを長年引きずることもある。折り合いをつけて生きていかねばならないが、ふとしたときに思い出したり、上手く自分の中で整理ができないと自暴自棄になってしまう。
そんな周の姿を見ていれば、酒を飲む彼の手を止められなかった。酒も薬ではあるが、薬も過ぎれば毒だ。あまりにも飲みすぎる場合は気絶させてでも止めるつもりだったが、その前に眠ってくれて助かったとも思う。
「ん? 昨日、望ちゃん、あの部屋来た?」
「行ったけど、どうかした?」
望は麦茶を飲みながら答える。蒸し暑い日の麦茶は格別に美味しい。夏と言えば麦茶だ。
「もしかして、僕が泥酔してるの見た?」
「よく寝てたよ」
顔を真っ赤にし、熱を帯びた目をするぐらい酔い、さらには寝ぼけていた。そう言おうとした望だが、言葉を麦茶と一緒に流し込む。
「あ、うん」
周は気まずそうに目を逸らす。
「飲みすぎには気をつけてね」
「はーい。気をつけます」
周は残りの水を飲み干し、また机に伏せる。頭がくらくらして辛い。身体が重たくて仕方ない。
「望、酒に負けるとこうなるってお手本、よーく見とけよ」
「杏……」
からかう杏介を周は恨めしそうに見上げる。確かに、酒を飲み過ぎた結果がこれだからあまり強くは言えない。身体は怠いし、格好悪いところは見せるし、周としてはいいことがない。
こちらに走ってくる軽快な足音も周の頭に痛いほど響く。軽やかなその足取りが近づくにつれ、周の頭痛がひどくなる。
「ただいま! 腹減った!」
雨の中、散歩に出かけていた直人が戻ってきた。昨日の花火の後、くったりと疲れていた姿が嘘のように元気な直人は、ちょっくら出掛けてくる、と食後に出て行ったのだ。
元気に帰りを告げる直人の声に周は頭を抱える。甲高い声なのも相まってガンガンと頭が痛む。
「は? あんなに食ったのに?」
直人は、おかわり、と元気よく白飯一杯おかわりした。茜と望から分けてもらった分を考えると、直人は二人前近い量の食事を摂っている。周があまり食べなかったため、白飯が残っているには残っているため、直人に差し出すこともできる。
「まだ食べる!」
「直人君、ちょっと声大きい……」
組んだ腕に顔を埋める周を直人は不思議そうに見つめる。
「二日酔い? 雨だから?」
「両方です……」
「直人、ちょうどいい見本があるから二日酔いの薬について勉強しとけ」
「おれ、腹減った!」
「直人君、声……」
部屋に響く直人の声がまた頭に響くのだ。子供特有の高音が頭の中でぐわんぐわんと反響しているようだ。
「わかったって。じゃあ、茜から説明聞いとけ。俺、飯の用意するから」
「え……。私ですか?」
茜は眉を下げる。元気に腹の虫を鳴かせている直人に説明して聞いてもらえるだろうかと心配になる。
「あの、杏介さん、手伝います」
望がそう申し出ると杏介は不思議そうに首を傾げる。
「いや、一人でいいって。用意するって言ってもおにぎりだし。ほら、さっきも手伝ってくれたし、ゆっくりしとけ」
残った米を握って出せばいいと思っている杏介からすると、一人で十分だ。最悪、茶碗によそって出すでも十分だろう。
「直人君、お腹空いているようですし、早く用意できた方がいいと思いまして」
望は引き下がらない。
強いその目に杏介は一瞬視線を彷徨わせると、ひとつ頷く。
「そうだな。じゃあ、手を借りようかな」
周と直人を頼んだ、と杏介は茜に声をかけて立ち上がる。望も杏介に続き、隣の厨へ向かう。
厨に入った杏介は飯櫃のふたを開ける。昼食用にととっておいたのだが、仕方ない。少し冷めてしまっているが、そこは直人に我慢してもらおう。杏介は調味料入れの箱から塩を取り出しながら、望に皿を出すように指示を出す。
「……で、どうした?」
杏介は塩の瓶を置き、背後で食器を出す望に尋ねる。あからさまに動きが止まったのか、食器の音が聞こえなくなる。
図星か。杏介は苦笑しながら、海苔の用意をし、甕に溜めた水を桶に掬う。
「……」
望は止まってしまった手を動かす。おにぎりが三個ほど並びそうな皿を取り出す。
「……あの、昨日、周に何かあったんですか?」
ごめんなさい、と涙を流す周の姿が瞼の裏から離れない。首筋に触れた周の髪と熱が忘れられない。
「周が二日酔いしているところを初めて見ました。酔い潰れるほど飲まないようにしていると本人から聞いたことがあります。そんな周があんなになるまでお酒を飲んだのは、何かあったからですか?」
「そうさなあ……」
杏介は桶に張った水で手を洗う。外は蒸し暑いが、甕の中の水はひんやりとしていて気持ちがいい。まとわりつく湿気が少し離れたような心地がする。
まとわりつくで言えば、周が夢を食べるときに発生する靄を思い出す。夢によって色が変わる靄。周曰く、手触りも違うとのことだが、杏介にはわからない。触れてみようとしても、靄だ。触れることなどできない。
美味しい夢ほどさらっとしていて、絹織物を触っているような滑らかな手触りらしい。逆に、不味い夢、悪夢などは粘着質でねっとりとしているらしい。
悪夢のように周にまとわりつくもの。ねっとりと、べったりと、彼の身体から離れることのないそれに杏介は小さく瞳を揺らす。
「俺の口からは言えない」
思い出したくない記憶、話したくない記憶、知られたくない記憶。人間、妖怪に関係なく、誰しも触れられたくない過去がある。
杏介はかなり気楽な人生を歩んできている方だと思っている。もちろん、荒れていた時期もあった。しかし、周や茜、直人に比べれば自分の過去は平和だと思うほど、言ってしまえば何もない生を送ってきている。
平凡な日常。当たり前で、代わり映えのない日々。それが杏介が歩んできた人生だ。自分の人生と彼らの人生を比較すると、彼らは辛く、苦しい経験をしていると思う。
ある者は一族との縁を切り、中々見つからない探し物を追い求めている。
ある者は大切な者を救えなかった後悔をずっと引きずっている。
ある者は強い言霊で縛りつけられていた。
そのような過去を持たない杏介は彼らの過去を知っている。それを本人たちの了承も得ずに話すわけにはいかない。
「妖怪も人間も、中々言えないことがある」
杏介は手を拭き、焼海苔を三枚ほど袋から取り出す。飯櫃のふたの上に海苔を置き、掌に塩を振る。山で過ごした期間が長いせいか、あまり濃い味を好まない直人用に塩は控えめにする。そして、白飯を手に取り、ほのかに感じる温もりを丁寧に握っていく。腹を空かせた少年が住んでいた山はどのような三角形を形作っていたのだろうか。
「だから、本人の了承を得ずに勝手に話すわけにはいかない」
腐れ縁の過去を杏介は当然知っている。周が背負っている物、悩みを聞いた。茜や望よりは知っているかもしれないが、それでも周の過去の全てを知っているわけではないと思っている。
仲がいいから、勝手に他人に話していい。そんなわけはないのだ。杏介は昨日の周とのやり取りを思い出しながら、苦笑する。普段は自制する周が浴びるように酒を飲んで、二日酔いする有様だ。人目を気にするような彼が酒をたらふく飲むほど、やっていられない大きな悩みだ。
「悪いな、望。互いに雑な扱いをする仲だが、これでも、俺とあいつは親友だ。親友が隠していることを勝手に話すわけにはいかない」
「……そうですか」
望は視線を下げる。本人に直接訊くよりも、現場にいた杏介になら訊きやすいと思った。しかし、杏介は話せないと断った。理由が理由なら望は深追いするつもりはない。
あの涙が、掠れた声が、脳裏に浮かぶ。望は首筋に触れる。酒のせいで体温が上がっていた彼の熱を思い出す。
普段チャラチャラしている周が弱々しかった。抱え込むものがあることは明確だ。
望は昨夜の熱を振り払うように桶の中に手を入れる。火照ったあの身体よりはるかに温度の低い水に身体が驚いたのか、小さく身震いをする。
「昨日、周が何か言ってた?」
「……」
望は手ぬぐいで水気を拭う。
ごめんなさい。震えた掠れ声は怯える子供のようだった。あの場にいない誰かに向けられた言葉はその誰かにすがるようにも聞こえた。
「……ごめんなさい、と。泣いていました」
「ごめんなさい、ね……」
杏介はぽつりと呟く。向けられた相手を知っている杏介は目を細めながら、握り飯を海苔で包む。
「あいつから話が出るまでは踏み込まないでやってくれないか? もしかしたら、望に話さずに終わるかもしれないけど」
話す、話さないは周の自由だ。杏介としては、望が知りたがっていた、と周に告げるつもりもない。
時が来れば、必要があれば、周は話すのではないか。杏介はそう思っている。
杏介は皿にそっとおにぎりを置く。少し大きく作ってしまったかもしれないが、腹に入れば一緒だ。
「はい」
弱っている姿を見た望は自分が踏み込んではいけないと察した。初めは望に対しての言葉をかけていた周だった。しかし、突然、望ではない誰かに一言言った。
ごめんなさい。
今にも消え入りそうなほど弱く、寂しそうな声だった。
深層心理。周の心の奥にしまわれている何か。それが謝罪の言葉に込められていたように思う。望の知らない誰かとのことを本人の意志に反して尋ねるつもりはない。話したくないのなら、それでいいと思っている。
「昨日、私は周が眠っているところを見ていただけ。そういうことにします」
潤んだ目も、紅潮した頬も、熱を持った身体も、湿った髪も。
誰かに向けられた言葉も、ガラス玉のような涙も。
全て望は知らない。それが何かを隠したがっている周のためだ。望は掌に塩を振りかける。塩を広げようとする手に不自然な力が入る。
「いや、記憶を消せとまでは言わないけど」
「まだそのときでないなら、なかったことにした方がいいでしょう?」
もしかしたら周の心の奥底について、聞くことがないかもしれない。どちらにせよ、杏介の言葉を聞いて、周に昨日のことを訊くつもりはないと望は決めた。
望がしゃもじを取ろうとすると、杏介が取る。杏介は空いた手で望の手を取ると杏介よりも小さなその手に白飯をのせる。望は礼を言うと、その白飯を握り始める。杏介は残りの米をかき集める。
「周は杏介さんに何か言えたのですか?」
「まあ……。酒が入ったおかげかよく話してた」
昔のこと。杏介と周が出会う前のこと、今までの進展のなさへの悲観。それを周は物憂げな表情で話していた。あの軽やかな口調はどこへ行ったのかと思わせるほど、重く、暗い話し方だった。
杏介はまた桶に手を入れ、手ぬぐいで手を拭く。掌が粘つく。
「そうですか」
望はほっと息をつき、微笑を浮かべる。
「とりあえず、話せる相手がいるならよかった」
一人で抱え込まず、誰かに話せる。話せる相手がいるだけで、どれだけ心が軽くなるか。友が傍にいて、その杏子色の三角の耳を傾けてくれるのなら。
海苔を手にした望と残りの米を握ろうとした杏介の耳にパタパタと軽やかな足音がする。
「ねえ、まだー?」
直人が腹の虫の鳴き声と共に駆けてくる。
「もうちょっと待ってろ」
「もうお腹空いて我慢できない。先にできてるものだけ頂戴」
直人は手を伸ばす。ぎゅるるる、と腹の虫が元気よく鳴る。
「わーったよ。望、渡してやってくれ」
「はい」
望は握ったおにぎりを海苔で包み、皿にのせる。杏介が握ったものは大きく、角がとがっている。彼の杏子色の耳のようだ。対して、望が握ったものは小さく、角が丸い。握る者によって形が変わるのも不思議だと思いながら、望はおにぎりをのせた皿を直人に渡す。
「気をつけて運んでね」
「うん」
「望、戻るか?」
まだ話すことがあるか、と杏子色の目が暗に尋ねる。
「お手伝いすることがなければ、戻ります」
「そうか。戻ってくれて構わない。ありがとう」
「はい」
望は手を洗った後、杏介に会釈をして、周たちがいる部屋へ戻る。
いまだにぐったりとしている周の向かい側に座った直人は手を合わせてから、いただきます、と元気よく言う。
「周、まだ駄目なの?」
直人の隣に腰掛けた望は周の後頭部を眺める。艶々とした黒髪が揺れ、周が顔を上げる。細い目から身体が重いと訴えられる。
「望ちゃん、薬はすぐに効かないんだよ……」
「じゃあ、お酒の量を考えるべきだったね」
「おっしゃるとおりでございます」
しんどいよ、と突っ伏す周の結ばれた髪に昨夜の記憶が蘇る。風呂上がりのわずかに湿った髪が触れた首筋。ひんやりとした髪に対し、周の身体は熱かった。
「……」
「望ちゃん?」
向かい側に座る茜の声に望は意識を引き戻される。
「はい」
「どうかしたの? ちょっとぼーっとしてたけど」
「自分はどれぐらいお酒飲めるかなって考えていたんです。私、人並みに飲めそうですか?」
「実際に飲んでみないことにはわからないけど、人並みに飲めそうな気がする」
二十歳になったら楽しみね、と言う茜の言葉に望は頷いた。




