#5
日輪に立ち入る前から聞こえる言い合いに道行く者たちが怪訝な眼差しを向けている。ある者は何だ何だと聞き耳を立て、ある者は不思議そうな顔をしながらも通り過ぎていく。
周と望は、いい加減にしろ、ちょっとぐらいいいでしょ、駄目だって言ってるだろう、と開け放たれた戸の向こうから杏介と直人の喧嘩に顔を見合わせる。
「……あれ? 今朝、仲直りしたよね?」
「した……はず……」
望は今朝方、直人の背中を押したのだ。
人間界に帰るため、早朝に起きた周と望は食事の準備を始めていた杏介にまた今晩来ると告げた。その話をしているときに、直人が起きてきた。直人は杏介と周の気配に気がつくと、気まずそうにしていた。望はそんな直人の背を押し、一緒に昨日の謝罪と礼をした。
昨日は我儘を言ってごめんなさい。助けてくれてありがとう。素直に謝った直人に杏介も昨日は言い過ぎたと謝罪をし、和解した。
はずだったのに、これだ。開け放たれた戸の向こうから大通りにまで声が届くほどの喧嘩だ。
「周さん、望ちゃん」
二人の背後から声をかけた主、茜が心配そうな面持ちで小走りで駆けてくる。
「あの、これは一体……。患者さんからお話を聞いたのですが」
茜は事務所内を覗こうと身を屈める。残念ながら、この位置からではよく見えない。
「また喧嘩かな? 昼間はどうだったの?」
「お昼はとくに何も……」
茜は俯く。
昼間、棗から指示を受けた茜は杏介と直人の様子を見にいった。そのときは微妙な距離を保ちつつも二人は言い合いをしていなかった。もしよかったら、と茜は二人と一緒に食事を済ませた。直人がニコニコとしながら話すのに対し、杏介はあまり話をしなかった。そのときは何もなく、杏介の言うことには従うように、と直人に言って茜は満月医院に戻って行った。
そして、つい先ほど、受診に訪れた患者から日輪の方から言い合いをしている声がしているようだ、と聞き、棗から様子を見に行くように言われたのだ。
「喧嘩はまだ始まったばかりってこと?」
「多分」
周は事務所へと歩み寄り、暖簾をくぐる。そこには杏介を見上げて怒りをぶつける直人と、こめかみに青筋を浮かべている杏介が、バーカ、アーホ、と子供同士のような喧嘩を繰り広げている。互いに手をあげるようなことまではしていない。が、言葉は汚いものだ。
周に続いて、茜と望も暖簾をくぐる。事務所内の光景に茜はおろおろし、望は、せっかく和解したのに、と眉を下げる。
「茜ちゃんも先生も大変だね」
道を挟んですぐの近所も近所だ。何か騒動があると、嫌でも耳に入ってくる。杏介自身は何もしていなくとも、何でも屋に舞い込む案件の中には修羅場と化すものもある。事態の把握と騒動の鎮静化のために棗は様子を見てくるように手の空いた職員を偵察に回すこともある。棗自身が確認することもあるが、棗の指示を受けて様子を見に行く茜を含めた職員も大変だ。下手をすると騒動に巻き込まれてしまいかねない。
「私は様子を見るだけで、基本的に何かするわけではないですから。でも、あまり目立ちすぎると杏介さんのお仕事に影響が出ますし、棗先生も気にかけていらっしゃるので」
「そろそろ蹴りが飛んできそうだけどね……」
周は乾いた笑みを浮かべる。棗の蹴りは本当に痛い。蹴られたところは赤くなるのが通常運転、ひどいときはあざができる。
昔からの縁。相変わらずお人好しというか、世話焼きというか、と周は棗の姿を思い浮かべる。変に騒がれてうちの売り上げに影響が出たらどうしてくれるのだ、と口ではあれこれ言っておきながら、裏ではうちの弟子が騒がせてすまなかったと手を回してくれている。甘いのだか、厳しいのだかわからない医者だ。
「ねえ、周、話聞けると思う?」
望は小学生のような喧嘩に眉をさらに下げる。昨日、今日と直人からまともに話を聞けずに終わってしまうかもしれない。例の河童には夢を売るのを待ってもらっている状態だ。彼は気前よく待つから、と言ってくれたが、あまり待たせすぎてもよくないだろう。せめて、おおよその目星をつけて、候補から外れたもので気に入るものがあれば彼に売るべきだと望は考えている。
「突撃するしかないね。茜ちゃん、まだ仕事あるでしょ? あとのことは僕がどうにかするって先生に伝えてくれる?」
周がそう言うと茜はひとつ頷く。
「わかりました。周さん、お願いしますね。望ちゃん、またお話しようね」
「はい」
では、と会釈した茜は胡桃色の髪と自身の名前と同じ色の髪紐を翻して満月医院へと帰っていく。
小柄な身体が満月医院へと戻ったのを確認した周は深く息をつく。
「お邪魔しようか、望ちゃん」
「うん」
二人は履物を脱ぎ、板の間に上がる。二人が上がると、杏介が口を閉ざす。やっと二人の存在に気づいたのか、杏子色の目がきょとんとしている。
「君ら、喧嘩するならせめて戸を閉めなよ」
「そこ?」
確かに、何だ何だと人だかりができている。満月医院にも話がいっているぐらいだ。喧嘩を咎めるべきだと望は思うのだが、とりあえず、周が介入したことで二人の意識が周に向けられる。
「……二階使ってくれ」
杏介は不貞腐れた様子で仕事用の席に着く。
やれやれと思う周は俯いている直人を見下ろす。きゅっと引き結ばれた口元に苦笑する。どちらも頑固だ。
「えーっと、大丈夫かな?」
「……はあ」
直人は深々とため息をつく。言い合いをして疲れていることが窺える。
「奥で夢の話をしよう。いいかな?」
「わかった」
周は杏介を一瞥する。杏介はむすっとした顔で頬杖をついている。
行こうか、と周は望と直人に声をかけ、二階へ向かう。階段を慎重に上がる直人の様子を二人は窺いつつ、二階へ上がる。
入ったのは大きな窓のある部屋だ。六畳の部屋には物が少なく、座布団が数枚とちゃぶ台が立てかけられているだけの質素な部屋だ。この部屋は、周が妖街に出張して夢を売るときや周と杏介が酒を飲み合うときによく使う部屋だ。
周は窓を開け、座布団を敷く。敷かれた座布団の内の一枚に望は直人を座らせる。ちょこんと座った直人の対面に周が座り、三角形になるように敷かれた残りの一枚に望が座る。
周は斜め掛けの鞄を置くと、小さく息をつく。
「夢の話の前にひとつ。僕があれこれ言うのは違うと思うけど、泊めてもらっている身としては、杏の言うことに従った方がいいと思うよ」
周は厳しい声でそう言う。人当たりのいい杏介が周はともかく、望に対して何も言わず、不貞腐れている姿を見ると、かなり苛立っていると思った。
周はじっと直人を見つめる。包帯で覆い隠された目元から考えを読み解くことはできない。
「郷に入っては郷に従え。君は泊めてもらっている立場だ。……何か、杏にちょっかいをかける理由があるの?」
直人は周の言葉に俯く。宿代を出せるほどの持ち合わせがなく、杏介の好意で泊めてもらい、昼間も置かせてもらった。今日もこの後泊めてもらえることになっている。
やることがなくて暇。退屈なのだ。昨日の件もあり、外を出歩くなときつく言われた。それは仕方のないことだと直人もわかっている。だが、何もすることがないとなると、日輪内を歩き回るか、杏介に相手にしてもらうこと以外、できることはない。
日輪内を歩き回れば、大人しくしておけ。杏介に構ってもらおうとすると、適当にあしらわれる。
周の言うことはよくわかる。立場を考えれば家主である杏介の方が上だ。置かせてもらっている立場の直人が杏介の言うことに従うべきなのはわかっている。
わかっているのだが。
「それは……」
直人は弱々しい声でぽつりと呟く。脳裏によぎる記憶が直人を突き動かす。
「……一人は寂しいんだ」
直人の膝の上の手が震える。同じ屋根の下、杏介がいるのはよくわかる。比較的近くにいることはわかっているのだが、手を伸ばしても杏介はいない。
何も見えない暗闇に慣れてはいる。が、近くに何もないのは慣れていないのだ。見知らぬ土地ともなれば心細い。
叱られた幼子のような直人に周は目を伏せる。
「何が原因で喧嘩をしていたのかはわからないけど、あの杏があそこまで怒るって珍しいんだ」
仕事が思うように進まないとイライラすることはあった。しかし、そのイライラを誰かにぶつけることは滅多にない。あったとして、愚痴をネチネチと言う程度で、話を聞いている、共感していると態度で示せば杏介は満足する。
そんな彼が人目も憚らずに叱りつけた。それだけ杏介は怒りを抱えていたのだろう。
「彼の邪魔をしたり、癪に障るようなことをしたって自覚があるならそれはやめるべきだし、杏の言うことを聞くべきだ」
「でも……」
「まずさ、その態度やめなよ。君の本来の性格ってそんなにしおらしくないわけだし」
周は望を一瞥する。女性を前にするところっと態度を変える。恐らく、直人のそういうところが杏介の癪に障るのだろう。
杏介は相手によって態度を変える者、とくに、媚びを売るような者を嫌う。自分よりも弱い立場の者に対して、攻撃的な態度をとる者なんて大嫌いな男だ。仕事の都合上、演技で態度を変えることもある杏介がそういった者を嫌だと言うのはそれだけ数多の場面に遭遇したからとも言えるだろう。
「そこまで気負う必要はないよ。だって、ここには君を縛りつける者なんていないから」
周は昨夜、直人が見ていた夢を思い浮かべながら何とはなしに言う。
周の言葉に直人の肩が震える。ゆるゆると顔を上げた直人は周の方へ顔を向ける。
「どうして、それを?」
確信を持てない幼い声が周に問う。
「勝手ながら、君の夢をちょっと覗いた。夢は記憶でもある。君の過去について、昨日、覗かせてもらったよ」
周は優しく話しかける。直人の了承を得ずに勝手に夢を見た手前、責めるわけにはいかない。そもそも、責める役は周に向かないし、杏介に絞られているからいいだろうとも思うのだ。
しかし、伝える話は厳しいものだ。残酷であろうと、嘘ではなく真実を伝えるべきだと周は思っている。直人本人も疑問に思いながら、心に思っているのであればなおさらだ。
周はすっと息を吸う。
「ひどいことを言うと、君が縋る人はもういないんだよ。追いかけてほしいと願っても、追いかけてくれない。その人の音を聞こうと思ってももういない」
「……」
直人はきゅっと口を引き結ぶ。
「周……」
望は直人が見た夢の内容を知らない。だから、周が言わんとしていることがわからないのだ。昨夜の森林の色を思わせる靄をまとった周の姿が思い浮かぶのみだ。
「ちょっとさ、夢を見ない? 気分転換になると思うんだ」
そう言って、周は斜め掛けの鞄から夢をいれた瓶を取り出す。事前に聞かされていた直人が見たいという自然豊かな夢をつめたものだ。その中からひとつ、夢玉を摘まみ出すと直人に向ける。
「何、それ」
不思議な気配を向けられた直人は顔を上げる。
「夢を閉じ込めた夢玉さ。今から見る夢はとある杉の木が見た夢さ」
「杉の木……」
直人がそう呟くと、呼応するように杉の木を思わせるような真っ直ぐな筋模様が入った夢玉が輝き出す。
「望ちゃんもおいで」
「もちろん、行くつもり」
「よろしい」
淡く微笑む周の瞳が杉の葉のような緑色に染まった。
◇◇◇◇◇
柏手の音がする。シャン、シャン、と鈴の音がする。その音はどこか懐かしく、だが、記憶にある音とは違う。ゆっくりと身体を起こした直人は肌に感じる神秘的な空気に神経を集中させる。
歌が聞こえる。美しい言葉と旋律が場の雰囲気を作り上げていく。
空気をぐわんぐわんと揺らす声、天まで届きそうな笛の音、一際澄んだ鈴の音。それらの音は人間が神を祀るときの音だ。
「ここは……」
「夢の中さ」
周の声だ。二人分の足音に直人は音の方を見上げる。右手の方から近づいているようだ。乾いた足音は直人のすぐ傍で止まる。
「直人君、ちょっと一緒に歩かない?」
手が差し伸べられた気配がする。直人はその手を取る。小さく、薄い女性の手だ。
『直人』
優しく呼ぶあの女性の声が思い起こされる。彼女はいつも、その翼で直人を追いかけてくれた。羽のように柔らかな手で頭を撫でてくれた。
「どこに行くの?」
「ここは今神聖な儀式をしているからね。移動しようと思って」
もう片手を取られて、引き上げられた直人は鈴の音がする方へ耳を集中させる。鈴や音楽に混ざって衣擦れの音もする。舞台だろうか、板の軋む音もする。
直人は周と望に手を引かれて歩く。儀式の音が遠ざかっていくが、笛の高音が耳に残る。
自分と周と望の三人の足音に混ざって、葉の擦れる音や鳥の鳴き声、風の音が聞こえる。それらの音に混ざって、水の音も聞こえてくる。流れの速そうな川があるのだろうと察する。
右に曲がる、段差に気をつけて、坂を下る、など周と望の声を頼りに直人は歩いて行く。左に周、右に望と手を繋いで歩くこの感覚がひどく懐かしい。
一緒に過ごした二人と手を繋ぐとき、直人はいつも真ん中だった。ほら、と身体を引き上げられて、浮遊するあの感覚が楽しかったのをよく覚えている。
「着いたよ」
周の声により、直人の足が止まる。開けた場所に来たのか、日が射しているような気がする。座ろう、と望に導かれ、硬い何か、恐らく岩に座らされる。
「これは、どんな夢?」
夢を見る前、周は杉の木が見た夢だと言っていた。鈴が鳴り響く場所から始まったこの夢は一体何なのか。今も遠くから鈴の音と笛の音が聞こえる。
「君が欲しいと言った夢の候補さ。自然豊かな山奥にあるご神木が見た夢。今はもうない神社に祀られた杉の夢」
神社の杉が見た夢。その言葉に直人は息を呑む。
「……」
「君が過ごした場所と似ているかな?」
周の試すような物言いに確信をつかれている気がする。彼は直人のことをよく知っているようだ。
「そうだね。ぼくが暮らしていた場所と雰囲気が似ているかも」
神社があった。杉の木があった。川があった。
手を引いてくれる男女がいた。彼らは両親のように直人に接してくれた。二人と過ごした記憶を思い出す。それは直人にとって懐かしい記憶だ。
「そうか。君にはこの夢はどう見える?」
「自然豊かな、僕が欲しいと願った夢の感じだと思う」
あの場所に似た夢を。消え去ってしまったあの場所を思わせるような夢を。
直人が欲する夢だ。
「お兄さん、ぼくのことをよく知ってるみたいだね。お姉さんも知ってるの?」
直人は隣に座っている望に尋ねる。
「私は何も。ただ、直人君が寂しそうにしてたってことしか知らない」
望の声音には少し不安の色が混ざっている。直人にはそう聞こえた。
「寂しそう、か……。不安になるって言ったしね。あーあ、お兄さんには隠してたつもりだったけど、やっぱり駄目だった」
直人は諦念の笑みを浮かべる。弱気になってしまったのは、昨日の一件。望の音だった。
名前を呼びながら追いかけてくる存在。ずっと長いこと忘れていたあの日々。彼らはどうなってしまったのだろうか。
「ねえ、お兄さん、お姉さん。神様って消えたらどこに行くの?」
直人の問いかけに二人の息遣いが変わる。二人とも驚いたのか、一瞬息が止まった。とくに、望の方は予想していなかったと言わんばかりに息が止まった。周の方は比較的落ち着いているようだ。
直人は膝の上で手を組む。
「ぼくには二人の神様がいた。二人はぼくに山で生きる術と人間たちの営みを教えてくれた」
『目の見えないお前に生きる術を授けよう』
『目の見えないあなたに外の世界を教えましょう』
二人の神様はそう言って直人に手を差し伸べた。朦朧とする意識の中で、二人の手を取ったことをよく覚えている。
「でも、二人はある日消えちゃった。どれだけ呼んでも答えてくれない。息遣いもない。ぼくが山を出るって決めたのに追いかけてくれない。……いつもなら、ぼくが山を下りることに反対する二人の神様なんだよ。二人がぼくを追いかけてくれるのが楽しくて、そういう悪戯をしたのが悪かったのかな」
『お前は目が見えないのだから、山を下りるなんて危険だ』
『目の見えないあなたの代わりに私が外の世界のことを教えるから』
二人の神様はそうやって直人をいつも引き留めた。自分の目が見えないから彼らは守ってくれた。
そう思って過ごしていた。しかし、ある日、二人の気配が消えてしまったのだ。
「一人の神様はゆっくり静かに朽ち果てた。もう一人の神様はピタッと動きを止めてしまった。まるで、生き物が息を引き取るかのように。……神様は死んでしまうの?」
直人よりもはるかに長寿で、物知りな神様。なのに、二人は応えてくれなくなった。
二人の音が消えてしまった。二人の気配が消えてしまった。呼んでも反応のない神様に触れることすらできなくなってしまった。
「教えて。神様は死んでしまうの? 消えてしまうの?」
二人の音が忘れられない。しかし、捜せども、二人の音はしない。静まり返る山の中、風が通り過ぎる音しかしなかった。
「……弱い神様は消えてしまうんだ」
静かに周が語りだす。最初の音はわずかに掠れていたような気がする。
「神様は信仰してもらわないと力を失ってしまう。君のことを見てくれた神様がどんな神様かよく知らないけど、きちんと祀られない、つまり、信仰されていないと、消えてしまったり、最悪の場合は災厄を振りまく悪しき神になってしまう」
神は万能ではない。土着の神や力の弱い神はとくに人々の信仰が力の源だ。それがなくなってしまうと、消えてしまう。信仰がないからと言ってすぐに消えるわけではない。段々と弱っていく間に、また祀られれば問題はないのだが、忘れ去られていくと消えてしまうのだ。何かしらの形で名前や祠が残っているのであればいいのだ。
しかし、忘れられ、存在を知られなくなってしまうと、彼らは神としての形を保てなくなり、消えてしまうことがある。もしくは、悪い念に取り込まれて災厄を振りまく神になってしまうのだ。
「神様は名前を、存在を忘れられると消えてしまうんだ」
名を残すような神ならいいのだ。信仰がなくとも、名は体を表すという言葉のとおり、名が残っているだけでも彼らの力となる。誰かの記憶に神の名があれば、それで十分なのだ。しかし、大半の神はそうはいかない。名もなき神もいるのだ。
「でも、ぼくがいたよ。ぼくは覚えている」
人の訪れがなくとも、直人は二人の傍にいた。いや、彼らがいてくれた。
「君だけじゃ駄目なんだ。たった一人の信仰ではあまりにも力が弱すぎる。山の他の生き物の信仰を合わせても足りなかったのかもしれない」
周の声が震えている。嫌な予感がする、と思った直人は無意識に隣に座る望の服の裾を掴む。
「僕は今から君にひどいことを言う。聴いてくれる?」
軽やかな口調ではなく、真剣な、真面目な話をする声音だ。二人の神様が直人に向かって大切な話をするときのものと似た雰囲気だ。場の空気もピリッと糸が張り詰められる。
「……聞きたくないって言ったら?」
「それならそれで僕は何も言わない。君は耳を塞いでしまうんだって思うだけ」
「周……」
咎めるような望の声に直人は沈黙する。
何となくわかっていた。けれど、信じたくなかった。自分の中の疑惑よりも、救ってくれた二人の言葉を信じてしまった。
己の信じていたものを、抉られるような言葉を受け止めるのか。
直人は自分に問いかける。
どうして目が見えないことを強く言われるのか。なぜ、山を下りてはいけないのか。直人を救ってくれた理由は何か。
点と点が繋がっていたのは随分昔のことだ。それにふたをし続け、彼らの音に安堵していたのに、そのふたの下から何かがこみ上げてくる。ふたをこじ開けようとせり上がってくる。
「さあ、どうする?」
凄味のある声が直人の胸に突き刺さる。雪の降る寒い冬のような凍てつく空気だ。
「……」
二人の神様は直人に様々なことを教えてくれた。
一人の神様は山のことを教えてくれた。食べられる物と食べられない物、狩の仕方、薬草の知識など、山で生きる術を教えてくれた。
もう一人の神様は山の外のことを教えてくれた。近くの村で祭りがあるとか、今年も豊作だとか、時々外の物を持ってきてくれた。
だが、いつしか、二人は直人に何も教えてくれなくなった。直人がどこかに行こうとすれば、離れずにつき添っていた。一人でも大丈夫だと言っても、一緒じゃないと危ないから、お前は目が見えないのだから、と言ってついてきた。
なぜ。どうして。
あの頃の疑問にふたをして、直人は生きてきた。第二の人生をくれた二人のために生きようと決めたから。
しかし、長年ふたをしてきた直人に対し、周はそのふたを開けるように要求している。今回を逃せば、直人は一生二人に縛られ続けることになるかもしれない。
「さっき、僕は君を縛りつける者はいないと言った。それをよく考えて」
周の言葉に直人は二人の神様を思い出す。
一人は男の神様だった。何事もきちんとしていて、曲がっていることを嫌う神様だった。
もう一人は女の神様だった。直人のことをうんと甘やかし、可愛がってくれる神様だった。
二人とも、とても綺麗な神様だった。黒髪に新緑の瞳の男神と白髪に山吹色の瞳の女神。
杉の神様と白鷺の神様。優しい二人の裏の顔。直人の中での疑惑と決着をつけなければならない。
「……わかった。教えて」
あの優しい神様のことを。彼らの意図を教えて。
そう思いながら直人は告げる。
「いい子だ」
周のその言い方が二人の神様を思い起こさせる。
『そう、それでいい』
『そうよ、いい子ね』
『よくできた』
『よくできました』
そうやって二人は褒めてくれた。
直人は望の服の裾を掴む手に力を込める。その手を優しく包み込んでくれる手がある。
「直人君、大丈夫? 怖い?」
直人の手は震えている。知るのが怖い、と訴えているその手に望は不安になる。
周が何を伝えようとしているのか、望には検討もつかない。正直、置いてきぼりになっている。それでも、直人が望の服の裾を掴むということは、必要とされている証拠。周と一対一では怖いと訴えているように見える。
そんな直人は強張る頬を上げる。きっと、下手くそな笑みになっているだろうとわかるほど、ぎこちない。望がどんな顔をしているのかはわからないが、直人の手を包む手が優しい。
「……怖いけど、大丈夫。多分、ぼくもわかっていることをお兄さんがちゃんと教えてくれるんだと思う」
「答え合わせをするってことだね」
「うん」
直人は服の裾を掴む手を解き、望の手に重ねる。望は直人の手に応じるように手を握り返す。
大丈夫。一人じゃない。
そう念じた直人は周がいる方へ顔を真っ直ぐ向ける。
「いいかな?」
春風のように優しい声が再度尋ねる。
「うん。ぼくにかけられた言霊を教えて」
さあっと風が吹く。白鷺の女神が羽ばたいたときのような優しい風、男神が宿る杉の木の葉の揺れる音を思い出す。
「そこまでわかっているなら……」
深い呼吸音がする。直人の胸がバクバクと高鳴る。
「君はその神様たちに利用されていたんだ。自分たちが消えないために、少しでも長生きできるように、君を傍に置いた。一番近くにいる信仰者として使われたんだ」
「……」
直人は小さく笑う。
「やっぱりそうだった」
ぽつりと呟いた直人は目元の包帯に触れる。
山を下りてはならないと言われた理由。物事を教えてくれなくなった理由。いつも傍にいた理由。近くにいた動物や妖怪たちとの接触を減らされた理由。
それら全ては直人を山の外に出さないための策だった。初めこそは、色々と教えてくれた二人のおかげで直人は生きる術を身につけられた。しかし、それと同時に好奇心が強くなっていった。それを封じ込めるために二人は直人に物事を教えてくれなくなった。外を知る動物や妖怪たちとの接触を制限された。直人が二人に訊けば教えてくれるが、新しいことは話したがらない。いつしか、そうなっていた。二人に黙って山を下りようとするとこっぴどく叱られた。
目の見えないお前が一人で山を下りたら危険だ。外は危ないのだから。
そう言えば、山の外は危険な場所だときつく言われるようになった時期があった。それまでは外の楽しい話を聞かせてくれたのに、外の怖い話や危険な話ばかりされるようになっていた。白鷺の神が杉の神に山の外の様子を話すのは直人が眠っているときばかりだった。直人は眠ったふりをして山の外の話を聞くことがしばしばあった。
「直人君……」
気遣う望の声に直人は手を振りほどく。
「お兄さん、いつから気づいてた?」
「君の事情を知ったのは、君が眠った後。ただ、その前から気になることはあったよ」
土を、草を踏む音がする。周の気配が近づく。杉の男神に似て、がっしりとした手が頬に添えられる。違うのは、指が細いぐらいだ。
「君は本当に不自由なく動き回ってる。まるで、目が見えるかのように」
周の親指が包帯超しに目の下を撫でる。
「耳がいいからかなって思ったけど、ぶつかったりしないし、転ぶこともほとんどない。棗先生にも会ってるみたいだね。先生からちょっとだけ聞いたんだ。確かに、音だけを頼りに生きる妖怪はいる。でも、君の場合はちょっと違うかな。音を頼りにする彼らは杖なり、鈴なり、音の出る物を持ち歩くことが多い。反響音で物の位置を把握できるんだって。でも、君はそういった物を持っていないでしょ?」
「そうだね。持ってないよ。ずっとそうだった」
周の手が離れる。指を鳴らす音と共に、パキッと枝が折れるような音がする。杉の神が朽ちるとき、彼が宿る杉の枝が折れたときの音を思い起こさせる。
「そうだよね。……せっかく夢を売るなら、君に自慢の品を見てほしいな」
そう言って直人の意識が遠ざかろうとする。その直人の手を二人の手が握ったような気がした。




