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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
第三夜 右目にさよなら、左目に光を
18/88

#4

 涼しげな風が吹き込む。撫でるように心地のいい風に望はあたる。

 騒動の後、四人は日輪に戻った。帰ってくるやいなや、店番を務めていた茜が、鍵をかけてくださいね、と杏介にやんわりと言った。杏介は茜の言葉を適当に流しながら、手を貸してほしいと茜に頼んだ。茜は望と直人の様子を見て目を丸くし、杏介の言葉に応じた。望と直人の二人は、傷の程度を診てもらったところ、擦り傷ばかりで大きな怪我はなかった。手当は後程、とりあえず風呂行ってこい、と杏介に勧められた。転んで汚れてしまったこともあるが、何より、張りつく汗が嫌だった望は杏介からの申し出がありがたかった。先に直人が風呂に入っている間、周は茜と一緒に満月医院へ行ってしまった。茜はすぐに戻ってきて、二人分の作務衣を持ってきた。満月医院の薬師の作務衣らしく、棗から預かってきたそうだ。望が風呂を出ると、直人が茜によって怪我の手当をされていた。裸足で飛び出した直人の足の裏は細かい傷ができていたようで、薬を塗られていた。

 食事も済ませた後、本題に入ると思いきや、杏介による説教が始まった。直人が飛び出すから、望もあんな細い道に入って、と色々と言われた。直人は何か言いたそうにしながらもずっと黙っており、望は何も言い返せずひたすら謝るしかできなかった。運よく杏介と周が助けに来てくれたおかげで助かったが、そうでなかったらと思うと杏介の言葉に望は何も言えなかった。

 望はさっさと解放されたが、直人はまだ説教を受けている。今日のところは夢のことはあまり聞けないかもしれない、と周は諦めた様子だった。今日は泊まっていけ、という杏介の言葉に甘えることになった。


「……はあ」


 久しぶりに全速力で走った。脚の疲労が出てきたため、杏介が泊まっていくといいと言ってくれて助かった。一応、マッサージはしたのだが、久しぶりのことで脚の疲労感がひどい。明日も大学はあるのだが、一限からないのが救いだ。

 そよそよと風が吹く。人間界よりも空気が澄んでいるため、星がよく見える。キラキラと輝く星々は宝石のようだ。


「望ちゃん」


 望は呑気に声をかけてきた主を見上げる。お盆に二人分の飲み物をのせた周が微笑みかける。


「隣いい?」


「どうぞ」


 周は望の隣に腰掛けるとグラスを差し出す。カラン、とグラスの中で氷が揺れる。


「冷たい麦茶でもどう?」


「ありがとう」


 望はグラスを受け取り、一口飲む。夏と言えば冷たい麦茶だ。すっと喉の奥を通る感覚が心地いい。


「今日は災難だったね、望ちゃん」


「迷惑かけてごめんなさい」


 望が飛び出さずにいればよかったか。だが、直人のことが心配だった。目の見えない彼が迷子になってしまうと思うと放っておけなかった。


「結果として、無事だったからよかったけど気をつけてね。妖怪の皆が皆、善人ってわけじゃないから。人間界でもそうだけど、人通りの少ない道は気をつけないと」


「ごめんなさい……」


 ここ最近忘れていたことだ。妖怪たちは望に干渉することはあるが、ほとんどはちょっかいや可愛らしい悪戯の程度だ。猫又のようにちょっと飛び乗ってみた、など可愛いものだ。

 しかし、あの猫又とは違い、今日のように襲われることもあるのだ。基本的に望は妖怪たちが目に入っても無視している。だから、襲われることなどないのだ。目を合わせなければ何ともないと望は知っているからだ。

 だが、今日はばっちり目が合ってしまった。そのせいで襲われてしまった。幸いなことに、望も直人も大きな怪我をすることはなかった。


「僕らも反応が遅れて望ちゃんを走らせちゃったのも悪かったけどね。望ちゃん、お守り忘れてったし」


「あ」


 望はショルダーバッグを忘れて走り出したことを思い出す。夢屋でバイトをするようになったとき、周から渡された物だ。君みたいに妖怪に好かれやすい子は常日頃持っておいた方がいい、と言われて持たされた札だ。

 桃の木でできた札には蝶の絵が描かれている。周から三枚もらった望は大学に行くときの鞄とショルダーバッグに一枚ずつ入れて常に持ち歩いている。残りの一枚は予備として、下宿に置いてある。


「そっか。やっぱり、お守りの効果ってあるんだ……」


 悪しきを跳ね除けるお守りのおかげで、今まで妖街を歩いていても妖怪たちから襲われることがなかったのだ。それで気が緩んでいたのだろう。


「そりゃあ、お守りだもん。守ってくれなきゃ困るよ」


「だよね。忘れてごめん」


「それだけ、君が反射的に動いたってことだ」


 周はグラスに口をつける。喉を潤す麦茶が身に染みる。


「とにかく、二人が無事でよかった」


 大怪我もなく済んだのだ。直人はまだ説教されているのかもしれないが、望が反省している様子はよくわかった。これ以上責める必要はない。二人の無事がわかったのだから十分だと周は思う。


「助けてくれてありがとう」


「どういたしまして。何気に杏が狐火で攻撃するの初めて見た?」


「そうかも。変化は見るけど、狐火は初めて」


 杏介の戦闘を初めて見た。普段は距離を縮めてくるくせに、戦闘となると距離をとる。そして、的確に狐火を放つのだ。今日の戦闘だけで判断はできないが、命中率は高いのかもしれないと思う。


「ねえ、周と杏介さんってやっぱり昔は荒れてたの?」


「まあね。反抗期って奴かな?」


「周もぐれてたことあったんだ」


「もちろん」


 色々あったときに杏介と出会い、一緒に暴れ回ったのだ。

 やりきれない思いを発散させていた頃の話だ。今はかなり落ち着いた。本当に身に危険が及ぶと判断したときだけ、武力行使をする。だから、昔に比べると喧嘩は弱くなったと思う。


「望ちゃんにもそういう時期あったでしょ?」


「多少は。でも、暴力はふるってない」


「女の子だとそうだろうね」


 周としては暴力的な望を想像したくない。


「あのお客さんも反抗期みたいだよ。棗先生も言ってた」


 周はまだ説教をしているであろう部屋の方に視線をやる。望が抜け、杏介と直人の一対一での説教が始まったときに、日輪を訪れた棗がこっそりと耳打ちしてきた。


「相手によって態度を変えるんだって。男性の前ではやんちゃで、女性の前だと幾分かしおらしいって」


「それ、反抗期?」


 少し違うが、似たような性格の男性の顔が望の脳裏に浮かぶ。


「杏みたいって思った?」


 周は見透かしたように笑う。まさに、望は杏子色を思い浮かべていた。


「ちょっと違うけど、似てるよね。杏介さんも女性には距離縮めてくるけど、男性だと雑って言うか」


「そう。そんな杏介があの子に説教してるってちょっと面白いよね」


 人のふり見て我がふり直せ。まさに杏介にぴったりの言葉だと周は思う。


「望ちゃんが退席した後の様子、見せたかったなー」


 望がいるときは何か言いたげだったものの、大人しかった。しかし、望がいなくなってからの少年はころっと態度を変え、杏介に対して強く反論していた。黙っていた分を発散させるように直人はあれこれ物を言った。

 ぼくは悪くない、どうして一人にしてくれなかったの、そもそも日輪を探検したっていいじゃないか、と。それがまた杏介を苛立たせた。


「馬鹿とか阿保とか容赦なかったよ」


「そんなに……」


 望がいるときの様子は素直な感じだった。杏介に叱られている間はばつが悪そうに黙っているように見えた。親に叱られる子供はこんな感じだと思いながら望は隣に座り、杏介の説教を受けていた。


「望ちゃんから見て、あの子はどう思う?」


「どうって……。私がいないと態度が変わるっていうのは気になるけど、そこまで悪い子ではないと思う。助けてくれたし」


 直人はなぜか引き返してきた。そのまま逃げてしまうこともできたはずなのに望を助けてくれた。鳥妖怪の風で切り裂かれてしまうとわかっていても、蔦を操って抵抗を見せた。


「私を見捨てることだってできた。むしろ、追手がいなくなったから逃げ切れたはずだし」


 直人の足の速さなら余裕だろう。そのまま逃げ去ってしまえたはずだ。


「そっか。何だかな……」


 周は後ろに手をついて空を見上げる。美しい夜空だ。


「ねえ、望ちゃん。あの子の目、どう思う?」


「どうって……。本当に見えてないの? って思った。あんなに足が速くて、ぶつかったり転んだりしないから、見えているんじゃないかって」


 あの速さ走っていて、ぶつかったり、転んだりしなかった。慣れなのか、他の感覚が鋭いのか、直人はすいすいと人混みの中を駆け抜け、細い道でも軽やかに走っていた。目が見えない状態であそこまで走れるのかと思うほどの速さだった。目が見えない期間が長いとしても、妖怪たちが多く闊歩する道を歩くのですら困難だろうに、直人は平気そうだった。怪我の手当を受けているときに少し話した感じからして、妖街の地理を把握しているわけではなさそうだった。それでも目が見えているような、土地勘があるかのように足に迷いがなかった。


「だよね」


「もしかして、目、見えてるの?」


 仮に見えているとしてだ。包帯を目に巻いている状態で透けて見えるのかという問題もある。


「さあ。僕は知らない。望ちゃんがお風呂入っている間、茜ちゃんが包帯を換えようとしたら嫌がったんだ。包帯だけもらって、誰にも見られないように背中を向けて換えてた。見られたくないような傷があるのか、それとも……」


 目が見えている。では、なぜそれを隠すのか。それは直人にしかわからない。


「話を聞いてみないことにはね」


「何の話?」


 廊下の先、直人が立ち尽くしている。

 ぼさぼさだった頭は風呂に入ったおかげで小綺麗になっている。長い前髪の下から真っ白な包帯が覗き、目元を覆っている。作務衣の大きさが合っておらず、長い袖と裾をまくっている。こうして見ると、小さな身体だとよくわかる。


「お説教は終わったかな?」


 周が尋ねると、直人はむっとする。


「疲れた」


 直人は深々と息をついて、肩から力を抜く。


「お疲れ様。ちょっとこっちで話さない?」


 周が声をかけるも、ぷいと直人はそっぽを向く。


「じゃあさ、望ちゃんの話相手になってあげてよ。僕、お茶もらってくるから」


「え?」


「よろしく、望ちゃん」


 周はウインクをすると立ち上がって直人とすれ違う。その際に直人の背を望の方へ軽く押し、去って行く。


「……えっと、直人君。ここ涼しいからおいで」


「……」


 直人は周が去って行った方へ顔を向けた後、とぼとぼと望の元に歩み寄る。迷いのない足取りで来た直人は吹いてきた風に空を見上げる。


「……本当だ。涼しいね」


 子供特有の柔らかい髪がなびく。直人は望の隣に座ると小さく息をつく。


「あのね、お姉さん。お姉さんを危ない目にあわせてごめんなさい。ぼくが飛び出さなければ、お姉さんが悪い妖怪に狙われずに済んだのに……」


 しゅん、と直人は肩を落とす。

 こうして見ると純朴な少年だ。馬鹿とか阿保とか言いそうにないほど、純粋な少年に見える。周が言った、男性と女性とで態度を変えているということをあまり感じさせない。

 望がいないところで言動が乱暴になるのだから、想像できないのも当然だ。


「ううん。こっちこそ、直人君を危ない目にあわせちゃってごめんなさい。私が捕まらなければあんなことには……」


「でも、発端はぼくが飛び出したから」


 杏介との言い合いで頭に血が上ってしまった。物珍しい雰囲気に日輪の中を好き勝手に歩き回っていたら、杏介に大人しくしておけと注意された。しかし、元々身体を動かすことが好きな直人からすると、耐えられなかった。

 かっとなってしまった。日輪を飛び出したせいで望を巻き込んでしまった。直人は申し訳なさそうに身を縮こませる。


「ごめんなさい、お姉さん」


 杏介から望に謝るようにと何度も言われた。言われなくとも謝るつもりでいた。その機会を窺っていたのだが、杏介や周がいるとこでは謝れなかった。何となく虫の居所が悪く、ずっと黙ってしまったのだ。


「大丈夫だよ」


 望の優しい声音に直人は顔を上げる。望がどんな表情をしているのかはわからないが、その声にすっと肩の荷が下りる。


「直人君、助けてくれたし」


「ぼくは何も……。結果として、あの二人に助けてもらったし」


 助けに来た二人の力は直人よりも強かった。声音だけでは二人ともお調子者で、軽々しかった。それなのに、あの場の雰囲気は全く違った。相手を怯ませるほどの殺気と力に直人も圧倒された。姿は見えなくとも、二人から放たれるピリピリとした静かな闘気は直人には出せないものだった。


「そうだけど、最初に助けてくれたのは直人君だよ」


 荒れ狂う風の渦から望を助け出し、守ってくれた。何もできなかった望からすると、直人にも救われたのだ。


「ありがとう、直人君」


「……」


 直人は照れたのか、望から顔を背ける。


「ちなみにだけど、二人にお礼言った?」


「……まだ」


「そっか」


 日輪に戻ってから、直人は基本的にずっと黙っていた。終始むすっとしていて、望や茜が話しかければ少しだけ表情を和らげて応じてくれる程度だ。

 対して、周と杏介には冷めた態度だった。この時点でも、男性と女性に対して態度の違いを見せていたのかと望は気づく。


「明日、一緒にお礼言いに行こうか」


「……」


「今日の方がいい?」


「今日はやだ。狐のお兄さんに会いたくない」


 ああしろ、こうしろ、それはするな、とずっと言われたのだ。もう杏介の声は聞きたくない。

 見るからにげんなりしている直人を見る限り、こってり絞られたようだ。それにしても、あの杏介が誰かに説教するなんて珍しいと望は思う。小さなミスぐらいなら、次気をつけよう、と笑い飛ばすような杏介が直人に対しては手厳しい。腐れ縁の周に対してすら、声を荒げることはないのに、面識のない直人に対しての態度は望の知らない杏介の姿である。


「わかった。明日、一緒にごめんなさいとありがとうを言いに行こう。ね?」


「……」


 長い沈黙の後、直人は小さく頷く。嫌々ながらも、望が一緒ならまだマシだ。望がいれば、杏介も強く出られないだろうという卑怯な考えが直人の脳裏をよぎる。


「……お姉さん」


「何?」


 直人はきゅっと膝の上の拳を握りしめる。


「……どうして、ぼくのことをずっと追いかけたの? 途中で諦めて、お兄さんたちと合流することってできたよね」


 危険な小道に入ったのは直人だ。徐々に妖怪たちの気配が少なくなり、静かになっていく中、後ろから直人を呼ぶ声や足音は聞こえていた。

 誰もいない場所に入り込めば諦めるだろう。そう思って直人は妖怪の気配が少ない小道へと入っていったのに、望はずっと追いかけてきた。荒い呼吸をしながらも、彼女の足は一歩ずつ直人に向かっていた。

 その音が背後からずっと聞こえていた。


「確かに、周と杏介さんに任せることもできたと思うけど、やっぱり一人にするのは危ないと思ったから」


 望はそう答える。目の見えない直人が妖怪の多い大通りに飛び出せばどうなるかは想像に難くなかった。誰かにぶつかって転んで怪我をしてしまったり、迷子になってしまうと思っていた。実際は予想とは違い、直人は慣れた足取りで走って行ったのだが、心配なものは心配だ。裸足で駆けて行く少年を放っておくわけにはいかなかった。


「……それだけ?」


「それだけかな」


「会ってすぐなのに?」


「そう言えばそうだったね」


 今日初めて会ったのだ。出会って数分ほどで直人は飛び出していってしまった。それなのに、初対面という感じがしないのはずっと小さな背中を追いかけていたからか。


「直人君、走るの速かったね」


「……お姉さんも速かった」


 途中から距離を離せたが、望は直人のことをずっと追っていた。どこかで撒けると思っていたのに、中々できなかった。望の足音と直人を呼ぶ声がずっと聞こえていた。


「私からも訊いていいかな?」


「ん?」


 直人は首を傾げる。目元を包帯で覆っているせいか、口元でしか直人の表情を判断できない。


「直人君、逃げ切ろうと思えばできたのに、どうして戻ってきたの?」


 望が鳥妖怪たちに足止めされていたとき、直人の姿を見失ってしまった。そのまま望を置いて逃げ切ることができたはずなのだ。

 鳥妖怪たちの声も聞こえたであろうに、なぜ引き返してきたのか。望は疑問に思っていた。


「……お姉さんの音が聞こえなくなったから」


 直人は弱々し声で答える。

 徐々に音が遠ざかっていった。撒けたと思ったのだが、音がぱたりと止むと直人の足も自然と止まってしまった。もう追いかけてこないから大丈夫、という安心よりも、どうして追いかけてこないのかという不安が胸中を占めた。

 諦めたのか。それならそれでいいじゃないか。

 しかし、そう思えなかった。直人の足は元来た道を引き返した。どうしようもない寂しさが胸の中に溜まっていった。


「だから、戻ってきた。そしたら、お姉さんが捕まってた」


 望を脅す声がした。肌を撫でる風、風をまとった獣のにおい、極めつけは翼が空を切る音だった。

 このままでは鳥妖怪に望が捕まってしまう。そう悟ってからの直人の行動は早かった。近くに感じた植物へと手を向けていたのだ。


「……」


 寂しそうに話した直人に望は何とも言えない表情をする。

 かっとなって飛び出して、一人になりたかったのかもしれないと望は小道に入ってから気づいた。あまりにも追いつけないから、そっとするべきかと思った瞬間もあったが、やはり、彼を一人にはできなかった。

 隣の小さな背中が寂しそうだ。追いかけているときも、直人は時々様子を窺うように後方を確認していた。どれぐらいの離れているか確かめるというよりも、本当にこのままどこかへ行っちゃうけどいいの、と引き留めてほしいようにも見えた。

 夏の夜風が二人の間を通り抜ける。


「そっか」


「うん、そう」


 望の音が聞こえなくなった。聞こえたのは風の音、植物がざわつく音、誰かの足音。それぐらいだった。それに気がつくと直人は引き返していた。

 追いかけてくれない。どうして。現場に近づけば近づくほど、雰囲気が禍々しく、望が危険な目にあっているかもしれないと思ったのだ。


「ぼく、耳はいいから」


「そうみたいね」


 目が見えない代わりに耳がいい。聴覚が発達したのだろう。それでも、見えない中を全速力で走ることができるのは容易くない。


「音がないと……不安に、なる……」


 直人の声がふわふわとしている。見えない中、あれだけ走って神経を使ったのもあるだろう。その上、杏介の説教だ。疲れるに決まっている。うつらうつらとし始めた直人に望は苦笑する。


「今日はもう休もう」


「うん……。もう、ねむ……い……」


 ふらっと直人の身体が揺れる。倒れそうになった直人の身体を抱きとめた望は直人の顔を覗く。目元が見えないと本当に表情がわからない。そっと直人の頬に触れると、柔らかな感触が指を伝う。子供体温のためか、直人の頬は温かい。


「おやすみ、直人君」


 望は直人の頭を膝にのせ、頭を撫でる。柔らかく、癖のない髪がさらさらと望の指をこぼれ落ちる。よく見ると、直人の髪は黒に近い緑色をしている。


「やあ、寝ちゃったかな?」


 音もなく現れた周に望は眉根を寄せる。


「遅くない?」


 お茶を淹れてくる、と言って去ってから結構な時間が経っている。それほど遠くに厨があるわけではないのに、随分とのんびりしていたものだ。


「僕がいると、あまりお話してくれそうになかったから」


 周は直人の分のグラスを置き、すやすやと眠る直人の顔を覗き見る。無防備に眠っている姿を見る辺り、望に気を許しているようだ。あれだけ杏介に食ってかかるような言動をしていたわりに寝顔は随分とあどけない。見た目相応の姿だ。


「色々とお話できた?」


「少しね。今日のことを話してた」


「そう。いやー、こうやって寝てると、見た目相応だねえ」


 ほれ、と言って周は直人の頬をつつく。ぷにぷにと柔らかい。


「起きちゃうかもしれないでしょ?」


「大丈夫だよ。早いねー、もうぐっすりだ」


 周は細い目をさらに細める。ふわっと周の周りを靄が囲む。森林のような緑色の靄だ。


「ほら、夢を見ている」


 周の瞳と髪の色が変わっていく。髪色は直人と同じ深緑に、目は翡翠色へと変わる。夏の色濃い緑色だ。


「……?」


 周は首を傾げる。


「周?」


 様子の違う周に望は声をかける。目をぱちくりとさせた周は緑色の靄を指に巻きつけるようようにくるくるとかき回す。


「……あー、そういうこと、なのかな?」


 一人で合点している周に望も首を傾げる。


「どうしたの?」


「そうだねえ……。この子がどうしてこんな性格なのか、わかったような気がする」


 周は同情の色を翡翠色に混ぜる。

 相手によって態度を変える少年。女性に対しては大人しく、男性に対しては歯に衣着せぬ物言いをする。これはこうなっても仕方がないのかもしれない。


「寂しがり屋さんだ、この子は」


 周は眉を下げる。寂しいから誰かに構ってほしいのだろう。

 夢の中に登場する二人に手を引かれて楽しそうに笑っている。少年はその二人の手を離すまいと強く手を握っているのが見てとれる。どこにも行かないで、と心の声が聞こえる気がする。

 そんな夢を彼は見ているようだ。


「寂しがり屋……」


 音がないと不安になる。望は直人の言葉を思い出す。彼にとって、音というものは大切なものであり、大事な情報源。

 音を頼りに生きる彼を誰かが支えていたのだろうか。その誰かは今、どうしているのか。ふとした疑問が浮かぶ。


「望ちゃん、この子から寂しいって単語聞いた?」


「寂しいじゃなくて、不安って言葉なら。音が聞こえないと不安になるって。私、足止めくらって直人君を追えなくなったんだけど、戻ってきたって話したでしょ? どうして戻ってきたのって訊いたら、私の音が聞こえないからって」


「なるほどね。……うん、そうだね。追いかけてくる足音が聞こえないのは、この子にとっては不安なんだろうね」


 周は翡翠の瞳に憂いの色を浮かべる。

 彼は寂しがり屋。構ってほしい。誰かがいてくれる安心がほしい。誰かがいる証拠は気配だけではなく、音やにおいなのだろう。呼吸の音や衣擦れの音、抱きしめられたときの相手のにおい。それが彼にとっては大切な情報だ。


「周、直人君の夢は」


 どんな夢、と尋ねようとする望に対して、周は人差し指を立てる。


「内緒。本人の弱いところならなおさら、ね」


「勝手に覗き見しておいて?」


「それはそうなんだけど……。彼に売る夢を考えたいからさ。もちろん、本人から話は聞くけどね」


 周はそう言って弱々しく微笑むと、直人を抱き上げる。小さく呻く直人はまだ夢を見ている。幸せそうな夢だ。


「望ちゃん、疲れたでしょ? 君ももうお休み。朝早くに向こうに一緒に戻ろう」


「わかった。直人君は?」


「僕が部屋に連れて行くから」


「そう。よろしく。私、グラスを片付けておくね」


 結局、周が直人の分と言って持ってきたものは一口もつけられなかった。

 はーい、と周は間延びした返事をすると、色の戻った瞳を優しく細める。


「おやすみ、望ちゃん」


「おやすみなさい」

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