#1
しとしとと雨が降る。梅雨の時期というのは少しだけ気持ちが重くなる。気圧が原因とも考えられるが、やはり雨だ。降り続くこの雨が何とも憂鬱な気持ちにさせる。ここ数日どんよりとした灰色の雲ばかりで、青空を見ていない。
望はパラリと乾いた音と共に本の頁をめくる。
中間テストやレポートが山積みだったから余計に梅雨は気が重いのかもしれない。テストやレポートのある講義が集中し、バタバタしていたのがやっと落ち着いた休日だ。今回は量が多く、時間があるときは大学図書館にこもっていた。専攻の心理学関係のものから、教養科目、言語などのテストやレポートが山積みだった。
望がひとつ息をつくと、カラン、とベルが鳴る。外のどんよりとした様子に比べて軽やかな音だ。その音に顔を上げた望は男の金髪に眉をひそめる。白銀の雨を背にした金色は人のいい笑みを浮かべる。
「……こんにちは、杏介さん」
「こんにちは、望。久しぶり」
金髪の男、杏介はスタスタと望の元まで歩み寄る。
「元気してた?」
じめっとした外とは対照的に杏介は太陽のような金色の目を輝かせる。
「ぼちぼちですね……。随分と早いですね」
望は腕時計を確認する。彼が来ることは周から聞いていたのだが、聞いていた約束の時間よりも三十分以上早い。
「早く着いちゃった」
杏介はへへと笑う。
この杏介という男、周よりもチャラチャラとしている。黙っていれば狐顔の美形でモテるだろうに、その言動で全て台無しになっている気がする。
「で、周は?」
「出かけています。すぐに戻ると思いますが」
「ふーん?」
「お茶の用意をしてきます。どうぞ、おかけになってお待ちください」
望は本を閉じて奥へと向かう。
キッチンでお茶の用意をする。グラスに氷をいれ、麦茶を注ぐ。
杏介は周の友人の妖狐である。長いつき合いらしく、お互いに腐れ縁と言っている。妖街で日輪という屋号の何でも屋を営んでいる。清掃作業や庭木の剪定といった日常に関わることから潜入調査、別れさせ屋など時々探偵かと思わせるような仕事をこなしている。人の姿に化けることができることから、人間界に出ることが難しい妖怪に代わって買い出しサービスもしている。これが結構評判がいいらしい。そして、買い物という名目で遊びに来ては周にちょっかいをかけにくる。
そんな杏介は妖怪たちと夢屋を繋いでくれる仲介人でもある。春海を紹介したのは杏介だ。今までにも杏介を通じて多くの妖怪たちが夢を買った。
何でも屋を営み、妖街の住人から頼りにされているため、顔が広い。そのせいなのか、妖怪だからなのか、距離が近い。杏介にパーソナルスペースはあるのかと言うほど、彼は距離が近い。すっと平然とした顔で隣にいることが多い。彼のそういうところが望は苦手だが、日頃世話になっているため、あまり強く言い出せない。言えば、多少距離を開けてくれるがそれでも近い。
望は麦茶の容器を冷蔵庫にしまい、グラスを盆にのせ店に出る。杏介は望の言うとおり、席に着いていて、本を読んでいる。
「おかえり」
ぱっと表情を明るくした杏介の手元の本に望は眉を寄せる。
「その本……」
「望が読んでた本だろ?」
「悪戯しないでくださいね。それ、大学の本ですから」
「さすがにそこまではしない」
杏介はパラパラと頁をめくると、活字が流れていく。パタン、と本を閉じ表題を見る。杏介もよく知る題名が記されている。
「もしかして、読んでたのは『夢十夜』?」
杏介は望に表紙を見せつける。夏目漱石の作品がいくつか入った文庫本だ。表紙に並ぶ作品の中に『夢十夜』が含まれている。
「……ええ」
望はグラスを置く。カラン、とグラスの中の氷が音をたてる。
「気になっちゃった? 夢を書いたこのお話」
明るい色の瞳が細められる。
「……」
教養科目でとった文学作品の講義。その講義で取り上げられた作品だ。ひとつひとつの話は短く、十の夢の話が収められた作品。第一夜は高校の授業でも取り上げた記憶がある。それもあってか、講義でも力をいれて解説されていた。
「進展はどう? 春海のおじさんに情報収集を頼んだって聞いたけど」
杏介は望の事情を知っている。周から依頼されて彼女の故郷辺りの情報を集めたこともある。しかし、有力な情報を得ることはできていない。当時の街の辺りや妖怪たちの様子の情報ぐらいしか得られなかったのだ。現在も調査は進行中だが、杏介のできる範囲での情報はあまり期待できない。
「はい」
春海に依頼してから二ヶ月が経った。烏に訊いてみると、当時、小学生の少女の行方がわからなくなり、警察が動き回っていた、ということを覚えている者はいたそうだ。しかし、肝心の誘拐の現場を見た者はいないとのことだ。それとは別件で少し気になる話を聞いたため、今はそちらを探っている、との文が届いた。
今年の梅雨を気が重いと感じるのはこれもあってか。春海に申し訳なくなる。絵のスランプを乗り越え、これからというときに頼んでしまった。絵の方ももうしばらく待ってくれとも書かれていた。こちらの方は軌道に乗っているらしい。
「まだ有益な情報はなくて……」
「十年以上前にもなればね」
杏介は本を置くと望の頬に触れる。
「……っ!」
望はのけぞろうとするも、杏介に手を引かれて逃げることができない。つり目が望を逃がさまいと視線を逸らさない。
「あまり寝てない? 寝不足っていう顔してる」
杏介の親指が望の目の下を撫でる。薄っすらと黒い目元に杏介は眉を下げる。
「夢のことか、学校が忙しいのかわからないけど、ちゃんと寝た方がいい」
チャラチャラとした言動が目立つが、情報屋としての一面を持つ彼はよき観察眼を持っている。一時期、薬師をしていたこともあって、体調の変化にもよく気がつく。明るい杏子色の瞳が望を心配そうに見上げている。
「望が倒れたら、俺、悲しいよ」
カラン、とベルが鳴る。しとしとと雨の降る音と湿った外のにおいが店に入り込む。
「………………杏?」
「お、周だ。おかえりー」
杏介の表情が新しいおもちゃをもらった子供のようにぱっと明るくなる。ズカズカと店に入ってきた周は杏介の手を振り払い、望を背後に隠す。
「お前……」
「やだなあ。望が寝不足みたいだから、ちゃんと休んでねって話をしてたんだよ」
ケラケラと笑う杏介を周は睨みつける。
「望ちゃんに触る必要ないよね?」
「目のあたりが重そうだなーって。実際のところ、ちょっと隈できてるし」
薄化粧の下、確かに薄っすらと隈ができている。周も気がついていたため、今日は早く帰るようにと伝えてある。
ここのところ、勉強のことで忙しそうにしているのが見てとれた。やっと落ち着いたと聞き、この土日は休んではどうかと提案したが、望はあまりバイト出られなかったから出ると言ってきた。譲る様子のない望に、閉店時間になったら帰るようにということで話を終わらせた。
望の体調が心配になるのは周も同じ。薄いとは言え、隈を作っているのだ。
「だからって……」
それで望に触れる理由にはならない。倒れそうになった望を支えたというのなら話は別だが、明らかに警戒している望の様子からして、違うのだろう。
「あっははー。周ってば、そんなに怖い顔するなよ」
警戒態勢の周に杏介は笑い飛ばす。
過保護だなあ、と思った杏介は望に本を差し出す。
「これ、返す」
「……はい」
望は恐る恐る本を受け取る。とくに何事もなく本を受け取ることができた。
「周はどこ行ってたんだ?」
杏介は望が用意してくれた茶を啜る。外のじめっとした暑さを忘れさせるように、ひんやりとしていて熱が引いていくような気がする。
「スーパー。アイス買ってきた」
そう言って周はエコバッグの中を見せる。アイスのアソート二箱と他に食材が入っている。
「奥で話そう。お前をお客さんの前に出したくないから」
「俺もそっちの方が助かる。変化を解きたいし」
「望ちゃんもおいで。おやつにはちょっと早いけど、アイス食べよう」
周は十四時半になろうとしている時計を見上げる。十五時の約束だったのが、杏介は早く到着していた。そして、望にちょっかいをかけていた。早めに戻ってこれてよかったと思いながら周は息をつく。
三人で奥へ向かう。周が買ってきたものをしまう隣で望は自分の分と周の分の麦茶を用意する。
「望ちゃん、アイス何がいい?」
棒アイスの箱ごと差し出された望は適当に取る。リンゴだった。
「杏介さんは何がいいですか?」
望は今でくつろいでいる杏介に尋ねる。
「何でもいい」
「……そうですか」
満面の笑みを浮かべる杏介から望は反射的に視線を逸らす。
「あれ? めっちゃ冷めてね?」
「……」
「望ちゃん、気持ち悪いって言ってやった方がいいよ」
「おーい、周? 聞こえてんぞ?」
杏介が文句を言うも、周は知らんぷりだ。
「周はアイス何がいい?」
「オレンジ」
「わかった」
「お二人さん?」
杏介を無視して二人は作業を続ける。お茶と適当に選んだアイスを盆にのせた望は先に居間に戻る。杏介に適当に取ったアイス、くしくも望と同じリンゴアイスを差し出し、杏介の対面に座る。
「隣こいよ」
ほら、と杏介は隣をぽんぽんと叩くも望は麦茶を飲む。
「周、先にいただくね」
「どうぞー」
「ねえ、寂しいから無視しないで」
杏介は、お願ーい、と猫なで声を出す。狐はイヌ科だったような、と思いながら望は呆れた眼差しを杏介に送る。
「……発言にはお気をつけください」
きっと睨む望に対して杏介は、はーい、と間延びした返事をする。
そんなやり取りが終わった後、買ってきたものをしまい終えた周は腰を下ろす。杏介の隣の辺に座った周を見た杏子色の目が残念そうに伏せられる。
「周が隣かあ……」
「残念でした」
残念そうに言う杏介に対して、周は平然とした様子だ。
「でもいいや。真正面に望がいるし」
望は杏介と視線を合わせないようにアイスをかじる。甘いリンゴの味が広がる。さっぱりとした味が梅雨のじめじめとした暑さを軽くしてくれるような気がする。
「変化解いてもいい?」
「いいよ」
杏介は軽く頭を振る。すると、ぴょこりと金色の三角の耳が現れる。
狐顔が物語るとおり、杏介は妖狐だ。本来の姿は可愛らしい狐の姿なのだが、普段はこちらの狐の耳をはやした成人男性の姿をとっている。人間界に来るときは耳を隠して行動している。この化ける力を使って潜入捜査をこなしたり、人間界を訪れたりしている。
「で、用件は?」
周はアイスを袋から出して一口かじる。
「やー、ちょこっとだけ望を貸してほしいなーって」
「……は?」
「私ですか?」
「そう」
杏介はシャリシャリとアイスを食べる。
「ほら、夏祭り近いじゃん? 先生のところ、かき入れ時なわけ」
周は棚のカレンダーを見上げる。まだ六月のカレンダーの端に小さく載っている八月の日付を目を細めて見る。
夏祭り。八月頭からお盆にかけて妖街で行われる祭りだ。お盆の終わりが本番で、派手なことが行われる。花火が上がるのはもちろん、爆竹が鳴ったり、川に飛び込む者がいたり、大騒ぎだ。そのような中、羽目を外す妖怪が多く、例年怪我人が続出する。怪我をした者たちが駆け込むのが病院や薬屋だ。
杏介の言う先生のところとは、以前周と杏介が薬師として働いていた満月医院のことだ。妖街でも大きな病院で評判もいい。当然、祭りで怪我をした妖怪たちが駆け込む場所だ。例年、祭りのときや年末年始になると忙しいのだ。その忙しい時期に周も杏介も駆り出される。
「いつもお手伝いに来てくれる子のところに子供が生まれてさ。今年は難しいって言われちゃったみたい。まあ、当然と言えば当然なんだけど」
「それで望ちゃんに?」
「うん。もちろん、給料は出すし、食事の用意もある。先生がそこは用意させてくれって言ってた」
「はあ……」
去年、望も祭りに参加した。お盆に帰省するため、本番には参加していない。露店のあたりはまともだったが、遠くでは爆竹が鳴り響き、酔っ払いが闊歩し、よくわからない催し物で盛り上がっていた。望の地元の祭りよりも派手で無法地帯だったことをよく覚えている。本番でなくともこれなら、本番はもっと派手。これは怪我人が続出してもおかしくないと思った。
祭り本番でなくとも、満月医院は忙しそうにしていたのもよく覚えている。薬師や看護師たちがぐったりしているところに露店の食べ物を差し入れしたら、神か、と感謝された。
あれだけ忙しく、手を必要としているのなら望は手伝いに行きたいと思う。満月医院の院長や薬師、看護師たちには世話になっているため、ぜひと思う。
しかし、タイミングがタイミングだ。
「ですが、私、お盆は実家に帰る予定で……」
「だよなー」
杏介は肩を落とす。
「ちなみにだけど、お盆じゃなければ手伝いお願いできるか? 雑務全般になるんだけど」
「八月入ってからですか?」
「七月下旬からって言いたいけど、試験あるよな?」
「はい」
「だよなー……。チラリ」
杏介は周の方を見る。
「……僕?」
「おう。お前はもちろん連れて行くつもりだけど」
「店閉めた後でいいならいいよ」
周はシャクシャクとアイスを平らげる。どうせ毎年のことだ。祭りと年末年始、杏介は薬師として駆り出されるが、周は薬師の職から長いこと離れているため雑務全般を任される。これが毎年恒例なのだ。
表向きは昔世話になったから。本当のことを言えば、祭りや年末年始がひと段落すると、院長から美味い食事の招待を受ける。周はそれを楽しみに毎年手伝いに出ている。
「そんじゃ、周は決まり。望はどう?」
「わかりました。お役に立てるかわかりませんが、ぜひ」
「こっちが無理言ってお願いしてるんだ。望の予定優先で構わないから」
杏介はひらひらと手を振る。学生の身だ。周から忙しそうにしていると聞いている。学生時代を謳歌してほしいし、勉強を優先してほしいと思っている。それは院長から言付かっていることでもある。予定が入っているのなら、そちらを優先するように伝えてくれ、と。
「また近くなったら連絡するな」
「はい」
「そ、れ、とー。夏祭り一緒に行かないか? 茜も望と一緒に行きたいって言ってたんだ。先生も一日、二日ぐらいなら行ってこいって言ってくれたからさ」
杏介はニコリと笑う。周と望がよければ、と茜に言伝を頼まれたのだ。
満月医院の薬師、茜。胡桃色の髪が特徴的な女性だ。おっとりとした雰囲気の彼女は望のことを妹のように可愛がっている。一人っ子である望も茜のことを姉のように慕っている。
ここしばらく望に会っていない、と茜は落ち込んでいた。試験の時期で忙しいのでは、と話になりそれなら仕方ない、と茜は納得していたが会いたそうにしていた。
「いいんじゃない? 望ちゃん、試験の予定って出た?」
「まだ。でも、去年の感じからすると、七月中にほとんどの試験は終わると思います」
「じゃあ、仮で五日か六日ぐらいにしとく?」
杏介が尋ねると望は頷く。その辺りなら試験は終わっているはずだ。あまり考えたくはない追試にならなければの話だ。
それじゃ仮で、と杏介は周からメモ帳とペンを借りて書きこむ。
「もし予定が合いそうになかったら連絡頂戴」
「はい」
望は表情を和らげる。変な催しに巻き込まれたりせず、普通に露店を周っていればとくに問題のない妖街の祭りだ。去年は驚いたが、意外にも彼らは人間と同じように祭りを楽しむ。その楽しみ方が派手なだけだ。
「周もそれでいい?」
「いいよ」
「よし、仮決定ってことで。先生に伝えておくな」
杏介はメモをポケットにしまい、麦茶を飲み干す。
「そんじゃ、俺帰るわ」
「珍しく早いじゃん」
周は嫌味っぽく言う。いつもだったら、ダラダラとくつろぐのに珍しい。
「買い出しもあるから。先生にさっさと買った物を届けろって言われてるし」
はあ、と杏介は息をつき、立ち上がる。
満月医院の院長の棗は兎の姿をしている。発達した彼の脚から繰り出される蹴りはとても痛い。彼の力加減次第では、一日中まともに動けなくなる。馬鹿に出す薬はない、と手加減はしてくれるのだが、痛いものは痛い。できることならくらいたくはないのだ。
杏介としてはゆっくりとしたいところだが、師匠であり、何でも屋を支援してくれている棗には頭が上がらない。
杏介を見送ろうと望と周も席を立ち上がる。暖簾をくぐり、店の扉へと三人は進む。杏介は頭を振り、耳を隠す。狐の耳がないだけで本当に人間にしか見えなくなる。
「それじゃ、周、望。またな」
「はい」
「じゃあね」
手を振る杏介が店を出るのを周と望は見送る。窓の外から杏子色の髪が見えなくなると、周は大きく伸びをする。
「望ちゃん。手伝いに行く話、本当にいいの?」
「いいよ。医療行為はできないけど。難しい仕事?」
「いいや。本当に雑用だよ。お会計とか、事務仕事とか、掃除とか。君が医療行為をすることはない」
「なら大丈夫だと思う」
さすがに薬の調合や診察などの医学的な知識を必要とすることはできないが、会計や事務作業、掃除ぐらいなら教えてもらえばできる。
「まあ、望ちゃんがお祭り本番に入らないのは正解だよ」
周は腕を下ろすと深々とため息をつく。
「やっぱり忙しいんだ」
「忙しいも何も、下手するとご飯食べられないから。次から次へと来てさ」
目が回るとはあの現場のことだ。次から次へと患者が押し寄せてくるのだ。休憩時間などない。気がつくと丸一日経っていたなんて年もあったぐらいだ。
年末年始も一緒だ。さすがに大晦日と三が日は休みになるが、その前後が忙しい。
「他にも病院とか薬局あるでしょ?」
「満月医院の位置がねえ……。祭り会場から近いから、どっと流れ込むんだよね」
周の目がどこか遠くを見つめている。人間も妖怪も祭りを楽しみ過ぎて怪我をするのは変わらないのかと望は思った。




