#5
ふたを開けた箱の中には白地に黒の筋が入った玉が収められている。真っ白な紙に墨で線を入れたようなそれを見た春海は目元を柔らかくする。
「これが、俺の夢か」
「そうだよ。こんなことを言うのはちょっとどうかと思うけど、変な夢だったね」
周は夢玉をじっと見つめる。本当に変な夢だった。夢というものは無意識の内の物だから、前後の関係がはちゃめちゃになることもある。突然場面が変わることもある。依頼内容に沿った夢の内容にするために周はある程度調整を行うことがある。それでもわけのわからない夢になってしまうこともある。
今回の依頼に関して、周はあまり介入していない。二人の会話を覗き見していたぐらいだ。
「数多の夢を扱ってきた周殿が言うならそうか。だが、俺としては、らしい夢だったと思うな」
春海は小さく笑う。
「らしい夢、ですか」
望は不思議そうに春海を見上げている。望は春海が見た夢を知らない。周から依頼主の夢の内容を聞くことがないのはいつものことだ。
「友である和尚ととりとめのない話をする。そんな夢だった」
「とりとめのないね……」
確かに、まとまりのない夢だった。無と有、あるとないについて一貫してはいたのだが、ころころと話が変わっていた。周からすると、本当によくわからない夢だった。彼らは一体、何を話したかったのか。結論は出たのだろうか。
「それで、春海さんの悩みは解決できたのですか?」
春海の表情からして、彼の望む夢が見られたようだ。
思うように絵を描けないというスランプ。それで春海は夢屋に訪れたのだ。結果としては、どうだったのか。
「うん、解決できていないな」
春海はからからと笑う。吹っ切れたようなその笑い声に望は目を見開く。夢の内容を知る周はその笑い方が春海の友人に似ていると思った。
「だが、描きたい絵が思い浮かんだ」
「どんな絵ですか?」
望が尋ねると、春海は、うーん、と腕を組む。
「画題はこれだと決めたわけではないのだが、想像力をかきたてるような絵を描きたいと思ってな」
「想像力をかきたてるような絵……。これまた、難しそうな」
どんな絵だろうか、と望は疑問符を浮かべる。
「自分でもまだ案を固められていないからな。もっと練ってから描こうと思う」
「そうですか。夢がきっかけになりましたか?」
「そうだな。解決には至っていないと思うのだが、糸口になったと思いたい」
和尚との会話がきっかけになった。調子が戻るかはまだわからないが、間違いなく、春海に影響を与えたと思う。
和尚という今は亡き存在。この世にあったが、今はない者からの助言だと思いたい。あくまで、夢の中の和尚で、春海が思う彼の言動であるから、実際の和尚がどう言うかはわからない。
「と言っても、いまだに自分の中に夢を落とし込めていないような気がしてな。夢の内容は迷走してしまったし……。周殿にはご迷惑をおかけした」
「僕は別に。僕は舞台を用意するだけ。って言っても、今回の舞台は本当に何もなかった」
何もない世界。春海なりの何もない世界を用意したまでだ。物という物はほとんどなく、あったのはごくわずかな小道具のみ。
最初は本当に何もなかった。暗いのか、明るいのかすらわからない不思議な始まり。どこから聞こえてくる音も幻聴ではないかと思うほど、何もない無の世界。その世界は突然、視界が開けたと思いきや、真っ白な世界に黒をまとった二人が座って話をしていた。
前回のひとみの曾祖父の事例とは違い、春海の夢に出てきた和尚は夢の中の、言わば幻。春海が思う和尚が夢に現れた。春海にきっかけを与えた彼はもしかしたら、春海の深層心理の具現化だったのかもしれない。春海自身が言葉にできないふわっとした考えを、和尚という姿になって言語化したのだろう。
「春海殿がこの夢に満足してくれたならそれでいい。だから気にしないで」
周は小さく笑う。何はともあれ、春海が満足した結果ならそれでいい。
「そうか。ならいいのだが……」
「僕としても勉強になったしね」
今までに経験したことのない夢だ。今後、何もない夢を所望する客が来るとはあまり思わないが。
それよりも気になるところがある。
「食べたらどんな味がするんだろう」
「食べないのか?」
「夢を作る方に集中しちゃうから、食べてる余裕ないんだよね」
夢を作るというのは神経を集中させる。
「それこそ、無から有にするものだからね」
周は目を細める。何もない状態から何かを生み出すのは難しく、労力がかかる。だから、一本に集中しないとできないのだ。
それで勘のいい少女に姿を見られたのは迂闊だった。注意せねばと改めて思った。人ならざる者相手ならまだいいのだが、望やひとみのような人間には要注意だ。
「そうだ。その夢とは別で、ひとつ夢が欲しいのだが」
「どんな夢?」
周は箱のふたをしかけた手を止めて春海に尋ねる。
「桜の夢が欲しい。仏に奉るに相応しい夢はあるだろうか?」
仏には 桜の花を 奉れ 我が後の世を 人とぶらはば
この和歌の詠者が望むような桜の花は供えられたのだろうか、と春海は密かに思う。桜の下で最期を迎えたいと詠った彼も和尚と同じで世を捨てた者だった。当時の歌人のことは風の噂で聞いた程度だった。
「季節だから桜の夢はたくさんある。この間も一緒に取りに行ったもんね、望ちゃん」
一週間ほど前のことだ。一週間前は満開の桜だったのが、今は桜の花が散り、若葉が覗いている状態だ。
「仏に奉るための桜の夢と言うと、どのようなものがよろしいですか?」
望が尋ねると春海は顎髭を撫でながらしばし考え込む。
「……」
彼との思い出。月を、雪を、花を共に愛でた彼との記憶。彼はどんな桜が好きだと言っていたか。
「雪とのみ、ふるだにあるを、さくら花、いかにちれとか、風のふく覧。……幻想的で美しい、雪のように降り注ぐ桜花の夢を」
散る桜に美意識を見出す。和歌においてもそれはよく表れていた。人々は桜の散る姿を美しいと思っている。それは彼も一緒だった。咲き誇る桜ももちろん美しいのだが、散るからこそ、桜は美しいと。
それが無常。全ては移ろい、変わっていく。常に同じということはない。
「朧月夜であるとよし、と言っては欲張りだろうか?」
彼と語るのは夜。月と星、灯だけが二人の語り合いの場を照らした。
「月に叢雲、花に風。それでいいの?」
周が訊くと春海は苦笑する。
「花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。……花の蕾が綻び、咲き誇り、散るまで、月が満ちて欠けていくまでの一連の流れを見ることも美しい。風が吹くのも、雲がかかるのも邪魔だとは思わない。むしろ、それも美しいと思える方が俺としては趣深いと思う」
一瞬の美もいいのだが、一連の美もいい。花が風に吹かれる様も、雲が月にかかる様も、静的な光景ではなく、動的な光景で捉えるのもまたいいと春海は思う。
「意地悪言ってごめんなさい。とくに、風については烏天狗の春海殿への悪口に聞こえてしまったかも」
周は眉を下げる。
「構わぬ。まさに花に風、花見をしている人間たちの傍で風を吹かせて桜を散らせてしまったことがある」
春海は苦笑いする。あれは子供の悪戯だったな、と反省している。
烏天狗は風を操る。そうして空を飛び、悪戯をすることもある。
「……」
置いてきぼりになっている望は二人の古風な会話を静かに聞いていた。
花は盛りに、月は隈なきをのみ見るものかは。ある随筆の中の有名な一文だ。望も高校の古典の授業で習った。かはは反語、と先生に念押しされたのをよく覚えている。よって、現代語訳をすると、花は満開のときだけ、月は雲のないものだけを見るものだろうか、いや、そうではない、となる。つまり、花は満開でなくとも、月に雲がかかっていてもいいじゃないか、ということらしい。
二人の会話で望が理解できたのはこの一文の内容のみ。あとは月に叢雲、花に風ぐらい。春海が詠じた和歌も、なぜそのように織り交ぜた話をするのかもわからない。
もう少し真面目に古典の勉強をしておくべきだった。春海や周に限らず、彼らは古典的な文章や言い回しを用いて会話することが多い。物語や随筆、伝統芸能の台詞など、さらっと会話に混ぜる。年長の妖怪になると、顕著だ。
望は古典なんて日常生活で使うこともなければ触れる機会も少ないと思っていた。だから、古典という科目はテストや入試で使う科目としか捉えていなかった。高校を卒業してしまえば縁のない教科という認識だった。そのため、内容よりも助動詞や文法などを覚えるばかりで、作品の内容まではっきりと覚えていない。人ならざる者たちと深く接するようになるのであれば、せめて教科書に載っていた文章をじっくり読んで内容を理解しておくべきだったと反省する。
「望ちゃん?」
周の声に意識を戻された望は声の主を見上げる。
「どうしたの?」
周は首を傾げる。彼の結んだ髪がさらりと揺れる。
「ちょっと反省してただけ」
「望ちゃん、何も悪いことしてないよ?」
「それより、春海さんの夢」
「ああ、そうだ」
えっと、と言って周は夢玉のコーナーから瓶をひとつカウンターに持って来る。桜色が詰められた瓶を春海が不思議そうに見つめている。
「さっきの和歌の意味を汲んで、雪のように桜が散り急ぐ夢はこれ。はらはらと桜が舞い散るだけの夢はこれ。朧月に照らされる桜の夢に……。あ、これもだね。これはちょっと変わり種で、雪と桜が一緒に降り注ぐ夢。月も出ている」
周は夢玉を四つ並べる。どれも美しい桜色の夢玉だ。
「どれがいいかな?」
「……最後に紹介してくれた夢を頂きたい」
「わかった」
そう言って周はその夢玉を依頼された夢が収められている箱にいれる。春海が選んだのは白と見紛うほど薄い桜色の夢玉だ。春海が見た夢と並べて見ると淡い桜色の夢玉とわかるのだが、それ単体では白にしか見えない。桜色の向こう、夢玉の中央にぼんやりと金色が見えるのが朧月らしい夢玉だ。
雪と桜が一緒に降り注ぐ様を月が見下ろしているのだろうか。春海はそのような様子を想像する。雪と桜の共演は中々見られない。ありえない光景とも言えるそれは夢だからこそだ。現実世界にはないが、夢だからこそ見ることのできる光景だ。
周はふたをして望に渡す。望は箱のふたが外れないように紐で結ぶ。その間に春海は会計を済ませる。
「ありがとう。望殿、袋はいらない」
紙袋にいれようとしていた望は春海の言葉に手を止める。
「では、こちら、商品になります」
店名と蝶と急須の絵の判が押された箱を受け取った春海は懐にいれ、財布も一緒にいれる。
「そうだ、春海殿。ちょっとお願いと訊きたいことがあるんだ」
周は手を挙げる。
「俺か? 俺にできることなら手を貸すが……」
「うん。お願いっていうのはね、絵を描いてほしいんだ」
絵?、と春海と望は首を傾げる。
「実はさ、ここに掛けていた飾りを壊しちゃってさ」
そう言って周は夢玉のテーブル近くの壁を指さす。
「そう言えばそうだったね」
望もその現場を目撃した。四月に入って間もない頃だった。楕円形のステンドグラスのパネルが掛けられていたのだ。カワセミのような鳥を模した美しい作品だった。
夕方、店を閉めて掃除をしていたときの話だ。これも綺麗にしようと周が壁から外した際に手を滑らせて落として割ってしまったのだ。そのときの周の顔と言ったら、この世の終わりと言わんばかりの絶望、というほどひどい顔をしていた。ふらふらと足元が疎かになり、しゃがみこんでしまった。ガラス片が危ないと思った望は周の身体を半ば強引に引きずり、片付けを始めた。
その日一晩、周はもぬけの殻だった。よほど気に入っていたのだろう、ずっと落ち込んでいて、食事も少なめだった。次の日は何とか持ち直していたが、それでもしょんぼりと肩を落としていた。
「そうだったのか」
「うん……」
周は見るからに肩を落とす。割れてしまって十日近くなるが、今でも引きずっている。
「それでね、あそこ、空きができちゃってさ。何か飾ろうにもちょうどいいものがなくてね。もしよければだけど、春海殿に絵を描いてほしいなーって」
そのカワセミがいた場所は今もぽっかりと空いていて寂しい。何かちょうどいいものを探そうと思っていた周だが、絵描きとの縁ができたなら彼に頼みたい。写実的で今にも飛び出してきそうな絵を周は気に入った。
「だが、まだ俺は……」
本調子ではない。今の春海の状態では周を満足させる絵は描けない。自分自身が納得できていないものを依頼主に出すことなどできやしない。
「調子が戻ってからでもいい。お願いしてもいいかな?」
「……」
周が指さした壁は一部だけぽっかりと空いている。何も飾られていない壁が寂しそうだ。
「……そうさな。あるべき状態に戻ったら、絵を届けよう」
あまり後ろ向きになるのもよくない。夢を買い、やる気が出たのだ。この期を逃してはいけない気がする。
「よかった」
「どんな絵がいいとかあるか?」
「何でも。そこに合いそうなら」
「また何とも漠然とした……」
「春海殿に言われたくないね」
「そ、それもそうだな」
それを言われれば春海は何も言えない。春海の夢の要望と言うのは漠然としていた。それに比べれば、周からの依頼は周りに飾りがあるからまだ想像しやすい。夢屋胡蝶に相応しい絵を贈りたい。
「わかった。描き始めたら連絡をしよう」
「やったね」
「今回世話になったから、俺から贈らせてくれ」
きっかけをくれた店に感謝の意を示したい。そんな春海の言葉に周は細い目をつり上げる。
「駄目だよ! ちゃんとお金払う! 絵を描くのにもお金かかるでしょうが!」
ずいっと身を乗り出した周に春海は反射的にのけぞる。
道具や画材はどうしても金がかかる。春海は副業の収入もあるため、やりくりはできているが、いい物を使おうと思うと財布の紐が中々緩まない。金以外にも物々交換という手もあるのだが、こちらも思うようにはいかないのだ。
「自分の腕を安売りしちゃ駄目! 調子が出ないとか言ってても、あれだけの物を描けるんだから、タダなんて絶対駄目!」
あの練習帳を見るだけでも春海の絵の腕がよくわかる。あの出来が練習帳に収まっているなんて、もったいない。タダでなんてもってのほかだ。
「お金が払われるべき腕なんだ!」
「わかった、周殿。落ち着いてくれ」
「そうよ、周。春海さん、困ってる」
まるで子供のようだと望は思う。確かに、言っていることは正しい。周は正当な対価を払うべきだし、春海はその対価を受け取るべきだ。望は春海が描くような絵、日本画などの部類がどれほど金がかかるのかは知らないが、何となく安くはないだろうとは思う。小中学校で使っていた絵の具セットの絵具とは違い、日本画となれば岩絵具を使う。ともなれば原料となる材料には貴重な物もあるだろうと推測できる。
「……むう」
拗ねた子供か。ここはあまり刺激しない方がいいと思い、望は内心でツッコミをする。
美術品好きの周らしいと言えばらしい反応ではある。休みの日に美術館や博物館に行って一日を満喫していることもあるぐらいだ。見て、とショップで買った展示にまつわる絵葉書を並べて見せびらかすときもある。その様子は目をキラキラと輝かせて宝箱の中身を見せてくれる子供のようだ。
「そう言って認めてくれて嬉しいし、励みになる」
認めてくれる誰かがいることは本当に嬉しい。春海は困り顔ながらも、胸の内が春の陽だまりのように温かくなる。
「絶対だからね、春海殿」
「そうだな」
期待値が高い。が、ここまで言ってくれる周をがっかりさせないような絵を用意しようと春海は心に決める。
「それで、訊きたいことというのは?」
もうひとつ、周が言っていたことだ。周は心を落ち着かせるように深く息をつく。
「この子のことになるんだけど……」
「望殿のこと?」
春海は首を傾げて望を見つめる。春海を人ではないと見抜くあたり、訳ありだとはわかっている。他にも何かあるようだ。
凛としたその瞳が春海をじっと見上げた。




