#4
リーンリーンと鐘が鳴る。ちろちろと水の流れる音がする。
目の前を何かが通ったような気がした。目を開けるも、そこは無だった。目を開けたつもりなのだが、そこには何もない。本当に自分は目を開けたのかと疑うほど、何もないのだ。
無の形容。この世界をどう説明すればいいのかわからない。白なのか、黒なのか。それすらもわからない何もない無の世界。
自分が立っているのか、座っているのかもわからない。身体があるのかもわからない。
ここはどこだ。そう声を発したはずなのに、喉の震えもなければ、己の声も聞こえない。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり」
ベン、と琵琶の音が聞こえた気がする。その平曲はどこから聞こえるのか。
わからない。何もないため、どこから聞こえるのか、誰が琵琶を奏でているのかもわからない。
何もかもがわからない。自分は歩いているのか、川の流れに身を任せるように運ばれているのか、そもそも動いているのかすらもわからない。
「沙羅双樹の花の色、盛者必衰の理をあらはす」
「ゆく河の流れは絶えずして、しかも元の水にあらず」
「おごれる人も久しからず、ただ春の夜の夢の如し」
「願わくは、花の下にて、春死なん」
「猛き者も遂には滅びぬ」
「世は定めなきこそいみじけれ」
「よどみに浮かぶうたかたは、かつ消えかつ結びて久しくとどまることなし」
「その如月の、望月の頃」
ベン、と最後に一際大きく弦の弾かれた音がする。
「ひとへに風の前の塵に同じ」
琵琶の音が響く。音速が空気を斬る。
刹那、さあっと視界が開ける。何もない世界に光が射し込んだようだった。
気がつくと、自分は座っていた。確かに自分の姿だと確認できる。己の身を包む黒の生地に柳が垂れた着物は自分のものだ。
「やっとこさ目が覚めたか」
その声に顔を挙げる。丸めた頭に、鋭い目、にやりと不敵に笑うその男は墨染の黒の法衣に袈裟を身に着けている。
その男はまさに。
「……和尚?」
昔、確かに生きていた男だ。
「何だ? 長いこと生きて、儂の顔を忘れたか?」
唖然とするこちらに対して、和尚は笑い飛ばす。その豪快な笑い方は和尚そのものだ。和尚の声が懐かしい。はっきりとしていて、空気を切り裂くような鋭さを帯びたその声は和尚のものだ。
「お前さんも老けたもんだ、烏天狗」
和尚の言葉に烏天狗は小さく笑う。烏天狗は確かに歳を取った。だが、目の前の和尚は時が止まったままだ。天命を知る歳の頃の姿だ。
「和尚、どうしてここにいるんだ?」
「どうも何も、お前が儂を呼んだのだろう? 無とは何かって」
和尚は目を細める。
「迷っているな、烏天狗」
見定められるような鋭い目に烏天狗は苦笑する。
「そうだな」
「はは、妖も迷うことがあるとはな。いやあ、面白い」
和尚は膝を叩く。人ならざる者は人間よりも遥かに長命で物知りだ。実際、この烏天狗もよく物を知っていて、和尚に物を教えたこともあった。
古人を語って聞かせてくれるときの胸の踊りよう。和尚は子供のように無邪気だった。もっと聞かせてくれとせがんだ。
「逆を言えば、儂らよりも長寿だからこそ、迷うことが多いのかもなあ」
生きている分だけ、選択があり迷いが生じる。いくら知恵があろうとも、妖怪たちも人間と同じで迷う。
「こんな老いぼれでいいのなら何か答えてやろう。儂も一応は僧だったわけだ」
「……和尚は楽しそうだな」
「楽しいとも。烏天狗に物を教えるときがくるとは思わなんだ」
和尚は喉の奥でくっくっと笑う。烏天狗はこの低い笑い声に若い僧侶が怯えていたのをよく覚えている。意地の悪い笑い方だと思う。
「さあ、お前さんの迷いを教えてくれ」
和尚は烏天狗に手を伸ばして問う。
「……」
烏天狗はすっと息を吸う。
「無とは何だ?」
昔、まだ烏天狗が若造でやんちゃをしていた頃、この和尚が尋ねてきた。自分はあのときに比べれば老けた顔立ちになったのだが、和尚の顔立ちはあのときと変わらない。人相の悪い、僧侶と言うには厳つい顔立ちの和尚は一度まばたきをすると首を傾げる。
「そんなもの、儂も知らん」
和尚はけろりと言いのける。
「いや、随分昔、和尚が俺にそう尋ねてきたではないか」
何もないとはどういうことなのか。無とは一体何なのか。
そう振ってきたのはこの和尚の方だ。まるで、答えを知っていてこちらに尋ねてきたような様子だったのに、知らんとは何だ。
「……そうだったか?」
和尚は目をぱちくりとさせ、首を傾げる。
「そうだった」
あれほど真剣な眼差しをしていたはずなのに、和尚は覚えていないようだ。
「覚えてなくて悪いな。無とは何かを知りたいって言うなら、儂も一緒に考える。一人より二人で考えようじゃないか」
和尚は正座をやめ、胡坐をかく。
「そもそも、どうしてそんなことが気になったんだ?」
「実は……」
烏天狗は和尚に話をする。絵描きをしているのだが、ここ最近調子が出ずにいた。色々と試してはみたものの、どれも上手くいかなかった。そんなときに、和尚の問を思い出し、一度まっさらな状態、無の状態になろうと考えたと伝える。
「お前さんが絵描きか」
和尚の声音に意外だという念が込められている。
「太刀を振り回していたお前さんが、筆を振るうとはねえ」
和尚は膝に肘をついて、頬に手を添える。
「それで、無の境地に至ろうって考えたのか」
「一度気持ちを切り替えたいというか、入れ替えたいというか……」
「ほほう、なるほどな。そうさな……。では、公案のひとつでも出そうか?」
和尚は視線を鋭くする。その目は修行をするときの目によく似ている。
烏天狗は時々和尚たちが修行している様を覗き見ていた。経を唱えたり、座禅を組んだりと日々の修行をしていた中で、和尚は一際熱心に説法していたのを覚えている。熱弁を振るう彼の姿に周りはどんどん聞き入っていた。
その熱弁を振るう、仏道を説くときの目だ。己の道を伝える強い意志を宿す目。
その目に烏天狗の背筋が自然と伸びる。
「狗子仏性。犬にも仏性はあるのか、ないのか」
和尚はにやりと笑う。
「さあ、お前さんはどう解く?」
烏天狗は和尚の笑みに苦笑する。
「名問を持ってきたな、和尚」
「はは。あるだとか、ないだとかを考えるのにいい問題なんだよ」
「難問だからこその良問なのだろうな」
困った、と烏天狗は眉を下げる。この問題は難問ゆえに良問、良問ゆえに難問だと思う。
烏天狗は和尚がどのように切り返してくるのか知っているため、渋々と口を開く。
「あると答えたら?」
「犬のどこに仏になれるような性質があるんだ?」
「……ないと答えたら?」
「釈尊を否定するのか?」
和尚は楽しそうに笑う。何とも人の悪い顔でだ。
そう、これはこのような問答なのだ。
和尚の返しを予想していた烏天狗はさらに眉を下げる。この公案に一体どれだけの僧侶が苦しんだことか。烏天狗はその姿を実際に見てきたからよくわかる。
難問にして良問。禅の道に足を踏み入れた者が通る道とも言えよう。
「……と言っても、烏天狗よ。お前さんに仏の道を無理に説くつもりはない。これが修行の身の僧ならば、ひねり出してもらうのだが、お前さんにはそこまで求めんよ」
和尚はカラリと笑う。
「お前さんたち、人ではない者たちがどこまで仏を信仰しているのかわからないからな。無理に人間のことを押しつけるのは馬鹿げている。お前さんの欲しい無の答えと、この公案の解が同じではないかもしれないから」
「では、なぜ、この公案を出した?」
「お前さんがどんな顔をするのか見たかった。いやあ、想像よりも遥かに困った顔をしてくれたな。眉がハの字になってな。いいものが見れたな」
和尚め、と睨んでいる烏天狗の前で和尚は眉の上で指をハの字にしてけたけたと笑っている。困り顔を見たいなんて、悪い趣味をしている。
「だが、儂としてはこの公案で頭を悩ませたぐらい、無とは何かというのは難しい考えだとも思うのさ」
和尚は自分の頭を撫でる。綺麗に剃られたつるりとした頭だ。
「儂とて、この公案で頭を悩ませた」
形のいい頭の形に沿って和尚の手が動く。
「叩いても、撫でても出てこないものは出てこないもんだったさ。……この公案の答えはないのではないかと思うほどに」
「……ちなみに、和尚の答えはどうなんだ?」
他人に公案を出す側の立場であり、実際に悩んだ立場でもある。そんな和尚の答えはどうなのか。
和尚は軽く頭を叩く。ペチン、といい音がした後、手が下ろされる。
「さあな。どうだったか」
知らんぷりをするようだ。そう易々と答えを教えてはくれないらしい。
「そうか」
「そういうことだ。さて、話が逸れてしまった。いかんな、お前さんとの話はよく脱線する」
和尚との話は二転、三転する。都の話をしていたと思ったら、今日の食事の話になっていた。と思いきや、和尚の若いときの話になっていた。はずなのだが、天気の話になっていた。と、話がコロコロ変わっていて、最初は何の話をしていたのやらということが多々あった。
「俺はそんな会話も楽しかった」
「儂もだ」
二人は小さく笑う。ひどく懐かしい過去の話だ。
「さあ、公案の話はさておき。お前さんなりに無とは何か、考えはあるのか?」
和尚はあの鋭い目ではなく、子供を見つめるような優しい目で烏天狗を見つめる。
「俺なりの考え……。最初に思い浮かんだのは、あるとない、有と無の対立という考えが単純だと思った」
対立関係。これがまっさきに烏天狗の頭に浮かんだ。非情にわかりやすいからこそ、真っ先に浮かんだのだろう。
「だが、これはあまりにも考えが及んでいない気がした。これは、あまりにも表面的な考え方だと思った。有無という熟語から考えとったようなことだから、あるとない、有と無そのものの概念に踏み込めていない気がした」
単純明快。本当に誰もが思い浮かべるような事柄だ。これで満足できる烏天狗ではなかった。
そんな表面上の考えだけでいいのか。もっと深く、根底にあることが重要ではないのか。そう囁く声がした気がした。
「……それで、どうした?」
和尚は先を促す。
「対立しているという考えはそうだと思った。あるという考えがあるから、ないという考えもあり、ないという考えがあるから、あるという考えがある。どちらかが欠けてしまっては均衡を崩す。と言うか、どちらか一方だけの考えではもう片方は存在しえない」
対立関係であり、相関関係である。“ある”と“ない”は反対を意味し、また、向かい合っている対の関係。ふたつがあるからこそ、有無という考えがあり、片方がなければ有無という考えは成立しない。
烏天狗はそのように考えた。とりあえず、真っ先に浮かんだ有無という熟語に焦点をあてて考えてみた。
「存在しえない、か……。片割れがあるからこそ、もう片割れも存在しうる、と」
「ああ。……ヤジロベエのようにゆらゆらと揺れて均衡を保つように存在している」
「ヤジロベエ、か」
「ん? 和尚はヤジロベエを知っていたか?」
「そうさな……」
和尚は寂しそうに笑う。
「……」
「お前さんの考えとして、あるとない、有と無は互いに関係しあうもの同士ってことか」
「そうだと思う。あまりにも表面的な考え方のような気がするのだが……」
「考えがないよりはいいだろうよ。そこからさらに広げるなり、深堀するなりすればいい。はたまた、別の道に進んでみるもよしだ。……儂からまたひとつ。考えの足しになるかはわからんが、烏天狗よ、こんな話は知っているか?」
そう言って和尚は懐から扇子を取り出す。ぱっと開いた扇子には鶴が群れを成して飛んでいる。その扇子を軽く扇ぐと、扇子から一羽の鶴が飛び出す。
鶴の一声。甲高く鳴き、白い羽を広げる。天へと広げられた羽は美しく、照り輝いている。その光が鶴の身体を包みこむ。
パシン、と乾いた音をたてて和尚は扇子を閉じる。鶴がいた場所には一口の花入れが置かれていた。首は細く、下はふっくらと膨らみ、台がついている。まさに、鶴を正面から見たような姿の花入れだ。
「鶴一声。鶴の嘴とも言うそうだな」
和尚は花入れを烏天狗の方に差し出す。
「和尚、その花入れは……」
「この花入れについて、面白い話があるらしいじゃないか」
和尚は扇子で花入れを指す。
「さあ、この花入れにはどんな花が生けられている?」
和尚の問いかけに烏天狗は目を瞠る。
この話はかの有名な茶人の話だ。侘茶の完成者として、広く世に知られている。
「どんな花、か……」
鶴のような花入れに花など生けられていない。何もないのだ。
かの茶人は客人に想像させたと言う。花のない花入れに生けられた花はどのようなものなのか、と。無から有を想像させた話。想像力や教養が試される問いかけだと思う。
「俺は春の花がいい。今の季節によく合うだろうから」
「桜か?」
「安直だが、それもいいな」
ほっそりとした鶴の首を思わせる花入れ。季節が過ぎてしまったが、蕾が綻び始めたぐらいの桜の一枝。これから桜が開花していく様を見ていきたい。
「和尚は?」
「俺はそうだなあ」
和尚は扇子を懐にしまうとニカッと笑う。
「雪の花だ。儂の目には、真っ白な六花が見える。空の彼方から降ってくる雪の花が花入れに吸い込まれるかのように生けられた。儂はそう見たい」
「そうか」
この和尚は何とも寂しいことを言ってくれる。
彼が亡くなった日は、まさに、空の彼方から雪の花が降ってくるような空模様だった。空から降り注ぐ雪の花はすぐに消えてしまう。それがまた物悲しい。
「烏天狗よ、この花入れの問答も無の話にならんか? 無の美学と言ったところか」
「そうだな。……うん、そうだ」
烏天狗は深く噛みしめるように言う。
“ない”から“ある”へ。何もない空間に、まるでそこにあるかのように想像する。自由度の高さが窺える。その想像の数は数知れず。そうして、この世の中に数多の想像の産物が輩出されてきた。
答えがない。答えがある必要のない考えだ。
「ないことであるように想像させる。これは中々面白いと儂は思ったぞ」
和尚はからからと笑う。
「現にはないが、自分の目だけにはあるように映る。面白いことを考える御仁がいたものだ」
「ああ。……和尚が儚くなった後の世のことだ」
和尚の笑い声がピタリと止まる。そして、和尚は寂しそうに微笑む。
「そうさなあ……。悲しいかな、儂はその時を生きていないからな」
リーンリーン、と鐘が鳴る。ちろちろと水の流れる音がする。音は鶴の花入れから発せられているようだ。まるで、鶴が鳴いているかのようだ。
「……烏天狗よ、この世界は何もなかった世界だ。儂らが現れたから、何かがある世界となった。本来は無の世界だった場所にこうして、お前さんと相見えて話すことなど、ありえないのだ」
和尚は声を低くする。
「何せ、儂自身がもう“ない”者なのだから」
「……」
烏天狗はよくわかっている。目の前にいる墨染めの法衣をまとった和尚の最期の姿はこれではない。
「ここにいる儂はお前の中にある儂であって、儂自身はもうおらぬ」
和尚はゆっくりと立ち上がる。リーン、リーン、と鐘の音が大きくなっていく。
「祇園精舎の鐘の声、諸行無常の響きあり……。川の流れも常に流れていて、とどまることを知らない。泡沫もあっと言う間に消えてしまう。この世は無常だな、烏天狗よ」
「……ああ、そうだな」
移り変わっていく世を烏天狗の目は捉えていた。京に都が遷されて百年の時が経つ頃に烏天狗は生まれた。貴族から武士へと政権が移り、いつしか、鎌倉、室町、江戸に幕府が開かれた。そして、外つ国との交流が盛んになり、いつしか世界を巻き込んだ戦の時代が幕を開けた。世界の全てが狂った時代は妖界にも影響を与えた。人ならざる者同士の争いも激化した。人の世が荒れれば妖怪の世も荒れるのだ。
「次から次へと移ろいゆく。川の流れがそうであるように、雲が空を漂うように、花が咲いて枯れるように……。迷いは移ろいから移ろいへの中間だ。そうやって、移ろっていけばいい。無から有が生まれ、有から無になったっていいじゃないか」
「和尚……」
「そろそろ時間だ。楽しかったぞ。……仏には、桜の花を、奉れ、我が後の世を、人とぶらはば。また、お前さんと共に花を見たいな」
和尚は身を翻す。黒の法衣が白い世界に翻る。すると、黒の法衣から一羽の黒い蝶が飛びだす。ひらり、ひらり、と頼りなく舞った蝶は世界に溶け込むように姿を消す。それと同時に、和尚の衣が闇に溶け込むような黒から、光を発するような白へと変わる。
「和尚、行ってしまうのか?」
「行くとも。何だ、童のように行かないでくれと言うのか?」
ははは、と和尚は背を向けたまま笑う。
「……いいや。ただ、最後にひとつ、教えてくれ」
ん?、と和尚はわずかに烏天狗の方を振り返る。しかし、顔はよく見えない。
「和尚、あんたの名前を今まで訊いていなかった」
「……知っているだろう? 儂のことを他の僧が呼んでいたはずだ」
「それでも、和尚の口から俺に対して聞いたことがない」
「今さらだな、烏天狗よ。儂だって、お前さんの名を知らぬ」
和尚は真っ直ぐ前を向いて一歩踏み出す。
「名無し同士だが、縁は有る。それで儂らの関係は十分だ。さらば、友よ。お前さんの活躍を祈っているよ」
和尚はそう言って歩みだす。
リーンリーン、と鐘が鳴る。ちろちろと水が流れる。ふわりと風が吹き、塵となった鶴一声をどこかへ消し去っていく。
そんな夢を見た。




