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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
第二夜 無に黒の一閃
11/88

#3

 灯に照らされた絵をじっと見つめる。淡い桜色の山の絵だ。先日、出先で見かけた桜に覆われた山の様子を頭に浮かべながら描いた。色を滲ませて、濃淡をつけた桜の山はまた何かが足りない。


「春海、今いいか?」


 障子の向こうから声を掛けられる。春海はそれに応じ、声の主を部屋に招き入れる。


「何だ、まだ描いていたのか」


 声の主は春海の手元を見下ろす。猿の姿の彼は春海の絵描き仲間であり、部屋を貸してくれている妖怪だ。山奥に住んでいる春海が絵の題材を探しに下りてきたときに部屋を貸してくれるのだ。いつもありがたいと思い、その礼として山の幸を持ってきて、食事を振る舞う。彼は春海が作る食事をいつも楽しみにしてくれる。それがまた嬉しい。今日の夕餉は山菜の天麩羅を振舞った。

 宿の主は、どっこいしょ、と言って春海の向かい側に腰を下ろす。


「ほお、いい絵じゃねーか」


 宿の主はじっくりと春海の絵を見つめる。桜色に染まる山々の絵だ。千本もの桜があるかのように、空気が霞んでいる。


「……だが、何かが足りない」


「まーだ言ってるのか、オメエは」


 宿の主は呆れた様子で言う。

 二人の関係は同じ師の元で学んだ者同士だ。互いの画風についてよく理解している。


「この滲み具合が絶妙でオレはいいと思うのにな」


 春海は写実的な絵を得意とする。目の前にある物をそのままそっくり写し取る腕前を持つ。西洋画の影響を受けてからは尚更だ。解剖学的に見て描かれる春海の絵はまさに絵から飛び出してきそうという言葉が相応しいのだ。動物の毛の一本一本、葉の筋、肖像の表情など、どれもこれも生きているのだ。紙の上に確かにある、生きているような緻密な絵を描く。

 今回春海が描いた桜の山の絵は写生図ではない。何とはなしに筆の赴くままに描いたのだろう、崩した筆使いだ。濃淡はついているものの、いつもの春海であればもっと計算して色をつけるし、霞のつけ方が些か簡略化されている。


「いいや。どうにも納得がいかない」


 春海は筆をそっと置く。この絵を売るつもりはない。あくまで練習だ。

 練習だから、といって納得がいかなくても仕方ないと思ってはいけない。春海は眉間に皺を寄せる。


「まだ完成していないようだから、今後どうなるかはわからねーけど、オレはいいと思うのにな」


 まだ色を入れている途中だ。これから大空を飛ぶ燕の作業に入っていくのだろう。燕尾の鋭く、滑らかな曲線がまた美しい。

 いつもなら、このまま勢いよく飛ぶ燕を描いていくのだろうが、今の春海はそうではない。

 色のつけ方にしろ、構図にしろ、筆使いにしろ、春海の筆に迷いが生じているのが絵描き仲間にはわかる。

 春海らしくない。同じ師に師事した仲間からすると、この一言に限る。


「一体、オメエは何をそんなに悩んでるんだ? 最近のオメエの絵、迷走しまくっててオメエらしくねーぞ」


 いつもの調子なら、これは春海が描いたものだ、とはっきりとわかる。緻密に描き込まれた線に迷いがないのだが、この絵に限らず、最近の春海の絵は線に迷いがある。わずかに揺れた線が気になる。


「わかっている」


 言われなくとも、春海はわかっている。あれこれと悩んで、試していく内に自分らしい絵を描けなくなっているのだ。


「オメエがここまで迷うって初めてだよな」


「そうだな」


 今までにも不調が続くことはあった。誰しも通る道だと思いながら、何とかその山を乗り越えてきた。宿の主だったり、他の絵描き仲間と共に切磋琢磨し合い、師に教えを請い今までやってきた。

 それなのに、今回は本当にひどい。何をしても上手くいかないのだ。


「なあ、一回さ、絵を描くのを休んでみたらどうだ? もちろん、腕が落ちるって心配する気持ちがあるのはわかる。一日に一回は何かしらの絵を描かねーと腕が鈍っちまう。だけど、一度絵から離れてみて気持ちを切り替えるってのも大事だと思うぜ」


「……」


 春海は小さく息をつく。


「……今回の俺、そんなにひどいか?」


「正直言うと、ひでーよ。オレもこんなこたぁ言いたかねーけど、オメエの腕知ってる奴が今のオメエの絵見たら誰もが心配するぞ? そりゃあ、画風が変わることもあるけどよ、だからと言って自分の強みを潰せってわけじゃねーんだよ」


 宿の主は心配だと言わんばかりに眉間の皺を深くする。

 周りの絵描き仲間たちも心配している。体調でも悪いのか、と身を案じる者が多い中、西洋の変な影響を受けすぎたか、筆の質でも悪いのか、等々言いたい放題言う者もいる。挙句の果てには、辞めてしまえ、なんて言う馬鹿者もいるぐらいだ。

 宿の主は春海の腕前を知っている。不調が長いこと続くからといって、絵描きを辞めろなんて言う資格が貴様にあるのかと怒鳴り散らしてしまった。春海本人がその言葉を聞いていなかったからよかったものの、本当に怒りを抑えられなかった。


「ちったあ、絵から離れてみてもいいんじゃねーの?」


 不調が続くことを一番不安に思っているのは当事者である春海だ。宿の主も当然心配だ。宿の主から何か助言をするとすれば、距離を置くことだ。不調続きの中で色々と詰め込みすぎているように見える。一度、詰め込んだものを昇華するという意味も込めて距離を置いてはどうかと思うのだ。


「そうか。……だが、師匠は絵のことを考えろと仰った」


 春海は師の言葉を思い出す。

 一日でも筆を持たないと腕が下がる。そう言った師は絶対安静と言われても筆を執っては医者に叱られていた。たとえ、調子が悪くとも、絵を描け、絵を学べと言っていた。


「んなこと言っても、今のオメエはいっぱいなんだよ。甕に水がたっぷり入っている状態なのにまた水を入れたらあふれるだろう? 今のオメエはそんな状態なんだよ。甕の中の水がなくならねーように水の補給をすることも大事だが、それ以前に水を使って量が減らねーと新しく水をいれられねーじゃねーか。今のオメエはつぎ込んだものの、吸収しきれてねーんだよ」


 あれこれ試してみることは悪いことではないと思う。それも学びだ。だが、詰め込めばいいという話ではない。身に着かなければ意味がないのだ。吸収する前に溢れてしまってはもったいない。

 春海は宿の主の言葉に耳を傾けながら、じっと絵を見つめる。今回の絵は今までどおりの描き方に近い。先日、空気による遠近法について学び直したところだったが、活かせているかというと微妙なところである。

 宿の主の指摘どおり。いっぱいいっぱいになっているにも関わらず、また水を注いでいる。あふれてしまった水が無駄になってしまっているし、水を溜めこんだだけでは水の質も悪くなってしまう。上手に水を使う必要があるのに、今の状態では悪循環だ。


「なあ、明日一日、オレにつき合え。奢ってやるから、うめーもん食いに行こう。そんで、ぱあっと遊ぼうぜ」


「いいのか?」


「あったりめーよ! その代わり、オレの調子が悪いときはつき合ってもらうからな。もちろん、オメエの奢りな。山から下りてきてもらうから、すぐに飛んで来いよ」


 キキ、と宿の主は笑う。それにつられて春海も笑う。


「わかった。では、明日は高い酒が飲めるのだな」


「テメエ、オレの金だぞ!」


 ったくよお、と宿の主は不貞腐れる。


「そう言やあ、オメエ、夢屋行ってきたんだろ? どうだった?」


 春海は昨晩行ってきた店のことを思い出す。中華風の内装に貘の店主と瞳の綺麗な人間がいた。


「夢を作ってくれるそうだ」


 春海は風呂敷の中から説明書きを取り出し、宿の主に見せる。宿の主の丸い目が文字を追っていく様子を春海は見つめる。


「はーん、なるほどな。んで、オメエはどんな夢を頼んだんだ?」


「何もない夢」


「……は?」


 くりっとした丸い目がさらに丸くなり、春海を見つめる。


「オメエ、そんな夢頼んだのか? せっかくなら、もっと己の欲に忠実なものを頼めよ。何だ、何もない夢って」


 そんなもの頼む奴がいるのか、と宿の主の目が呆れている。


「一度、絵のことを白紙に戻して考えようと思ってな」


「だからって、んな注文せんでも……。でもまあ、さっきも言ったけど、一度絵から離れて切り替えるってのと近ぇかもな」


 切り替えるためにまっさらな、何もない状態になるというのも悪くない。宿の主はそう思う。

 と言ってもだ。


「だからって、無の夢って……。もっとド派手な夢を頼んで、絵のことを忘れるってのも悪くねーと思うのによ。せっかく夢を作るってのに……。夢屋もよく引き受けてくれたな」


 そんな夢はあるのか。用意できるのか。

 宿の主はそんな疑問を抱く。そんな夢を扱ったこともないだろう夢屋に同情する。春海は時々こちらの予想を外すことをしでかす。春海と初対面であろう夢屋は驚いたに違いない。


「難題だが、手を尽くすと言ってくれた」


 承りました、と周はしっかりと言ってくれた。春海は彼を信じて、あとは自分なりの考えを持って夢を見る準備をするだけだ。


「へえ。まあ、夢の専門家が言うなら何とかなるんだろうな。希望が見えるといいな、春海」


 宿の主は紙を春海に返す。急須と蝶の判がこれまた可愛らしい。


「そうだな」


 もしも、夢を見てもどうにもならなかったら。そんな嫌なことがよぎる。

 筆を折ることになるかもしれない。まだ誰にも言っていない。猿の彼にも、師匠にも言っていない春海の胸の内の考えだ。

 彼ならどう言うだろうか。ふと人相の悪い顔が浮かぶ。


「そんじゃ、オレは退散しようかね。片付け、手伝おうか?」


 宿の主の声に春海は意識を引き戻される。


「いや、いい。それほど時間もかからんさ」


「猿の手はご用でないと?」


「明日、猿の懐を頼りにしているのでな」


「そーかい」


 宿の主は苦笑しながら立ち上がる。


「今日のところはさっさと片付けて寝ろよ。明日は猿に振り回されるんだからな」


 にいっと笑った宿の主は、おやすみ、と言って退室していく。彼の足音が聞こえなくなると、春海は夢屋の説明書きを手に取る。

 槐の欠片を枕元に置いておくだけ。それだけで、後は夢屋が上手いことやってくれるらしい。他にも夢の加工についての説明もあるが、とりあえず、現段階では加工はなくてもいいと思っている。夢の内容次第で考えようと思っている。


「……」


 何もないとは何か。無とは何か。和尚のことが思い出される。

 和尚との出会いは偶然だった。都でひと暴れした帰り、月の浮かぶ夜に姿を見られたのだ。


『月に黒の一閃。何だ、お前さん。天狗か?』


 黒い翼を持つ春海が降り立ったその地は寺の裏手だった。和尚はちょうどそこを散歩していた。とくに驚いた様子もなく、和尚は春海に興味津々だった。


『……坊さんか』


 興奮が冷めていなかった烏天狗は張り詰めた雰囲気のまま、和尚に声をかけた。圧のある低い声で和尚を脅したつもりだった。早く立ち去らないのなら、容赦なく切り捨てると言わんばかりに威圧したのだが、和尚は平然としていた。


『そこの坊主だ。はっ、威圧したつもりか? 誰にも言わん。言ったところで、儂の楽しみが減るだけだ』


『……は?』


 何を言い出すのだ、この坊主、と思っていると和尚は挑発するように喉の奥で笑う。


『天狗に会うなんて、思ってもみなかった。天狗と話せるというのも一興ではないか。こんな山奥に楽しみなんてほとんどないのだから』


 楽しみを捨てて山に入ったのではないか、と春海は思った。世を捨てた人間のくせによく言う、と。


『天狗との話は面白そうじゃないか。なあ、お前さん。あんたのことは誰にも言わん。その代わり、時々、儂と話をしてくれないか?』


『俺にはそうする理由がない』


『さて、何から話すか』


 どっこいしょ、と和尚は岩に腰掛ける。春海の話は無視だ。


『聞いていたのか、坊主』


『なあ、瓢箪で(なまず)を押さえるにはどうしたらいいと思う?』


 和尚は手近に転がっていた枝を取って瓢箪の絵を描く。

 春海の話をまるで聞いていない。春海はそのまま飛び去ってしまうこともできたのだが、和尚に袖を掴まれていた。振り払うこともできたのだが、今度は腰の太刀に手を伸ばそうとしていた。春海としては、この和尚を斬る理由はなく、太刀を抜くわけにはいかなかった。

 仕方ない。つき合ってやろう。渋々和尚の話につき合ったことがきっかけで、その日以降、和尚と夜に話をするようになった。

 仲が深まったある日、和尚は例のことを尋ねた。

 

『烏天狗よ、何もないってのはどういうことだと思う?』


 そう訊いてきたのは花見をしているときだった。友でありながら、互いに名前を知らない。いや、烏天狗は一方的に和尚の名前を知っていた。不思議な関係ではあったものの、互いに名前で呼び合わなくとも楽しい時間を過ごせたと思う。


『無とは一体何なのか』


 お前はどう考えるのか。見透かされているような強い視線で和尚は尋ねてきた。自分は答えを持っているが、長寿のお前はどうなのかと鋭い眼光の目が訊いていた。


『また禅問答か? 和尚』


 突然何を訊くのかと思いながら烏天狗は酒を流し込んだ。


『はっ、烏天狗様のお答えを聞いてみたいと思っただけさ。伊達に長生きしてねーだろ?』


 当時の春海の見た目は青年の姿で和尚よりも若く見えた。が、その実、和尚よりもはるかに長いこと生きていた。

 結局、そのとき、春海はとくに何も答えなかった。和尚から話題を変えられてしまったからだ。


「……和尚よ。今になってお前さんの言葉が思い出されたのはなぜだろうな」


 なぜ、あのとき和尚は春海にそう尋ねたのか。尋ねてきたのは一度きりだったが、妙に覚えている。

 今まで忘れていた。そう言えば、そんな話をしたな程度には覚えていたのだが、まさか絵の不調が続くこのときにすっと思い出すとは。そして、それが妙に引っかかるとは。

 春海は軽く頭を振る。自分なりの考えをまとめなければ。夢屋に出された課題だ。春海は片付けをしようと筆を手にとった。

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