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夢屋 胡蝶  作者: 真鶴 黎
第二夜 無に黒の一閃
10/88

#2

 本日の営業は終了しました、と札をかけて望は店に戻る。十八時閉店でこれから片付けがある。

 春、四月になり暖かくなってきたとは言え、夜は冷える。一瞬外に出ただけでも、肌寒い。帰ったら小テストの勉強をしないと、と考えていると周が書き物を終えて立ち上がる。


「望ちゃん、ありがとう。外、ちょっと寒い?」


「うん。少し肌寒い」


「そうか。お茶持ってくるね」


 ちょうど用意してて、と周は奥に引っ込む。望は周がカウンターで何を書いていたのか覗き見る。


「……」


 真面目に帳簿でもつけていたのかと思いきや、絵を描いていたようだ。真面目な顔して作業していると思っていたらこれだ。これがまた上手い。桜の一枝が美しく伸びている絵だ。周の絵の腕前は中々なもので、店の蝶と急須の絵は彼が考えたものだ。

 絵が上手いのは結構だが、仕事をしろ。そう望が思っていると周が戻ってくる。


「あ、お絵かきしてたの見つかっちゃった」


 てへ、と周はおちゃらけている。


「帳簿をつけてるとか、ポップを用意していると思ったら……」


「でもさ、ポップを書くにしても絵があった方がいいでしょ? 絵の練習だよ」


「それっぽいこと言わないの」


「えー」


 周は拗ねた子供のように口を尖らせる。


「綺麗に描けたのに」


「確かに上手。色がついていたらなおのこと」


 鉛筆一本で描かれたモノクロの桜の一枝。花弁に淡いピンクがつけばさらに美しい桜の一枝となるだろう。


「色づけしようかな」


「他にやることあるでしょ」


「まあ、そうなんだけど」


 そんな言い合いをしているとベルが、カラン、と鳴る。


「……こんばんは」


 黒色の生地に柳の柄の着物を着た気難しそうな顔の男だ。身体が大きく、迫力がある。


「いらっしゃい」


 周はにこりと笑う。


「ご用件は?」


「夢を買いに。こちらを紹介されたのだが、もう今日の営業は……」


 店を紹介してくれた男の話によると、夜も営業しているという話だった。しかし、店先に営業終了の札がかけてあった。


「ああ、一応。でも、どうぞ。あなたのような方への営業はこれからだから」


 周は時計を見上げる。針は十八時を回っている。

 逢魔時。昼と夜の境目の時間帯で、人ならざる者の力が強くなる時間だ。

 望は男をじっと見つめる。彼の姿形こそは人そのものだが、人間ではない。人ではない、妖怪や物の怪の類だ。


「そうか」


「まあ、立ち話もなんだし座ってくださいな。ちょうど来る頃合いだと思っていたから、お茶の用意もできてる」


 周が持つ盆の上には湯呑が三客。男が来ることを知っていたため、ついでに自分たちの分の茶も用意していた。


「あの……」


 男は望を見やる。


「彼女、いない方がいい?」


「いや、そういうわけでは……」


 精悍な顔つきの男の表情が硬くなる。話しにくいわけではないが、彼女がこの店にいて、話をしてもいいのかと疑問に思う。


「周。私、帰った方がいいなら帰るよ」


 男は望が人間だと気づいた。男の顔にそう書かれている。

 なぜ、人間が。それも、こちらの正体に気がつく目を持つ人間が。

 男が人間である望がいると気になるのなら自分はいない方がいいと判断する。今までにもあったことだ。そうでなくとも、どんな夢を買うのか知られたくない者もいるのだ。店主と自分の二人だけで成立させたいと願う者もいるため、望が話し合いの場を離れることもたまにある。


「本当にそういうわけではない。その……人間、なんだな」


 周は男に対して、あなたのような方、つまり、人間ではない客への営業だと言った。それは望が周の正体も知っていて、こちらの正体もわかっている上で発した言葉だろう。紹介してくれた男から人間が働いている、それも、周の正体を知っているとは聞いていなかった。望の姿を見たとき、人のふりをすべきだと思ったのだがその必要はないのかもしれない。


「ちょっと僕ら側に足を突っ込んでる子なんだ。大丈夫、何も害をなすことはない。僕に興味のある可愛いお嬢さんさ」


「え? それは、つまり恋仲か?」


「違います。周、誤解を招く言い方しないでくれる?」


 望は間髪入れずに否定し、周を睨みつける。何が周に興味のある可愛いお嬢さんだ。男に勘違いされてしまった。


「だって、貘の力を借りたいんでしょ? 興味があるってことだよ」


「だからって、言い方」


 まったく、と望は深々と息をつくと周の手から盆を取り上げる。


「どうぞ、おかけください」


 このままだらだら周につき合っていても茶が冷めるだけだ。望は男に椅子を勧める。

 男は言われるがまま椅子に座り、持ってきた風呂敷を膝の上に乗せようとすると周が籠を男の足元に置く。その籠に風呂敷をいれると、男の前に湯呑が置かれる。望は周と自分の湯呑を向かい側に置く。


「それじゃあ、お話聞こうかな。この子、いてもいい?」


 周はペンと紙を用意し、隣のテーブルから椅子を引いて席に着く。望も一緒に席に着く。


「あ、ああ。……その、疑って悪かったな、お嬢さん」


 人間がいること、周との関係の勘違いに対する謝罪する。男の要件は別に聞かれて困るような話ではないため、同席されても問題はない。第一、店主が問題ないと言っているのであれば、彼女を疑う必要はとりあえずなさそうだ。


「いえ。店主が誤解を招くような言い方をしたのが悪いので」


「事実なのになー」


「それで、ご用件は?」


「ねえ、僕のこと無視? あ、外ちょっと寒かったでしょ? お茶飲んでね」


 周の切り替えの早さに戸惑いながら、男は茶を啜る。淡い新緑色の緑茶だ。少し低めの温度でちょうどいい。旨味と渋みがほどよく調和している。


「……旨いな」


「それはよかった。さて、と。じゃあ、改めまして。僕は夢屋の主、貘の周。あなたの名前を訊いてもいいかな?」


 男は湯呑を置き、背筋を伸ばす。


「春の海と書いて、春海(しゅんかい)と申す」


 男、春海は、よろしく、と深々と頭を下げる。気難しそうな顔をしているが、物腰が丁寧だ。鋭い目つきとは裏腹に、声音からは優しさが滲み出ている。


「よろしくね。こっちは望ちゃん。訳あって僕のお手伝いをしてくれている子」


「望と言います。よろしくお願いします」


「こちらこそ、よろしく。その、君は俺たちのような者が見えるのか?」


 春海からすると珍しい人間がいるものだと驚いた。昔は春海のような妖怪や物の怪の類のことを見抜く人間がちらほらいた。しかし、近代に入ってからかなり数が減った。望の様子を見るに、春海を見てもとくに驚いた様子はなく、平然としている。これは見慣れた人間の反応だ。


「はい」


「そうか。いやはや、この時代になっても君のような目を持つ人間がいるとはな」


 春海は懐かしそうに言う。

 江戸に幕府があった頃、異国の黒い船が来た辺りから様子が大きく変わった。明治維新、文明開化、富国強兵、などなど、近代化が進められていった時代。徐々に様子が変わっていく人間たちは妖怪のことを忘れていくようになったのだ。科学の発展により、妖怪なんていないのだとも言われるようになった。そのせいか、妖怪や神を見ることができる人間の数が減少していった。

 妖怪たちは妖怪たちで、人間たちの前に出ることが減った。昔ほど自由に人間界を歩き回ることが難しくなってしまったのだ。とくに、人の姿を取ったり、人に紛れることができない者たちが人間界に出ることが激減し、彼らに倣って他の妖怪たちも人間界に出ることを控えるようになった。今となっては、妖怪たちを認識しない人間が多くなったため、驚かせても面白くない、という理由で多くの妖怪たちは人間界から姿を消してしまった。

 妖怪を見る機会がなくなった人間たちの目は彼らを見抜けなくなった。時代が移り変わり、妖怪たちが人間界で活動することが減った。見抜く必要がなくなったため、人間たちはたとえ妖怪とすれ違っても気がつかない者が多い。

 そんな時代を生きる一人の人間。今時、本当に珍しい水鏡のような目を持つ若い女性に見抜かれるとは。


「俺も修行が足りんな」


 春海は苦笑する。何事にも動じずにいられるのがいいのだが、自分よりもうんと若い、五十分の一ほどの時しか生きていない人間に驚かされるとはしてやられたような気だ。


「春海殿は上手に変装できていると思うけどね」


「周殿の方が上手に馴染めていると思うがな。人間相手に商売など、上手く溶け込むことができねばやれまい」


「まあね」


 周は得意げに笑う。人間相手の商売も長いこと続いているのだから当然だ。

 昔は多かったが、今は減ってしまった人間相手に商売をする妖怪や人ではない者たち。人の姿である、または、人の姿になれる者が前提となる商売だ。そして、上手に人間たちの生活に馴染めなければならない。


「それで、春海殿はどんな夢をご所望かな?」


 周は手を組む。


「どんな夢か……。何もない夢が欲しい」


「…………………………ん?」


 周は首を傾げる。望も同じように疑問符を浮かべる。


「失礼、何もない夢とは?」


 これまた変わった注文に周は理解が追いつかない。いや、追いつかないどころか理解ができない。今までに受けたことのないタイプの注文だ。


「本当に何もない、まっさらな夢が欲しい」


「まっさらな夢、ね……」


 春海の意図がわからず周は困惑する。

 今までの経験上、客が求める夢は何かが“ある”夢だ。物がある夢、誰かがある夢、場所がある夢、と大抵何かが“ある”のだ。金がある夢、縁のある者の夢、どこそこの夢、と夢を形成するにあたって“有る”のだ。それが全て否定された、“無”の要求だ。


「あまりこういうことは訊かないんだけど、どうして何もない夢が欲しいの?」


 夢とは個の情報でもある。夢を扱う周としても、客からその夢を欲しがる理由は深く訊かないようにしている。誰それが買った夢はどんな物だったかと尋ねられても、血縁者であろうと取引が成立した夢の内容は漏らさない。商品として集める夢も、私的な情報が含まれる物を商品棚に並べない。夢の中に誰かの情報が出てくれば、その夢は売り物にしないと決めている。仮に売るとしても、すでにこの世にいない、誰もその名を、その存在を知らないぐらい昔の物と決めている。

 こうして尋ねるときは客が求める夢を明確にする場合、もしくは、こちらの理解が及ばない場合ぐらいだ。

 周が尋ねると、春海はわずかに視線を逸らす。


「言いたくないなら言わなくてもいいけど」


「そうではない。その、なんだ。我ながら、恥ずかしいことではあるのだが……」


 春海は頬を掻く。


「俺はしがない絵描きをしている者なのだが、どうにも最近、思うように絵を描けなくなってしまって」


「調子がでないってことですか?」


 望が尋ねると春海は気恥ずかしそうに頷く。


「そう。ずっと不調で、納得のいく絵を描くことができずにいる」


 春海は眉間に皺を寄せる。


「色々とやってみたのだ。技法を変えてみたり、絵の鑑賞をしてみたり、書物を読んだりと一度初心に帰るつもりで絵を学び直そうと。だが、どうにも納得できなくてな」


 何枚も何枚も絵を描いた。風景や動物、植物、妖怪の姿などなど、様々な絵を様々な技法で描いた。しかし、どれもピンとくるものではなかった。納得のいく出来の絵が描けないのだ。


「それで、昔、とある和尚から聞いた話を思い出してな。無とは何だという話をした和尚だ。それで、ふと、一度何もない、まっさらな状態になれたらと思って夢を買いに来たのだ」


「うーん、なるほど?」


 周はとりあえず茶でも飲む。これは哲学の領域にきたものだ。


「ちなみにだけど、どんな絵を描くの?」


「練習帳だから、ちゃんとした物はないが……」


 春海は風呂敷を広げる。そして、絵の道具の中から一冊の冊子を取り出す。絵を描くための練習帳であり、ここに簡単な絵を描くこともある。それを周に差し出す。

 拝見、と言って周は春海から冊子を受け取り、望と一緒に中を見て行く。メモ書きもあるが、やはり絵が多い。多くは動植物ばかりで、時々風景画も混ざっている。墨のみで描かれた絵が多く、時々色づけされた絵も見られる。


「いいと思うけどねえ」


 周は鶏を書いた頁で手を一度止める。一羽の雄鶏だ。たっぷりとした尾羽に、立派な鶏冠、細かく描き込まれた羽にしっかりとした脚。墨絵ながら、このまま飛び出してきそうなほど本物そっくりに描かれた鶏だ。色がついたらもっと生き生きとした姿になるはずの凛々しい雄鶏だ。


「これのどこが練習帳なのってぐらい描き込まれてるけど」


 この雄鶏が練習帳内に収まっているのがもったいないぐらいの出来だ。他の頁を見る限りでも、その場で筆を滑らせただけの絵というものは少なく、大多数がきっちりと描き込まれた絵ばかりだ。


「本物みたい」


 望も周の手元を覗き込んで、春海の絵を見る。先ほどの雄鶏も立派だったが、そのしばらく後の頁の椿の絵がまたいい。こちらは色がついている物だ。様々な角度から見た椿の花が見開きいっぱいに描かれている。花弁や雄しべ、雌しべ、と構造的な模写もされている頁だ。

 周は望に冊子を渡す。まだまだ見たいのだが、これ以上自分が見続けては話が逸れてしまいそうだからだ。


「僕としてはとても素敵だと思うけど、春海殿的には納得がいかないと」


「ああ。最近では色々と試しすぎて、訳がわからなくなってしまった。だから、一度気持ちを切り替えたいという理由もあって何もない世界を見てみたいと思ったのだ」


「……確かに、絵のタッチとか、画風にぶれがあるような気がします」


 望はパラパラと頁をめくっていく。写実的な雄鶏や椿の花の絵もあり、デフォルメされた可愛らしい犬や猫の絵もあり、しまいには現実離れした何かの絵もあり、統一性がない。確かに上手い絵ではあるのだが、この練習帳を見るとどの方向に進もうか迷走しているように見える。一人の絵描きがこの冊子に描き込んでいるというには画風にばらつきがある。

 よく言えば、様々な画風を持つ。悪く言えば、統一性がなく春海らしいと言えない。

 年月が経てば画風の変化があるのも当然だとは思う。しかし、この一冊を見る限り、あまりにも画風が違いすぎて何人かの絵描きで一冊作ろうとしていると言った方がわかりやすいぐらいだ。


「自分でもさすがにこれはひどいと反省してばかりだ」


「リセットしたいってことですね」


「りせっと……?」


 春海は首を傾げる。


「……やり直すってことですね?」


 望は言葉を言い換える。


「ああ、そうだ。何だ、最近はやり直すことを、りせっと、と言うのか」


 ほほお、と春海は顎髭を撫でながら感心する。


「そういう言い方をすることもあるというだけで、絶対ではありません」


 望は言葉を選びながら答える。

 外来語は全ての人ならざる者に通じるわけではない。若い妖怪や人間界に頻繁に出入りしている者たちは比較的通じる。周もそうだ。周は頻繁に使うわけではないが、言われればわかるぐらいの知識は持ち合わせている。

 一方で、人間界にあまり出入りしていなかったり、長寿の者たちには通じないことが時々ある。春海は恐らく後者だ。

 と言っても、妖怪や物の怪たちにおける若い、年寄りの考えは人間基準で考えてはならない。


「外つ国の言葉は難しいな」


「ねー。僕、若い子たちが使う言葉もよくわからないもん。チョベリグとか?」


「周、それはもう古い」


 望はため息をつく。


「え、古いの? つい最近流行ってたのに?」


「そのつい最近、私が生まれた頃なんだけど」


 一九九〇年代後半に流行した言葉だ。今となっては死語だ。


「二十年前ってこと? つい最近だよ。ね、春海殿」


「ちょべりぐ?」


 首を傾げる春海に対して、春海殿ったら、と周はケラケラと笑っている。周の姿形は二十代半ばから後半ほどの男性だが、実年齢は約五百歳。あともう少し早く生まれていれば源平合戦見られたのに、とか言う次元だ。見た目と実年齢は合っていないし、時間の感覚も人間と違う。

 チョベリグを知らない春海の方が恐らく年上。ぱっと姿を見た感じでも、春海は四十代後半から五十代前半ぐらいの男性に見える。姿が全く変わらない者もいるのだが、基本的に年を取れば、妖怪も姿形を変える。ただし、人間と違ってゆっくりとした変化だ。よって、見た目は子供でも中身は何千歳という者がいたりするらしい。


「チョベリグは死語だからね」


「言葉は生き物と言うが、もう廃れてしまったのか」


「時間の流れって早いよねー」


 うんうん、と仲良く共有する二人に望はため息をつく。二十年もあれば、生まれたばかりの赤ん坊は成人するのだ。現に望がそうだ。今年で二十歳になる望からすると、二十年前のことは遠い昔の話だ。彼らと時間の感じ方が違うとしみじみと思う。


「とにかく、春海さんはリセット……やり直しというか、切り替えるためにも一度真っ白な状態になりたいってことですよね」


 話が脱線した。脱線の種を与えてしまったのは望だが、その種に水を撒いて蕾まで育てたのは周だ。周が話を脱線させて望が軌道修正するのはいつものことだ。


「まあ、そうだな。まっさらな状態になりたいと言うか、頭を空にしたいと言うか……。とにかく、何もない世界というのを知りたい」


「それで何もない夢を見たいって発想になるの、予想の斜め上だけど」


 周は茶を啜る。冷めてきてしまった。あまり長話してもよくない、と気持ちを切り替える。


「何もない夢って言うのは、これまた難問だよ」


 今までに受けたことがない依頼だ。


「無理だろうか」


 春海は眉を下げる。自分でも無理を言っているとわかっている。絵描き仲間にも、お前頭大丈夫か、と心配されるぐらいだ。


「いいや。何とか用意はしてみるけど……。ちなみにだけど、さっき、とあるお坊さんと無とは何ぞやって話したって言ってたでしょ? 具体的にどんな話をしたの?」


 周の問いに対して、春海は緩やかに首を横に振る。


「そんなに大層な話はしていない。ひどくあっさりとしたもので、彼の考えはまともに訊いていない。彼の考えを聞くこともなくぽっくりだ。禅宗の僧なだけあって、禅問答のようなことを言ったものだ」


「ふーん。今まで忘れてたの?」


「そうだな。そう訊かれたときはあまり気にしなかったのだが、最近ふと思い出した。このような状態だ、和尚の導きなのかと思った」


 春海は湯呑を撫でる。


「仲良かったの?」


「月や雪や花を共に愛でるぐらいには」


 春海は茶を飲む。僧侶であるため、酒を一緒に飲むことはできなかったが、月や花を愛でながら茶を飲み合う仲だった。

 ふっと春海は笑みを零す。


「唯一の人間の友だった」


 僧侶にしては気性の荒い者だったが、それが逆に面白いと春海は思った。当時の春海は若く、若気の至りであれこれしていたこともあって、余計に気の荒い和尚とそりが合ったのかもしれない。


「そうなんだね」


「今となっては昔のこと。お嬢さんからすれば、何百年も前の話だからな。南北朝が合一される頃に出会ったからな」


 南北朝合一。南北朝時代の終わり頃かと望は目を見開く。


「お嬢さんからすれば、とんと昔のことだろう?」


「そうですね。ざっと見積もって六百年は前ってことですし」


 望は高校の歴史の授業は世界史選択だったため、日本史の詳しいことはわからない。しかし、その時代の有名な人物がわかるため、おおよその数を出せる。

 六百年前。望からすると、想像できないほど昔の話だ。


「そうか。……そうだな」


 春海は噛みしめるように言う。出会ったのが六百年前。別れたのもそれぐらい前になる。


「夢屋殿、改めて申し上げる。俺の望む夢を用意してもらえないだろうか」


「うん、承ったよ。ちょっと物を持ってくるから待ってて」


 周は席を立つと暖簾をくぐって奥へと去っていく。


「あの、春海さん。こちら、お返しします」


 望は春海の練習帳を返す。


「素敵な絵でした」


「ありがとう」


 春海は冊子を受け取ると風呂敷にしまう。


「春海さんはずっと昔から絵を描いていらっしゃるのですか?」


 少なくとも、室町時代の頃には生まれている様子だ。その頃から絵を描いているのかと望は疑問に思った。


「いいや。江戸の末頃から絵を描き始めた。結構最近だ」


 江戸時代の末が最近と言うのも感覚が狂う。が、春海が今まで生きてきた時間で考えれば最近のことなのかもしれないと望は思う。


「江戸時代の絵と言うと、浮世絵ですけど、影響があったのですか?」


「そうだな。でも、絵に興味を持ったのは南画だな」


「ナンガ?」


 それは何だと望は首を傾げる。


「文人画と言った方がわかりやすいか? そのままの意味だが、文人が描いた絵とか、様式のことを言うものだ。中国の南宋画が由来でな。俺が絵に興味を持った頃の南画の有名人だと……そうだな、蕪村とかか?」


「蕪村って、俳人の与謝蕪村ですか?」


 蕪村と言うと俳句のイメージが強い。菜の花や、の句は教科書に載っていて有名だ。俳人としての顔しか知らない望からすると、絵の才もあったのかと初めて知る。


「そうとも。南画の大成者とも言われている」


「へえ……。絵の才能もあったんですね」


 才能があるだけでなく、大成者だ。南画の世界において、語らずにはいられない人物ということだろう。


「春海さんは好きな画家さんはいらっしゃるのですか?」


 絵を描くことを生業にしているぐらいだ。尊敬する画家の一人や二人いるだろう。きっかけとなった蕪村であったり、浮世絵師の北斎などだろうか、と望は推測する。もしかしたら、中国の画家かもしれないなんて考える。はたまた、妖怪たちの中で有名な絵師の名が挙がるかもしれない。


「そうだな……。ゴッホだな」


「……ゴッホ?」


 ゴッホと言うと、あのゴッホかと耳を疑いながらも望の頭に向日葵の絵が思い浮かぶ。


「ゴッホってオランダのあのゴッホですか?」


「そう、阿蘭陀のゴッホだ」


「僕もゴッホ好きー」


 ひょこっと周が戻ってくる。紙袋を片手に周は席に着く。


「『星月夜』いいよね」


「俺は『タンギー爺さん』が好きだな。爺さんの後ろの浮世絵の味がよくてな」


 二人仲良く意気投合する。

 妖怪たちの知っている海外の情報がよくわからない。外国の言葉は難しいと春海は言っておきながら、好きな画家にゴッホを挙げる。外国の知識が全くないというわけではないようだが、それにしたってだ。


「……春海さん、西洋画も詳しいのですね」


「詳しいかどうかはわからないが、好きだ。西洋画の本も読むからな。東西問わず、絵の勉強になるし」


「そうですね」


 海外のことについて、絵に関する知識は豊富だが、その他のこと、とりわけ、最近のことは詳しくないだけかもしれない。歴史的な面での海外事情は詳しいかもしれない。場合によっては、その目で見ているのだから、覚えている、という方が正しいのかもしれない。


「周、本題へどうぞ」


「うん。春海殿って、今までに夢を作る方の夢って買ったことある?」


「ないな」


「じゃあ、説明ね」


 周は紙袋から槐の欠片を取り出して説明を始める。今回はさすがに夢を探すのは難しそうなため、作った方が早いと判断した。


「寝るときに枕元に置いてほしい。それで、僕の方から夢を用意するから」


「わかった。夢は後日取りに来ればいいのだな」


「うん」


 周は紙袋に槐の欠片を戻すと説明書と一緒に春海に渡す。春海は風呂敷にしまう。


「あ、そうだ。ひとつつけ加え。ある程度、自分の中での何もない世界を考えておいてほしいな」


「自分なりの?」


「そう。僕としても、春海殿の考える何もない世界があると助かるから」


 夢を作る上での舞台装置だ。それがなければ夢を見せることが難しい。周が考える何もない世界ではなく、春海が考える何もない世界である必要があるのだ。ただ単純に槐の欠片を枕元に置いて寝つかれても周は困る。


「なるほど。……少し時間をもらってもいいだろうか」


「いいよ。ごゆっくり」


「また夢を見る前に連絡は入れた方がいいか?」


「なくてもいいよ。槐が教えてくれるから」


「わかった。……無理を言ってすまない」


 春海は申し訳なさそうに言う。


「いいよ。逆に面白いなと思ったからね」


 周は話の内容をまとめたものを紙に書き込んでいく。


「確認をさせて。春海殿が欲しい夢は何もない無の夢。これでいい?」


「ああ」


「うん。じゃあ、名前と連絡先を書いてくれる? 夢の用意ができたら連絡するから」


 周は春海に紙とペンを差し出す。春海は物珍しそうにボールペンを見つめた後、ぎこちない手つきで名前と世話になっている絵描き仲間の家の住所を記し、周に返す。


「今日のところはこれで終わり。依頼、承りました」


「よろしく頼む」


 春海は深々と頭を下げる。

 では、と立ち上がった春海を見送るために周と望も立ち上がる。カラン、と扉が開くと冷たい風が頬を撫でる。


「それでは、よろしく。店を閉めた後なのに悪かった」


「そこは気にしないで」


 むしろ、妖怪相手の商売は閉店後に行うことの方が多い。昼間の人間界を歩くのは憚られるといった者や、人間界に出ることができない者の方が多いのだ。むしろ、周としても夜に来てくれた方が助かるのだ。昼間は人間相手に商売をし、夜は妖怪相手に商売をする。場合によっては、夜、妖街に行って商売しているぐらいだ。


「……ところで、この辺りはあまり人は通らないだろうか?」


「今なら大丈夫じゃない?」


 周は空を見上げる。まだぼんやりと赤が残っているが、ほとんど日も沈んだ空だ。この時間帯の店の辺りは人通りが少ない。


「そうか。なら」


 春海が目を閉じると、バサッと黒が広がる。夜闇に溶け込む黒い翼が春海の背から現れる。


「では、失礼」


「またねー」


 春海は望に対して目礼すると、翼をはばたかせて空へと舞う。そして、ふっと夜空に溶け込むように消える。春海が経っていた場所には烏の羽のように黒い羽が一枚残される。


「……春海さんって何者?」


 望は黒い羽をしげしげと見つめる。見れば見るほど、烏の羽だ。


「烏天狗さ」


「烏天狗……」


 その割にはあまり烏っぽい顔立ちをしていなかったように思う。烏天狗と言うと、烏のような顔立ちをしているのではないかと絵本の中の姿を想像する。鋭い目つきに嘴のある顔、山伏の恰好をしているイメージだ。鋭い目つきで、精悍な顔立ちであったが、望の想像した雰囲気ではない。望の目があって本来の姿になっていなかっただけかもしれないが。


「びっくりした?」


「うん。あまり烏っぽくなかった」


「化けるのが上手だったってことだね」


 周は春海の羽を拾う。美しい黒い羽が春の夜風に吹かれて静かに震えた。

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