ネバーランドにきみがいる
なんでもないときにしか思い出せない記憶がある。なんでもないときっていうのは、例えばバイト先から一人で自転車をこいで帰る日曜日の午後四時であったり、もうすぐ空になりそうな乳液のボトルをぶんぶん振り回しているときであったり、使い終わったヘアアイロンが冷めるのをじっと待っている時間であったりする。
クリームソーダをはじめて飲んだとき、わたしは確か七歳だった。透きとおった緑色にバニラアイスが溶けていくのを眺めながら、ジュースにアイスクリームなんか入れてしまってお母さんに怒られないだろうか、と半ばおびえてストローに口をつけて、そうしてその特別な甘さに目の前がはじけるような幸福を感じたのだ。
商店街の端に建つ古い喫茶店で、店主が古い外国の曲をレコードでかけていた。はじめてのクリームソーダは、北極の大きな氷みたいにきれいに浮かんだアイスをいつ食べたらいいのかがわからなくて、結局全部が溶け出して白っぽく濁ってしまったけれど、細長い赤色のストローで夢中になって飲んだ。
どこかの国の女の人の力強い歌声と、子どもの舌には少し刺激の強い炭酸、それから、向かいの席に座っていた夢乃。夢乃は自分の分のクリームソーダが運ばれて来るや否や、長いスプーンを器用に使ってアイスクリームを半分ほど食べて、残りをゆっくり溶かしながら味が変わっていくのを楽しんでいた。彼女の服のお腹のところには、当時流行していたアニメ『魔法少女☆マジカルピンキー』のイラストが大きくプリントされていて、主人公であるピンキーちゃんの大きな赤い目が、夢乃が動くたびにわたしに微笑みかけた。
夢乃の隣には彼女の母親もいたはずだけど、わたしの記憶にはっきりと残っているのはそれだけだ。そうしてわたしは、なんでもないときにこの日のことを思い出す。記憶の中の夢乃は眠たそうな顔で笑っている。
「っていう話をいくつか集めて書きたいんだけど、全然出てこないんだよね。なにしろなんでもないときにしか思い出せないから」
深夜のファミリーレストランに客の姿はまばらで、そのほとんどが一人客だ。タブレット端末にもくもくと絵を描いている人や、スーツ姿で鞄を抱えてぼうっとしている男の人、その隙間を時々、制服を着た店員がつまらなそうな顔でゆらゆらと歩いている。そんな中のわたしの声がいつもの二倍くらい大きく感じられて、別に誰も聞いていないだろうけれどなんとなく緊張した。
「思い出したらすぐに書けばいいじゃないか。スマホくらい手元にいつでもあるだろ、ツイッター中毒なんだから」
「自転車こいでるときは?」
「とまれよ」
「はあい」
話が途切れたのを合図に、夢乃は空になったカップを持って席を立った。まっすぐに伸びたさらさらの黒髪が揺れる。
「なんかいる?」
「メロンソーダ」
「またか。氷抜きね」
「ありがと」
わたしの分のグラスも持ってドリンクバーに向かう夢乃を見ながら、目の前のノートパソコンとにらみ合う。特に締め切りが迫っているわけでもないけど、仕事、とくに連載記事はできるだけ早めに終わらせておきたいと思ってしまう。深夜特有の重たい眠気が迫ってきて、書きたいことがぼんやりと浮かんでは輪郭を持つ前に消えていく。こうなってしまうとなかなか書けないのは承知の上で、キーボードを適当に叩いてみたりしているとなんだか楽しくなってきた。そうやってひとりでにやにやしていると、飾り気のない、けれど白くてきれいな指がグラスを目の前に置く。夢乃の席にはいつも通りにブラックコーヒーが置かれた。ただ彼女は席には着かず、いつものむっとした顔つきで、
「仕事だ」
「行くの?」
「行くよ。今月の家賃だって危ないんだ」
「わたしが払うって言ってるじゃん」
「自立しなきゃ意味がないって言ってるだろ」
「じゃあもっと別の仕事についてよ」
「沙織には関係ないね」
他の客は変わらず自分の席でだるそうに時間を潰しているけれど、店員がレジの方から訝しげにこちらを見ているのに気づいてわたしも席を立つ。
「早くいきなよ。もうこの辺まで来てるんでしょ」
「ごめん、先払っといて。明日返す」
「いらないから、早く」
夢乃がスーツのポケットから小さな折り畳み式の鏡を取り出した。各々の申請によって「変身アイテム」として登録されるそれは夢乃の場合、幼いころからの私物で、とっくに絵柄のほとんどが剥げてしまった『魔法少女☆マジカルピンキー』のミラーだった。伝票を持って歩く私を駆け足で追い越して、ファミレスの重たい扉を開く。単品のドリンクバーが二点で八百六十二円です。千と二円お預かりします。あ、レシート大丈夫です。ちらりと出口の方に目をやると、扉の店名のロゴ越しに、鏡からあふれるまぶしい光に包まれた魔法少女の姿が見えた。
街中に気持ちの悪い怪物が現れるようになってから、それを討伐するための民間組織がたくさん組まれるようになった。わたしたちが中学生くらいのころだ。怪物は時々真夜中に現れて、街中をうろうろとさまよい、朝になるとどこかに消えていく。大人より少し大きいくらいの背丈のそいつらは、人気のない路地裏みたいに暗い色の皮膚をしていて、表面はいつもぬめぬめと湿っている。温かくてやけになまぐさくて、その不愉快な見た目だけでも十分厄介だけど、なによりの討伐理由は女の人を襲うところ。特に若い女の子は狙われやすくて、あいつらに触れられるとみんな元気がなくなってしまうから、目撃したらすぐに通報するように呼びかけられている。専用のダイヤルにかけると、その地区の適当な民間チームに仕事が斡旋されるのだ。夢乃は高校を卒業してからそこで働き始めた、社会人二年目の魔法少女だ。
店を出ると夜の三時を過ぎているにも関わらず道にはぽつりぽつりと人がいて、そのなかには女の人もいた。わたしも女性なわけだけど、避難したりしないのには理由がある。道の向こうを見ると、夜の薄明りの中でピンク色の衣装に身を包んだ女の子が怪物と戦っているのが見えた。きっと夢乃だ。怪物の出現と同時に、十代から二十代の女性を魔法少女に変身させる技術が生まれた。テクノロジーってやつだよ、そう夢乃は言ったけど、わたしにはその仕組みはよくわからない。とにかく企業と契約した女の子はみんなそれぞれの「変身アイテム」を使って魔法少女に変身し、あいつらと戦うのだ。彼女たちが変身している間は怪物の意識が他へ向かうことがほとんどないから、わたしを含めた一般人たちはこうしていつも通り街を歩くことができる。
人の間を縫うように歩いて、夢乃と化け物がいるほうへ少しずつ近づいていく。あんまり近くに行くと危ないし迷惑だから、夢乃の姿がギリギリ確認できるくらいの距離で。「魔法少女」と呼ばれている彼女たちの戦闘スタイルは意外にも素手、肉弾戦だ。身体能力の向上や、ダメージのある程度の無効化が変身と同時に確認される、らしい。これも夢乃が言っていた。
どん、と大きな音がビルに反響する。パステルピンクのツインテールが衝撃になびいて、同じ色で統一された衣装のたくさんのフリルがはためく。かわいらしいレースがあしらわれた白いニーハイソックスは、化物の身体から染み出た液体で黒く汚れていた。音に驚いて「うわ」と間抜けな声が漏れてしまい、夢乃の視線が一瞬だけこちらを向く。透きとおった真っ赤な瞳。高校生のころ二人で使っていたマジョマジョの香水のボトルもこんな色だったな、とふいに思う。遊園地の匂いによく似た甘ったるい香りで、男の子みたいな喋り方の夢乃がつけるとかえってロマンチックに感じられたのだ。あ、こういうのをメモすればいいのか。スマートフォンを出そうとコートのポケットを探る。
「沙織、よけろ!」
気づかないうちに夢乃と化け物はわたしの近くまで接近していて、体育のあとの更衣室みたいな生温かいにおいがした。不快感に顔をしかめる暇もなく、黒くて大きな腕が振り下ろされる。
「わ」
肩のあたりを強い力で押されて、夢乃の細い腕がわたしを突き飛ばしたことに気づく。彼女はそのまま怪物の攻撃を片手で受け、顔面らしき部位に右ストレートをぶつけた。真っ黒な肉がはじけて夢乃を頭から汚す。怪物はそれきり倒れて動かなくなった。したたかに地面に打ち付けた背中が痛くて、夢乃にお礼を言わなくちゃいけないのに動けなかった。自分の心臓がすごいスピードで震えていて、無力なハムスターになった気分。起き上がろうと間抜けに身体をよじっていると、戦いでぐっしょり濡れた右手が差し出された。夢乃だ。
そんなつもりはなかったのに、夢乃の仕事の邪魔をしてしまった。きっと怒っているであろう彼女の顔を見るのが怖くて、目をそらしたまま手を掴む。
「ご、ごめん」
「……怪我は?」
思いのほか声色が静かな優しさを内包していて、驚いて顔を上げると夢乃が真剣な表情でわたしの両手を観察しているところだった。肘のあたりまである白手袋は靴下と同じように黒く汚れていて、夢乃はそれを乱暴に外し、指の一本一本を触って傷がないか確認した。わたしの手入れされていない爪と、夢乃の瞳と同じ色のネイルが間近に並ぶ。
「ないよ。大丈夫だから」
「もうこんなことしないで」
そう言うと夢乃の真っ赤な目が水分を含んで揺れて、わたしはまた驚いた。
「ごめんね」
冬の街の夜明けはまだ遠くて、夢乃を照らすのは外灯と広告の明かりだけだ。闇に薄暗く浮かび上がる夢乃の姿は、頭からかぶった敵の体液でどろどろで嫌なにおいがして、そんな恰好のまま泣きそうな顔でこちらを見ていて、そうしてわたしは夢乃のことがどうしようもなくきれいに思えた。夢乃の仕事は危なくて、収入も不安定で、小説とバイトで生活している私のほうがよっぽどまともに生きている。だからもう仕事なんてやめてわたしと暮らしてほしいのに、夢乃は魔法少女でいることに固執している。夢乃はきっと、わたしが戦っている夢乃にどうしようもなく魅せられてしまっていることに気づいている。
「泣かないで」
わたしの両手を夢乃がゆっくりと握り、指と指を深く絡み合わせて、またゆっくりと離した。
「本部に連絡する。先帰ってて」
「このままどこかで朝ごはん食べようよ」
「いいから」
「……わかった」
駅の方向へ歩き始めて、けれどなんだか寂しくなってしまって振り返ると、スーツ姿に戻った夢乃がスマートフォンで電話をかけているところだった。端末を操作する彼女の指先に赤色のかがやきはもうなくて、その指は私の指によく似ていた。