ハタチコ
「人が一番多い所に連れていって。」
そう言って、私はなけなしの二万五千円を男に差し出した。
「…。」
運転手は窓越しに私の顔をジロリと覗き込んだ。反射的に、私は男を睨み返していた。白髪の割合や頬に刻まれた皺の印象から父親よりも少し年上だと思う。
着の身着のまま飛び出してきた不審な少女をどう思ったのか、男は何も言わずにドアを開けた。それを見て私はふぅっと安堵の溜め息をもらし、ヒールで少し高くなった身体を折り曲げるようにして車へと乗り込んだ。
タクシーはタイヤの滑る音を僅かに伝えながら、月明かりと街灯の薄明かりの中を真っすぐ走り抜けて行く。煙草の臭いが染み付いたシートの中、私は通り過ぎる町並みをぼけっと眺めていた。
静寂が辺り一面を支配し、人が住んでいる素振りは見当たらない。退屈な田舎町。とにかく、退屈で仕方がなかった。そして、このちっぽけな箱庭だけが、唯一私の知り得る世界でもあった。
そんなやり場のない憤りに耐えかね、黙々とハンドルを握る男に思わず同じ言葉を繰り返しそうになった。
―人の多いところへ行きたい。それも、私を知る人間なんか誰もいないところへ。
力が欲しかった。こんなことでいちいちくよくよしない力。行き詰まりを劇的に変える力。
鳴ることのない携帯電話を握り締めていたことに気付き、ゆっくりと指を広げてから瞳を拭った。
走り続けてしばらくすると、いつしか窓の向こうを月の光も街灯の明かりも届かない漆黒の闇夜が包み込んでいた。
私は気付かれないように小さな窓をそっと開け、向こう側に手を伸ばした。ふと、手の平に冷たい花びらのような何かが一枚乗っかった。それは鋭い痛みを一瞬与え、すぐさま姿を変えた。後には微かな湿り気だけが残った。外は少し早い雪。それも、今の私には不釣合いな真っ白い粉雪。
「お客さん、窓、閉めてもらっていいですか。」
いつまでも外を眺めている私に運転手はぶっきらぼうな声で言った。顔を上げるとバックミラー越しに男と目が合った。男は黙って目を逸らし、ほとんど同じスピードを保ちながら車を走らせていた。私のことを警戒しているのだろうか。しかし、そんな様子は見えない。何を考えているのだろう。他人の気持ちなど分かるわけがなかった。
ふと、携帯電話のヴァイブレーションが固く強張ったソファ越しに伝わった。私ははっと我に返り、慌てて掴み取った。青白く光るディスプレイに刻まれた文字。私はそれに身に覚えがあった。
「Happy Birthday! Nineteen Years!」
三ヶ月も前に自分自身で設定したアラームだった。私はひどく落胆し、電源ボタンを長押した。本来なら彼が隣にいるはずなのに。
今この瞬間、この地球上に、私のことを考えている人間は何人いるのだろう。目をつむり、数時間前に起きた出来事を思い返した。
「…ホスト、始めることにした。」
その言葉を聞いた時、彼と私はファミレスの窓際の席に向かい合って座っていた。
彼は職場から直行したようで、華奢な体躯には似つかわしくない作業服を着込んでいた。頭には薄汚れた白いタオルを巻いていたため額が圧迫され、睨み付けているようにすら見えた。店には二人以外に客はいなく、神妙な面持ちで向き合う様は店の雰囲気にそぐわなかった。
―ホスト、始めることにした?
頭の中で反芻していた。彼の言っていることを理解するのに少し時間がかかった。
「どうして?だって、私たち結婚するって…。」
この返答が正しいのかどうかは分からない。彼がホストになることと私の将来との因果関係が見えないまま発声していた。
「ガキの頃の話だろう。」
子供じみた発言は一笑された。その一言が決定的だった。心ない言葉が私の胸を強く深く突き刺した。少なくとも二人にとって良い話ではない。彼を見る目が険しくなっていった。
「ねぇ、どうして?どうして、いきなりそんな…。」
彼の急な話を前に、私は分からないという意思表示をすることしか出来なかった。中学、高校とたくさんの時間を共有してきたはずなのに、むしろ、それだからこそ、彼の発言をどう受け止めたらいいのか分からなかった。
「何もしなければ一生このまま。」
彼は容赦なく私のことを突き放した。
―一生このままじゃダメなの?
同意されることが恐ろしくて、別の言葉に置き換えた。
「ホストにならなくちゃダメなの?」
彼は一瞬考え込むような仕草を見せた。
「やりたいことがあるんだ。」
「ホスト?」
「違う。」
「何?」
矢継ぎ早に飛び出す問い詰めに少し閉口したのか、彼は溜め息混じりにつぶやいた。
「夢だよ。」
彼と私を包む時間が止まった。よっぽど夢が何なのかを聞こうとしたが、有無を言わせない態度を前に阻まれた。
そんな私たちの重たい空気に気付いたのか、店員は水を注ぎ足そうと歩み寄る足を止め、そそくさと厨房の方へと引き上げていった。私は冷静に、でもどうしたらいいのか分からず、灰皿に乗っかった煙草が短くなっていく様子をただただぼんやりと眺め続けた。
「もう少し金貯めて、都会に行こうと思ってる。東京に。」
沈黙を破ったのは彼の方だった。
「…あてはあるの?」
私はまだ煙草の行方を追っていた。
「ない。ないよ。だけど、どうにでも出来ると思ってる。」
彼は顔を上げた。私はそれに気付き、彼の真似をした。私たちはしばらく見つめ合っていた。瞳の中には私が映っているはずなのに。
「ごめん…何も言えないよ。」
彼は視線を外さぬままそっとつぶやいた。私は耐えられなくなって目を逸らした。
「夢を見てしまったら、もう自分は誤魔化せない。」
そう言って、彼はキャスターマイルドの箱を取り上げ、手慣れた仕草で煙草に火を点けた。
「あのね…。」
何か言わなければ、その重圧が私の頭を混乱させた。
「ベイビーが出来たの。」
まるで今思いついたかのように口から出た言葉は、この状況を解決する手段になるどころか私の心を満たすことも出来ず、虚しく空を切った。
「赤ちゃん…。」
「堕ろしてくれないか。」
彼は大きく煙を吐き出した。
「俺には育てられない。」
見透かされているとは言え、ここまではっきり言われるとは思っていなかった。私の頬を一筋の涙が静かにこぼれ落ちていった。それさえも、その切り札さえアナタを引き止める手段にはならないの。
「それも夢のため?」
射抜くような視線を彼は逃げることもなく見つめ返した。
「…そう。」
彼は煙草をもみ消した。灰皿には五本の吸殻が残った。
「ごめん…。」
溜まった涙がこぼれそうになった時、瞳が映し出していたものは彼のぼやけた輪郭だけだった。財布から千円札を取り出しテーブルの上に置くと、もう一度彼を見ると涙を拭って席を立った。
何かを成し遂げるには何かを犠牲にしなければならない。ましてや、成し遂げたい何かが大きければ大きいだけ、犠牲にする何かもきっととてつもなく大きいのだろう。それならば、男の夢を叶えるためにこんな思いをするのなら、私はもう恋なんてしない。
結局、彼は私を引き止めなかった。
「…着きましたよ。」
激しく肩を弾かれ、目を覚ました。どうやら車の中で眠っていたようだ。ゆっくりとまぶたを広げた直後、飛び込んできた映像に驚愕した。
漆黒の闇夜はいつしか人工的な光に支配され、ネオンがどぎつく照り返す歓楽街へと変わっていた。その光景はコンビニの僅かな灯りでさえ眩しいような田舎町とはかけ離れていて、私の心を嫌が応でも揺さぶった。この光の中に何かとてつもない生命力を感じた。
「ここ、何てところ?」
私は間の抜けた声を上げた。
「歌舞伎町。」
ここが新宿歌舞伎町。東京の、日本の欲望が一気に集まるところ。テレビでしか見たことのない町を何となくそう印象付けていた。
時計を確認すると夜中の二時を回っていた。こんな夜遅い時間に、この人たちは一体、何をしているというのだ。私の田舎町では考えられないことだった。
運転手は早く帰りたそうに片手を出したので、ポケットからくしゃくしゃになった紙切れを取り出し、丁寧に伸ばしてから男の掌に乗せた。男はそれを素早く受け取ると、早く降りろとでも言いたげにドアを開けた。ふと、メーターを見ると渡した額を少しオーバーしていた。
私の身体が車の中に残っていないことを確認するやいなや、まるで逃げるようにタクシーはどこかへと走り去っていった。
これだけ人がいるにも関わらず、この町に私を知る人間は一人もいない。なぜここにいるの?ここでどうしたらいいの?少しずつ冷静になっていく頭は、やがてごくごく常識的な自問自答を搾り出した。
しかし、それは必ずしも恐れや不安とは直結しない。現実逃避にしては随分大胆なことをしたとは思うが、不思議と心は前向きだった。それだけの力がこの町にはあった。
私と町とを区切る目の前の大通りは靖国通りと標示され、自動車の往来が耐えることのないその道は、まるで三途の川でも渡るような心境にすら思わされる。悲壮な決意を背負い、悲劇のヒロインを演じる自分にいつまでも酔いしれていた。
向こう側に愛らしいペンギンの看板が見える。通行人に早く歩けと言われかねないのでいつまでも浸っているわけにもいかず、ようやく一歩を踏み出した。縁起でもないが、これまで過ごした日々が走馬灯のように蘇った。