天香桂花
「ノラクロ〜! おはよぉ」
夏の終わり。朝夕は涼しい風も吹くようになり、夏服が少し肌寒くも感じる季節の通学路で、猿田はクラスメイトの野田黒の肩を背後から軽く突き、声をかけた。
振り向いた黒は、猿田をチラッと見ると、小さな声で「……はよ」と呟き、正面に顔を戻す。
「朝からテンション、ひっく〜」
猿田は黒の横に並んで歩き出す。
「何で朝からテンション高いのか、逆に分からない」
黒はため息混じりに呟く。彼は少し低血圧気味で、朝は苦手だった。
通学路が緩い登り坂に差し掛かると、十メートルほど先に、河地橙子の後姿を見つけ、猿田は黒に心持ち身体を寄せて、小声で囁く。
「ノラクロ、ほら、前に河地、居るぞ。ちょっと走れば校門前で追いつく」
黒は前方を透かし見て彼女を認めるも、歩調は変えずに歩き、欠伸をした。
「お前らマジで付き合ってんの?」
「人前でイチャつかなきゃ、付き合ってる事にならないのか?」
「そうだけどさぁ。……お年頃の男子にしちゃ省エネすぎやしませんかねぇ」
「人の事よりお前の方はどうなんだ」
話を振られて猿田は慌てふためき、声を潜めて黒に囁いた。
「シッ……おま、声大きいよ。こういう話はもっと周りに人が居ない時にしろってば」
「自分が振られて困る話を人に振るなよ」
二人は歩き続け、校門をくぐった。
校庭ではバスケ部と野球部が朝練をしている。バスケ部は練習試合をしているようだ。
猿田は足を止めた。青ゼッケンのチームで一際目立つ、背の高い選手がシュートを決め、辺りに歓声が上がる。
猿田は先に行こうとしていた黒の腕を掴んで引き戻すと興奮のまま揺さぶった。
「見たか今の!? ヤベっちょーかっこいい!ヤバ過ぎる! どうしよ! うわ朝からいいモン見たわ! ヤバイヤバイやばーい」
「……語彙力」
黒はウンザリして猿田の腕を振り払おうとし、ハッとしたように叫んだ。
「猿田!!」
「え」
猿田の後頭部にバスケのボールが炸裂し、勢いよく顔面から地面に突っ込む形で倒れた。
黒は慌てて猿田を助け起こした。
「おい大丈夫か!?」
「……ら、いじょ……」
身を起こそうと四つん這いになった猿田の鼻から鼻血が滴り、地面と制服を血で染める。
バスケ部の数人が二人の所に駆け寄り、騒ぎが大きくなる。
「保健室に連れてけ!」
「誰だよ今のボール…」
「歩けるか? ゆっくりでいいから…」
黒と数人のバスケ部の生徒が、抱えるようにして猿田を保健室に連れて行く。
先程シュートを決めた犬養という男子生徒は、地面に点々と付いている血を見て蒼白になった。
保健室は校庭側にも入口があり、そこから猿田達は靴を脱いで一段高い室内に上がった。
保健医が出迎えると猿田を椅子に座らせ、手当てを始めた。そこに犬養は勢いよく飛び込んでゆくといきなり土下座をし、周囲の人間を驚かせる。
「猿田! すまん!! ……ど、どうすりゃいい?お前、モデルの仕事してんだよな?」
「えっ! そうなの?」
保健医が驚いて猿田を見る。
猿田は冷タオルで鼻の上を冷やしながら、手で「まあまあ、後で話そう」的なジェスチャーをした。黒が助け舟を出す。
「取り敢えず、ここは先生にお任せして、俺らは戻りましょう。猿田の事は俺から担任に話しておきます」
バスケ部の面々は謝罪の言葉を口にしながら校庭に戻っていった。黒は猿田を保健医に任せると、職員室に直行し、ことの顛末を伝えた。
一時間目の途中で猿田は教室に戻った。室内がざわつく。制服には鼻血が付き、彼の顔の中央には大きな湿布が鎮座していて、かなりのインパクトだ。
「猿田。大丈夫か」
教師の問いに、猿田は指でサムズアップをして頷き、席に着いた。
休み時間になると、とたんに猿田は教室の女生徒に囲まれた。
どマイナーな事務所所属とはいえ一応プロのモデルで、にも関わらずそれを鼻にかけない気さくな猿田はそれなりに女子に人気があったので、教室は女子の黄色い声で溢れた。
「あーんサルっちの大事な顔がぁ〜」
「サルから顔を取ったら何も残んないじゃん!ちょっと、ぶつけたの誰?」
猿田は憮然とした。
「俺って顔だけ?…なんなんその反応。ショックだわ〜」
隣のクラスから犬養が教室に駆け込んで来た。女子を掻き分けて猿田の目の前に来る。
「猿田…マジごめん。不注意だった」
猿田の前で再度、深々と頭を下げる。その真剣さに女子達は気勢を削がれ、猿田は狼狽する。
「いやー大袈裟に見えるけど大丈夫ー。今日は仕事無いし、明日にはだいぶ治ると思うし。頼むから顔上げてよ」
犬養は顔を上げると、ズイっと猿田に顔を寄せた。
「俺、今日は午後練休む。お前を送らせてくれ」
「え。…いいの?…んじゃ送って貰おっかなー」
予鈴が鳴り、犬養と生徒達はわらわらと席に戻った。猿田も席に着いたが、始まった授業は右から左へ抜けてゆき、既に意識は放課後に飛んでいた。
犬養と一緒に帰る…。
猿田は何とか気持ちを落ち着けようとした。犬養は隣のクラスだが、去年図書委員で同じ曜日の当番になってから話す機会が増えた。
犬養はバスケ部のエースでスポーツ万能だ。
スポーツがまるでダメな猿田は美術部の幽霊部員で、犬養は遠くから眺めるだけの存在だった。しかし話してみると意外と話のテンポも合って居心地の良い相手だと分かった。
廊下で会って話したり、時々一緒に昼を過ごしたりするうち、犬養の正直で表裏の無い性格、アスリートの引き締まった身体つきを意識している自分に気がついた。
一度自覚すると、想いは急速に深まっていき、そんな自分に狼狽えた。
中学の時に自身の性の傾向には気が付いていた。当時は悩みに悩んだ挙句、事務所でマネージャーに打ち明けると、この業界では多いよとあっさり流されて拍子抜けした。
大人の世界では思いの外、珍しくないらしい。そう考えるとかなり気が楽になった。ただ、高校でカミングアウトしたのは、美術部の面々と、同じクラスの野田黒だけだ。
昼休みになると、猿田は女子からのランチの誘いを断りつつ、黒を教室から連れ出して屋上に向かった。
屋上で腰を下ろすやいなや、パンに手もつけずに猿田は話し始めた。
「ヤべーよ、犬養と一緒に帰るとか…どうしよ、黒。超ぉ嬉しいんですけど」
「まさに怪我の功名だな」
黒は焼そばパンを袋から出して頬張りながら猿田の湿布を眺める。
「仕事は大丈夫なのか」
「今週末入ってる。マネージャーに相談してみるわ。……いや今は放課後の事しか考えられない。暫く話す機会が無かったし緊張するー。黒、一緒に帰ってよ」
「朝からあれだけギャーギャー騒いでおいてイザとなるとそれか。チャンスだろ。それとなく探りを入れてみれば?」
「探るとか、そんなん……分かりきってるつの。……奴は普通だって。俺は、ただの友達でしょ」
猿田のテンションが急降下する。
大人の世界ではよくある事なのか知らないが、少なくとも自分の身の回りにそうそうゲイの人間が居るとも思えない。
だから、犬養の自分に対する好意を都合よく解釈しないよう、猿田は自分に言い聞かせていた。
「確かめてみないと分からない、と俺は思うけど。…少なくとも、俺自身は、相手の性別はあまり気にならない。大事なのは…」
黒は言葉を探しあぐねて紙パックのジュースを飲んだ。
「河地と付き合ってるくせに」
猿田もコロッケパンの袋を開けてかぶりつく。
「たまたまだよ。たまたま女だった。俺が彼女を好きなのは……雰囲気とか人柄とか話し方とか……オーラみたいな。そういう所だ」
「んー、河地はいい奴だけど、見た目はまあフツー……てゆーか性格の良さが顔に滲み出てる」
猿田はハッとして黒に向き直った。
「えっ! じゃあ黒は、その、オーラが凄くいい感じなら相手が男でも好きになるって事?」
「たぶん。……中学の時に、男子でユニークなオーラの奴が居た。モデルになって欲しいと頼んだけど断られた。残念だったよ。今までに無い絵が描けそうだったのに」
「ん? 何か微妙に話ズレてない? モデルにすんのと好きになるのとは違うっしょ」
「人を描きたいって思ったのは初めてだったんだ。だから多分、俺にとって凄く特別な事で…」
黒は食べ終えると袋を丸め、頭をかいた。
「上手く説明できないな。まあ、今日は先約もあるし一緒には帰れない。がんばれ」
「はぁ、嬉しいけど……緊張。でも嬉しい……でも緊張する……うー」
ふと気付いたように猿田は黒に尋ねた。
「俺のオーラも黒には見える? どんなん?」
黒は猿田の周りの空気を眺め渡すように視線を走らせた。
「お前のは…ピンクっぽい感じ。結構キラキラしてて面白い」
「ピンクう?」
「犬養のも似てるよ。アイツの方はもっと濃くて赤に近い。アスリートには多い」
猿田は想像しようとした。赤いオーラか。わかる気もする。俺より体温高そうなあの感じ……触れられたらどんなだろう。
想像がその先に進みそうになるのを心の中で慌てて打ち消した。平常心だ、平常心。
放課後になるやいなや、犬養は猿田のクラスにやって来た。猿田の鼓動が高鳴る。
チラッと黒を見ると彼は密かに親指を立てて見せた。
「サルっち! 犬養君に手を出しちゃダメだよ〜」
猿田と親しい女子が冷やかすように笑うと、犬養は少し赤くなり、猿田は青くなった。
もしや気づかれているのだろうか。
「はあ? 俺の方が被害者なんですけど!?」
「…スマン」
「いやごめん、責めてる訳じゃなくて。ほらも、早く行こうぜ」
猿田は犬養を追い立てるようにして教室を出た。
校門を出てから暫く二人とも無言で歩いた。
その間、猿田は必死で言葉を探していたのだが、意識し過ぎて出てこない。何か言わなければ、の思えば思う程、頭が空転し、焦りだけが募った。
暫くすると犬養が口を開いた。
「…猿田はモデルってさ、いつからやってんの?」
「え?えっと…小学校から。母親がママ友付き合いの延長で俺を芸能事務所に登録したみたいなんだけどさ。…そっからマイナーなCMとか、地元のミニコミ誌とか、小さい仕事何となく続けてたら、中学の時に今の事務所の社長に声かけられて、みたいな」
猿田は安堵のあまり早口になる。
「へえ…」
「つうてもアレよ? 地元密着型のマイナーな仕事ばっかよ? ジモティ堂の広告とか。通販サイトの商品写真とか。メジャーなオサレ雑誌のモデルとは全然違うから」
「それでも、ちゃんとプロとして仕事しててスゲエなって思うわ」
猿田は嬉し過ぎて舞い上がった。思わず顔が緩み、手で口元を隠す。
「犬養も、さ、背高いしカッコいいし、その気になればモデル出来るって。筋肉凄いし腹とか割れてるだろ、羨まし……」
「はは、よく見てんなぁ」
猿田は口を閉じた。しまった、しゃべり過ぎた。くそ、見てたのバレたか?あああ何やってんだ俺。
「いっ……犬養はバスケもスゲーじゃん。大学のスポーツ推薦とかあんじゃないの?」
「……まあ」
犬養は否定しなかった。猿田は驚いた。
「え、マジであんの!? うわっさすが……」
「大学行かないけどね」
「え……っ」
「俺は早く自分で稼げるようになりたいんだ」
「……」
話の成り行きが微妙に変わって来たのを察して、猿田が言葉に詰まっていると、犬養は続けた。
「俺さ、ガキん時に親が死んで、今の親は叔父夫婦なんだよな。……凄く良い人達なんだ。行事もちゃんと来てくれるし、小学校からバスケ部だけど、ずっと応援してくれるしさ。ほんと実の子供同様、可愛がってくれた。感謝しかないし、俺は二人とも大好きだし」
犬養は猿田の方を見て照れ臭そうに笑った。
猿田は黙って続く言葉を待った。
「大学も、行きたいって言えば行かせてくれると思う。……けど、それだから余計に、今までの恩を返したいって気持ちが大きくてさあ。高校出たら、警察学校を受けるつもりなんだ」
「……警察」
「うん。これ、学校のみんなにはオフレコにしといて」
何となくショックを受けてるうちに、猿田の自宅が見えて来た。家の門の前で、ちょうど仕事から戻ってきた母親とバッタリ会った。
「あら〜緑郎、どうしたのそれ」
「は、始めまして、犬養と申します! この怪我は自分のせいです。本当に申し訳ありません!!」
またもや深々とお辞儀をされて、猿田は尻がむず痒い気分になる。
「そうなのお。どれ見せて」
母親は猿田の湿布を剥がして傷を改めた。母親の仕事は看護師だ。
「……もう腫れひいてるね、一晩経てば明日にはほぼ治りそう。犬養君、わざわざ送ってくれたの?上がってお茶でも」
「いえ、自分はこれで。じゃあ猿田、また明日」
「うんサンキュー。またね」
犬養は元来た方に戻って行く。彼の自宅は逆方向なのかもしれない。
それにしても警察学校か……家に入り、居間に向かって廊下を歩いていると、母親が声をかけた。
「カッコいい子じゃん。あんたの彼氏?」
猿田は驚愕し立ち尽くした。
「…いっ……な、に……いま……」
「あんたがゲイって事? 知ってた〜」
「なっな、なんでっ」
「中学の時ねー。あんたの部屋掃除してたら、男の写真が載ってる雑誌とかあってー。もしかしてって思ってたらさ」
母親はふふっと笑った。
「居間のコタツであんたが寝てた時、寝言でさあー『ごめん、母ちゃん、おれ男が好きなんだ……ほんとごめん……』ってさ。やだこの子! 寝言でカミングアウトしてる!! ってもーおっかしくて」
母親はケラケラ笑い転げた。
猿田は真っ赤になってブルブル震えた。恥ずかしい、恥ずかしすぎる自分。
猿田は二階の自分の部屋に向かって階段を駆け上がった。母親の声が追いかける。
「晩御飯作るから寝ないでよ! あと怪我の事、今日中に事務所に電話しときなさいよ!!
いいね!」
「わかってるっ」
部屋に駆け込むと、鞄を放り出してベッドにダイブした。あ〜なんなんだ今日は。てんこ盛り過ぎで頭が追いつかない。熱出そう…。
時間は少し戻り、猿田と犬養が校門を出た頃。黒は河地橙子と昇降口で落ち合った。
今日は彼女の買い物に付き合う約束になっている。友達へのプレゼントを選ぶらしい。
二人は最近リニューアルした隣駅の駅ビルを散策した。買い物に付き合う、と言っても、黒はただ彼女に付いて歩き、時々会話するも基本は無表情だった。こんな男とデートして楽しいんだろうか…と、我ながら思う。
だが橙子はいつも楽しそうにニコニコしている。
彼女が笑うと金木犀の香りが辺りに漂った。
黒が彼女を初めて認識した時、橙子は制服の胸ポケットに金木犀の花を幾つか忍ばせていて、すれ違い際にふわっと香った。
その時から、橙子と金木犀の香りが黒の中では紐付いて、彼女の側に行くと香りを感じるようになった。
黒が持つ、人の雰囲気を色や香りで感じる現象は、精神科医の朽葉曰く「共感覚」の一種ではないか、という事だった。
幼い頃の黒の視界は常に色彩で溢れ、そのために彼は文字や形を見る事に困難があった。
当初は識字障害と勘違いされていたらしい。
現在、彼はこの認知を利用して、自分の作品に活かす事を考えていた。特に、自然の中の質感と色彩の中に安らぎと美しさを感じる。
上空を渡る虹色の光。渦を巻くつむじ風の中にちらつくキラキラした影。
他の人には視えないこのようなモノを、黒は愛し、何とかカンバスに描き留めたい、と考えるようになった。
散々迷った挙句に小さなアクセサリーを購入し、ようやく一息ついた様子の橙子と黒は、
彼女の自宅に向かった。
彼が部活を休んで彼女と会う時は、橙子の親が仕事から帰る時間まで彼女の部屋で過ごす事が多かった。
小さなテーブルで、橙子が淹れてくれた紅茶を飲み終えると、黒は窓辺に座布団を並べて仰向けに寝転がり、眼鏡を外して欠伸をした。
「今日はありがとう。疲れたでしょ、ごめんね」
テーブルの向かいから橙子が声をかけると、黒は彼女のほうに顔を向けて微笑んだ。
「こっちに来てよ橙子」
彼女は短い距離を移動して黒の頭の近くに座った。黒は上体を起こして頭を彼女の膝の上に載せる。彼女のほうに身体を向けると、お腹の辺りに顔を埋めて目を閉じ、手を彼女の背中に廻した。橙子の柔らかい手が、そっと彼の髪を撫ぜる。
金木犀の香りと光に包まれているような空間……。黒は深呼吸した。
「すごくいい匂い」
「えー。…こないだボディソープ替えたからかなあ。ミュゼの香りって書いてあったけど、ミュゼって何だろね」
黒は薄く目を開けて、見下ろす橙子と目を合わせた。
「そうじゃない。橙子の匂いだよ。前世は金木犀だったのかも」
「……ふふ。私も黒の匂い、好きだな。…なんか、森みたいな感じ」
「こないだボディソープ替えたから」
二人は見つめ合い、笑い合った。
橙子は黒の頬に手を添わせ、黒はその手を握った。
猿田がボールにぶつかった日から一週間たった。放課後に近場の屋外で短い撮影があり、犬養は興味がある、と、それについてきた。
猿田はメイクや着替えを事務所の車内で済ませてレフ板やカメラの前に立ち、撮影をした。
犬養は隅の方でそれを見学している。
猿田は目線が犬養に向かわないよう強く意識した。気持ちを仕事モードに切り替えて、何とか撮影を終える。
撮影後、メイクを落として制服に着替え、事務所の車での送迎を断り、犬養と一緒に帰った。帰りの電車の中、犬養はしきりに感心して「凄い」を連発したので、猿田は顔がニヤけないよう、またもや苦心する羽目になった。
「プロの現場って感じ。何かさ……お前、別人みたいだった。俺とは別世界に生きてるヒト、みたいな」
犬養の真っ直ぐな視線に猿田はどうしても顔が赤くなる。恥ずかしくてまともに顔を見れない。
「ちょっともう、やめて。照れるし」
「素直な感想だって。……やっぱ可愛いな猿田」
「え?」
猿田はドキリとして思わず犬養を見ると、犬養は慌てて
「あ、えと、可愛いってのはつまり、顔がいいって事!プロのモデルはやっぱり違うよなって、そういう意味」
「ああ。…ありがとう」
その時、電車が揺れ、猿田はふらついて犬養に倒れかかった。犬養は抱きとめる格好になり、猿田と至近距離で目が合った。
「うわ…」
猿田は反射的に離れようとし、今度は反対側によろけて犬養に手を掴まれた。
「危なっ。あんま動くなよ」
犬養は猿田を自分の近くに引き寄せた。
手は握ったままだ。猿田は内心パニックになった。
えええこれなに?!ヤバイ手繋いでる!犬養と手繋いでるよ俺!…い、いいのか?男同士で嫌じゃないのか?
猿田は恐る恐る目を上げて、犬養の顔を伺った。犬養は出入り口の脇にもたれて顔は窓の外に向けている。意識して猿田と目を合わせないようにしている…ように見えた。
犬養の耳たぶがピンク色に染まっている。
電車内の物音が急に遠くなった。
自分の鼓動が大きく聴こえる。
繋いでいる手が熱い。
このシチュエーションが男女の話なら分かりやすい。…でもこれは。どういう意味なんだろう。
これってそういう事?
いやそんな、都合の良い夢みたいな事が、こんなにいきなり。こんなに突然に。……そのままの姿勢で頭の中をグルグルさせているうちに、目的の駅に着いた。
犬養は猿田の手を引いてホームに降りると、ようやく手を離した。
「じゃあ、俺、出口こっちだから」
「……うん」
猿田は犬養の顔を見た。犬養と目が合った。
いつもの笑顔が顔に無い。その代わり、目が熱っぽい……ように見える。
犬養は猿田に背を向けてホームを歩いてゆく。猿田はその場に立ち尽くして背中を見送る。
彼は階段を降りる間際に一瞬振り返り、猿田と目が合ったが、そのまま階段を降りて行った。
猿田はゆっくりとベンチに歩み寄ると、勢いよく腰を下ろして両手で頭を抱える。
……自分の都合の良いように解釈すんなって……
猿田は数分間そのままの姿勢でじっとしていた。
黒は学校の窓辺で外を眺めていた。
秋の始まりの時期、時々、遥かな上空から巨大な空気の塊りが滝のように流れ落ちて、雲となり、風となって拡散してゆく。
壮大な自然界の営みを視ていると、息が詰まるような気がした。
自分はこの素晴らしさを描き留める為に存在しているのかもしれない、と思え、それ以外の事は全て些末な事のように感じた。
「黒……」
後ろからそっと名前を呼ばれたが、黒は振り向かなかった。香りで橙子だと分かっていたが、今は一秒でも長くあれを眺めていたかった。
「ごめん。後にしてくれないか?今は、忙しい。…後で話を聞くから」
「うん。わかった」
橙子は黒の後ろ姿を見つめ、彼の視線の方向を辿って上空を見上げた。
秋の澄んだ青空が見える。
「……私には……視えない……」
彼女の呟きはごく小さな声だった。
透明な涙が一筋、頬を伝った。
予鈴の響きで黒が我に返った時、辺りに橙子の姿は無かった。
「…それは、有望なんじゃないか?」
昼休みの屋上で黒は言った。
「そうなのかねえ…」
猿田はモソモソとパンを食べながら答えた。
「それにしちゃ、うかない顔してるな。嬉しくないのか?」
「嬉しい…ハズだよなぁ…」
猿田は溜息をついた。
あれ以来、時々観に行っていたバスケの試合も行くのを止め、顔を合わせる機会を猿田の方から避けていた。
「望みが現実味を帯びてきたとたんに、ビビッて怖気付いてる訳か」
「…悪いかよ」
「お前にとって犬養はリアルじゃ無かった。ただ虚像として崇めていたかっただけなのに、リアルになりそうになったから逃げだす。そういう事か」
「うるせぇな!」
猿田は空になったパンの袋を床に叩きつけた。
「どうしたいんだよお前は」
「…しばらく放っといてくんない」
「そうか」
黒は自分のゴミを袋にまとめると、それを持って屋上から出て行った。
猿田は屋上の床に仰向けに寝転がり、空を見上げた。薄い羽のような雲がひと刷毛、青い空に浮かんでいる。
……俺にとって犬養はリアルじゃ無かったのか?
想像の中で、犬養が嫌悪感も露わに顔を歪め、猿田を見て言う。
『は?キモっ!男とかねぇわー、悪いけど今後、近寄らないでくれる?周りに同類って思われたくねぇし』
……そうだそれが『普通』だろ。
『普通』じゃないのは俺の方で。
……コエーよマジで。あいつに、んな事言われたら。…でも。
『どうしたいんだよお前は』
友達の距離を保ったまま卒業までずっと?そして大人になって全ては無かったことになるのか。
廊下で数十秒、話すだけで一日中幸福な気分になれたことも。
ボールを追って躍動している姿を見てドキドキし過ぎて座りこんだことも。
…いいのかよ、俺は、それで。
秋も深まり、文化祭の準備が進んでいた。
猿田と黒のクラスはメイド&ギャルソンカフェをやる事になっている。男子がメイド、女子がギャルソンの仮装をし、時間制で変わる趣向だった。
放課後、黒と猿田は買い出し班として、仮装用の材料を購入しに行く事になった。
以前、黒が橙子と行った隣駅の駅ビルだ。フロアの一角に手芸の店が入っていた。
黒がメモを見ながら必要なものを猿田の持つカゴに放り込んでいる時、猿田の肩に後ろから軽くつつかれる感触があった。
「よっ。お前らも買い出し?…仲良いよな、二人」
犬養だった。彼も右手にメモ、左手にはカゴを持っている。
硬直した猿田の代わりに黒が答える。
「俺達も買い出し。仲は特に良くも悪くもない」
「そうか?部活も一緒だし、昼も二人で食べてるじゃん」
黒は犬養を正面から見て言った。
「犬養。俺と猿田はただの友達だ」
さりげなくその場から離れようとする猿田の腕を黒は掴んだ。猿田はずっと下を向き、犬養と目を合わせようとしない。その様子を犬養は見て言った。
「野田。悪いんだけどさ、猿田と話したい。買い物終わったら、学校に帰る前にちょっと借りていい?」
「俺は構わない」
「く、黒…」
「ちゃんと話せ、猿田」
「……」
三人はそれぞれの買い物の会計を済ませ、駅ビルの出口に向かった。出口を出た直後、黒がいきなり立ち止まる。
犬養と猿田は黒にぶつかりそうになった。
「何?」
「野田?」
黒の視線の先を追った猿田は息を呑んだ。
数ブロック先のバスターミナルに、スーツを着た男と歩いているのは、河地橙子だった。私服で親しげに談笑しながら歩いている。犬養も橙子に気がついた。
バスターミナルを走る子供が二人の側を走って通り過ぎた時、避けようとしてふらついた橙子の腰を男は咄嗟に支えた。
二人は顔を見合わせて微笑み、男は橙子の腰に手を回したまま歩くと、駐車場に停めてある車の助手席に彼女を乗せ、自分も乗り込んで走り去る。
三人は駅ビルの側でその一部始終を見た。
車が走り去った後、暫く無言のままその場に立ち尽くしていた。……猿田は恐る恐る黒に話しかけた。
「……黒。あのさ、河地に話、聞いてみなよ」
「……」
「いや〜今のはどう見ても浮気だろ」
犬養は荷物を地面に置き、腕組みをして言い切った。
「ちょっと。何、言い切ってんだよ。何か事情があるかもしんないし」
「彼女じゃなかったら、あの馴れ馴れしい態度は逆におかしいだろ」
「はあ? 犬養ちょっと無神経過ぎじゃね? 証拠も無いのに浮気呼ばわりとか何様?」
「だからあの男の態度が証拠だろって…」
黒は声を張り上げて二人を遮った。
「もういい!」
二人は口を閉じた。黒は猿田に向かって言った。
「荷物を寄越せ。俺は先に戻る。お前は犬養と話してこい」
黒は両手に買い物袋を下げてサッサと歩いてゆく。猿田と犬養は顔を見合わせた。
駅から少し離れた場所にある公園のベンチに二人は腰を下ろした。
犬養はベンチの背にもたれて空を見上げ、猿田は両手を組んで手元を見ている。しばらく無言の時間があってから、口火を切ったのは犬養だった。
「猿田さぁ。最近、バスケの練習も見に来ないし、廊下で会ってもコソコソ逃げるだろ。なに? 俺、何かした?」
「……別に、仕事とか色々、忙しくて……」
「嘘だね」
猿田は犬養をそっと盗み見た。犬養は空を見上げたまま話を続ける。
「電車で一緒に帰った日さあ、手を繋いだだろ、あれ嫌だった?」
猿田は顔を真っ赤にし、怒りの表情を犬養に向けた。犬養と目が合う。
「犬養は何でそう…何でもズケズケ言えるんだよ。相手に変に思われたり、拒絶されるのが怖くないわけ?」
「怖いけど、話さない事には何も始まらないし分からないだろ」
「は、スゲ〜な、俺には無理だわ。アスリートって根本的にマゾなんじゃないの?」
「大事な人はいつも居るとは限らない。明日いきなり居なくなるかもしれない。俺にはそれが誰よりも分かってるだけだよ」
猿田はハッとした。
「だからさ、好きになったら、相手が既婚者だろうと、男だろうと言っちゃうね、俺。…自分が後悔したくないから。……勝手だろ」
「もし恋人が出来たとして、いつか心変わりしたら、それもハッキリ言っちゃう訳か」
「そう。勝手だから」
「そんなの残酷だ……」
猿田は上体を屈めて、組んだ両手に額を付けた。
「考えようじゃん?それってつまり、好きって俺が言うならそれは本当に好きなんだって事でさ」
上体を屈めた姿勢のまま、猿田は顔だけ犬養に向けた。犬養は猿田の顔を覗き込んだ。
「俺はお前が好きだ。付き合って欲しい」
猿田は溜息をついた。
「ホントはっきり言うよね〜…」
「うん……で?」
「……俺は……俺も、犬養の事、その、好きだけど。……本当は、言おうと思って。でもグダグダしてるうちに先越されて何なんだよって思うじゃん、もう!」
猿田は両手で顔を覆った。
「付き合うよ!あー死ぬ程悩んだ俺バカみてー!!」
猿田の顔を凝視していた犬養の口元が緩む。
「く、ふっはははっ……ヤバイ、めっちゃ可愛い」
犬養は座ったまま、猿田を横から勢いよく抱きしめた。
猿田は泣きそうになった。
その日の夜。
黒はスマホを手に取っては暫く眺め、また置く事を繰り返していた。
LINEで橙子に何度か呼びかけたが、既読にならない。…だが彼女が黒の呼びかけに気付いているのは確実だった。
こんな風に、家族以外の人間について、相手の気持ちを推し量り、それについて長い時間、思い巡らすのは初めてかもしれない。
……俺は橙子の事をここまで考えた事が今までに無かったんだな。
改めて振り返ると黒は暗澹たる気持ちになった。なぜもっと彼女の事を思い遣らなかったんだろう。
……もうじき、俺は、彼女を失う。
数週間経ち、文化祭当日になった。
猿田と黒のクラスは開店前に、仮装する者は仮装して、記念写真を撮る事になった。
男子のメイド衣装は基本、足首までのスカートだが、すね毛が殆ど無い猿田だけは膝丈のふんわりしたスカートだ。もちろん彼がメイドカフェの目玉だった。
「サルッち!!超可愛い〜!!」
「私と二人で写真撮らせて!」
ギャルソンの衣装に身を包んだ女子達が黄色い歓声をあげる。
「マジで猿田クオリティ高いわ…」
「俺ら要らなくね?」
男子の反応は微妙だ。
「そりゃ腐ってもモデルですからぁ。皆の衆、引き立て役シクヨロ〜」
猿田はおどけてセンターに立つと、教師がカメラのシャッターを切った。
午前中のギャルソンカフェがどうにか終了し、午後からのメイドカフェに向けて、猿田と黒、ほか数名の男子が衣装を身につけ、教室に入ってきた。隣のクラスの生徒が数名覗きに来ている。
犬養は猿田を見ると愕然として目を見開き、猿田は気まずそうな表情になった。
「嘘だろ…いやダメだこれは!こんなん無理。駄目。禁止」
「まぁまぁ落ち着いて。後で一緒に写真撮ってあげるからさぁ」
猿田は犬養を宥めにかかる。犬養は猿田に小声で囁く。
「……不特定多数の男に見せるとか正気か。猿田の可愛さに他のヤローが気付いちまう」
「何? 俺の事が信じられないの?」
「そういう問題じゃ…」
「仲の良いトコ邪魔して悪いが準備時間だ。犬養、また後で来てくれ」
黒が冷静に割って入る。犬養は黒をしげしげと眺めた。
「野田も似合うな……ロッテンマイヤーさんの若い頃みたい」
「ろってん、何?」
猿田は思い切り吹き出した。
メイドカフェは盛況だ。
大方の予想通り、猿田のメイドは大人気で、写真撮影の要望がひっきりなしにあった。
撮影を終えて入り口を見た猿田は、橙子と他の女子三人が入口から教室に入って来たのを見て、黒に視線を移した。
黒も気づき、橙子達に近づいた。
黒は案内のテンプレを棒読みした。
「お帰りなさいませ、お嬢様」
橙子は笑いを堪えた表情で
「野田君、きれい。すごく似合ってる」
と言った。他の女子も
「えー仮装とかするんだ。イメージ湧かなかったけど、凄いハマってるね!」
「本当だ!何つうか家庭教師っぽい?ロッテンマイヤーさん…」
橙子と女子達は吹き出すのを堪え、黒が案内する席に着く。猿田はメニューを持って席に歩み寄った。
「お嬢様ぁ!メニューをどうぞ!お茶にします?お風呂にします?それとも…わ、た、し?」
橙子達は堪えきれず吹き出した。明るい笑い声が教室内に響き渡る。
お茶を飲み終えた橙子は、帰り際に黒の側に近づいた。
「野田君。話したい事があるの。いつ終わるのかな?」
猿田は黒に呼びかけた。
「そろそろ客も減ってくる時間だし、黒、一足先に上がって河地と話してこいよ」
「そうか。すまない。じゃあ頼む」
黒は橙子と一緒に教室を出た。
猿田は二人の背中を見送った。黒が戻って来たら、何て言葉をかけよう。…いや、放っておいた方がいいのかな。
小学校の時から、ある意味地元で有名な存在である黒は、整った容姿で中学の頃から度々告白されていた。一部の女子の間で、誰が黒を落とすかの競争になっている側面もあった。
橙子と付き合いだしたのは、そういった馬鹿げたゲームを終わらせたい気持ちもあったと思う。だけど、黒が彼女を見る時の優しい眼差しを猿田は知っていた。彼にとってどれほど橙子が特別か、猿田は理解しているつもりだ。
……でも、橙子にとっては何かが足りなかったんだろう。
それは二人にしか分からないんだろう。
普段と違い、敷地内に人が溢れて、静かな場所を探すのに少し手間取った黒と橙子は、テニスコート脇のベンチに腰を下ろした。
ここでの催しは終わり、人は少ない。コートを囲む植栽の中に大きな金木犀の木があり、辺りに芳香を振りまいている。
黒はメイドの仮装を脱いでメイクを落とし、制服に着替えている。彼女を隣駅で見かけた日から、橙子はスマホでの呼びかけに応じていなかった。学校でも、目が合うと橙子の方から離れて行き、直接言葉を交わす事なく、今日まで来たのだった。
「…私と別れて下さい」
橙子は静かに話し始めた。三ヶ月程前から、もう一人の男性と付き合っていること。相手は大学生だということ。
「私、中学の時から、黒の事、好きだった。だから、付き合おうって言われた時はほんと夢みたいで。…今でも影で言われてるの知ってる。何で私なのかって。私もずっと思ってた。何で私なんだろうって。
でも、黒が私の事、大事にしてくれてるのも分かってたから、気にしないようにしようと思ってた。
……思ってたけど。一緒にいる時も、黒は私には見えない何かを見てた。そういう事が何度もあって、一緒に居ても寂しい感じが溜まって大きくなってった」
橙子は話しながら少しずつ俯いていった。
「黒に見えてる、その『何か』のせいで、あなたは私と付き合おうと思ったんじゃないかって…だんだん考えるようになったのね。
それでも良いって最初は思ってた。
黒は他の人に見えない私の良い所を好きになってくれたんだから」
「……でも……上手く言えないけど、黒が私を見る目って何だか……人間の女の子を見る目じゃないのかなって。黒にとって、私は、花とか木とか、そんな感じの何かなのかなって。
そう思うと凄く寂しかった。このまま一緒に居ても、私の事、人間の女の子として欲しいって思ってくれないのかな。
そんな時、あの人に会って。
他の男の人にとって私はどう見えるんだろう。私をどう扱うんだろう。……それが知りたくなって。だから、付き合ってみようと思ったの。
あの人は普通に、私を女の子として扱った。私はそれに凄く安心したの。良かった、私、ちゃんと人間の女の子だったんだなって」
橙子は暫く間を置いた。黒は黙って聞いていた。
「……私のした事、最低だって分かってる。
付き合ってる人が居るのに二股かけて、二人を比べて。
黒を好きになったのと同じくらい、あの人の事を好きになれるかは分からないけど……
い、今の状態は……絶対、最低、だから。……だから……」
橙子の両目から涙が溢れ、膝を濡らした。
「…別れて……ごめんなさい……」
橙子は俯いて泣き続け、黒は前方に見える金木犀の木を見ていた。地面に散った金木犀の花から、金色の微細な霧が立ち昇り、周囲はうっすらと金の霧が漂っていた。
この美しい眺めも自分にしか見えないんだろう。今まで、それを幸運だと思っていた。でもそれが、彼女を傷つけているとは考えもしなかった。
もっとお互い、自分の違和感や寂しさについて話せたなら、違ったのかもしれない。
……いや、違うな。俺のせいだ。側に居ても彼女の寂しさに気付けなかった。ただ居心地の良い相手として扱うだけで、人同士として向き合おうとしなかった。
「橙子は悪くない。俺が悪い。君が何を考えているのか知ろうとしなかった。……もっと分かろうとする必要があったのに。自分の事にかまけてばかりで……」
黒は橙子の顔を覗き込み、手を握った。
「長い間、寂しい気持ちにさせて本当に悪かった。……ずっと気付けなくて、ごめん。
橙子の事を俺は、何も分かってなかったな……」
黒は橙子の肩を抱えて引き寄せ、橙子の嗚咽は続いた。金木犀の香りがむせ返るように強く香った。
彼女の事が好きで大事だと思っていた。
でもこれ以上好きになる方法が俺には分からない。欲しいと思えない。
花や木や空を愛するように人を愛する事が、相手を傷つけるなら、俺はもう誰の事も愛すまい。金木犀の花を見るたびに、香りを感じるたびに、きっと今日の苦い気持ちを思い出す…
冬の澄んだ冷たい空気の中、朝の通学路で、黒に話しかけてくる相手は決まっている。
「ノラクロ〜!おはよっ!」
「……はよ」
「毎度お馴染みのテンションの低さ!あざーっす!」
「……うっざ……」
どれ程冷たく対応しても、構って来るのを辞めないこいつは、思いの外、器の大きい人物なのかもしれない。黒は声のボリュームを落とした。
「跡、ついてるぞ」
黒は猿田の首筋を指さした。指先程のサイズの赤い部分がある。
猿田はその部分を押さえ、顔を真っ赤にした。
「……っと!ヤベ。はぁもう、跡つけんなって言ってんのに。黒、絆創膏持ってたりしない?」
「持ってるわけない……ラブラブでなにより」
二人は並んで校門をくぐった。野球部とバスケ部が朝練をしている。黒は背中に殺気を感じて振り返った。犬養がこちらを見ている。黒は首の後ろに手を当てて言った。
「お前の彼氏、圧が凄いぞ。俺が殺される前にちゃんと奴に説明してくれ」
「何度も言ってる。……まー卒業までだから我慢して。んじゃね」
猿田は足取りも軽く保健室に向かう。
黒はまた犬養の方を見た。まだこちらを気にしている様子だ。
あの時、猿田の後頭部にぶつかったボールは、実は黒をめがけて犬養が故意に投げたんじゃないかという疑惑を黒は持っている。
猿田の仕事を考えると、嫉妬深い恋人というのは中々に不吉だ。
……でも、人が人を好きになるというのはそういうものなのかもしれない。
「愛」とはフィクションで描かれるような、ぬくぬくと暖かいだけのものじゃないんだろう…たぶん。まあ、それは俺が考えることじゃない。
昇降口の周りに冷たい空気の膜がいくつか、水色のセロファンのように煌きながら切れ切れに漂っている。
黒はそれに手を触れ、小さく微笑んだ。
薄荷のような匂いがした。