第一章1 『ガールミーツボーイ+マンティス』
天井に開いた大穴。
瓦礫に潰された、名前も知らないどこかの家族。
壁や床に飛び散った血飛沫。
そして瓦礫の上に悠然と立つ巨大な『蟷螂』。
先程までの天国のような気持ちが、地獄に塗り潰されていく気がした。
「う、嘘だ……そん――」
『ギィィィイ!』
グシャ、と。
『蟷螂』の側にいた男性が、豆腐のように真っ二つに斬られた。
それが決め手だった。
「ぎゃあああああああああああああああああ!?」
「ひゃあああああああああああああああああ!?」
「うわあああああああああああああああああ!?」
ダムが決壊したかのようにあちらこちらから悲鳴が上がり、子供を蹴飛ばし、それを助けようとした母親を払い除け、人々が我先にと隣の車両に向かい逃げ惑う。
それを追うように、『蟷螂』が順番に、一人一人丁寧に、命を刈り取っていく。
(な、んで……なんで魔物がこんなところに……)
恐怖で信の体が壊れたおもちゃのように震えだし、体中の汗が一気に噴き出す。
――『魔物』とは、二百年前に黒い巨球――『迷宮』と共に突然現れ、人々を大量に虐殺し、国を亡ぼし、世界に恐怖と絶望を与える存在。
生態はほぼ謎、神出鬼没で、意思疎通はできず、【魔法】以外の銃や戦車などの通常兵器が一切効かない、不倶戴天の人類の敵。
そんな最悪の存在が、逃げ場のない列車内に突然現れたことで、パニックが起きていた。
「嘘だ……父さん! うわっ!?」
発生した人波に逆行していた、少年が転倒した――先程の少年だ。
涙を流す少年の視線の先には、手を伸ばす先には、生きた人間はもう一人も居ない。
『ギィ? ギイィィィィィィィィィィィイイ!!』
いい獲物を見つけたとばかりに『蟷螂』がカシャカシャと足音を鳴らし、少年に急迫する。
『ギイイイイイイイイイィィヤアアアアアァァ!!』
本来は獲物を捕獲するための『鎌脚』を、少年の命を刈り取ろうと構える。
「ヒッ」
少年は歯を鳴らし、『恐怖』という鎖で床に縛り付けられる。
――そして、少年と同じように動けない人間がもう一人。
「ハア……ハア……」
いくら呼吸しても息苦しい。
眼前の状況に足が竦んで動けない。
(怖い――)
本能が逃げろと言う。その衝動に身を任せてしまいたい。
(……怖い?)
なら、あの泣いている少年を見捨てて逃げるのか?
――ありえない!
(そっちの方がもっと怖い!)
いや、それ以前に。
(私はあの人みたいになるんでしょ!?)
「助けろおおおおおおおっっ!!」
痛いほどの鼓動に体を委ね、声を張り上げ、無理矢理自分を勇み立て、座席の背もたれの上辺を駆ける。
伴って、体が白く発光し、信じられない程の力が漲る。
その溢れる力で横から『蟷螂』を後方に蹴り飛ばす。
『グギャッ!?』
吹き飛ばされた『蟷螂』は屍と瓦礫の小山を飛び越え、扉に激突して巨大な衝突音を生み出す。
僅かに生じた隙。
信はできる限りの大声で叫んだ。
「逃げて!!」
「!? う、うわああああああああああぁぁ!?」
叱咤された少年は、『恐怖』の鎖を断ち切り、全速力で隣の車両に逃げ出した。
よし、とそれを確認し、少年を守るように――自身に注意を引くように通路に立ち塞がる。
――この力は間違いなく【魔法】だろう。
詳しいことはわからないが、信にとっては今はそんなことはどうでもいい。
(この力があればいける!)
体に迸る万能感で確信する。
(私は魔法使いだ、魔物を倒す力がある! めちゃくっちゃ怖い、足が、手が震える……だけど……勇気を出せ!! 今戦えるのは私だけなんだ! 皆を守れ!!)
『蟷螂』がのっそり起き上がり、臓物の海をじりじりと進んでくる。
「ギイイイガアアアアアアアアアアアアァァ!!」
羽を広げ威嚇。
凄まじい殺気と圧迫感。
ここからが本番だと、大きく息を吸い、全身に力をいれ、心を燃やし、叫ぶ!
「さあ! 掛かって――」
ミシッ、と。
骨が軋んだような音がした。
「ごッあああああああああああああッッ!?」
体に途方もない激痛が走り、そのかけ声を言い切ることなく、地に伏してしまう。
それと同時に、纏っていた光が消えた。
「な、んでッ! もう一度……! があああああァ!?」
困惑の中、再び体に力を入れるが、光が宿ることはなかった。それどころか四肢を動かすこともできない。その癖、痛みだけはしっかりと発生する。
『ギグウウウウウウウウウウウウ!』
『蟷螂』が信を殺すため――必殺の刃を当てるため、荒っぽい足音を鳴らし向かってくる。
(お願い……! 動いて!)
性懲りもなく何度も力をいれるが、やはり激痛が走るだけだった。
『ギヒヒヒヒヒイイイイイイイイイイイイイイイ!』
『蟷螂』が眼前に迫り、気色の悪い笑い声のような鳴き声を上げる。
――近くに来たことで『蟷螂』の姿がより鮮明になる。
その気持ちが悪い目が、顔が、足が、色が、体格が、鋭利な鎌が、少女の心に刻まれる。
(お願い……! お願い! お願い! お願い! お願い!! 動いて! 動いて! 動いて! 動いて!! 私はまだ何もやれてない! 両親に恩を返せていない! 感謝も伝えられていない! 夢を果たせていない!)
ポキッ、と。
心が折れる音がした。
先程までゴウゴウと燃えていた心の炎は消え失せ、少女の顔が恐怖で歪む。
風邪を引いた小動物のように、呼吸が荒くなる。
蛇口を捻ったかのように、滂沱と涙が溢れる。
心の中でどれだけ願っても、悲痛の叫びを上げても返ってくるのは痛みだけだった。
『ギイイイイイイィィ!』
『死神』が『鎌』を構える。
「や……め……て」
(嫌だ……! 嫌だ……死にたくない!!)
少女は願う。生を願う。
「誰か……助けて……」
少女は叫ぶ。生きたいと叫ぶ。
パリン。
何かが割れる音がした。
そして。
「任せろ!!」
力強いその声が聞こえると同時に、黒い巨大な拳が、『鎌脚』が命を刈り取るよりも速く、『蟷螂』の頭を殴り飛ばした。
残された『蟷螂』の体は音もなく倒れ込み、やがて、霧散した。
そして、『蟷螂』が消えた場所には金髪の少年が立っていた。
その姿は、かつて自分を救ってくれたあの人のようで――
「大丈夫ですか!?」
声を張り詰ませながら、少年は駆け寄ってきた。
痛みのせいか、涙のせいか、視界がぼやけて少年の顔をしっかりと視認することができない。
少女は強く願った、だが、届かなかった。
少女の叫びはとてもか細いものだった、だが、届いた。
「ありが……とぅ……」
泣きながら、安堵の笑みを浮かべながら、信は感謝の言葉を述べた。
そして感じた、自分の胸がトクンと高鳴るのを、この顔もわからない少年に、自身が恋に落ちたことを。
その恋心を認識すると共に、少女の意識は途切れた。
信サイドの話は一旦ここで終了です。