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豊の話をまとめると、こういうことだ。
彼の父親は私の父の部下のあの中村さんで、私との浮気が原因で奥さん――つまり、豊の母親と離婚することになったのだと。勿論それは誤解である。私と中村が初めて会ったときには、既に彼は離婚をした後だったのだから。
それではどうして、こんな誤解が生じたのだろうか。私は正面に座る少年を観察した。彼が聞きかじった情報を、奇妙な形につなげてしまっただけのことなんだろうか。生意気ではあるけれど、まだ義務教育中の子供だ。短絡的にものを考えるのは仕方があるまい。しかしそうだとしても、何故私の名前が出てきたのか、その謎は解けない。
「じろじろ見んなよ」
まぁた生意気な口を利きやがる。小突いてやろうとも思ったが、考えてみれば豊は、単騎で敵地に乗り込んできたようなものである。警戒しているのも仕方のないことだ。そうすると、緊張を解してやるのは大人である私の義務である。
しかし彼は、私の差し出した麦茶にも手を伸ばそうとはしなかった。それならと、食器棚に隠しておいたルコントのクッキーを勧めてやっても、ちらりと見ただけで食べようとする素振りはない。警戒心が強いのは悪いことではないが、要らぬ警戒をしてルコントのクッキーを食べ損ねるのではただのお馬鹿さんだ。
「それで、なんで私が中村さんと不倫をしていたなんて話になったの?一体誰が私の名前を出したわけ?」
私の問いに、豊はぎこちなく鼻を鳴らした。テレビドラマの真似でもしているのだろうか。一生懸命大人ぶっているのだと思うと、何となく可愛い。
「パパの手帳に書いてあったんだよ。お前の名前と住所と電話番号が。よく知らないなんて言えるよな」
「電話番号!?ちょっと待ってよ、何よそれ。なんで私の番号を中村さんが知ってるの?」
そんなもの、教えた覚えはない。まさか父が教えたのだろうか。いや、あの人がいくら非常識だからと言って、娘のスマホの番号を、勝手に男に教えるようなことはしないはずだ。しかし、そうだとすると、一体誰が教えたのか。
「お前が教えたんだろ。わざとらしいんだよ。いい加減嘘つくのやめろよ!」
何だと!?私は流石に頭にきた。傷ついた子供だかなんだか知らないが、なんだって私が巻き込まれて、身に覚えのない謗りを受けなければならないのだ。腹が立つ。堪忍袋ももう限界だ。
「だから知らないって言っているでしょう!?なんなのさっきから、人のことをおばさんだのお前だのって、私には川上萌という立派な名前があるんです!子供のくせに、大人をお前呼ばわりするな!」
「うるさい馬鹿!大人のくせに子供相手にキレてんじゃねえよ!」
「な、なんだと~!?」
断っておくが、私は平和主義者である。会社では感じのよいお嬢さんで通っているし、友人の母親たちからも、気立ての良い娘さんだと大変評判が良い。しかしそんな私をしても怒らずにはいられない場面がある。今はまさにその時だった。
ダンッ!!
握った拳をダイニングテーブルに思い切り叩き付ける。あまりの痛さに涙が滲んだが、ここで怯んではいけない。手の痛みなんて感じていないような素振りで、私は豊を睨みつけた。しかし豊は大人しくなるどころか、一層怒りをあらわにして怒鳴り声を上げる。
「ふざけんなクソババア!これが証拠の手帳だ!見ろ、ここに書いてあんだろう!お前の名前と携帯の番号だ!!」
少年がポケットから引っ張り出した黒い手帳には、いかにも中村らしい、几帳面だが下手くそな字で、私の名前と11桁の数字が書き込まれていた。こんなの、いつ書いたかわからないじゃない。言い返そうとして、ふと違和感を覚える。違う。これは私の番号ではない。
「違うわよこれ。これ、うちのお父さんの携帯だわ」
「はあ?何言ってんだお前」
私は慌ててカバンを取りに行き、中から自分のスマホを取り出した。アドレス帳からタ行のリストを開く。登録名は「父」。ほら、この番号、手帳に書いてあるのとまったく同じじゃない。
「ほら、これ」
スマホのディスプレイを豊に向ける。豊は赤い顔で私を睨みながら、表示されたアドレス帳を確認する。
「……え?」
「……ね?」
豊は何度も何度も、自分の手元の手帳に書き込まれた番号と、ディスプレイに表示された番号とを照合した。そんなもの、何度見たって結果は変わらない。
「「どういうこと?」」
図らずもはもってしまった私達には、首を傾げる以外にできることが見つからなかった。