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電車を降り、時計代わりのスマホを見ると、一件のEメールが届いていた。発信者は父。こんな時間に送ってくるメールの中身は、読まなくても想像できる。随分傷がついたなあなんて思いながら、私はディスプレイにメールを表示させた。
「今日の夕飯はいりません。0103より」
想像通りの内容。しかし、文末の4桁の数字はなんだろう。
一頻り考えて、ものすごくくだらない結論に辿り着く。くだらない。本当にくだらない。だけど、いや、むしろ、くだらないからにはそれが正解なのだ。
なんだかものすごく疲れた。両肩に、水の詰まった皮の袋を乗せられたような感覚だ。
――しかたがないのよ。つまらないオヤジギャグはオヤジの習性なんだから。
ぼんやりとしているうちにバスがやって来る。いけない、あれに乗らなければ。座席の半分ほどを埋める乗客を乗せて、バスはいつものように乱暴に動き出した。
アパートのすぐ側のバス停で降りる人間は、大概私一人だ。私のアパートとバス停は、徒歩で10歩分程度しか離れていないのだけれども、他の住民とバスで乗り合わせることは殆どない。バスの本数が多いわけでもないのになぜかと疑問に思っていたのだが、どうもうちは他の家と生活のリズムが異なっているらしい。休日にも、他の住民と顔を合わせる機会は殆どなかった。だからその少年を見たときにも、アパートの人間なのかどうかがわからなかったのは、仕方のないことだった。
少年は、私の家のドアの前に、膝を抱えて座り込んでいた。所謂、体育座りという奴だ。なんだか懐かしいものを見たなあと、それが私の抱いた第一の印象だった。体育座りなんて、高校卒業以来お目にかかっていない。
次に私が抱いた印象は、なんというクソ生意気なガキだろうかと言うものだった。少年は、私の顔を見るなりこう言ったのだ。
「お前が川上萌?なんだ、この程度ならうちのママの方がよっぽど美人じゃん。思ってたよりおばさんだし」
彼にとって幸いなことに、子供を殴るという趣味を私は持ち合わせていなかった。しかし、そうだからと言って笑顔で聞き流せる言葉でもない。教育的指導というのは、子供の正しい成長のためには必要なものである。
「誰がおばさんよ?」
「お前だよ」
「お、お前だと~!?」
最近の子供の躾の悪さときたら!私は拳を硬く握り締め、それでも意思の力で何とか口角を上げる。
「川上萌は確かに私ですけれど、お姉さん、僕の顔に見覚えはないんだけどな」
「馬っ鹿じゃねえの。俺だってお前なんか会ったことねえよ。俺は、俺は中村伸太郎の息子だ!」
少年は、きゅっと唇を噛み締めて、挑むように私を睨みつけた。こうして見ると、まあ、可愛らしい顔をしている。私と比べてよっぽど美人という母親の血筋なのだろうか。それとも、父親が美形なのか。
美形?私は首を傾げた。中村伸太郎なんて名前の良い男、私の知り合いに居たかしら。
「中村伸太郎ってーー誰?」
「しらばっくれても無駄だからな。お前がパパを誘惑したせいで、パパとママは離婚することになったんだぞ!」
誘惑?離婚?一体何の話だろうか。狐につままれたようなとは、まさにこのことだ。しかし今の私には、問いただすより先にしなければならないことがあった。
「ちょっ、ちょっと待って。なんだかよくわからないけど、こんな往来で話す話じゃなさそうだから、とりあえずお姉さんのうちに入りましょう?ほら、他の人に聞かれても、ね?ね?」
「俺は困んないぞ」
私が困るんだよ。察しの悪い子供に、私は心の中で突っ込んだ。
「とりあえず中に入りましょう?お姉さん、僕とゆっくりお話したいわ」
「僕じゃない。大宮豊だ」
「うん、わかった。豊君ね。じゃあ豊君、中に入ってください。お姉さん、豊君が誤解したわけを知りたいので、中できちんとお話しましょう」
豊は上目遣いに私を見つめた。長めの睫毛の際が、うっすらと涙に濡れている。10歳?12歳?子供の歳は良くわからないが、まだ小学生くらいだろう。親の離婚で、酷くショックを受けているに違いない。どういう経緯で私を不倫相手と間違えたのかは知らないが、乗り込んでくるくらいだから行動力はなかなかのものだ。そう思って見ると、賢そうな顔をしているじゃないか。
「ね?豊くーーん?中村?」
「思い出したのかよ」
豊は口をへの字にして、私を睨みつけた。




