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和美はあれ以来、ことあるごとに中村の話を切り出した。お父さんは何て言っているの?次に会うのはいつ?そんな風に何度も聞いてくるものだから、私は中村のことを忘れる暇もない。
人の心というのは不思議なもので、他人の意見など聞くまい、相手にすまいと思っていても、繰り返し聞かされている内にいつの間にかどっぷりと浸かってしまい、それが真実であると思うようになってしまう傾向がある。私にしても同様で、うっかり中村のことを思い出し、次に会えるのはいつだろうななどと考えている自分に気づいたときには、己の流されやすさにうんざりした。
父が再び中村の話をしたのは、そんな折だった。
「萌ちゃん、この前遊びに来た中村君って覚えているかな」
父はネクタイを緩めながら、近所の噂話でもするような口調で切り出した。
「中村さん?ああ、あの人ね。覚えてるけど、どうかしたの?」
「いやあ、どうかしたってこともないんだけどさ。今日会社でちょっと萌ちゃんの話が出てね」
「私の?やあだ、また何か変な話をしたんでしょう?」
父はそうだとも違うとも言わなかった。その代わりに、やたらと母音を強調した笑い声を発する。悪いことをしてきたのだよといわんばかりのその態度。ああまったく腹の立つ。
「実はさ、中村君が、また遊びに来たいって言うんだよ。いや、僕が来ないかって誘ったんだけどね、中村君も乗り気でさあ。どうかな、萌ちゃん、いつなら暇?」
間違いない、見合いよ。和美の声が私の脳裏を過ぎった。だから言ったでしょうと、こ馬鹿にしたように鼻を鳴らす仕草も、現実の彼女と寸分違わぬ様子で思い浮かぶ。
考えすぎだ、上司の話に合わせただけなのだと、私は何度も自分に言い聞かせた。しっかりしろ私。うっかりその気になったら馬鹿を見るのだと、いい加減学習していても良い年頃ではないか。
「中村君さあ、子供も奥さんに着いて行っちゃったから、寂しくて仕方ないらしいんだよね。萌ちゃんさえよければ、ちょくちょく遊びに来たいって言っていたよ」
ちょくちょくだと!?父の言葉は私を絶句させた。駄目だ。これ以上どう頑張っても、膨らむ期待から目を背けることはできない。見合いなのだ。やっぱりあれは、父がこっそりとセッティングした見合いだったのだ。
しかしそうだとすると、父の選択はちょっと酷いのではないだろうか。あんな見るからにうだつの上がらない男を連れてくるなんて、一体どういうわけだろう。それに、バツイチが悪いとは言わないが、いくらなんでも離婚してからの日が浅すぎる。
もしかして、中村はああ見えてものすごく仕事のできる男だったりするんだろうか。社内の女性社員たちによる争奪戦が始まる前に、愛娘のためにキープをしてやろうという親心だったとか?
そんな夢を見ようとしたところに、中村の不器用で押しの弱そうな姿が思い起こされる。ありえない。彼が有能なビジネスマンなんて、そんなのありえない。どう好意的に見ても、あれはダメな男だ。
それでは何故父は、彼を選んだのだろう。まさか本気で私のことを、どんな男でも良いからあてがっておかないと嫁に行けずじまいだとでも思っているのだろうか。そ、そんなーー
「それはイヤー!!」
突然奇声を上げた娘によほど驚いたのか、父はぱちぱちと音が鳴りそうな勢いで目を瞬く。
「い、嫌?そ、そうだよね。ちょっとお父さん性急過ぎたよね……うーん、そうかあ、でも残念だなあ。お父さん、萌ちゃんと中村君なら仲良くやっていけると思うんだけどなあ」
父は気の弱い猿のような顔をして、上目遣いに私を見つめた。そうすれば私が折れるに違いないと確信しているのだ。
まったくもって頭にくる。いっそのこと、この涼しげな額を引っ叩いてやろうか。そんな娘の思惑を知ってか知らずか、父は一層哀れっぽく、眉をハの字にしてみせる。
「ねえ、お父さん、正直に答えて。なんでそんなに中村さんをうちに連れてきたがるの?そこまでされると、何か企んでるんじゃないのかって、疑わずにはいられないんですけども」
「やだなあ萌ちゃん、お父さんが何を企むって言うんだい?ただ、萌ちゃんと中村君がちょーっと仲良くなってくれたら嬉しいなあって思っただけだよ」
「なんのために仲良くならなきゃいけないの?」
「何のためってことはないけどさあ、だってほら萌ちゃん、お嫁に行く予定ないでしょう?」
父はそういってにっこりと笑うと、それ以上の質問は一切受け付けないとでも言うように、私に背を向けてテレビを見始めた。
その夜私は、鯖を抱えて4月のバージンロードを歩く夢を見た。