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中村は、意外なことに箸使いの美しい男だった。
寿司を摘んだ箸先が、醤油皿から口元までを、優美な線を描いて動く。思わず見惚れるその動きは、きっと幼少期の躾の賜物だ。しかし寿司を頬張った次の瞬間には、くちゃくちゃと音を立てて租借するのがいただけない。数学上1プラスと1マイナスでは差し引きゼロだが、人間の場合にはマイナスがあった場合には、プラスはその存在を忘れ去られるのだ。折角の箸使いが、なんともったいない。
それにしても、見れば見るほどよくわからない男だ。父の部下と言うからには堅気の会社員だろうに、なんだってネクタイが花柄なんだろう。花柄のネクタイなんて、ケンゾウとイタリア人しか使わないものだと思っていた。お洒落な男かとも思ったけれど、それにしては肩に散っている白いものが気になる。ものを食べながら考えたくはないが、やはりあれはフケだろうか。
私の視線に気づいたのか、中村は顎を突き出すようにして上目遣いに私を見た。そうしてそのままの姿勢で、口の中で噛み砕かれた、炭水化物とたんぱく質とドコサヘキサエン酸とビタミンBDナイアシンの混合物、即ち大トロの握りを飲み込む。
「萌さんは、お父さん似ですね」
中村の批評に、父は満面の笑みを浮かべた。
「そうなんだよ。顔のかわいいところは僕に似てね、それで性格のきつい所は奥さんに似たの」
「お父さん!」
「あははははー。だって本当じゃない。ねー?」
何たる言い草か!慌てて口を挟んだ私に、父はのんきに問い返した。「ねー?」だと?一体誰のせいで性格がきつくなったと思っているのだ。これでも私は、外では穏やかなお嬢様タイプで通っているのだ。私をきつい女だと思っているのは、そうせざるをえなくする、私の父くらいのものである。
中村は父の暴言に、体を硬直させた。たっぷり2秒はそうしていたが、やがて優雅な仕草で箸を置き、眉を潜めて俯いた。
正面に座る私からは、中村の顔はまったく見えなくなった。しかし肩の振るえと不自然な咳払いのおかげで、彼が必死で笑いをかみ殺しているのだと言うことは丸わかりだ。
「中村さん、無理に笑うのを我慢なさらなくても結構ですよ」
そう私が言うと、中村は肩を震わせたまま顔を起こした。
笑っている。目の端が光っているのは、笑い涙に違いない。
「すいません、本当に、恥ずかしい父で……」
「いえいえ、親子の仲が良いのは何よりじゃないですか」
「仲が良いというかなんと言うか。ねえ中村さん、うちの父、まさか会社でもこうですか?」
「こうーーですね」
どちらからともなく、乾いた笑いが漏れた。
「ああ、でも、僕は課長の部下でよかったと思っていますよ。なんと言っても素晴らしいムードメーカーだ。課長に同行していただくと、商談がまとまりやすい。いいえ、お世辞ではありません、これは本当のことなんです。本当に、得難い人だと思っています」
ムードメーカーと言う中村の表現は、確かにとても適切なものだと私も思う。父は不用意にものを言うが、そのおかげで、私と中村の間にあった微妙な緊張感は、どこかへ消え去ってしまったからだ。勿論父がそうなることを見越していたわけではない。そんな計算ができるくらいなら、父はもっと昇進していただろうし、母が出て行くこともなかっただろう。
「そう言って頂けると、私も安心です。ありがとうございます」
座ったままぺこりと頭を下げる。いやいやこちらこそ。中村も恐縮したように頭を下げ、その拍子に醤油皿をひっくり返した。
――やっぱり駄目な男だ。
呆れる私の視界の中で、父が慌てて台布巾を取る。父は、何を思ったのか、醤油に濡れた中村のパンツの太股を、台布巾でごしごしと擦った。
「駄目よお父さん、そんなことしたら余計染みになっちゃうわ。それに、それ、台布巾よ。中村さん、今タオルを持ってくるから待っていてください」
「す、すいません。ご迷惑をおかけして」
まったくだ。心ではそう答えながら、顔には笑みを浮かべて「気になさらないで」と言ってやる。日本人とは、気にするなと言われた途端、そのことがものすごく気になる人種なのだ。中村も例外ではなく、いっそう恐縮した様子で、すいませんすいませんと、何度も頭を下げた。
「本当に気になさらないでくださいね。はい、タオルです。少し濡らした方が良いですね。これで叩くようにして拭き取ってください。黒いパンツだから殆ど見えないと思いますけれど、必ずクリーニングに出してくださいね」
「うん、わかった」
父が返事をした。
「何でお父さんが返事をするのよ」
「え?」
父は心底不思議そうな顔をして私を見た。
「あ、ああ、そうだよね!やだなあ萌ちゃん!いつも萌ちゃんに怒られてるから、うっかりお父さんが言われたのかと思っちゃったよ」
「何言ってるのよ、人聞きの悪い。本当に嫌なことばっかり言うんだから。中村さんも、父の言うことは話半分で聞いてくださいね」
「ってことはさ、半分は真実なんだよね」
「お父さん!」
私の怒鳴り声に、二人の男はそっくりな仕草で肩を竦めた。