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 狭いアパートは、ドアを開けると家の中の全てが見渡せる。玄関と台所との間に仕切りは一切なく、ドアを入ってから台所を突き抜けて寝室に至る距離は、歩数にしてわずか4歩だ。そのまま更に4歩進めば、家の外に出ることができる。宅急便の配達の兄ちゃんも、我が家の家具の配置は熟知していることだろう。

 そんなわけで、ドアを開けるなり、居心地悪そうにキッチンの椅子に座っている客の姿が目に映った。

 父の「賓客」は、私の予想を大きく裏切った、髭面のさえない男だった。

「あ、萌ちゃんお帰り」

 エプロンをつけた父が、いつものように能天気な声で私を迎える。最近はやりのギャルソンスタイルのエプロン。まだ新しいそのエプロンは、私が自分用に買ったものだったが、癪に障ることに、私よりも父のほうがよく似合っていた。

「萌ちゃん、こちらね、中村君。僕の会社の部下なの。中村君、これ、うちの娘。萌ちゃん」

「はじめまして。父がいつもお世話になっております」

 いい年をした娘を紹介するのに、ちゃん付けはないだろうとは思うものの、客の前でそれを指摘するわけには行かない。ああ恥ずかしい。

「中村です。こちらこそ、課長にはいつもお世話になっております」

 男は立ち上がり、さえない風貌の割にぴったりな暗い声でぼそぼそと挨拶をした。

ーー駄目な男の匂いがする。

 いえいえどうも、と、口の中で返しながら、イチゴを買ってくる必要もなかったかなぁと、予定外の出費を後悔した。


「お父さん、お茶入れるからエプロン返して」

「ん?あ、良いよ萌ちゃん。今日はお父さんがやるから。ね、萌ちゃんは座っててよ。ね?ね?」

「座っててって、そんなわけにはいかないわよ。お父さんのお客さんでしょう?」

 エプロンの裾を引っ張りながら、ちらりと客を振り返る。上司親子が小声で揉めているのに気づいているだろうに、全く聞こえない振りをしてしれっと座っているあたりは間違いなくサラリーマンだ。ネクタイだってきちんと締めているし、背広が皺になっているわけでもない。なのにこぼれる駄目な男オーラは一体何が原因なのか。

「ほら、中村さんが変に思うでしょう。いいからエプロン返して。お父さんは座ってて頂戴」

 なんだよぅ、と、子供のように口を尖らせる父からエプロンを剥ぎ取り、もう一度振り返って中村に愛想笑いを見せ、急ぐ振りをしながらお茶の支度をする。

 ネクタイの趣味はちょっと派手かも。でもスーツが黒いからポイントになってるな。一体いくつくらいなんだろう。ずいぶん細い。奥さんがいるのかしら。結婚指輪はしていた?髪の毛ぼさぼさだし、独身かしら。

 振り向いた一瞬で多くのデータを得る術は、OL生活で身につけた数少ない技術のうちの一つだ。30の大台を越えた独身先輩方の技術たるや素晴らしく、どんな非常事態においても、目に付く男の薬指が埋まっていないかどうかのチェックだけは怠らない。

 取引先の社長の葬式の席ですら、葬儀社の男性社員の指輪のチェックをしていた先輩に、思わず「すごいですね」と言ったら、一般常識だと返された。私は幸いまだ、あれを常識と言い切る境地は至っていないので、中村の指を見忘れた。

 もっとも彼の両手は食卓の下に隠されているので、凄腕のハンターたる先輩方でも確認することは難しかっただろう。

「萌ちゃん、ついでにお寿司も出してもらえるかなぁ。冷蔵庫に入ってるから。中村君もおなか減ったでしょ?」

 隣に座った上司に突然話を振られ、中村は体を固まらせたままぱちぱちと瞬きをした。

「あ、ええ、いただきます・・・・・・あ、いや、お気使いなく」

 どっちだよ。

「いただきます」

 私の心の中の突っ込みが聞こえたのか、姿勢を正して言い直す。

「あ、萌ちゃんついでにビールね。ビール、この前買ったのあるでしょ?」

 ついさっき、今日は座っていてくれと言ったくせに、ついでについでにと注文が多い。わかってはいたけれど、本当に勝手な人だ。

「はいはい。中村さんもビール、召し上がりますか?」

「あ、いえ、僕は結構です」

「何だよ、中村君、遠慮しないでよ。萌ちゃん、グラス3つね」

「食器棚はお父さんの後ろ。あ、中村さんは座ってらして下さい。お父さん、グラス出して」

 立ち上がりかけた男を制し、私は父に命令した。立っているものは親でも使えと言うけれど、座りっ放しの親は立たせて使わなければならないのだ。


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