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父は一体誰を連れてくるつもりなのだろうか。
定刻で会社を出ると、まだ空が明るかった。
ラッシュを迎えるには少し早い時間帯なのか、電車がいつもより空いている。空いている席を見つけ腰を下ろし、何気なく吊り広告に目をやった。
見慣れた結婚情報誌の広告。そばかすの浮いた白人モデルが、ウェディングドレスを着てにっこりと笑っている。しかしモデルの笑顔とは裏腹に、特集記事の見出しが結婚式の恐怖をありありと浮かび上がらせる。
ーー結婚式ねぇ。
当面自分には関係のないものだ。身内の式に出席する予定もない。あまりにも関係がないものだから、自分の式だったら、なんて夢を見る気すら起きない。
今から恋愛したって、結婚式やるのは1年後ーーいや、2年は付き合ってからのほうが良いのか?面倒くさいなぁ……
そんなことを考えているから婚期を逃すのだと同僚から指摘されたことを思い出し、なんだかもの悲しくなる。
ーーやっぱり見合いかなぁ。
扉の方に視線を向けると、案の定そこには結婚相談所の広告が貼られていた。
スーパーのチラシに載っていそうな、安い作り笑いのはげた中年が、「初めての人でも大丈夫!」と、よくわからない励ましを送っている。
結婚相談所に登録すると言うことは、こんなおやじに励まされなければならないようなことなのか。そもそもこの親父は何なのだ。この相談所で結婚相手を見つけた男ということか?自分みたいな冴えない中年でも何とかなったから大丈夫だと言っているのかーーそれなら凄いな。
他に何か面白い広告はないのかと物色しているうちに、私はある可能性に気がついた。
「私に」「会わせたい」「大切な人」この3語が物語るものは、それほど多くない。そうだ、この3語で表現できる相手なんて、かなり限られるのではないか?
ーーまさか。
嫌な想像をしてしまった。
そんなわけはないと理性は否定するのだけれど、一度浮かんだ考えは、鍋の底に残った昨夜のカレーのように、頭にこびりついて離れない。
ーーお父さん、まさか再婚する気じゃないでしょうね。
冗談ではない。第一父と母は、まだ離婚していないのだ。母がコンタクトを取ってこない限り、少なくともあと4年は、彼らは夫婦なのだ。
そうだ。気のせいだ。私の考えすぎだ。
だけど、そうでないとしたら、それこそ一体誰を連れてくるのだろうか。考えれば考えるほどわからなくなる。
とにかく大切な客らしいし、もてなしの用意だけはしておこう。どういう客だとしても、勝負は第一印象で7割がた決まると言うじゃない。そうと決まれば、寿司だけを出してそれで終わりと言うわけにはいかない。父は口にした以上のことにまで気を回せる人ではないから、私が何か買っておいたほうが良いだろう。
私は新宿で電車を降り、伊勢丹に寄ることにした。
何が良いだろうか。食後には甘いものを食べたい所だけれど、ケーキは人によって好みが分かれる。和菓子ならば食べられる人が多そうだが、大のアンコ好きの父のことだ、下手をすれば客の菓子にまで手を伸ばそうとするかもしれないがーーいや、さすがにそこまではしないだろうか。思いなおしかけたところに、タイミングよく中村屋の看板が見えた。
苺大福でも買っていこうか。明日の朝食べて行く分も合せて、6つくらい買っておけば良いかしら。
看板を見ながら指を折っていると、黒い服を着た男が近寄ってきた。
「お姉さん今仕事帰り?」
ええい鬱陶しい。無視してかわそうとするのに、何の嫌がらせか、その男は私と中村屋のあいだに割り込んでくる。
「ねえ、お姉さん、OLさん?」
お前にお姉さん呼ばわりされる筋合いはない。そんなに私が年上に見えるというのか、失礼な。
呪いのように「お姉さん」「お姉さん」と繰り返す男から逃げるために、私は諦めて道を渡った。
結局当初の予定通り伊勢丹に行き、虎屋と鈴懸の間で悩んだ挙句、無難にフルーツを買って帰ることにした。