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 母が家を出て行ってから、今年で3年になる。

 書置き1枚を残したきり、電話もよこさない母が、今どこで何をしているのかは知らない。興信所にでも依頼をすれば、母を見つけ出すことも可能なのかもしれないが、私も父も、自分達を捨てて出て行った人のことを、未練がましく追おうとは思わなかった。

 母がいなくなってからの3年間に、取り立てて何かが起きたわけでもない。私は変わらずにOLをやっているし、父ものんびりと会社勤めを続けている。

 のんびり。そう、本当にのんびりした人なのだ、私の父は。

「萌ちゃん、今日、お父さんねぇ、ちょっとお客さんを連れてきたいんだけど、萌ちゃん帰り遅いかなあ」

 いつものように鏡に向かいながら、父が私に聞いた。

 6畳2Kの狭いアパートでは、どんなに距離を置こうとしても、声の聞こえない場所まで離れることは出来ない。そんな家に父親と二人なんて、と、同僚は気の毒がるが、実際の所、私達はわざとこの家を選んだのだ。

 3年前まで、私達は3LDKのマンションに住んでいた。そこは私の生まれた家で、兄弟のいない私は、ほんの子供の頃から自分用の個室を与えられて育った。

 もう一部屋は両親の部屋。残りの一部屋は客間だったのだけれども、いつの頃からか、母の鼾に耐えかねた父が、そこで寝起きするようになっていた。

「夫婦が別々の部屋で寝ていたらさあ、そりゃあサカエさんの考えていることもわからないよねぇ」

 父が湯飲みを見つめながらそう呟いたのは、母が出て行ってから半年も経ってからのことだった。

「お父さんさぁ、萌ちゃんがお嫁に行ったら、この家にひとりになっちゃうんだなぁ」

 湯飲みの縁を指で弄び、さびしいなぁと呟きながらため息を落す。

「サカエさん、もう帰ってこないよねぇ・・・」

 私は酷く驚いた。父が、母に戻ってきて欲しがっているとは思っていなかったからだ。

 私の両親は、所謂家庭内別居をしているわけではなかったが、テレビドラマに出てくるような、「円満」夫婦でもなかった。母は週に3日パートで働いていたが、家計が苦しかったわけではない。子供が手を離れ、手持ち無沙汰になった時間を、労働と言う行為で浪費しようとしていただけだと、あの頃の私は思ってた。恐らく父も、同じ考えだっただろう。

 私も父も自分の生活をすることに手いっぱいで、母という人が、一人の人間として己の人生を求めていたと言うことに、まったく気がつかなかった。気がついていなかったのだということに気づいたのが、出て行って半年も経ってからだというのが、なんともひどい話だ。

 私がそのことに気づいたのは、父の呟きを聞いた、まさにこの瞬間だった。

「お父さん、いやだ、お母さんは帰ってこないんだよ」

 もう帰ってこないのよ。

 唐突に突きつけられたその真実に、私はうっかり泣き出した。

 そうだ。母はもう帰らない。私と父は、母に愛想をつかされて捨てられたのだ。

「お父さん、駄目だよ。もうお母さん帰ってこないよ」

 私はぼろぼろと泣き続け、父もただ、「そうなんだよ、そうなんだよね」と、イマイチ答えになっていない返事を返し、そうして私達は小一時間を浪費した挙句に、住み慣れた家を捨てる決心をしたのだった。

 失敗の教訓を生かし、私と父は、お互いの声の聞こえる小さな家を探し出した。


「ねぇ、萌ちゃん、遅い?」

 額を鏡にこすり付けそうなくらいに近づけて、かなり薄くなった前髪を熱心に整える。

「お父さん、背中曲がっているよ。それからご飯、はやく食べてよね。片付かないんだから」

「うんうん。わかってるよ。それよりさ、萌ちゃん今日、早く帰ってきてくれないかなあ」

「なあに?お父さんのお客さんでしょう?ご飯作れって言うならお断りだよ。大事なお客さんだったら、出前でも取ってちょうだい」

 私の返事に、父はいつものように困ったなぁと答えた。父にとって「困ったなあ」と言う単語は、「a」や「the」と同じく、定冠詞みたいなものだから、特に何の意味もない。困ったなあと言っておけば、誰かが助けてくれるという打算くらいはあるのかもしれないが、私にはそれも通用しないとわかっているはずだから、恐らく本当に口から勝手に毀れただけなのだろう。

「萌ちゃん、お父さんね、萌ちゃんに是非紹介したい人がいるんだよね。今日は帰ってきてくれないかなぁ。ご飯はさ、お父さん、お寿司買ってきちゃうよ、寺田屋の特上握り」

「寺田屋?やだ、お父さん、どういうお客さんよ。たぶん今日は帰れると思うけど、ねぇ、誰を呼ぶつもりなの?」

 祖父の七回忌で食べたきりの高級寿司。そんなものでもてなさなければならないような客なんて、この3年迎えた覚えがない。まさか父の上司が家に来ると言うわけでもあるまいし、一体何のつもりだろうか。

「まま、楽しみにしててよ。あ、お父さんのご飯ついでくれる?うわぁ、美味しそうなお味噌汁だなあ。今日の具は何ですかぁ?」

 嘘のつけない父の、その恥ずかしくなるほどわざとらしいごまかし方に、私は少なからず腹が立った。

とは言え、一度ごまかすと決めたら意地でもごまかし通すのが父である。これ以上何を聞いても、どうせ答えやしないだろう。

「ん?今日のお味噌汁?今日のお味噌汁は、素味噌汁よ」

 父の味噌汁椀にはたっぷりと味噌汁を注ぎ、具は全て私の椀によそう。

 はいどうぞ。にっこりと笑って娘の突き出した椀を見て、父は器用に眉をハの字にした。


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