魔術
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三月初頭、某日。
卒業を半月後、そして進級を一か月後に控えた魔術学院の生徒たちは、どこか浮ついていた。
特に最上級生らの浮かれっぷり、そして気の抜けようときたら、魔術士に憧れる新入生が目にしたら幻滅してしまいそうなほどだった。
なぜなら、ティオール帝国軍への入隊を控えた彼らは、すでに知っているから。士官待遇として、新兵でありながらもCランクが与えられる以上、今後の人生が安泰であると。軍の後方に残るにしろ、辞めて魔導師となるにしろ、食い扶持に困ることだけは決してないだろう。
そんな陽気で呑気な若者たちを尻目に、一人、肩を落として学院の廊下を歩く影があった。
フィルミニアだ。彼女は沈鬱な面持ちで、それでも背筋をピンと伸ばした美しい姿勢で歩いている。
周囲から侮辱の言葉が漏れる。それは金髪の少女にも確かに聞こえる声量で、しかし彼女は他のことに意識を割いていたために聞いていなかった。
「何とお詫びすればいいのでしょう……」
彼女が頭を悩ませているのは、昨日出会った予備魔導師――ノート・ラインのことだった。
冷えた頭で思い返せば、自分がどれだけ無礼な振る舞いをしていたのか、嫌というほどに思い知らされる。生徒である自分が、年長の教師に対してあのような態度を取るなんて。
大きく息を吐き、自分が属するクラスの教室へ入る。いつものように始業の一時間前に来て、いつものように誰もいない教室で、いつものように座学の自習をする――そのつもりだったのに、
「――え」
いるはずのない他者の存在――教壇から教室を見渡す女性の姿を目撃したことで、フィルミニアの足が止まった。
「あれ、こんな時間に?」
そして相手もまた少女に気づき、小走りで近寄ってきた。
その女性は、緑色の髪をセミロングに切り揃えた、十代と見紛う童顔の美女だった。そして胸が大きかった。
堅苦しい軍服の下からもその存在感を主張する膨らみに戦慄を覚えて――フィルミニア自身もそれなりのものを持っているにもかかわらず――一歩後ずさる。その様子を見た女性が申し訳なさそうに、
「あっ……! ごめんなさい、もしかしてこの教室を使う予定だった?」
「い、いえ、予定と言うほどでは。ただ、始業前に教室で自習するのが日課なので」
ややのんびりした女性の口調とは対照的に、言い訳するかのような早口で少女はそう答えた。やましいことなど何もないのに。
――周囲の声のせいで卑屈になりつつある事実を、今のフィルミニアは自覚していなかった。
「自習? 寮の自室じゃなくて、教室で?」
「……こっちの方が、集中できますから」
嘘だった。本当は、同居人のいない二人部屋に一人でいる空虚さを嫌ったためだ。元々同室だった生徒は、彼女の成績が下降した頃に、適当な理由をつけて他の部屋に移ってしまった。フィルミニアの友人と看做されることで、自身に被害が及ぶのを避けたかったのだろう。完全に疫病神扱いされていた。
その事実を知るはずもない女性は、けれどそれ以上の追及をしなかった。納得したのか、それとも事情があることを察したのか、それは定かではなかったが。
女性はにっこりと、穏やかな笑みを浮かべる。不思議とそれが、昨日の予備魔導師の顔と被って見えた。顔立ちも表情も全然違うのに、雰囲気だけは非常に似通っていた。
「あなた、このクラスの生徒?」
「は、はい」
「そう、よろしくね。今日から二週間、指導実習であなたたちのクラスを担当することになったの」
「よ、よろしくお願いします」
退役後に、学院に魔導師として雇ってもらおうとする者は多い。それはこのヴァルテシア魔術学院こそが、魔導師にとって最も栄誉と実績の得られる職場だからだ。一流の魔術士を育て上げて軍に排出すれば、一流の魔導師としての名声を欲しいままにできる。
そして最も確実に雇ってもらえる方法が、事前の指導実習で経験を積むことだ。当然こちらも希望者が殺到するため、優秀な人材から優先的に選ばれることになっている。
頭を下げた後、フィルミニアは軍服の階級章を確認した。
少佐。恐らく三十には届いていないであろう歳の若さから考えると、前線で名を上げた実力派の士官である可能性が高い。魔術士ランクはまず間違いなくA――いや、もしかしたら、
「あの……お名前は?」
「わたし? サーシャ・ウィンダー、サーシャ先生って気軽に呼んでね」
「――ッ! やっぱりSランクの……『錬金術士』!」
告げられた女性の正体にフィルミニアが息を呑むが、それも無理からぬことだった。
なぜなら彼女――サーシャ・ウィンダーは現在この国に五人しかいないSランク魔術士の一人にして、最もロムトとの戦いが激しいとされる西部方面戦線で活躍するスーパーエースなのだから。
キラキラと光り輝く羨望の視線を向けられ、今度はサーシャの方がたじろいだ。
若い子に尊敬されるほど立派な人間じゃないんだけどなあ――と内心で思うサーシャだったが、悲しいかな、この場合はフィルミニアの反応こそが一般的だ。Sランクという評価には、それほどの重みがある。
「――あっ、そ、そうだ! わたし、これから他の先生に挨拶しなくちゃいけないから!」
突然、思い出したかのように女性が言う。気恥ずかしくなって逃げ出そうとしているのは傍から見れば明白だったが、少女は気づかなかった。
教卓の上に置いていたバスケットを手に取ると、サーシャは慌ただしく教室を出て行った。すれ違った際、籠からは菓子を思わせる甘い香りが漂っていた。
きゅるる、と静謐な教室に少女の腹の音が小さく響いた。顔を赤らめつつ、この階段教室の中での自分の定位置――左側中段の席に腰を下ろす。
そして五分と経たずにまた腹の虫が鳴り――憂鬱から摂っていなかった朝食を求めて、早々に席を立つのだった。
人が集まって社会を形成する以上、身分の格差というものは必ず生じる。
例えばティオール帝国では、少数の富裕層である『貴族』とそれを支える大多数の『平民』という二種類の身分が存在する。
そしてそれらの中にもまた、明に暗に区分けされた階級がある。平民であっても、都市部で商業に励む者と辺境で農作に勤しむ者との間には厳然たる格差がある。中には金銭で売買され買い主に言われるがままに仕事を押し付けられる、国や時代が違えば『奴隷』と呼ばれていたであろう者たちだっているのだ。
貴族も同様だ。皇族を除いて主に国政に携わる十家を『一等貴族』、皇族の直轄地を除く領土を所有する三十三家を『二等貴族』、二等貴族の下で実質的に領地を収める百十二家を『三等貴族』と呼んで分類しているのは、それぞれの間に絶対的な身分差があるからに他ならない。
家格の低い者が高い者に歯向かうことなど、本来は許されない。法や制度ではなく、高家の誇りが許さない。そうした愚者には大抵、悲惨な結末が用意されているものだが――ここに、一つの例外が存在する。
それは、その反抗が相手と同格以上の貴族によって支持されていた場合。つまりは、強力な後ろ盾がある場合だ。
その例外はたとえ一等貴族であろうとも――文字通り、例外ではない。
「やあ、フィルミニア」
始業五分前、教室で自習していた少女にクラスメイトが声をかけた。
涼やかな声に、しかし隠しきれない粘着質な響きが混ざった呼びかけに対し、彼女はウンザリしながら顔を上げた。
視線の先にいるのは、やや背の低い少年だった。ともすれば女性にも見える線の細い美少年は、キザったらしい仕草で自身の髪を掻き上げ、
「聞いたよ。昨日、チェルシャに手酷くやられたんだって?」
「……それが何か?」
「少し心配になってね。体の具合はどうかな、と」
「ご親切にどうも」
よく言う、とフィルミニアは内心で毒づく。そのチェルシャと組んで私を追い落とそうとしているのは貴方でしょうに、と。
そう、彼女が『期待外れ』と呼ばれ孤立しているのは彼――一等貴族であるレイスロール家の嫡男、クラマイト・ヴィック・レイスロールの差し金によるものだ。
昨日の敗北は、正直かなり響いた。しかしそれはあくまで『心』の話であり、『体』についてはそこまで酷い負傷はない。だから、
「何も、問題ありませんわ」
屁理屈のような強がりを、彼女は毅然として述べた。
そう返すことを見越していたのだろう、少年は爽やかな笑みを浮かべて、
「そうか、それはよかった。いや、チェルシャが深刻そうに話していたからね――『あまりに弱すぎて加減のしようがなかった』と」
「……っ!」
黒鉛の筆を握る手に力が入る。
あからさまな挑発。まともに受け止めてはいけない、と頭ではわかっていても、感情の方はどうにもならない。
「実際、僕も同意見でね――同じ一等貴族だというのに、実技の成績が常に最上位の僕と、中位止まりの君。どこでこんなに差がついたんだろうねえ?」
「……お喋りがしたいなら、『お友達』とでもなさったらどうです?」
普段のクラマイトの定位置である最前列中央の席を囲むように、チェルシャや取り巻きの生徒たちが屯している。彼らは遠巻きに、嘲笑に顔を歪めながらこちらを眺めていた。
美少年は一瞬彼らの方に振り返った後、同様の笑みを浮かべ、
「頂けないなあ――耳の痛い話になった途端に話題を変えようとするなんて。栄えある名家の生まれにしては、あまりにも情けない」
「勉強の邪魔、と言っているのですけど」
「人の上に立つべくして生まれた人間は、人より優れてなくてはならない。その点、君はどうあがいても人並みの域を出ることはないだろう。だから――」
少年が顔を寄せる。
生理的な嫌悪感から身を離したくなるのをグッと堪えていると、彼が耳元で囁いた。
「――君の居場所はここにはない。頭だけはいいんだから、ぜひとも賢明な判断をしてくれよ?」
「……ええ、そうさせてもらいますわ」
相手の言葉通りに、フィルミニアは賢明な判断――つまりはクラマイトの高圧的な忠告を無視することを選択した。彼の思惑に従う道理など、どこにもないのだから。
少年もそれをわかっているのだろう。肩を竦めて仲間の元へと戻っていった。去り際に、嗜虐的な喜悦の表情を浮かべながら。
それとタイミングを同じくして、この教室を担当する魔導師のゼイロンがやってきた。その後ろには、少し前に会ったばかりのサーシャの姿もある。
フィルミニアは思わず顔を背ける。その原因はサーシャではなくゼイロンにあった。昨日に呈された見当違いの苦言を、少女はまだ引きずっている。
他の生徒たちは、現れた見知らぬ女性の存在にざわめき、好奇の視線を向ける。とりわけその美貌や女性らしい体つきに、男子生徒は好色の、そして女子生徒は冷ややかな目で見つめていた。
「静かに。――今日から二週間、指導実習で彼女にも授業に参加してもらうことになった」
「はじめまして。西部方面戦隊第三四八特務魔術士中隊隊長、サーシャ・ウィンダー少佐です。演習科の授業でクルージオ先生の補佐を務めさせていただきます。よろしくお願いしますね」
しかしそれは、女性の堂々とした名乗りによって一変した。周囲から向けられる尊敬の念に、彼女は照れたように顔を赤らめる。
みんなから望まれ、受け入れられるその姿を、フィルミニアはたまらなく羨ましく思った。
人間の身体機能のほとんどは、人の意識がなくとも正常に稼働する。
例えば呼吸、消化、代謝、反射――これら生命活動に必要な機能は、意識を失ったからといって停止したりはしない。本人の意思にかかわらず、自動で行われるのが普通だ。
さらに言えば、人が能動的に身体を動かすのだって、その全てを意識的に操作している訳じゃない。人の意識が命じるのは『歩く』『掴む』『跳ぶ』『投げる』といった結果として生じる行為でしかなく、そのためにどの筋肉をどのくらいの力でどう動かすのか、そういった計算は脳によって無意識下に行われている。
要するに何が言いたいのかといえば――人間の身体は到底手動で動かせるものじゃない、ということ。
いいや、人間に限った話じゃない。あらゆる生物は高度化するにつれ、より自動的な機能が増えていく。逆に個体としての意識を持たないであろう最小単位の生物は、単純な機械となんら変わりはしない。知性や意識を得た生物は、もはや一種のブラックボックスと言えるだろう。
人間は、人体の全てを理解してはいない。
故に。人体に、人間の理解が及ばない未知の機能があったとしても不思議ではない。
(――それこそが、魔術。かつては『超能力』とか『霊能力』と呼ばれていたモノ)
人体に眠る第六感――それは通常、人体という自動化された機構においてどこにも繋がっていない、完全に孤立した不可分の領域。
極稀に産まれる、脳からの命令を伝達する神経系が接続された異常者によって、超能力と称され機能の一端のみが明かされていた神秘の御業。
その機能を十全に発揮するには、自動的ではいけない。人が自らの意思によって、能動的かつ手動的に干渉・操作をする必要がある。
しかし人が意識し得る記憶や計算能力では、その膨大な情報量に耐えられない。極めて簡単な事象――例えば微かな火花を発生させるのですら、常人であれば一時間はかかってしまうほどに、意識的な操作は困難を極める。
操作の簡略化のために、人間は持ち得る限りの知性と知恵を活用した。
その末に到達した答えが文字の概念――つまりは記号化、そして図式化だった。
ブラックボックスの中は、まるで広大な砂漠だ。その領域を手探りで探索しながら、望んだ事象を引き起こすための小さな石ころを見つけ出す。原初の魔術の発動方法はそういうものだった。
すると当然、人はロードマップを作ろうとする。どういう経緯を辿ればいいのか――どうやって力を使えばいいのか、それを具体的に、よりわかりやすくするための指標を生み出そうとする。
そうした試行錯誤の中、ついに誕生したのが『術式』だった。
それは、記号を連ねた紋様。魔力によってその形を描くことで、最短ルートで望んだ結果を発生することができる宝の地図。言ってみれば、ブラックボックスの能動的な自動化だ。
感覚を掴むまでは扱いに苦労するが、一度慣れれば後は簡単だ。
前方に突き出した右手を起点に、光り輝く魔力で記号を書き連ねる。始点と終点を結んでループさせて、環を形作る帯状の紋様――術式帯を展開する。
初めは不安定な回転と輝きを繰り返した術式帯が、けれど時間の経過と共に安定していき、やがて一定の速度と光量を維持したところで、
「――ッふ!」
砕かれた。バラバラになって散っていく術式帯の欠片は、ガラスの破片のようだった。キラキラと輝き、そして脆く壊れる。
不発? ――いいや、これこそが魔術発動の合図。
その証拠に、突き出した右手からは望んだ通りの魔術の効果――流星にも似た光弾が発射された。直進するそれは目標の中心、つまり的の中央を正確に射抜く。
その様を見届けた発動者のフィルミニアは、ホッと息を吐いた。屋外の演習場で行われている、魔術の正確性を測るこの授業において、彼女の評価はほぼ満点に近い。
――にもかかわらず、周囲から漏れるのは失笑だった。
その理由は、彼女が生み出した光弾にある。魔術は、たとえ術式が同じであっても、個人の素質如何で大きく変わる。
つまり、フィルミニアの光弾は同じクラスのクラマイトやチェルシャのものと比べ、大きさも、弾速も、威力も、発動速度も、視覚で判断できる全てにおいて劣っていた。
一応言っておくと、フィルミニアの魔術は彼らに劣ってはいるものの、教室全体で見れば決して弱くはない。少なくとも、平均より上に位置するのは間違いないだろう。
それでも、彼女は嘲笑を浴びる。一等貴族の立場に相応しくないからと、ただそれだけで自分よりも才能のない者たちにすら馬鹿にされる。
それがどれほどの苦痛か――察するのは容易ではないだろう。
「……っ!」
向けられる悪意への反発から、少女は血気に逸って再び術式帯を展開する。
より大きく、より速く、より強く、より早く――そうして乱暴に、力任せに魔力を注ぎ込まれた術式は、
「――ッ、きゃあ!?」
不安定なままバチンと弾け、風化するようにボロボロと崩れていった。その衝撃に耐えかねて尻餅をついてしまう。
魔術の暴走――身の丈に合わない無理な使い方をした際に起こる現象に見舞われるのは、これが初めてじゃない。彼女はクラスの中で、いいや同学年の生徒の中で最もその回数が多かった。
それに対する周囲の反応など、決まっている。嘲弄と、冷笑と、そして軽蔑だ。
「なん、で……っ!」
上手くやれない自分に腹が立つ。
上手くできない自分を嘲笑う周囲が許せない。
どれだけ努力しても、取り返そうと、見返そうと思えば思うほどに空回りする。周囲が成長していく中で、自分だけが入学当初とほとんど変わっていない。
昨日の激情が胸の内から込み上げてきて、人目も憚らず想いのままに涙を流す、その直前、
「――大丈夫?」
手が差し伸べられた。
細かい傷痕だらけの、擦り切れた手。顔を上げてその人物を見れば、
「少佐……」
「サーシャ先生、でしょ」
微笑んだ女性は、フィルミニアが彼女の手を掴む前に、逆に少女の手を掴んで引き起こした。無理矢理に立たされ体勢を崩す少女の肩を両手で押さえて、
「ほら、シャンとする! せっかく綺麗な顔してるんだから、堂々としてなきゃもったいないよ?」
「は、はい」
「暴走するのは才能がない証拠、なんて話があるけどね。それは全然違って、暴走の原因は精神の――」
と、サーシャがアドバイスをしようとした時だった。
「――先生」
その後ろから、声をかける者がいた。
それは二十人近い同級生を従える派閥の主、クラマイトだった。今までゼイロンからの指導を受けていたはずの彼は、サーシャではなくフィルミニアに視線を向けて、
「彼女のことは放っておいて、こっちでゼイロン先生と一緒に僕たちのことを見てくださいよ。でないと時間の無駄です」
「どうして?」
「だって彼女は『期待外れ』――一等貴族の風上にも置けない、とんだ出来損ないなんですから! おまけに現当主の父や次期当主の兄とも不仲で、媚を売る価値すらもない――むしろ目をつけられて敵を増やすだけですよ?」
彼がここまで直接的な言い方をするのは珍しい。いつもはもっと、真綿で首を絞めるようにジワジワと追い詰めるのを好むはずなのに。
その意味するところを、少女は正しく理解する。
(――トドメを刺すつもり、ですわね)
現役のSランク魔術士に疎まれるようになれば、彼女の魔術士としての未来は断たれたも同然――そう画策して、ここで引導を渡すつもりらしい。
それもいいかもしれない、とフィルミニアは思う。いっそ完全に心が折れてしまえば、怒りや悲しみに震えることもないのに、と。
これまで関わってきた多くの人間のように、自分を拒絶する――そんな言葉をサーシャが口にするのを待っていた少女はしかし、
「それが、どうしたの?」
柔らかな口調で、けれど毅然として放たれた声を聞いた。
思いもよらない返答に呆然とする生徒一同に、彼女は続けて言葉を紡ぐ。
「この子のお父さんやお兄さんと仲良くなって、それでどうなるの? 彼らが戦場で、わたしや仲間、部下の命を救ってくれるの? どう?」
「あ、え――」
「難しいよね。だってオーグランド家はあなたのレイスロール家と同じように、軍への影響力がほとんどない。どころか軍を掌握している他の貴族からすれば、あなたたちは自分たちの縄張りを荒らそうとする烏や鼬が如き害獣も同然――だから嘆願なんて聞く耳持たないし、支援であっても介入を許さない」
けれど、
「この子は違う。魔術士になったこの子は、いずれわたしやわたしの部下と共に戦場に並び立つかもしれない。もしかしたらこの子が、わたしたちの生死を分ける場面に直面するかもしれない。その時にこの子が強くなっていなければ、全員死んでしまうかもしれない。――違う?」
「それ、は――」
「違わないよね。そしてそれはこの子だけじゃなくて、この教室――ううん、この学院の生徒全員に言えることなの。だから『出来損ない』と呼ばれるような人がいるのなら、彼らをこそ真っ先に育て上げないといけない」
語った女性は、そこで授業を担当する魔導師へ顔を向け、
「――というのがわたしの考えですが……どうですか、クルージオ先生?」
「……そう、ですね。私の主義主張とは違いますが……むしろ好都合か。でしたら、私の手が回らない生徒の指導をお願いします」
「ええ、わかりました。至らぬ点があれば指摘してください」
恭しくそう言った彼女を見る生徒たちの目は、つい先程までとは大きく違っていた。尊敬の眼差しから一転、疑心と反感に満ちた視線を送っている。
周囲を見渡し、それらの感情に気づいた上でそれを笑顔で受け止めて、
「じゃあ、自分が弱いと思う人は、わたしの元に集まってね!」
その呼びかけに。
応じる生徒などいるはずもなく、その日、サーシャの指導を受けたのはフィルミニア一人だけだった。
それを全く気にした様子のない彼女は、授業が終わる間際に少女へ向けて、
「そうだ、オーグランドさん。放課後、時間ある?」
「放課後ですか? ええと……一人で自主練するつもりなので、時間なら作ろうと思えば」
「だったら放課後、総務部棟裏の薔薇園に来てくれる? あ、演習に使う道具を一式用意してね」
「え? ええ……」
サーシャの言う場所が、昨日迷い込んだあの場所だとすぐにわかった。すごい偶然、と思う少女は当然のように、偶然ではないことに気づけない。
曖昧な了承に満足そうに頷いたサーシャは、待ち合わせの用件を言わないまま、授業の終わりと同時に演習場を後にした。
――その背に突き刺さる少年少女の悪意など、一切お構いなしに。