拒絶
フィルミニアの、その男性に対する第一印象は「パッとしない」というものだった。
オールバックの茶髪には白髪が目立ち、頬は痩せこけ、野暮ったい丸眼鏡の奥のタレ気味の目の下には濃い隈ができている。病的、と評するには狂気が足りていないが、不健康であることは間違いなさそうだった。
声の通り方からして中年の、およそ五十歳前後と推測するものの、杖を手にした右手の節くれだった指はまるで老人のようだった。体には極端に肉が少なく、肌には血の気もない。
その一方で、着ているスラックスやシャツ、それに白衣は妙に小綺麗で、身だしなみには清潔感がある。女性としては好感が持てるものの、外見から抱くイメージに合っているかと問われれば肯定しづらい。
変な人、と少女は素直に思う。同時に、杖を突く教員を今まで彼女は一度も見たことがなかったために、相手の素性を事務員か何かと推測した。
右脚を引きずるようにして歩く彼は、左手で自分の座っていた椅子を引っ張りながら、テーブルを時計回りに九十度移動した。その位置で再度腰を下ろして本を手繰り寄せると、先程まで彼がいた空白を手で示して、
「よろしければ、どうぞ。そこが一番、眺めがいいですよ」
「……どうも」
穏やかな微笑みに、フィルミニアは従った。断ろうと思えばできたのにそうしなかったのは、ただの気まぐれであり、同時に自棄でもあった。
近くの椅子を寄せて指定された場所に座ると、なるほど確かに美しい光景だ。しかし建物が無駄に広いせいで、その美しさを遠くに感じてしまう。離れた絵画を俯瞰で眺めているかのように、妙な虚しさが込み上げてくる。
そう、それはまるで。
いくら手を伸ばしたところで、決して届かない理想を前にしたかのような――
「……気に入りませんでしたか」
男性の言葉に、少女はハッと我に返る。いつの間にか拳を固く握り締めていた。薔薇の棘による傷から、止まっていた血が再び流れ出る。
「すみません、余計なことをしました」
「……いえ」
軽く頭を下げた男に、彼女は消極的な否定を返す。
――イライラする。
悲しさと悔しさが落ち着いたら今度は気が立ってきたようで、フィルミニアは何もかもに不快感を覚える。目の前の光景にも、年下の小娘に簡単に頭を下げてしまうこの男の態度にも、そして彼に謝らせてしまう自分の軽挙にも。
それきり男性は言葉を発しない。恐縮してる、という様子ではなくて、安らかな表情で少女と同じように外の光景を眺めている。
――そこでようやく、少女は疑問を抱き、口にした。
「あの」
「はい」
「どなた、ですの?」
「……そういえば、そうですね。すみません」
恥じたようにそう言った後、男は背筋を伸ばしてフィルミニアへと向き直る。
「僕はノート・ラインといいます。見えないとは思いますが、これでも一応魔導師の端くれです」
「……申し訳ありませんが、存じ上げませんわ。技術部の方ですの?」
「いえ、総務部の所属です」
「――総務部の?」
問いの答えに、少女が怪訝な反応を示したのは無理からぬことだった。
ヴァルテシア魔術学院には、実際に戦場に出てロムトと戦う兵士を養成する『士官部』と、そんな彼らの補助となる装備や道具、あるいは魔術そのものを開発する研究者を育成する『技術部』の二つの学部が存在し、生徒は必ずこのどちらかに所属している。
教員の魔導師も同様だが、その二つに加えて魔導師でない職員が所属する部署も存在している。一つが、学院や生徒を外敵から守る警備員たちの『警備部』であり、もう一つが、魔術を扱わない一般知識の授業を受け持つ教師や学院の経営に関わる仕事を行う事務員が属する『総務部』であった。
その分類故に、総務部に所属する魔導師なんてものはあり得ないはず。本当にそんな人がいれば、噂になっていてもおかしくはないと、少女は考える。
目の前の相手への警戒心を高めつつ、彼女はさらに質問を重ねる。
「……魔術士ランクは?」
「Eランクです。信用してもらえないとは思いますが」
「当然ですわ」
フィルミニアが立ち上がり、臨戦態勢を整える。
男性――ノートの言葉は、少女が彼を不審者と看做すほどに常識外れのものだった。
魔術士にはランクがある。低い方から順にE、D、C、B、A、Sの六段階に分けられ、明に実力や功績、暗に家柄や寄付金の額に応じて魔術士ランクと軍の階級が昇降するようになっている。
そして、魔導師となることができるのは、退役時にCランク以上だった魔術士に限られる。Dランク以下の者は、元魔術士であっても魔術の指導を行うことは許されない。
だからEランクの魔導師なんてあり得ない――そんな常識を根拠に敵意を向ける少女に、男は苦笑を見せて、
「――『予備魔導師』というものを知っていますか?」
「聞いたこともありませんわ」
「ですよね。僕も、魔導師の道に誘われるまで知りませんでした」
ノートは彼女に攻撃の意思があることを承知している。
それでも彼は態度を変えない。穏やかに、丁寧に、言葉を紡いでいく。
「予備魔導師とは、Dランク以下の元魔術士が限定的な状況下でのみ魔術の指導を許される制度です。どうやら、この国には僕以外にいないようで」
「……それを証明してくださる方は?」
「学院長が。そもそも僕は、あの人に誘われて予備魔導師となりましたから」
淀みなくそう言い切った姿に、フィルミニアは警戒を解いた。
それは男性の様子から言葉に嘘はないと判断したのもあるが、それ以上にEランクが相手ならどうとでもなるという思いが彼女の胸にはあった。
再び腰を下ろす。そして少女は、今度は自分の番だと考え、
「私は――」
「フィルミニア・オーグランドさん、ですよね?」
しかしその必要はなかったようだ。名乗りを邪魔する無粋な問いに、彼女は頬を膨らませる。
「ご存知でしたのね」
「一等貴族のご息女ですから」
「……本当は、別の理由ではなくて?」
フン、と鼻を鳴らしてそっぽを向く。シニカルな笑みに歪められた口から、諦観と自嘲を孕んだ声が放たれる。
「『期待外れ』――そう呼ばれていることを、まさか知らないはずがないでしょう?」
「小耳に挟んだ程度には」
「でしたら、私のような不出来な生徒に構っている暇などないのでは?」
「暇ならありますよ。僕は授業を受け持っている訳ではないので、個人指導がない限りは大概暇です」
「……不出来、というのは否定しないのですね」
自分で言っておきながら不満そうな様子のフィルミニア。
対するノートはゆっくり頷き、
「当然です。――だって僕は、君のことをよく知らない。不出来かそうでないか、判断できるはずもない」
「――」
語った言葉に、少女は目を見張った。
上っ面だけを捉えられて、持ち上げられ、そして落とされた彼女に、そんなことを言ってくれた人はこれまで誰もいなかったから。
「悩みの種は、それですか?」
「……はい?」
「浮かない顔をしていましたから。こんな場所に迷い込むほど、思い詰めていたのではないかと」
図星だった。
惨めさからか、少女は縮こまって俯いてしまう。右手の傷がジクジクと痛みを増し、手巾に赤い染みが広がっていく。
「魔導師の――いえ、教師の端くれとして、どうにも気になってしまうのです」
ノートは椅子に背を預けた体勢で、ジッとフィルミニアを見つめ、
「話を聞くぐらいなら、今の僕でもできますが――どうでしょう?」
男が口にしたその提案に、気づけば少女は笑みを浮かべていた。
友人にも教師にも見限られ、もう全てが終わったような気になっていた。哀れで、惨めで、悪意以外には何も向けられることのない己に、まだこのようなことを言う人がいるなんて――
「――笑わせないでください」
――ずいぶんと落ちぶれた、そして見縊られたものだ。
「貴方に話して何になりますの? Eランクの魔術士が、いったい何の力になるというんですの?」
怒りを通り越した失笑を漏らして、少女は突き離すように言葉をぶつける。
その響きには、今まで一人きりで溜め込み続けた鬱憤も含まれていて――端的に言ってしまえば、ただの憂さ晴らしだった。
「確かに私は悩んでますわ、苦しんでますわ。でも、それが貴方と何の関係がありますの? 貴方に私の何がわかりますの? 貴方に私の苦悩を理解できると、本当にそう思っているんですの!?」
テーブルに拳を叩きつけ、フィルミニアは叫ぶ。
これが八つ当たりでしかないことを、彼女は自覚している。それでも、溢れ出す思いが一度決壊してしまえば、もう誰にも止めることはできない。
「……気は晴れましたか?」
「っ!」
そんな独り善がりの少女に、しかし男は構うことなく声をかけた。
それは決して、彼女の行動を咎めるような、あるいは揶揄するようなものではない。自身に向けられた見当違いの悪意を、それでも鷹揚に受け止めている。
「大声を出すとストレス発散になると、以前読んだ本に書いてありました。自分で試したことはありませんが……あまり、効果はありませんか」
もっと他に言うべきことがあるだろうに、そのように呑気な、あるいは惚けた台詞を口にする男に少女は面食らう。
彼が視線を僅かに落とす。白いテーブルには、少女の血が僅かに滴っていた。
「不躾なことを言いました」
ノートはまた頭を下げる。
おざなりじゃなく、深々と真摯に。機嫌を損なったからとりあえず謝る、という様子ではなかった。
「確かに僕と君には何の関係も、接点もない。それに、僕より優れた魔導師はこの学院にはたくさんいる。悩みを解決したいのなら、他に適した人物はいくらでもいます」
ですが、と彼は顔を上げ、
「苦悩というものは自ら打ち明けることで初めて、誰かの理解を得られるようになるものです」
「――!」
「君の問題が解決することを祈っています。――それでは、失礼」
立ち上がった男は、右手で杖を突き、左手で本を抱え、薔薇の回廊へと歩を進める。
フィルミニアは背後へ振り向き、その小さく丸められた背に声をかける。
「ど、どちらへ行かれますの?」
「僕がここにいては、君が一人になれないでしょう。今はここを利用する人はほとんどいないので安心してください」
『どこへ』と訊かれた問いに『どうして』を答え、男はそのまま去っていった。
少女は一人、日陰の中で冷風を浴びて、膝を抱える。震える体を抱きしめる手には力が込められて、
「……『哀れなフィルマ。愚かなフィルマ。枯れた黄薔薇に残るは茨』――」
引っ掻くように立てた指が、ブレザーの上を滑る。
「――最……ッ低」
情けない醜態の代償は、強烈な自己嫌悪だった。
総務部棟、四階。
不自由な脚ながら階段を昇りきったノートは、学院長室を訪れていた。
三度のノックの後、どうぞ、と声が返ってくる。
無駄に大きな扉をゆっくり開いて室内に入る。正面には、書類仕事をこなすパンツスーツ姿の老女がいて、
「お忙しかったでしょうか?」
「構いませんよ。貴方の用事なら、左程の手間はかからないでしょうから」
老齢らしからぬ活発さと闊達さで答えた彼女は、衰えぬ眼光を男に向ける。
肩書に恥じない威厳による歓待を受けて、それでも動じることなく対峙するノートに、ヴァルテシア魔術学院の学院長を務める女性――アステル・ミスティス・メイズは作業の片手間で話を進める。
「それでご要望は? 新しい指導方法の許可? それとも生徒の研究に必要な素材の調達?」
「いいえ――フィルミニア・オーグランドさんの成績、それと試合演習の映像を貸与してもらえないかと」
その言葉に、女性の手が止まった。
顔を上げた彼女はニヤリと、どこか楽しそうに笑みを浮かべ、
「……とうとう、一等貴族のお嬢さんにまで教鞭を振るうようになったの?」
「いえ、少し会話を交わした程度です。けれどどうにも、気になってしまったもので」
「そう」
頷いた女は、机の上に視線を戻す。
「わかりました。今日中に用意させましょう、ライン先生」
「――先生、ですか」
「何か?」
いえ、とノートは気恥ずかしそうに――申し訳なさそうに笑い、
「そう呼ばれることが、不思議に思えてしまって。僕は人に何かを教えられるような、そんな大層な人間でもないのに」
「――ふふ、教師らしい驕りね。けれど『学ぶ』という行いは生徒の主体で行われるものであって、教師が『教える』のはその補助に過ぎません。教えてやるとか授けてやるとか、そんな意識を抱いた時点で教師としては三流以下です。……貴方なら、言われるまでもないでしょうけど」
「まさか。気を引き締められました、最近は指導の機会も少なかったので」
では、と頭を下げて早々に去ろうとした男に、
「――そういえば」
老女は声をかける。何事かを思い出したかのように。
「明日から、貴方の教え子が魔術指導の実習に来るわ。きっと顔を見せに貴方の元を訪れるはずよ」
「おや、そうでしたか。お茶の用意はあったでしょうか……」
ブツブツと呟きながら、ノートは部屋を出ていった。
その背を見送り、アステルは嘆息する。苦心と、呆れと、僅かながらの軽蔑を含んだ声で、一人呟く。
「ノート・ライン……いい加減に、前を向きなさいな」
決して本人届くことのない言葉を、愚痴るように放つ。
とうに壊れてしまった心に、響くはずもない言葉を。
連日投稿は無理です(弱音)。
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