邂逅
誕生日なので投稿しました。
遅筆マンなので気長に楽しんでくれたら幸いです。
シグマ歴三六〇二年。
大陸の覇者たる大国の滅亡から五十年――世界は恐るべき脅威によって危機に晒されていた。
その脅威とは、『ロムト』と呼ばれる謎に満ちた生命体。噂話ばかりが先行して正確な起源すらも定かではないその生物は、人を喰らうことによってのみ生存を許され、その養分を糧として細胞分裂のごとく増殖する。
ロムトを形作るゲル状の肉体は、あらゆる物理的な攻撃に対して形を変化させ、攻撃をすり抜ける、あるいは体内に取り込んでしまう。
対抗する手段は大きく二つ。一つは、すり抜けることなど到底叶わないほどの大規模な質量攻撃。
そしてもう一つが『魔術』――生命力から変換される魔力をエネルギー源とした神秘の術理である。
魔術の知識は各国の上層部によって厳重に管理され、許可なく他者に知識を授けることは重罪とされている。魔術という強大な力が安易に手に入ってしまうことによって生じるであろう暴動や反乱で、国が内部崩壊してしまうことを避けるためだ。
そんな魔術を専門的に学ぶための施設にして、ロムトとの戦いを生業とする軍属の魔術使い――通称『魔術士』を育成する国家機関こそが、各国に一つずつ存在する『魔術学校』である。
そして。
その魔術学校の教鞭に立ち、若き魔術使いたちに神秘の手解きを行い、次代を担う兵士へと育て上げる元魔術士を――人は『魔導師』と呼んだ。
――光刃が飛翔する。
一つ、二つ、三つ、四つ――総計十二。三日月型に形成されたエネルギーが、空を裂いて突き進む。
それらは四方八方に散りながら、しかし中途で弧を描くように方向転換し、一点を目標と定めた。
それは、一人の少女だった。彼女は視線で光刃を捉え、多角的に迫る十二の攻撃に対し、
「ふっ――!」
一息で気合を込めると、自身の周りに防壁を展開する。
正面の一枚目に二発、右上の二枚目に三発、左後方の三枚目に二発、そして頭上の四枚目に二発が命中して、
「――あ、ぐッ!?」
右後方の上から迫った三つの刃の、内二つが少女に命中した。
右下腕と左外腿、二箇所に走る鈍い痛みに彼女は苦悶の声を漏らす。本来ならば斬り裂かれているはずの若き肉体は、しかし演習用の――戦闘用のボディスーツのおかげで裂傷を免れている。とはいえ攻撃の威力を軽減する訳ではないので、打撲くらいにはなっていてもおかしくないが。
膝から崩れ落ちる少女を喜悦の表情で眺めるのもまた、同い年の少女だった。
紫の長髪、スレンダーな長身、切れ長の目、気品を感じさせながらも高慢な態度――『千刃の舞』の通称で呼ばれる彼女は、自身が傷つけた相手に嘲笑を見せつける。
それと相対する少女もまた、傷つきながらも気高さを感じさせる姿だった。鮮やかな金髪をポニーテールに結い、白い肌、大きな瞳、厚い唇、整った鼻筋によって構成されたその顔は、十人いれば十人全員が『美少女』と評するであろう、美しさの中に可愛らしさを宿したものだった。
紫髪の少女も見目麗しいが、客観的かつ一般的な事実として、彼女の容貌がそれよりも数段美しいのは誰の目から見ても明らかだった。
――だから『千刃の舞』は、滾っていた。
自分よりも優れた相手を、自らの手で嬲るこの瞬間が、彼女にとっての至福の時間だ。
今もそう。彼女が向ける反抗的な眼差しが――ああ、まったく、なんて無様なのだろう、と。可笑しくってたまらず、口元を隠した上で冷ややかな失笑を漏らした。
その無自覚な挑発を黙って受け流せるほど、金髪の少女は大人じゃない。怒りのままに攻勢に転じようとして、
「遅すぎるわね」
「――く、あああァッ!」
しかし逆に、新たな攻撃を叩き込まれた。幾十もの光刃、幾重もの斬撃が、急所だけを避けて全身に降り注ぐ。
甚振る、という言葉がこれほど相応しい光景もそうはないだろう。蓄積されていく痛み故に、防御に意識を割くことのできない彼女には、もはや惨めに蹲って耐え凌ぐことしかできない。
やがて紫髪の少女が、持ち上げた左手を握り締める。さながら楽団の指揮者のようなその仕草で、宙に漂う三日月型の凶器の一切が霧散した。
――そしてその時点ですでに、相手は戦意を失っていた。
「――ほら、言いなさい」
口角を吊り上げた笑みでそう口にした彼女は、蹲る相手の脇腹を蹴りつける。
満身創痍の少女は、腹部の新たな痛みに悶ながら、虚ろな顔で呟いた。
「――――…………ま、いり……ました……」
その敗北宣言を受けて、演習場にブザーが鳴り響く。
『勝者、チェルシャ・アーティス』
無機的なアナウンスが響くと、周囲からはまばらに二種類の音が響いた。
つまりは、勝者を讃える拍手と、敗者を嘲る冷笑だ。
満足気にそれを受け止める勝者はしゃがみ込んで、敗者の髪を掴む。そのまま乱暴に頭を持ち上げた彼女は、悦に浸って言い放つ。
「さすが、『期待外れ』と呼ばれるだけはあるわね――弱すぎて退屈。この学院にいる意味ないんじゃないかしら?」
そして、手を離した。
悠々と演習場を去っていく『千刃の舞』の後ろ姿を呆然と見ながら、少女は――フィルミニア・リイル・オーグランドは、痛みに肩を震わせた。
身体の痛み以上の辛苦――心を圧し折る挫折に、一筋の涙を流していた。
ティオール帝国内、ヴァルテシア魔術学院。
壁や床に点在する年季の入ったヒビや染みを、内壁の塗装と同じクリーム色の照明が覆い隠す中、その明かりが少女の形の影を作っていた。
俯き、力なく歩を進めるその影は、今しがた敗北を味わったばかりのフィルミニアのものだった。全身を覆うタイトなボディスーツから、学生服である青と黒で彩られたブレザーとスカートに着替えた彼女は、陰鬱な表情で肩を落としている。
落ち込んでいる、誰の目から見ても明らかに。そしてそれは、先の敗北によるものだけでなく、
『ほら、あれ――「期待外れ」だよ』
「――ッ!」
すれ違いざま、あるいは遠巻きにこちらを認識した他の生徒たちの、愚弄と侮蔑の声の数々が原因でもあった。
『知ってる。一年生の、堕ちた天才でしょ?』
『才能に胡座をかいているからだよ、いい気味だ』
『あんなのが一等貴族だなんて、なんて情けない……』
ギリ、と唇を強く噛む。
うるさい、うるさい、うるさい――そう叫びたくなるのを我慢して、フィルミニアは足を早めた。この場で何を言ったとて負け犬の遠吠えでしかないことを、彼女は知っている。
悔しい。たまらなく悔しい。なぜこれほどまでに自分が馬鹿にされなければならないのか。
確かに、期待外れだったかもしれない。けれども、それでも、この学院の半分以上の生徒は、彼女よりも劣っているのが事実だ。
なのに、だ。そんな連中こそが、寄って集って彼女を責め立てる。主導している別の貴族の後馬に乗る形で、虎の威を借る狐のように、ここぞとばかりに優越感に浸っている。
ふと、笑い声が聞こえた。フィルミニアがそちらに振り向くと、少し離れた場所に、先の対戦相手だったチェルシャ・エヴィンダ・アーティスがいた。その周囲には、取り巻きの女生徒が数多くいて、
「――圧勝って、勝負にすらなってないわよ。あんなのに負けるようなら、魔術士なんて諦めた方が賢明だわ」
その言葉に、周囲の女生徒たちが笑い声を漏らした。チェルシャの嘲笑に、誰もが賛同を示していた。
――見たくなかった。
だって彼女たちは、フィルミニアが学院に入学して初めて――否、生まれて初めてできた同年代の友人なのだから。
「――ァ、ハ」
もっとも醜聞が広まると共に自分の元から離れていった時点で、そう思っていたのは自分だけなのだろうけど――と少女は自虐する。
乾いた笑みに、けれど慌てて口を塞いだ。高貴な身分に生まれた人間には相応の振る舞いが要求される、というのは当主である父が常々口にしている言葉だ。これ以上家の名に傷をつけると、何を言われるかわからない。
周囲に人影がなく、誰にも見られていないことを確認して安堵の息を吐く。
それと同時、廊下の先に見知った人物の背中が見えた。ダークブルーのシャツを着た細身の姿は間違いなく、
「――クルージオ先生!」
少女は、縋るようにその名を呼んだ。
『――さすがオーグランド家のご息女だ。素晴らしい才能を持っているね』
入学当初から自分に目をかけてくれていた恩師。
貴族である自分を特別扱いせず、教師と生徒という立場を正しく保って接してくれる、学院内でも有数の魔導師。
『気に病む必要はないよ、誰にでも調子の悪い時はある。気負わず、何度でも挑戦すればいい』
自分が不甲斐ない様を見せる度に周囲が失望と落胆の感情を向ける中、ただ一人「それでもいい」と言ってくれた理解者。
彼ならば、あるいは――しばらく顔を合わせていなかったが、また彼の元で修練に励めば、もしかしたら現状から脱することができるのではないかと、そんな望みをフィルミニアは抱いていた。
呼び止められた男性――ゼイロン・クルージオは、立ち止まって振り返り、いつもにこやかに笑いかけてくれた端正な顔に――
「――ああ、君か」
――路傍の小石を見下ろすかのような、無機質な表情を浮かべて彼女を見た。
今まで彼が見せたことのないその顔は、少女の息を詰まらせるには十分だった。言葉が出ないフィルミニアに、男は苛立ちの含んだ声で、
「何か、用かな? これから指導があるんだけど」
指導。その言葉に、ようやく自分の言うべきことを思い出して、
「あ、あの……私、にも」
「うん?」
「私にも魔術の指導を……ご、ご教授いただけないか、と……!」
射竦めるような瞳と向き合い、勇気を振り絞って申し出た。
長いスカートの裾を強く握り締め、縋るように願う。少女の緊張の面持ちに対して、僅かに思案した男が出した答えは、
「――悪いけど」
「っ!」
「今教えている生徒だけで手一杯なんだ。これ以上時間は割けないな」
明確で無慈悲な、拒絶だった。
「そ、う……ですか……すみません、お時間を取らせましたわ……」
そう言って頭を下げたフィルミニアの足取りは、先よりもずっと重い。男の脇を通り抜けながら「先生は優秀な魔導師なのだから仕方ない」と、心の中で自らにそう言い聞かせる。
それでも、落胆の思いは抑えられるものではない。怒り、悲しみ、焦り、苛立ち、恐れ――そういった負の感情が胸の内に渦巻くのを、僅かに残った自尊心でどうにか押さえつけようとする。
「――オーグランド君」
そうして去ろうとしたところで、先の魔導師が後ろから声をかけた。
拒絶されたと思ったばかりの弱った心であれば、彼女が淡い期待を抱いてしまうのも無理はないだろう。助言や、もしくは激励の言葉をもらえると思ったフィルミニアに、
「行き詰まったからといってすぐに人に頼るのではなく、まずは自分で解決策を見出す努力をしなさい。それができなければ、魔術士として大成することはないよ」
しかし浴びせられたその言葉は、彼女の自信とプライド、そして彼への尊敬と信頼を打ち砕くには十分なものだった。
「…………ッッッ!!!」
その瞬間、彼女の心を占めたのは今まで味わったことのない失望――いいや、絶望だった。
気づけばフィルミニアは、その場から逃げるように駆け出していた。嗚咽を堪えて、それでも止め処なく溢れる涙に濡れる顔を両手で覆い隠しながら。
自分が醜態を晒している自覚はある。けれどもう、貴族としての振る舞いなんてものを気にしている余裕などないし、その必要すらないと彼女は思っていた。友人に見捨てられ、恩師に見放された自分の姿は、もはや外面を取り繕った程度じゃどうにもならないほどに惨めなのだから。
――いつから、こうなってしまったのだろう。
家柄に恵まれた。容姿に恵まれた。才能に恵まれた。環境に恵まれた。
家族には恵まれなかったけれど、反抗心をモチベーションにして努力を積み重ねてきた。身体を鍛え、勉学に励み、魔術を習う――全ては家に頼ることなく一人で生きていけるだけの力を手に入れるために。
その成果は、このヴァルテシア魔術学院に入学してすぐ現れた。同期の生徒に先んじて魔術の知識と経験を得ていたフィルミニアは、同様の他の貴族や権力者の子弟らの中でも抜きんでた実力を有していた。
周囲の人たちに褒めそやされて、持ち上げられ、それは確かに心地よくて、少なからず浮かれていて、それでも努力を欠かすことはなかった。生来の真面目な性格は、妥協も怠惰も許さなかった。
けれども、彼女は次第に追いつかれ、そして追い抜かれるようになっていく。
それはフィルミニアにとって、決して小さくない衝撃だった。幼少期のほぼ全てを捧げたと言っても過言ではない努力の結果が、魔術を教わって一年にも満たない者たちに劣るのだから。
そして何よりも――
『才能に胡坐をかいているからだよ、いい気味だ』
『行き詰まったからといってすぐに人に頼るのではなく、まずは自分で解決策を見出す努力をしなさい。それができなければ、魔術士として大成することはないよ』
――努力をしていないと、周囲に思われることが許せなかった。
身分が高いから? 才能があるから? 成績が落ちたから? 人望がないから?
そんな奴は努力しない、なんて。いったいどこの誰が決めたというのか。なんでそんなことを、決め付けられなくちゃいけないのか。
努力が無駄だと、そう言われてしまうのは腹立たしいが仕方ない。
けれど努力そのものを、費やした時間を、熱意を、そもそも『なかったこと』にされてしまったら、もう何も残らないじゃないか。
「私、だって……ッ!」
――頑張ってるのに、と。
吐息に混じってかき消された言葉と共に、力強く握り締めた拳を感情のまま、近くの壁へと叩きつけた。
血が滲む。しかしそれは、彼女の想定していた形ではなく、
「っ……これ、は……?」
殴りつけたものは壁ではなかった。深紅の花弁を散らした先、緑の蔓から伸びた棘が白い肌に傷をつけている。
薔薇の花。手入れされた庭園の、トンネルのようにずらりと並ぶアーチの全てが、その赤と緑に覆われていた。
そして我に返り、気づいた。
その場を離れたい一心で走っている内に、知らない場所に来てしまったことに。
「ここ、どこ……」
魔術学校は全寮制であり、敷地内には四千人の生徒と五百人の教職員が暮らしている。その広大な土地は最上級生である四年生ですら把握しきれている者はほとんどいない。であれば二年生への進級を控えたフィルミニアの知らない場所があってもおかしくはないだろう。
ブレザーのポケットから取り出した手巾で頬に滴る涙を拭い、それから血が溢れ出る右手の傷に覆い被せる。
それが済んだ後、少女は周囲を見回した。まずはおおよその現在位置を把握するために、何か目印となるものはないかと探し始める。
少しして、薔薇のアーチと逆方向に見える建物が、見知った校舎を裏から見た姿であると気づいた。職員室や学院長室などの教師や事務員が利用する場所であるためにほとんど訪れたことはなかったけれど、その裏手にこのような庭園があるなど思いもよらず少女は驚く。
そして彼女はやがて、何とはなしに、吸い込まれるかのように、薔薇のトンネルに入っていった。そこに特別な理由はなく、強いて言えば他にすることもなく、またそれをしてはいけない理由も見つからなかったから、だろうか。
背の高いアーチは、平均の域を出ない背丈の――どころか少し低いくらいの――フィルミニアが通るには何の苦もなかった。鼻腔をくすぐる薔薇の匂いに、荒んだ心が落ち着きを取り戻していく。
「『赤薔薇の回廊は乙女を喰らう。その光と香りで拐かして』――って、そのままですわね」
この甘美な道が永遠に続けばいいのに、と少女が思った矢先、僅か三十秒ほど歩いたところでアーチは途切れた。
その先に通じていたのは、広く大きな四阿だった。屋根に日光を遮られ、周囲に広がる薔薇の花畑を覗ける建物は、風の通りが良いせいでこの時期には少し寒い。
けれどもそんな寒さよりも、あるいは美しい景色よりも、彼女には気にかかることがあった。
フィルミニアの視線の先、家屋の中央に用意された白色のテーブルとそれを囲む六つの椅子、その一番手前の席に、一人の人物が背を向けて座っていて、
「――珍しいですね。あまり、人が迷い込む場所ではないのですが」
その人物が、声を発した。
男性にしてはやや高い中低音を、柔らかな口調で投げかける相手は、広げていた本をテーブルの上に置き、立てかけていた杖を手にして立ち上がる。
そして振り向いた男は、優しげな――それでいて儚げな笑みを見せるのだった。
この出会いが。
少女の後の運命を変えることになると、今の彼女には知る由もない。