悪役と奇跡狩り
伊月ともやさんの「真紅の破壊者と黒の咎人」(https://ncode.syosetu.com/n6178dn/)の世界で遊ばせて頂ける事になりました。伊月さん、ありがとうございます!
原作世界の雰囲気を書ききれない技量の無さが露見していますが、楽しんでいただけたらと思います。
なお、お酒の設定を始め、色々適当です。
半地下になっている酒場は風通しが悪く、数点のランプの僅かな明りの中では、部屋に籠もる葉巻の煙は視界の邪魔だ。黒いカクテルドレスの裾から覗く膝付近に煙が流れてきて、女はふっとそこに息を吐いた。肩ほどで揃えた黒髪とちょっとキツメの黒い瞳の、三十手前の若い女である。首元には剥き出しの肩を誤魔化すような大き目のファーを巻き、肘まであるレースの手袋、エナメル質のピンヒールとどれも真黒の衣装で、薄暗さの中に自然と溶けてしまいそうだった。
今、店の隅のカウンタに席を取っているのは彼女だけだ。すっと、普段柔らかなクロイドの瞳が、警戒に細まる。とそこに、人並みを縫って“赤毛”の給仕が通り過ぎた。
「どう、クロイド」
それまでさりげなさを装って周囲を観察していたクロイドは、痺れを切らした相棒の声に少しだけびくりとする。先程の“赤毛”のそばかす娘は、アイリスが変装した姿だ。女は化粧で化けると言うが、なかなかどうして15歳には見えない。ホールとキッチンを行ったり来たりしている彼女が、愛嬌にぺろりと舌を出したので、彼は変化が無い事を目線で告げた。そしてちらりと壁際に目線を向ける。
場に沿う様にネクタイを外している不良紳士の格好のクロイドだが、つい几帳面な性格を出してきっちりシャツを止めていた。その事に気付いて、動揺を隠す様にシャツの上ボタンを外す。人を避ける振りをしつつ、壁際の目立たない位置まで移動すると、余ったグラスを彼に渡すため、近くに位置取りしていたアイリスが手を伸ばした。受け取りながら、クロイドは声を潜める。
「………カウンタには、女性が一人だけだ。まだ誰とも接触していない」
「そう。でも、油断しないで。合図は、72年物の蒸留酒よ」
「わかっている」
蜜事のように囁き合い、再びキッチンとホールの往復を始めるアイリスの背を見送って、彼はポケットから懐中時計を出した。もうすぐ21時。情報によると、そこに魔具を取引する違法団体の姿が現れるという。カチ、カチと時を刻む音に集中していると、カウンタに座っている女が酒を注文する声を拾った。
「蒸留酒を」
蒸留酒の中でも、“バーボン”はホワイトオークの樽を使う。そして、その樽が熟成に使われたのは70年代前半だ。『合図は、72年物の蒸留酒』、アイリスとクロイドの両者がぴくりと反応を示すと、再び示し合わせたように二人はカウンタが良く見える壁際に集まり、そして――ゆらりと、カウンタの女の影が動いた。それが何かを認識する前に、その影は、すっとアイリス達に向かって長さを伸ばす。
一番始めに反応したのは、アイリスだった。手に持っていた盆を投げ捨てると、短めのスカートの中に手を伸ばして短剣を取り出し、考えるよりも先に剣を構える。刹那、衝撃を受けて、短剣の刀身がビン!!と音叉のように鳴った。重い衝撃にきっと顔を上げ、刀身越しにアイリスが見たのは、金の双眸。
「ほう」
銀、いや灰色の髪が揺れ、無造作に伸ばされた毛先が赤いリボンで一括りにされているのに気付いた。アイリスの目の前、金色の鷹の目が細まり、強面の薄い唇が、感嘆を示す、低い男の声を吐く。一体いつの間にこの場に居たのか、ちらりとアイリスが視線を流すが、アイリスと同じタイミングで、戦う空間を空けるために周囲のテーブルと椅子を蹴飛ばしたクロイドも、男の出現に動揺を見せていた。周囲の男たちより頭一つ分長身で、目の前に立たれる事で異様な威圧感を感じる男の存在を、男自身が隠していたのだろうが、二人はまったく気付かなかったのである。
アイリスの剣が受け止めたのは、男の拳。剣と対抗するためだろう、金属の小手をしている。喉の奥で笑う様な男の声を受けて、アイリスは鬩ぎ合う拳と剣の対抗を強めた。だが、同じ力で男も押し返す。むしろ余力が見えて、アイリスは歯噛みした。さらに彼女が歯噛みする事に、男はちらりと詠唱を始めるクロイドを見て、鼻で笑う。
「女に庇われるか、小僧」
瞬間、むっとした気配がアイリスとクロイドに立ち上がるが、特に前者は獰猛に笑むと、ぎゅっと柄を握る力を強くした。軽く顎を逸らすようにして、男を見上げる。
「私が相手をしてあげると言っているのに、物足りないのかしら?」
言えば、目の前の男が虚を突かれた様に瞠目した。思わずと言った様にふっと剣から圧力が消え、チャンスとばかりにアイリスは剣を振るう。下方から男の顎先を狙った剣先は、しかし手先だけで男に払われ、その重い衝撃にアイリスは僅かに横に足を踏み出していた。
瞬間、ただ一歩、その男が前に出る。足を一歩前に出す動作、たったそれだけで、後方で構えていたクロイドの目前に距離を詰めると、彼の喉を潰す様な勢いで、男が首を掴んだ。
「――っあぐ、」
「クロイド!」
アイリスは、振り向きざま刀身を横に返し、男の背後に切りつける。短剣とはいえ、男の背中は攻撃範囲だ。けれど、それも男の肩越しの視線で把握され、クロイドを吊り上げたまま、さらに一歩前進するだけで避けられた。
「このっ」
一度手元に引いた剣を即座に構え、アイリスは男の首を狙って、剣先を突き出す。軽く首を倒され避けられた。だが、先程の男の動きで剣戟についてこれる技能があるとわかっている。繰り返し首を狙って突き、追いたてるように前進する。たまにフェイントも入れているが、男は引っ掛かるような素振りもなく、息も乱さず、最低限の動きだけでアイリスの剣戟を全て避けた。
「娘」
一言、男が声をかけてくる。剣の腕を緩めず見れば、先程までの興味深そうな表情から一転、無に近い冷やかな表情が彼女を見下ろしていた。
「お前では相手にならん」
「なっ」
思わずカッとなり、踏み込んだ瞬間、殆ど重心のブレを見せずに、男が片膝を上げた。ひょいっとばかりに持ちあがる彼の膝の上には、アイリスが握った短剣の柄がある。男の膝と剣の柄が当たり、コンっと軽い音が響いたが、アイリスの手に掛かった圧力は強かった。膝に当たった手首から先が、びりっと痺れて思わず力が抜ける。いけないと思った時には、アイリスの手から短剣が零れ落ちていた。
「アイリ…ッ!!」
男に首を掴まれたまま、けれど、もがいていたクロイドが声を上げる。彼は全身をバネにして、首を掴む男の腕にしがみ付き、そこを支点に身体を持ち上げると、勢いのまま、男の顔目掛けて蹴りだした。
「ふん」
アイリスの方を見ている男である。が、後ろに目でもあるのか、再び首をねじってそれを避け、不快だったのか、二呼吸程上体を捩じって力を溜める。クロイドの首の圧力が強まり、次いで、アイリスの方へと思いっきり投げ捨てられた。
「アイ…!!」
投げ飛ばされたと理解するかしないかぐらいで、クロイドはアイリスを巻き込む事を恐れて声を上げるも、途中で柔らかな彼女と転がっていたのだろう椅子の一部にぶつかって、声は途絶えた。
突然の乱闘に、そして呆気ない幕切れに、酒場の空気が凍る。倒れる机に椅子、そして投げ捨てられた、まだ年若い男女、そして彼らの前に仁王立ちする、一応の身形の長身の益荒男。ぱっと見、まだ場慣れしていない子供を相手に因縁を付けて乱暴した暴漢の図だ。
「ちょっと、貴方ね。はしゃぎすぎじゃないかしら」
衝撃に呻くアイリスとクロイドの横、コツコツとヒールで歩く音が近づき、そう言った。漸く身体を起こした二人が見たのは、カウンタで蒸留酒を頼んでいた女である。
要警戒対象が近づいてきて、咄嗟にクロイドはアイリスを隠す様に身体を動かした。それにちらりと視線を投げた男は、次いで女を見返す。
「お前が、“奇跡狩り”を追い返せと言ったんじゃないか。≪イザベラ≫」
「そうね。でも、相手は子供だし、今の騒ぎで取引相手は帰っちゃったわ。貴方どう責任を取るの」
女の少しだけ不機嫌そうな声に、男は先程までの殺気を消して、肩を竦めて見せた。彼に反省の色がないと見た、イザベラと呼ばれた女は、そうしてじっと警戒に見上げるアイリス達を見下ろす。
「お嬢ちゃん達。せめて、お酒が飲める年になってから、いらっしゃいな」
彼女は心底困ったような顔でそう言い、「≪氷≫」と呟く。それが詠唱だと気付いたクロイドは咄嗟に、防御魔法を展開していた。次の瞬間、イザベラが指先を軽く動かし、クロイド達の方へ、親指を立てた状態で人差し指をつきつける。彼女の指先に小さな、直径5センチほどの魔法陣が浮かんだ。
「≪砕け≫」
詠唱はごくごく短いものだ。だがクロイドは、イザベラが、突きつけたのとは反対の手でさりげなく耳元の青いイヤリングに触れたのに気付いた。魔力の流れが、青いイヤリングを通して、突きつけた指先の魔法陣に集まるのも、ごくごく自然と理解する。
――魔具。魔力を持ち、奇跡を起こす、忘れられた時代の遺物。
「貴女達は――――!!」
静かに告げた、女の魔法が放たれる。膨れ上がった冷気は、アイリスの壁になるクロイドを叩き、防御魔法に弾かれた攻撃的な冷気は酒場の壁を突き破って、氷の塊となった。防御魔法の形に氷が核を成していく。
「うぅ…ク、クロイド…?」
クロイドとアイリスを包む、完全な球の形になった氷の中で、アイリスが薄らと目を開ける。それに少しだけほっとして、クロイドは背後の大切な相棒を振り返った。
「すまない、アイリス」
だが、その声は苦い。
「――取り逃がした」
彼の言葉の通り、半地下の酒場は崩れ、氷の中に閉じ込められた彼らの周囲からは、何事かとやってきた人々の気配が増えていった。