第六話 感情の機能
「エネルギー源は“愛”だって? そんなのに勝てるの……」
「“愛”は強敵だと?」
「違うの? いろんな作品であるじゃないか。愛を否定する敵が、愛の素晴らしさを説く主人公側に倒されるとか……」
シニは腹を抱えて笑って見せた。
「それが真実だとでも?」
深く考えたことはなかったが、真実かと問われれば迷いが生じる。子供の頃から、愛は何にも勝る感情だと刷り込まれてきた。そのことに気づかされる。
「良、君は感情をどう捉えているのかね?」
「どうって言われても……。恐怖に打ち勝てとか言われてるのを見れば、恐怖は忌むべき感情だと思うし、怒りにまかせてどうとか聞けば、怒りは冷静さを失うマイナス要因だと……」
思っていることを口にするも自信が無い。それを見透かしたように、シニは腕組みをして、溜め息のような空気の揺らぎを表現した。
「感情は人間の持つ機能のひとつだ。何故、人は恐怖するのか、考えたことはないか?」
「それは……」
何かを怖れた時のことを思い出す。冷や汗が出たり、脈が早くなったりした気がする。それは感覚が研ぎ澄まされたとも云える。
「生命の危機に瀕し、恐怖を感じた時に、肉体的な変化が起きる。生き残る為の現象だ。それでも忌むべき感情か?」
良は黙って首を横に振った。
「こんな話がある。痛覚を失った人間が自分の火傷に気づかず、火だるまになって死んだ。痛みは自分がダメージを受けたことを知らせる機能だが、それが無いと自分が負っているダメージに気づかずに、取り返しのつかない状態に陥る。痛みに耐えろ、恐怖に打ち勝て、似ているとは思わないか?」
「そうかもしれない……。でも、いろんな作品で愛の重要性が説かれているのは……」
「落としどころとして無難だからだろう。前例があるから創作しやすい、だから量産された。その程度のものだと判断している。君は“愛は素晴らしい”“恐怖心は捨て去るべきだ”と、無条件で言えてしまう人間を疑うべきだろう。人は自らが抱く感情に寄り添い、否定することなく、共に歩んでいく覚悟が要るというのが、人間を観察してきた私の持論だ」
エネルギー源として人間の感情を見てきた彼らの言葉だ。人間とは視点が違うハズなのに、その見解は良にとってしっくりくるものがある。ただ、“憎しみ”にも機能としての役割があるとは思えない。
「僕が集める“憎しみ”にも、機能としての役割が?」
「あるとも」
「それって……」
「憎しみもまた、生きる力だ」
残酷な答えが返ってくることを予想していたが、違ったベクトルの言葉が戻ってきて、頭の中が真っ白になった。
「自分を押し潰そうとする何かに対し、綺麗な感情だけでは太刀打ちできない。憎しみがあるからこそ、自分を害するものを憎悪し、生きることを諦めない力を得るのだ。憎しみとは、自分を害するものを排除し、安らぎを取り戻そうとする執念に他ならない」
「でも……」
「否定的な意見もあるだろう。だが、私の見解は変わらない。この見解が君らにとっても正しいとは言わないが、我々が理解して納得しえた答えだとだけ言っておこう」
大輝にメールを送った時のことを思い出す。
憎しみに任せて文章を綴っていた時間はあっという間だった。何ともいえない充実感と、極めて高い集中力で、勝手に指が動いていたように思う。あれは彼の理不尽さに屈したくないという生きる力だったのかもしれない。善悪は別として。
「人間は美徳というものに縛られ過ぎなのだ。立派な人間たれとする心構えは、心の余裕なく生きる者にとっては、生きる妨げでしかない」
「いや、だけど……」
「常識を疑え、立派さを疑え。盲目的に信じるだけなら誰にでも可能だ。疑い尽くし、疑う余地を消して初めて、君は揺るぎない信念を持てるだろう。教えられた道徳は、組織として人が機能し易い社会規範かもしれないが、人が生き易い発想だとは限らない」
それだけ言うと、シニは空気の揺らぎを泡に変え、少しずつ消滅していった……。
10月20日、木曜日。
朝になっても、代理バトル絡みのニュースは何処も取り上げていなかった。学校も普通に授業があるらしく、休校だという連絡は回ってこない。シニたちが“うまくやった”のだ。
長い通学時間をかけて、2年D組の教室へと向かう。
教室前の廊下には大輝が立っていた。彼は苛立っているような、それでいて戸惑っているようにも取れる表情をしている。
「このメール……」
スマホの画面を見せられる。良が送ったメールの文章が表示されていた。
「何だよ、これは?」
「それなら説明した……」
そう言って代理バトル前と最中に話した内容を振りかえったが、自分が言った言葉が出てこなかった。それどころか、誰と戦ったのか思い出せない。確かに誰かを倒したのに、記憶の中では相手の顔がボヤけている。
「やっぱり、説明したのか……。なんか、そんな気がしてた。でもよ、何にも思いだせねぇ~んだ。このことで、他にも誰か絡んでいなかったか?」
大輝はスマホをポケットにしまうと、落ち着きなく歩き回った。
「他にもいた気はする。でも、僕が言いたいことは変わらない。メールの通りだ」
「テメェ……」
拳を握る彼を見て、すぐに暴力に打って出るのは猿並みだと言おうとしてやめる。前にも同じことを口にした気がしたからだ。デジャヴュというのだろうか……。いや、違う。何かがおかしい。
でも、今は大輝への対応を考えなくてはいけない。無駄に不快感を与えても、相手が暴力に打って出たら損をするのは自分だ。この場合の最適解は何か。
それは自分の正当性と主張に妥協しないことであり、彼との距離を取ることにある。
理不尽さを受け入れることで、彼が理想とする十河良になるのは容易く、今まで通りという意味では楽かもしれない。だが、それでは後悔を伴う関係性を維持するだけ。自己犠牲を条件にした波風を立てない人生はもういらない。
自分の人生は、彼の為にあるのではないのだから――
「大輝がもし、貸したものを勝手に売られたらどう思う?」
「それは……。だからって、こんな胸糞悪いメールを!」
「そのくらいの文面じゃないと、僕の胸糞の悪さは伝わらないだろ? 伝わっていたら、そこまで自分勝手にできない」
大輝は手を振り上げたものの、良が真っ直ぐに目を見ていると、ゆっくりと下げて大きく息を吐いた。
「ほらよ……」
札束と小銭が渡される。
「定価で弁償すりゃ、いいんだろ? もう、お前からは何も借りない」
両手をズボンのポケットに手を突っ込むと、面白くなさそうな顔で大輝は廊下を歩いて行った。その後ろ姿が、何だか小さく感じられる。
「何かあったのかよ、なぁ?」
教室に入ると毅が驚いた顔を見せた。隣にいる祐樹はスマホをいじりながら、横目でこっちを気に掛けている。
「別に。勝手に売られたソフトを弁償してもらっただけだよ」
「それでか、急に大輝が金を貸せって言うからよぉ……。無理して貸したんだけど、困ってんだ。受け取った分、貸してくんないかなぁ?」
返す為に毅から借りたらしい。消費者金融を渡り歩いて、借金を増やしていく程度の低い人間みたいな行為に嫌気がさした。金が無いにしても、もっと考えようがあるだろうに……。
貸してしまった毅には同情するところもあるが、それは毅の問題であって自分の課題ではない。せっかく片付いた大輝絡みの問題を、毅に貸すことで無に帰してはいけない。毅のことだ。大輝が返したら返すとか言い出すに違いない。
「もう貸し借りは、しないことにしたんだ。他をあたってよ」
「冷たくないか、なぁ?」
触れてこようとする毅の手を避けるように半歩下がる。良から借りるのは無理だと思った毅は祐樹の袖を掴む。
「祐樹、頼むよ。なぁ?」
「利害得失を検討しても、貸すべき理由が一つもない。担保になるものの提示もなければ利息もない。そんな貸し借りなど問題外だ」
スマホの画面から目を離さずに、祐樹はサラッと無感情に言い切った。今は、それどころじゃないといった感じに見える。
困った顔の毅をそのままに、良は自分の席に着いた。祐樹も自分の席の方へと歩いていく。もう、大輝や自分の席の周りに集まって話すことはない。そんな予感がする。
昼休み。
学食で昼食を取った後に、誰もいない中庭に出る。木製のベンチに腰掛け、小声でシニに問う。
「シニ。次のターゲットの名前をもう一度」
目の前に空気の揺らぎが出来る。今回は正八面体に近い形状だ。
「北村瞳子だ」
忘れないように頭の中で繰り返す。彼女に“憎しみ”を抱かせられなければ勝利は無い。生き残る為には、彼女と接触して憎しみの引き出し方を考える必要がある。
「それ以上の情報は教えてもらえないの?」
「ああ」
仕方ない、と気持ちを切り替えて保健室に向かう。養護教諭ならクラスくらい訊きだせるかもしれない。
保健室に入ると、出て行こうとする保坂美優とすれ違う。相変わらず暗い表情だったが、長い髪から香る匂いは心地よかった。
彼女の香りが消えると、保健室特有の匂いが鼻につく。消毒液と何かが混ざった匂いだ。部屋には薬の類が入った棚があるので、そこにある薬品の匂いかもしれない。他には、測定器具、診察台、養護教諭用の椅子と机がある。カーテンで仕切られた区画があり、その中にはベッドがあったように思う。
「あら、どうしたの?」
ショートカットの養護教諭に声をかけられる。30代半ばくらいの女性で、やや釣り目気味の目と厚い唇が印象的な人だ。服装は上が薄手のセーター、下がタイトスカート。その上に白衣を纏っている。あまり保健室には来ないので、彼女の名前すら知らない。
「ちょっと、相談がありまして……」
「何かしら? まぁ、座って頂戴」
「失礼します」
丸椅子に腰かけ、養護教諭に体を向ける。彼女は作業中だったパソコンのファイルを閉じ、座っている肘掛付きの椅子を回して向き合った。
「えっと、北村瞳子さんって、知ってます?」
「ええ、知ってるけど……。彼女が何か?」
「クラスを教えて頂けないでしょうか……」
養護教諭の目が訝しげになる。理由もなしに訊かれれば、不審に思われても仕方がない。なので、適当な理由を付けてみる。
「恋愛絡みの悩みと言うか、その……」
「あらま、青春してるのね」
モジモジしてみせると養護教諭は破顔した。
「クラスを訊いてどうするの?」
「気持ちを伝えようかと……」
「そう……。残念な結果になっても、ストーカーになっちゃダメよ」
「はい」
大きく頷くと、養護教諭はパソコンのキーボードを叩き、北村瞳子を検索して言った。
「1-Aよ」
「ありがとうございます」
お礼を言ってすぐに保健室を出て、真っ直ぐに1-Aへと向かう。
1-Aの教室の前まで行き、そこから出てきた女生徒に訊く。
「ちょっと、ごめん。北村瞳子さんを呼んでほしいんだけど……」
呼び止めたボブカットの少女は、良の学年章を見て先輩だと知ると、少し緊張した面持ちになった。
「北村さんなら、2-Bの教室だと思います」
「2-B?」
「彼氏の二重谷先輩がいるクラスで、いつも昼食はそこで取るっぽいです」
軽く頭を下げると、少女は足早に去って行った。
「2-Bか……」
自分のクラスの隣の隣だ。もしかしたら、何度かすれ違っているのかもしれない。
そんなことを思いながら、2-Bの教室の前まで行く。
廊下から中を覗くと、幾つかのグループになっていた。男だらけで食べているところと、女だけで固まっているところ。あとは男女が混ざっているグループだ。
彼氏は二重谷だというのだから、彼女は男女が混ざっているグループにいるハズだ。そのグループの中で二重谷の姿を探す。彼は一年の時に同じクラスだったので顔は覚えている。
やや茶色がかった短髪で、切れ長の目をした男を見つける。二重谷透だ。彼が話しているのは、茶髪セミロングの少女。毛先を少し巻いていて、着ている制服がコスプレのように感じられる。彼女には見覚えがあった。
駅前で二重谷と一緒にいるのを見かけ、毅が羨ましがっていたハズ……。北村瞳子の彼氏は二重谷だというのだから、あの子がターゲットで間違いない。
問題は彼女にどうやって近づくかにある。養護教諭に言った嘘を本当にしても、彼氏がいるので邪険にされて終わるだろう。正直にターゲットだからと言ったところで、代理バトルを知らなければ、頭がおかしいと思われるだけ。知っていたとしても、協力してくれる可能性は低い。
むしろ、こういう理由だから憎しみを抱けと言われれば、かえって抱きにくくなるというもの。彼女を不快にさせる行為をしたとしても、その理由が代理バトルだと知っていれば、気の毒に思われるケースだってあるのではないか。それなら、別の理由で接触した方がマシだ。
二重谷とベタベタしている彼女を見ながら、あれこれ思案するも考えはまとまらない。
廊下から他のクラスをずっと覗いているのも変なので、自分のクラスに戻って考えることにする。
放課後、近づく口実が思い浮かばないまま、彼女がいる1-Aへと向かってみる。
最悪、接触するのが無理でも、彼女の情報を一つで得られればいいと考えたからだ。彼女に近づけなかったとしても、最終的に憎しみを抱かせてエネルギーに変換できたら目的は果たせる。その為の情報を期待していた。
最後の授業が終わってすぐ駆けつけた甲斐あって、彼女はまだ教室の中にいた。女友達と話をしていたが、別れの挨拶をして教室を出ようとしている。
彼女が近づいてきたのを知り、慌てて彼女の死角に入った。壁を背にして、彼女がいなくなるのを待つ。
「ねぇ」
気づくと、彼女が目の前に立っていた。
「お昼も瞳子のこと、見てたでしょ?」
小悪魔的な笑みを浮かべ、北村瞳子は上目づかいに見てきた。