第四話 課題の分離
「西尾大輝、君がよく会話している男だ。実に運がいい」
「何処が運がいいんだよ……」
何を馬鹿なことを……。
友達付き合いしている奴に嫌われなくてはいけないのに、それを運がいいとはとても思えなかった。
「考えてもみたまえ。よく知らない人間に嫌われるより、知り合いに嫌われる方が簡単ではないか。相手のことをよく知っている分、効率よく憎しみを抱かせられる」
「嫌われた後は、どうしろって?」
「勝利した後のことなど、勝ってから考えればいい。生き死に比べれば、誰かに嫌われるなど、比べようがないほど些細な問題ではないか」
空気の揺らぎを人型にしたシニは、顔の部分に口のような歪みを生じさせた。その口は楽しげに笑っている。
「僕が困ってるのが楽しい?」
「いや、我々は君らが抱くような感情は持ち合わせていない。見せている幻に表情を付けたのは、顔があった方が君が話しやすいと考えたからだ」
「だとしても、人が困ってるタイミングで笑うのは、いい気がしない……」
「それは何よりだ。憎しみを抱かせる方法をひとつ、思いつくのに役立ったようだな」
確かに、困っている相手を前に笑えば、憎しみを抱くかもしれない。だが、こういうタイミングで指摘されると、苛立つ気持ちでいっぱいになってしまう。
その感情を抑えつけ、死活問題となった大輝に憎しみを抱かせる方法を考える。単純に罵声を浴びせる、保坂美優がされているような嫌がらせをする、理不尽な暴力行為に打って出る……。方法は様々だが、それも確実だという保証ない。
なぜなら、どれも試したことがないからだ。
「前に、僕に言ったよね? 嫌われてるのを怖れてるから選んだって。何をされれば嫌われるか、熟知しているって……」
「ああ、そうだ」
「僕は熟知なんかしていない。たぶん、こうすれば嫌がられるというのを想像して、それをしないように避けてきただけなんだ。実際にやったことなんてない」
シニに向かって嘆くように言い、部屋の中をぐるぐると歩き回った。
「嫌われる自信がないのか?」
「そうだよ……」
口のような歪みの上に、今度は大きな一つ目が生じる。空気の揺らぎといった代物ではなく、明らかに巨大な目がそこにあった。
「嫌われる確証が無い。それは当たり前のことだ」
「当たり前?」
「そう、当たり前だ。なぜなら、君は彼ではないし、彼は君ではない。君を嫌うかどうかを決めるのは彼であり、君ではない。君の母親が読んでいたアドラーの本の言葉を借りれば、君を嫌うかどうかは彼のタスクだ」
言われてみれば、その通りなのだ。いくら嫌われないように生きたところで、自分を嫌うかどうかは相手次第。よかれと思ってしたことで、逆に嫌われることだってあるし、意味不明な好意を向けられることもある。
「君をどう思うかは、相手が決めること。それを危惧したところで、何の解決にもならない。まして、他者の評価を気にするのは、他者の人生を生きることだ。そう本には書いてあった」
「それじゃ、僕が今まで嫌われないように生きてきたのは、無意味な行為だって言うわけ?」
「前にも言ったが、意味は人間が付けるものだ。君が無意味だと思えば無意味だし、そうでないとするなら、何らかの意味があるのだろう。今までの君を無意味にしたくなければ、君がベストだと思うやり方で、相手に憎しみを抱かせるだけだ。それは人に嫌われるのを怖れてきた君だからできる行為、“今まで避けてきた行為”が有効活用できる最大のチャンスではないか」
こんな酷い背中の押し方があるのかと、良は顔を覆って壁に背中を付けた。
「アドラーね……」
シニが引用する本が少し気になる。もし、それを読んでいたら、自分の考えも変わったのだろうか。楽になったのだろうかという思いに駆られる。
「良、興味を持ったのか?」
「まぁね……。ほかに、どんなことを書いてるの?」
「先のタスクに関することで言えば、“課題の分離”というのがある。その問題を解決すべき人間は誰かを考え、問題の外にいる人間は手を下さない。そのようなことが書かれていた」
「へぇ~……。シニも、それに共感したんだ?」
「いや、まったく」
人型の空気の揺らぎは、腹を抱えて笑っているような仕草を見せた。
「それで気持ちが割り切れるのは、特定の条件下にある人間だけだろう。その考えを用いてはいけない存在もいる。そもそも、気持ちの融通の利かなさは、君らが一番知るところではないのか?」
「それは……」
「ほかには、こんなことも書いてあった。“人間の悩みは、すべて対人関係の悩みである”と。いつの世も金に困って罪を犯し、借金を苦に自殺する者が少なくないのが、君らの社会ではないか。ましてや、今日の食事に困ってる者など、食い物以外のことを考える余裕もないだろう。一体、何を見て、何に目をつむれば、こんな結論になるのかと、理解しづらい見解だった」
その本に救いがあるように思えた自分が愚かしく思えてくる。
「幸せになる勇気を説いた彼が、幸せだったかどうかを調べれば、君が大好きな意味とやらが判断できるだろう。もっとも、幸せの定義などは他人が決められるものでもないし、決めていいものでもないと多くの人間が言うではないか。それこそ、課題の分離とやらが重要なのだからな」
「もういいよ……」
「そうか。では、やめにしよう。興味があったら自分で調べてみることだ。我々の知識は目にした書物分しかない。より探究すれば、新たな発見もあるだろう。我々の知識は絶対ではない。調査の為に見た分しかないのだ」
良は壁に寄りかかったまま座ると、髪の毛をグシャッと掴み、上目づかいでシニを見た。
「大輝に嫌われる、それが僕の最優先タスク。今は、それだけでいい」
ゴチャゴチャした感情を整理するように、良は自分の頬をパーンッと平手で叩いた。
10月13日、木曜日。
ホームルームでは昨日同様、持ち物検査が行われた。二日目ということもあり、何かを没収される生徒はゼロ。大輝が遅刻していなかったこともあるかもしれない。
その遅刻常習犯は、一限目が終わった後に来た。
「見てくれよ、このパーカー」
良、祐樹、毅が集まっていると、朝の挨拶もなしに大輝が首を突っ込んできた。どうやら、学ランの下に来ている赤いパーカーを自慢したいらしい。
「なんか、いい感じじゃね?」
何がいいのかわからないが、良は愛想笑いを浮かべて頷いた。祐樹も似たような反応をし、毅は少し怪訝な顔を見せる。
「大輝は服を買い過ぎじゃね? 俺だったら、その金でうまいものを食うかなぁ?」
「そんなんだから、毅は太るんだよ! ほれ、精神がたるんでやがる」
大輝が毅の腹の肉を摘まんで揺らす。
「やめろよ、なぁ?」
苦笑して毅が身をよじる。
「そのパーカー、もしかして昨日の?」
「ああ、壱岐先輩に頼んでたヤツだ」
「壱岐先輩?」
祐樹と大輝の会話に知らない名前が出てきたので、良は思わず繰り返していた。
「良は会ったことなかったっけ? 壱岐先輩、よくネットで服を買うからさ、俺の分も頼んでんだ」
「そうなんだ。たぶん、会ったことない」
大輝がネットで服を買っているのは知っていたが、それを頼んでいる相手の名前は初めて聴いたように思う。
「実は昨日、駅で良と別れた後に、その先輩が服を持ってきたんだ」
「もしかして、髪の長い?」
「なんだ、見てたのか」
祐樹の説明から、駅の売店にいたヒョロっとしたロン毛を思い出す。おそらく、あの人のことだろう。
「壱岐先輩はいいよなぁ~。親のカードで買い物してるんだぜ。俺なんか、欲しい服があっても、支払方法がカードだけだと諦めるしかねぇ~もんな」
「その先輩に頼んで買ってもらってるんだから、別にいいんじゃね?」
「違いねぇ」
毅の指摘に大輝が笑う。
「ところで、お金の方は工面できたのか?」
「昨日、催促された分か? それなら、あのあと学校に戻って没収されたゲームを取り返して、売ったら何とかなったぜ」
「それで、学校に戻ったのか」
「ああ」
祐樹と話す大輝の顔は明るかったが、良は気が気ではなかった。その没収されたゲームというのは、自分が彼に貸したものなのだから。
「あの、そのゲームって、僕が貸したヤツじゃ……」
「貸した? くれるって言わなかったっけ?」
しらばっくれるという顔ではない。大輝は素だった。
「貰ったもんだから、売っていいと思ってた。弁償とか、すればいいわけ?」
過失は大輝にあるのに、半ば逆ギレ気味に言ってきた。
「……」
ああ、そうだ。
そう言うことも出来ずに、良は言葉を飲み込んだ。こんな理不尽な目に遭っても、相手に何かを要求する言葉は、心のセーフティーロックのようなものが働いて出てこない。非は相手にあるとしても、それを指摘すれば嫌われるという想いが、言いたい言葉を喉元で止めさせる。
だが、大輝は次の代理バトルのターゲットだ。嫌われなくてはいけない存在。それならばと思うものの、面と向かって非難することができない。
怒れない人間は、本当に損だ。
「授業だ、席に着け」
日本史を担当している教師、南波健吾が入ってくる。
仕方なく、良も大輝たちも席に着いていく。良はハッキリと物が言えなかったことで、ささくれだった気分で授業の道具を机に出す。
「日直、号令」
「起立」
南波健吾に言われてから、日直の女子が起立を促す。
「礼……着席」
一斉に頭を下げてから、同時に着席する。
ぬるっと授業を開始する教師もいるが、この南波健吾は違っていた。規律や挨拶にうるさく、話し方も高圧的で生徒には嫌われている。くたびれたスーツにビール腹、海藻を頭に載せたような髪型が、生理的に受け付けないという生徒も少なくない。
「随分と不機嫌そうな顔で礼をする輩がいるな。いいか、お前ら。俺が厳しく言っているのは、お前らの為を思ってのことだぞ。教えを乞う者が、教える相手に対して、そういう態度を取って許されると思うな。そんな未熟な精神のままでは、社会に出て通用しない」
バンッと教卓を叩くと、南波健吾は大輝を指さした。
「西尾! 学ランの下には指定のワイシャツを着ろと何度言えばわかるんだ! それに、その頭。男のクセに、襟足が伸び過ぎではないか。いいか、服装の乱れは心の乱れ。そんな浮ついた気持ちで、真っ当な大人になれると思うな」
そう言うなら、自分のくたびれたスーツも何とかしろよとは、彼に対する陰口で多い言葉だ。おそらく、授業が終わったら大輝が言うことだろう。
毎度のこととはいえ、先のような指摘をされるたび、大輝は後で愚痴を言う。自分が貸したゲームソフトの弁償のことなど、彼に対する怒りで記憶の彼方に行ってしまったことだろう。
大輝の苦虫を噛み潰したような顔を見て、そのことを確信する。
「“お前らの為を思って”か。彼は、“課題の分離”に関して、どういう見解を述べるか興味がある。良、訊いてみる気はないか?」
炎のような空気の揺らぎが出現する。良は黙って首を横に振ってシニに答えた。
そう、このくらい簡単に、大輝にもNOを突き付けたい。弁償しろと言い、更には謝罪を要求したかった。勝手に売ったことに対する詫びもなく、逆ギレ気味に弁償すればいんだろと言ってくる。その厚かましさに言葉の暴力を浴びせたい。
そんな想いを隠すかのように、日本史の授業を聴いてノートを取る。こんなまとめを写すくらいなら、問題集を繰り返し解いた方が覚えるし、成績も上がるのにと思いながら……。
授業後、大輝の頭の中にあったのは、授業中に吊し上げられたことだった。予想通りの愚痴を聴く羽目になる。ゲームソフトを弁償する話は出てこなかった。
弁償の件に触れることなく放課後になり、四人で駅へと向かう。他の三人が徒歩で、良だけ自転車ということもあり、先を進む三人を自転車を押してついて行く形となる。
「あのオッサン。マジ、ムカツク」
他のことを話していたのに、大輝は思い出したように言う。思い出し笑いならぬ、思い出し苛立ちとでも言うのだろうか。唐突に、南波健吾のことを口にしては、不快さを前面に出すところが彼にはあった。
そんな彼を見て祐樹と毅は困った顔をし、良は自業自得だろと思う。
「あれ、壱岐先輩じゃね?」
話題を変えたいとばかりに、毅が駅近くでたむろしている生徒の集団を指さす。男女入り交じった中には、あのヒョロっとしたロン毛の姿があった。前に見た時は顔がハッキリしなかったが、今は彫りの深い顔がよく見える。一見すると、困っているかのような八の字眉毛だが、それがデフォルトらしかった。壱岐先輩は猫背気味になり、ケタケタと笑っている。
「あぁ、平塚先輩と一緒だな。また合コンにでも誘ってんだろ。あの人を呼べば、女が集まるって言ってたし」
壱岐先輩の話し相手は、背が高くて肩幅が広い男だった。クセの強い髪を七三分けにし、自然な形で流している。彼の名前は平塚悠仁。人気のある先輩として、良も名前は覚えていた。何せ、保坂美優が彼を振ってしまったことが、嫌がらせを受けるキッカケなのだから。
「あれが平塚先輩……」
噂の男を目の当たりにし、良の視線は自然と釘付けになった。傍にいる女生徒にうっとりとした目で見られ、周りの男連中からも笑顔を向けられている。彼氏にしたら自慢できそうなタイプだとは思うが、良は何処となく好きになれないところがあった。
それは嫉妬心からでない。言うなれば、同族嫌悪のようなものだ。自分が持っている嫌な部分を見せられている。そんな風に感じられた。それが何かは、具体的には言えないが……。
「なんだ良、先輩がタイプなのか?」
「まさか……。先輩は男だよ? 僕、自転車を駐輪場に入れてくるから」
毅が冗談めかして訊いてくるので、慌てて手を振って否定し、自転車を押して駐輪場に向かう。駐輪場と言っても駅前にスペースが確保されているだけで、屋根がない場所になる。そこに止めて鍵をし、皆の元へと戻っていく。
その間に話題が変わったのか、三人の注目は平塚先輩から一組のカップルになっていた。毅と大輝が少し面白くなさそうにカップルの話をする。
「二重谷の奴、また女を変えたんじゃね?」
「らしいな。あれ、一年の北村瞳子だ。俺、同じ中学だったけど、前はもっと地味だったような……」
大輝に昔は地味と言われても、茶色に染めた眼前の少女しか知らない良には想像がつかない。北村瞳子はセミロングの毛先を少し巻いていて、ファッション雑誌の表紙になっている子のようだった。同じセーラー服を着ているハズなのに、他の子とは違う服に見える。悪い言い方をすれば、彼女のそれはコスプレだ。
そんな彼女と話す二重谷透は同学年になる。去年、良は同じクラスだったが、あまり話をしたことがなかった。その頃、彼はサッカー部だったこともあり、同じ部活の男子と一緒のことが多く、帰宅部の良には縁が薄かった記憶がある。それに、避けたい部類のタイプだった。理由は、サッカー部はガラが悪いと言われていたことにある。
厄介事を避けたいという想いから、彼には近づかないようにしていたが、一年の終わりには彼が部を辞めたと聴いた。弱いチームでやっていても仕方ないと、マネージャーに言っているのを見たことがある。
「いいよなぁ~、モテる奴は。一人くらい、俺に惚れてくれたって……なぁ?」
「毅を好きになる奴か。それなら、近くの農業高校にいるんじゃね? 畜産科とかに」
「どういう意味だよ?」
大輝は毅の腹の脂肪を突くだけで理由は言わなかった。それでも、言いたいことはわかる。豚の相手をしてる奴なら、豚みたいな毅のことも、そんなところだろう。
つまらない皮肉だと思いながら、良はカップルを眺めた。初戦のターゲットは大輝だが、対戦相手のエネルギー源となる感情は“妬み”になる。ということは、対戦相手が大輝の“妬み”を引き出そうとするのは確かだ。
対戦相手は妬まれる何かを有しているのなら、彼女持ちの男という可能性は充分に考えられる。大輝には彼女がいないし、欲しいようなことを前に言っていた。
大輝が相手を妬まないようにする為には……。
考えてみたが妙案は浮かばない。彼に嫌われないように接してきただけで、その心を理解しようとしてきたわけではない。彼が何を妬むのかなんて、全然イメージが湧かなかった。
10月14日、金曜日。
大輝に嫌われることも、妬みの防止策も思いつかないまま、一日が終わった。ゲームソフトの弁償のことも話にあがらない。
10月15日、土曜日。
代理バトルがある水曜日が近づいている焦りで、やるべき勉強にすら身が入らない。こんなことをしても、死んだら意味が無いと心の中で繰り返す。
10月16日、日曜日。
身近にあるもので、殺傷力が高いものをネットで探して一日が終わる。
野球部の部室にあるバットなら、持ち物検査をスルーして使えると思ったが、部室の鍵を手に入れられない時点で無理だった。今から部活に入ったとしても、鍵を任されるとも限らない。
薬品がある化学室や包丁がある調理実習室も考えたが、そこも鍵が無いと入れないという点では同じだ。何らかの武器を持ち込むとしたら、校門でチェックされない時間に持ち込み、何処かに隠すことになるだろう。
10月17日、月曜日。
学校では大輝を観察して過ごすも、彼が妬みそうなものはわからないまま。嫌われることも言えずに放課後となる。
帰りの電車が保坂美優と同じになり、自分が乗り換える駅で、彼女も降りたのを確認する。乗り換えまでの時間もあるので、少しだけ彼女の後を追ってみると、神経科のクリニックに入って行くのを見ることになった。
何とも言えない気持ちになって駅に引き返す。その途中、パチンコ店の前でパチンコ玉を踏み、何気なく手に取ってみた。この硬さは武器になる気がし、他にも落ちていないか探して持ち帰る。
10月18日、火曜日。
いつも通り登校し、拾い集めたパチンコ玉を中庭の植木に隠しておく。これなら、持ち物検査で見つかることもない。あとは“憎しみ”を風力にでも変換し、このパチンコ玉を高速で飛ばすだけ。問題は“憎しみ”を与える方法だ。
唐突にブチ切れても、大輝に憎しみを抱かせられる保証はない。いきなり過ぎれば、驚きや戸惑いが先に来てしまう。何より、そんな突飛な行動を取れない。
結局、学校では何もできずに帰宅する。
「いよいよ明日だ。代理バトルは17:00からとなる」
夕食後、部屋の隅に座っているとシニが語りかけてきた。人型の空気の揺らぎを作り、一つ目と口も用意している。
「もう明日なんだね。何にもしていない……何もできなかった……」
嫌われることすら満足にできない自分に腹が立つ。せめて、一言だけでも言えればという後悔の念が湧き起こる。
「何もできなかったとは早計な。まだ時間はある」
「時間? ああ、明日、学校に行ってからもチャンスはあるか」
「そうではない。彼に憎しみを抱かせるチャンスは今もある」
「そんな、会ってもいないのに……」
バカなことを言うなよ……と半笑いした良の前では、シニがあざ笑っているかのような表情を作る。
「会ってもいないのに? 私だって君に会っているわけではない。それでも、君は不快に感じるのだろう? この幻の笑い顔に」
その一言で良は閃いた。
面と向かって何かを言い、相手に嫌われる必要など無いのだ。手段は幾らでもある。気持ちの伝え方は、口から出る言葉だけじゃない。
良はスマホを手に取ると、メールのアイコンを押して、新規作成メールの送信先に大輝を選んだ。普段は彼が質問してくるだけのメールやり取りだが、今回は自分から一方的に感情をぶつける。
メールなら相手の出方など気にせずに、こっちが言いたいことを全部書いて送りつけられるではないか。何で、こんな簡単なことに今まで気づかなかったのだろうと思いながらも、興奮気味に文章を綴っていく。
『おい、クソ大輝。よく読めよ。
ゲームソフトの弁償は当たり前だ。それ以前に謝罪しろよ、低能が。
何が貰ったと思ってただ。勝手に思うんじゃねぇ~よ。お前に思想の自由なんかない。
数学のノートもそうだ。テメェーは、テストが終わったら全部のノートを捨てるのか? 違うだろ、ボケが。
借りたもんは、きちんと返せよ。そんなことは幼稚園児だって、わかってることだ。つまり、できていないってことは、幼稚園児以下ってことでOK?
口で言っても覚えていない、自分に都合がいいように解釈するアホの為に、わざわざメールで書いてやったんだ。感謝しな。
記憶に欠陥がある大輝でも、このメールがあれば反省点が確認できて助かるだろ?
最後に書いておくけど、弁償してもらう額は、売って得た額じゃないからな。ゲームソフトの定価だ。僕だったら、もっと高く売れる場所で賢くさばいたし、あれこれ攻略情報を教えたんだ。その手間賃と迷惑料を込みにしても、非常に良心的な額なのは間違いない。
こんなことを書いても、低能には理解できるか、わからんがな』
憎しみを抱かせる為に、溜め込んだ憎しみをぶつける。もう代理バトルとか、どうでもよかった。今まで伝えたかった想いをぶつけられる。それが単純に嬉しかった。
送信ボタンを押し、送れたことを確認する。どんな返信が来るのか気になったが、彼のメールを受信拒否にし、着信も拒否にしておく。これで大輝は、学校で会うまで苛立ったままだ。
「ハハッ、ハハハ……」
ベッドに寝転がって布団を叩く。
明日のバトルで死ぬかもしれないという不安は何処かに消えていた。
10月19日、水曜日。
2年D組の教室に入っても、祐樹と毅は挨拶してこなかった。代わりに、彼らの傍にいる大輝が鼻息を荒くして詰め寄った。
「良、お前のメール……」
そう言いかけた彼に、一枚のメモ用紙を渡す。それを見て、大輝は渋々頷くと教室から出て行った。
メモには“メールの件なら、放課後に教室で聴く。17:00に待ち合わせだ。二人きりで話したい”と書いている。これでターゲットである大輝が居る場所は確定した。対戦相手が用意したスペースで戦うことは避けられる。
「大輝となんかあったのかよ?」
毅が心配そうに訊いてくる。
「大したことじゃない」
それだけ言って自分の席に座る。毅と祐樹も互いの顔を見て頷くと、自分の席へと歩いて行った。
「シニ……」
小声でシニを呼ぶと、机の上に小人サイズの空気の揺らぎが出現した。
「どうした?」
ノートの切れ端に質問を書く。
『今、大輝の憎しみはどれくらい?』
「200,000ptを超えている。今もなお、増加中だ」
良は握り拳を作って、醜い笑顔を見せる。その心の中には、今までに感じたことが無いほどの充実感があった。