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あの悪夢のひと時からおよそ三時間が経ったと思う。太陽は既に西に傾き始めているころだろうか。しかし、俺は今、ベットの布団に潜り込んで外部のありとあらゆる信号から逃れようとしていた。例えば、今もなお絶え間なく聞こえてくる男の断末魔の叫び。あるいは、その叫び声が聞こえる前に轟いてくる人間では絶対出せない凄まじい爆音。はたまた、カチカチカチカチと鳴る自分の歯の音など。
主に聴覚だが、布団に潜り込んでも聞こえてくる。一応、最後のはどうにか止めた。が、しかし、他は鳴り止まなさそうだ。
しばらくすると、不思議なことにピタリと音が鳴り止んだ。少しの間布団に潜り込んでいたが、人間というのは目の前に何かしらの信号がないと耐えられない性〈さが)を備えている。つまり、何が言いたいかというと好奇心に負けて布団からでてしまった。それに、音が聞こえなくなって少しばかり安心したのだろう。腹がすごく減った。今までの爆音に負けないぐらいに大きな音を立てて自己主張している。
一応言っておくが、どこぞのほのぼの系恋愛小説に出てきそうな天然が入った女子高生みたいに食い意地が本当の理由ではない。あくまで、人間の本能である好奇心が原因だ。そうに違いない。
さて、どうしようか?このままだと飢え死にしそうだ。だが……。
コンコン、コンコン、ガチャ
「トシヒデちゃん?お腹空いていると思って食べ物持ってきたけど、食べる?一応、晩御飯前だから軽めのものだけど。」
ノックしてから入ってきたのは、俺が人生で最も恐れている人物ワースト2に会って早々食い込んできたエミリアさんだった。余談だが、恐怖の第1位は母、3位はあの大和撫子ちゃん(元2位)である。
それはさておき、俺は硬直してしまった。主に恐怖で。こんな俺を誰が責めれようか?先程の恐怖の体験を経て、エミリアさんを前に動ける奴がいるだろうか?俺は少なからずそこまで神経が図太くないし、咄嗟に機転を利かせられるほど柔軟ではない。
「あら?どうしたの?熱でもあるのかしら??ん~、わからないなぁ~。こうしちゃえ!」
硬直している俺に、気づいていないのか、エミリアさんは流れるように俺に近づくと額に手を当てて、さらには、額同士を合わせるという本来なら健全な男であれば顔を真っ赤にする芸を披露してくれた。そう、本来ならあんなことがあったにも拘らず俺も顔を真っ赤にしていて、熱があると相手に誤認させていただろう。
しかし、俺は顔を赤くするどころか、むしろ青く染め上げていたに違いない。なぜなら、それは俺が健全な男ではないから…、というわけではなく、実は額を合わせられた時、彼女の大きな胸の谷間が見えてしまったのだが、そこにあったのは何だと思う?
一応、言っておくが男の夢や希望が詰まっているというたわわに実った二つの果実ではない。いや、あるにはあったが、そこの滑らかな表面に赤い何かが付着していた。おそらくだが、血に違いない。それも、アランさんの…。
俺は昔から目がいいのだが、今これほど目がいいのを恨んだことはない。なぜなら、目を逸らしてみれば色んなところに血痕が見える。例えば、エミリアさんの腕にはややシミに似た何かがあったり、靴の先端が僅かに赤く汚れていたりと、他にもエミリアさんは綺麗な金髪を靡かせているのだが、前髪の一部がよく見ないと気づかない程ではあるものの少しくすんでいる。何より、最初に会った際の服ではないのが怪しい。
以上の洞察と推察から、俺は顔を赤くして照れている暇はなかった。まして、流血沙汰になっていると考えた俺が顔を真っ青にするのは仕方がないと思う。そして、何事もなかったかの如く夫がいるにも拘らず他の男に額を合わせるという茶目っ気を見せるエミリアさんが何より怖かった。
「うーん、熱はないみたいね。それよりも、顔色悪いみたいだけど大丈夫?」
「は、はい。大丈夫です。それより、軽食の差し入れありがとうございます。お腹が空いてしまって困っていたところなんです。」
「それならよかったわ。はい、これね。それで、晩御飯が出来上がる頃にもう一度呼びに来るから、それまで好きにしてていいからね。」
「えーと、軽食頂いて言うのも変なんですけど、夕食まで頂いてもいいんですか?」
「勿論よ。むしろ、連れてきて目を覚ましたらサヨナラなんて酷いことはしないわ。それに、あなたには悪いけど持ち物を検査したら、その服以外碌な物持ってないし。なにより、これから何をすればいいか、あなた自身わかってないでしょ?」
うっ……、言い返す言葉もありません。そこは本当に痛い所です。おそらく、顔に出ていたのだろう。エミリアさんはにっこりと微笑んだ。あ、やばい。鳥肌が。トラウマによる障害に気を取られていた俺に微笑みを浮かべていたエミリアさんは突如表情を消すと、
「ただ、絶対に私の部屋と地下室には入っちゃだめだから…ね?」
と、尋常ではない圧力を浴びせて言った。俺はというと気づけば首がもげるのではというほど首を縦に振っていた。言いつけを破ったり、ここで拒否でもしたら我が身が危うくなるのは目に見えている。だが、体は思考よりも敏感にこの事を感じ取ったらしく、肯定の返事をしようとする前に防衛本能として無意識に首を縦に動かしていた。
「うん、いい子ね。もし、守らなかったら…言わなくてもわかるわね。フフフ。」
はい、アランさんと同じ運命をたどるわけですね。わざわざ藪をつついて蛇いや鬼…違うな。怪物を出す必要はないのでちゃんと守りますよ、はい。
俺の心情を読み取ったのか、或いは満足したのか、エミリアさんは最初に会った時の柔らかな雰囲気になって、俺に微笑んで言った。
「じゃあ、これ以上いると晩御飯の時間が遅くなるから私は部屋を出るね。」
バタン
エミリアさんが部屋を出ると俺は息を吐き出す。全くもって洒落になってなかった…。好きにしていいと言われたけど、何が起こるかわからないし食べながら部屋で今までの整理をするか。
まず、ここは何処だろうか?答えはわからない…。……初っ端から躓くとは、どうしようか…。エミリアさんたちとは日本語で通じている。しかし、エミリアさんたちは明らかに日本人ではない。エミリアさんは金の長髪を靡かせ、青色の瞳に高い鼻、アランさんは茶髪に茶眼、同じく高い鼻、そして何より彫が深い。彼らが日本に滞在している可能性があるかもしれないが、そもそも日本なら救急車で近くの病院に搬送されるはず。
他にも、貴族がどうたらこうたらと意味わからないことも言っていたし、男がなんとやらとも言っていた。全然、話が見えない…。一体どうすれば……。
さっきから思っていたんだけど、これおいしいな!エミリアさんが持ってきてくれたパンケーキと果物の軽食セット!
まず、パンケーキが甘くてフワフワ、でも噛めばモッチリと歯ごたえを感じさせる。パンケーキ自体が小麦の甘さを前面に押し出しているのだが、そこに黄金色に輝く蜂蜜がより一層甘みを持たせている。ただでさえ、噛まずにいられない食感と質量があり、それにあわせて噛めば噛むほど甘さが滲み出てくるパン生地に甘さを上品に上乗せしてくる蜂蜜をかけていて、とても他に思考を割くことができない。まして、今はベットに座っているから良いものの立っていたら腰砕けになって地べたに座り込んでいただろう。そう思わせるぐらい、このパンケーキは極上に甘くおいしい。
そして、ここで追い打ちをかけるのが八等分にされた果物だ。みずみずしくサッパリとした甘みに仄かに残る酸っぱさがこれまた良い。濃密で重厚な食感と甘みを与えてくるパンケーキを一口食したあとに、口直しという形でこの果物を食べれば、飽くことなくパンケーキを口にすることができる。口の中の濃厚な甘みが洗い流されると同時に果物のほんのりとした甘さがやってきて、最後に程よい酸っぱさが口に留まる。この酸っぱさがまたパンケーキの甘さを求めてしまう。
このサイクルが今俺を襲っている。そう、理屈はわかっている。わかっているのだが、体が欲してついつい手を伸ばしてしまう。ゆっくりと味わいたいのに、体が早く呑み込めと催促してくる。
気づけば、皿の上には何も残っていない。おそらく、完食するのに5分も費やしていないだろう。感想はおいしいの一言だけだ。
もう一言だけ言わせてもらうと、俺はこの後の夕飯が楽しみで仕方がなかった。