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常しえの電灯

作者: 砂星茫洋

無への回帰は一瞬であった。

痛覚、焦燥、不安、嫉妬、恐怖、羨望、全てから解放された。

もう何も悩むこともなく、苦しむこともない、はずであった。


覚醒と共に、倦怠感に襲われた。

ふたたび、目覚めてしまった。ようやく、死ねたのに。


そこまで考えて、「ようやく、死ねた」と、自分が思考したことに違和感を覚えた。

しかし、すぐに記憶は補完された。

自分は死んだのだった。自殺による死によって。

記憶は追補されてゆく。

死んでいた間の記憶。


自分は神と邂逅した。

死後の世界で出会ったのは、神のうちの一つであった。

珍妙なことに、招き猫の姿をしていた。

招き猫の姿をした神は言った。世界には他にも無数の神がいる、自分はその一つに過ぎないと。

一神教の信者が聞いたら、憤激、もしくは発狂しそうな事実が提示された。

しかし、そのようなことは私にはどうでもよかった。

私は、宗教にさほど興味がなかったし、ましてや一神教の熱心な信者でもない。

神の存在など信じていなかったし、百歩譲って存在を認めたとしても、

ロクでもない存在だと確信していた。

そして実際に神と邂逅して、その確信は一層の補強をされた。


唐突に、神は私を裁くと言いだした。

なぜかと聞くと、自殺によって安易に命を投げ出したから、命を全うしなかったからだと神は言った。

口調は大仰であった。神のくせして、その言葉は、空疎な装飾ばかりの美辞麗句を飾るヒューマニストのようであった。私は軽蔑の念を感じた。


私は神に問うてみた。あの世では、自殺したものは神によって裁かれる、そういう掟になっているのかと。

神は即答した、自殺者を許して救う神もいる。しかし、私は貴様を、自殺によって安易に命を放り投げた者を許さない、と。

他の神がどういう判断を下そうが、私は貴様を裁くという判断を下す。貴様の魂が死後、私の元へ漂着し、私の管轄下となったからだ、貴様の処遇は、私が決める、そう、神は私に宣告した。


私はその言葉に傲慢を感じた。神に対しての信仰など元から薄かったが、信仰が薄れるどころか、俗人のようなことを言う神へ憎悪と軽蔑の念を増幅させた。神はなおも続ける。貴様には裁きを与える。救いの世界へ導いてなどやらん、易々と成仏などさせん。今しばらく、現世で修行をしてこい。


かくして、神に促され、命じられるがままに、私の魂は現世に舞い戻り―――。


そして今、私は一本の電灯となっている。


ロシアの都市、サンクトペテルブルグに佇む、一本の電灯。


私は、電灯に転生した。


季節は冬、街には冷涼な風が吹きすさんでいた。

路面は凍結し、ダイヤモンドダストの粒が流れてゆく。

分厚い外套やシャッポを被った通行人達が、白い吐息を吐きながら冬の街を歩き、

私の目の前を横切ってゆく。


私は違和感を感じた。そして気づいた。

寒くない。何も感じないのだ。


何かが私の身体に―――電灯に当たった。

飛んできた方角を振り向こうとしたが、電灯であるため振り向けない。

辛うじて下を向くことは出来た。

足下―――いや、電灯の根元に、四散したウォッカの瓶の破片と、破裂した瓶から零れ落ちたウォッカの液体が散乱していた。


怒声が聞こえた。聞こえる方角を振り向くことは出来ないが、酩酊していることが呂律の廻っていない滑舌から伺えた。中年男性のやや低めの声だ。所謂、酔っ払いであろう。昂揚して、私に酒の瓶を投げつけたのだ。


痛覚を感じなかった。人間であれば、勢いよくウォッカの瓶を投げつけられれば怪我をするし、当たり所では命の危険がある。何より、痛い。


しかし、何も感じない。それもそのはずだった。私は電灯へ転生したのだ。末梢神経も何もない、痛みを感じることがそもそもないのだ。


私は安らぎを感じていた。人間であったころは、決して得られなかった安らぎ。

人間として生きていたころは、痛みや空腹、熱さや寒さに悩まされた。だが、今はそれを感じることがない。

私を自殺へと促した、不安も、焦燥も、苛立ちも、既に感じることはなかった。


神は私を裁くと言った。その裁きによって、私は電灯に変身させられた。

しかし、実際裁きを受けてみれば、これのどこが裁きなのだろうと思う。

故障をすれば、誰かが代わりに修復をしてくれる。何もする必要はない。

人間であった頃は、仕事で何もしていなければ叱責や罵倒が飛んできた。

しかし、電灯になり、人間の義務から解放された今は、叱責も罵倒も受けることはない。

先程酒の瓶をぶつけられたように、時々物を投げられたり、蹴飛ばされたりすることはあるだろう。

だがそれも問題のないことだった。痛覚がなくなった今、痛みを感じることもなく、蹴られても、物を当てられても、痛みを感じることはなくなったのだから。


全身が安らぎに包まれてゆくのを感じた。俄かに思考が希釈してゆく。私はただ電灯としてここに佇めば良いのだ。人間であった頃のように、思考を巡らせる必要は何もない。むしろ、今となっては、思考は邪魔な存在であった。


光とも闇とも分からぬものが、全身に浸透してゆくのを感じた。意識がより希薄になってゆく。私は自分の全身を包み込んでゆくものが何であるか、明白に悟っていた。それは、安らぎであった。

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