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第9話 

 帝都の地下深くに広がる暗黒の迷宮。そこは文明開化の光が決して届かぬ“都市の腸”。地上ではガス灯がモダンな夜を照らし、カフェからジャズが漏れ聞こえ、恋人たちが愛を語らっているだろう。だが、この場所にあるのはドブ川の淀んだ水音と腐敗と化学薬品が入り混じった鼻を突く悪臭、そして闇に蠢く“死”の気配だけだった。

「......ふう」

 安物の木綿着物を纏った書生姿の男、西園寺景明はぬかるんだヘドロの中に下駄を踏み込みながら、小さく息を吐いた。白い呼気が懐中電灯の頼りない光線の中で揺らめき、闇に溶けていく。

 彼の身体はすでに満身創痍のはずだった。先ほどの広間での死者たちとの乱戦。鉄パイプで殴られ、爪で裂かれ、壁に叩きつけられた。常人ならば痛みで一歩も動けぬほどの重傷を負っていてもおかしくはない。だが、不思議なことに彼の足取りは羽が生えたように軽かった。

(痛みが......消えていく)

 景明は懐の上から胸元をそっと押さえた。そこには鈴が「お守りです」と言って渡してくれたあのハンカチが入っている。

 籠目と椿、そして鱗紋が複雑怪奇に刺繍されたその布地は今やカイロのように熱を発していた。いや、それは単なる熱ではない。皮膚を通して心臓へと流れ込んでくる奔流のような生命力だ。

 心臓が脈打つたびにハンカチから金色の光の粒子が溢れ出し、景明の傷ついた細胞を縫い合わせるように修復していくのが分かる。裂けた皮膚は塞がり、打撲の痣は消え、疲労した筋肉には新たな活力が充填されていく。それは医学的な治癒ではない。もっと根本的な、因果律すら捻じ曲げるような“強制的な復元”だった。

(鈴......。君は一体、どれほどの想いをこの布切れに込めたんだ)

 景明は暗闇の中で苦笑した。

 徹夜で針を運ぶ彼女の姿が脳裏に浮かぶ。小さな指に絆創膏を巻き、真剣な眼差しで、一針一針に「死なないで」「怪我をしないで」「私の元へ帰ってきて」という念を塗り込めていく姿。

その純粋で、そして物理的に重すぎる愛情が今、彼を無敵の要塞へと変えているのだ。

「......愛されているな、私は」

 独りごちた言葉は地下道の湿った空気に甘く響いた。本来なら、こんな場所でニヤけている場合ではない。ここは敵の喉元、死地である。だが、胸元の温もりが彼に恐怖を感じさせることを許さなかった。今の彼にあるのはただ一つの確信だけだ。

“家に帰って、君の作った味噌汁を飲む”

 その未来が確定している以上、過程にあるこの地獄など単なる通過点に過ぎない。景明は眼鏡の位置を中指で押し上げると鋭い眼光で闇の奥を睨み据えた。

「行くぞ。......このふざけたお化け屋敷の主人に、挨拶をしてやらねばな」

 泥水が跳ねる音と共に彼は再び歩き出した。その先には銀色に光る無数の糸が獲物を待ち構える蜘蛛の巣のように張り巡らされていた。

 D区画、第三水路の最深部。そこは帝都の地下水道網の設計図にさえ記されていない忘れられた“廃棄貯水槽”だった。

 煉瓦造りの巨大なドーム状の空間。天井の高さは数十メートルにも及び、まるで地下の大聖堂のような威容を誇っている。だが、そこに祀られているのは神ではなく、冒涜的な科学と狂気だった。

 景明がその空間に足を踏み入れた瞬間、強烈な刺激臭が鼻腔を襲った。

「......ッ」

 彼は思わず袖で口元を覆った。下水の臭いではない。ホルマリン、クレゾール、そして鉄錆と腐った肉が混ざり合った生理的な嫌悪感を催す“実験室”の臭いだ。懐中電灯の光を向ける。その光線が切り取った光景に歴戦の軍人である景明さえもが息を呑んだ。

「なんだ......これは」

 空間全体に銀色の糸が張り巡らされていた。天井から床へ壁から壁へと、幾何学的な模様を描いて交差する無数の糸。それは巨大な蜘蛛の巣そのものであり、その糸には“獲物”がかかっていた。

人間だ。いや、かつて人間だったもの、というべきか。

 ボロ切れのような服を着た浮浪者、行方不明になったと思われる一般市民、そして軍服を着た兵士の成れの果て。彼らは糸に絡め取られ、空中に吊るされていた。ある者は干からび、ある者は防腐処理を施されて蝋人形のような光沢を放っている。まるで、コレクションルームに飾られた昆虫標本のように。

「素晴らしいだろう?私の“作品”たちは」

 唐突に天井の方から声が降ってきた。ガラスを爪で引っ掻くような神経に障る甲高い声。景明が光を跳ね上げると巨大なパイプの上に一人の男が座っていた。

 白衣を纏っているがその裾は油と血で薄汚れ、黒ずんでいる。蓬髪は乱れ、渦を巻いた分厚い眼鏡の奥から、爬虫類のような瞳が異様な輝きを放って景明を見下ろしていた。

「ようこそ、我が研究室へ。......ほう?」

 男はパイプから音もなく飛び降りた。着地と同時に白衣が翻り、薬品の臭いが舞う。

「生きたままここへ辿り着いたのは久しぶりだ。しかも、君......あの“失敗作”どもの群れを突破してきたのかね?」

 男は興味深そうに首を傾げ、景明に歩み寄ってきた。その歩き方は奇妙だった。関節が一つ多いのではないかと思わせるほどクネクネとしており、まるで人間ではない何かが人間の皮を被って動いているような違和感があった。

「貴様が......蜘蛛か」

 景明は警戒を解かず、安物の着物の袖の中でナイフの柄を握りしめた。

「いかにも。もっとも、それは俗世の愚民どもがつけた渾名に過ぎんがね」

 男、蜘蛛は笑った。その口の中には乱杭歯がびっしりと並んでいる。

「私は科学者だ。生命の神秘、そして死の超越を探究する求道者だよ。......かつては帝都大学で教鞭を執っていたこともあるが凡俗な学会は私の高尚な理論を理解できなかった」

「死体を弄ぶのが高尚だと?笑わせるな」

 景明は冷たく吐き捨てた。

「貴様がやっていることは科学ではない。ただの冒涜だ」

「冒涜?ノン、ノン!これは進化だよ、青年!」

 蜘蛛は両手を広げ、陶酔したように天井を仰いだ。

「人間は脆い。病に倒れ、老いに朽ち、刃物一つで簡単に活動を停止する。なんと不便で不完全な仕組みか!だが、死体は違う。痛みを感じず、疲れを知らず、恐怖もしない!脳という制御装置を外し、筋肉に電気信号を直接送り込めば生前の数倍の力を発揮できる!」

 彼の指先がピアノを弾くように虚空で動いた。すると周囲の糸が微かに振動し、吊るされていた死体たちが操り人形のように手足を動かした。

「見ろ!この美しい服従を!彼らは私の指先一つで踊り、戦い、そして永遠に生き続けるのだ!これこそが究極の救済ではないか!」

「......狂っているな」

 景明の瞳に絶対零度の殺気が宿る。

「貴様の妄想に付き合うつもりはない。......消えた市民たちへの鎮魂歌代わりにその腐った脳みそを凍らせてやる」

「フフッ、威勢がいいねえ。......おや?」

 蜘蛛は急に真顔になり、分厚い眼鏡越しに景明の身体を観察し始めた。まるで市場で肉の品定めをするかのような、粘着質な視線。

「君......いい身体をしているね」

「......あ?」

「その筋肉の付き方、骨格のバランス、そして皮膚の下を流れる生命エネルギーの質......。素晴らしい!実に素晴らしい!先ほどの傀儡どもを蹴散らしたその脚力、並大抵の鍛錬では手に入らんよ!」

 蜘蛛は舌なめずりをし、恍惚の表情を浮かべた。

「欲しい......!その肉体が欲しい!君を素材にすれば、きっと最高傑作が作れる!ああ、脳髄は生きたまま摘出して、脊髄反射の中枢に直結させようか!それとも心臓を生体喞筒として温存し、全身を鋼鉄の糸で強化するか!」

「......おい」

 景明の声が低く沈んだ。その響きは敵意を超えた純然たる拒絶と嫌悪に満ちていた。

「勘違いするなよ、下郎」

 彼は懐のハンカチを服の上から強く握りしめ、傲然と言い放った。

「この身体は私のものではない」

「なんだと?」

「私の筋肉も、骨も、流れる血の一滴に至るまで......すべて私の婚約者の管理下にある」

 景明の脳裏に野菜をたっぷり盛った皿を突き出してくる鈴の笑顔が浮かんだ。彼女が慈しみ、育て、守ろうとしてくれているこの命。それをこんな薄汚いマッドサイエンティストの実験材料になど指一本触れさせるわけにはいかない。

「傷一つ、シミ一つ付けさせるわけにはいかんのだ。彼女が悲しむからな」

 その言葉はノロケのようでありながら、鋼鉄の意志を含んでいた。

「ハッ!愛だの恋だの、くだらん!生者の愛など、脳内物質の電気信号に過ぎん!死ねば消える、儚い幻影だ!……証明してやろう。君のその自信満々な肉体が私の糸の前でいかに無力な肉塊になり果てるかを!」

 蜘蛛は嘲笑し、白衣の袖を振った。そして、右手を掲げた。その指先から光る極細の糸が放たれた。

「切り刻め!処刑糸!」

 空気を切り裂く鋭い音が響いた。それはただの糸ではない。特殊合金で編み上げられ、ダイヤモンドに匹敵する硬度と剃刀以上の切れ味を持つ殺人鋼糸だ。視認することさえ困難なその糸が、音速に近い速度で景明の首を狙って飛来する。

 軍人としての景明の動体視力が迫りくる死の軌道を捉えた。回避は間に合わない。受けるにしてもこの錆びた短刀ではバターのように切断されるだろう。だが、景明は一歩も退かなかった。避ける必要などない。防御の構えを取る必要すらない。なぜなら今の彼には“最強の加護”が宿っているからだ。

「......甘いな」

 景明は懐の膨らみ、心臓の上にあるハンカチを軽く叩いた。ただそれだけだ。

「なっ......!?死ぬ気か!?」

 蜘蛛が目を見開く。回避行動を取らない貧乏書生。自殺行為だ。指ごと切断され、首が飛ぶ未来しか見えない。

 蜘蛛は躊躇なく指を引き絞り、鋼鉄をも切断する処刑糸を景明の全身へと走らせた。

 地下空間に金属同士が激突したような甲高い音が響き渡った。だが、景明の首は落ちなかった。着物すら裂けていない。

「な......!?」

 蜘蛛の眼鏡がズレ落ちた。景明の身体の周囲数センチの空間で処刑糸が止まっていたのだ。いや、止まっているのではない。景明の懐から溢れ出した紅白や金、紺の光の粒子が幾何学的な籠目の紋様を描き出し、殺意を持って迫った鋼糸を空中で受け止め、その運動エネルギーを完全に殺していたのだ。

 見えない鎧。あるいは物理干渉する祈りの膜。鈴の込めた“守り”の力が景明の身体を薄く、しかし強固に覆っている証拠だった。

「馬鹿な......!ありえん!私の糸は厚さ五センチの鉄板すら豆腐のように切り裂くのだぞ!?それを......生身で弾いただと!?どんなトリックだ!服の下に最新鋭の装甲でも仕込んでいるのか!?」

「装甲?」

 蜘蛛が絶叫する。景明は鼻で笑い、懐の温もりを感じながら答えた。

「そんな重いものを着込んだら肩が凝るだろう」

 彼は指先一つ動かさず、身に纏う光の脈動だけで絡みつく糸を弾き落とした。

「これはただの布と糸だ。......だが、そこには貴様の科学では解明できん“質量”が込められている」

「質量だと......?」

「一人の乙女が眠い目をこすり、指に針を刺しながら紡いだ、祈りの結晶だ。貴様の作り出した死体を継ぎ合わせただけの紛い物とは強度が違う」

「祈りだと......?精神論か!非科学的な!」

 蜘蛛は顔を真っ赤にして地団駄を踏んだ。自分の信じる科学が論理が、愛という名のオカルトに敗北したことが許せないのだ。

「認めん......認めんぞ!偶然だ!たまたま糸の入射角が悪かっただけだ!」

 蜘蛛は両手の十指すべてを展開した。それぞれの指先から殺意を帯びた十本の鋼糸が伸びる。

「今度は五体バラバラにしてやる!挽肉になれぇぇッ!」

 蜘蛛が腕を振り下ろす。十本の処刑糸が包囲網となって景明に襲い掛かる。逃げ場はない。全方位からの斬撃の嵐。だが、景明は微動だにしない。彼はただ、静かに右手を掲げた。

「......無駄だ」

 瞬間。懐から溢れる黄金の光が強まり、防御結界となって鋼糸を弾き返すのと同時に景明の右手から猛烈な冷気が噴き出した。

「な、なにッ!?」

 弾かれた鋼糸が空中で一瞬にして凍りついた。いや、鋼糸だけではない。景明を中心とした空間そのものが絶対零度の冷気に支配され、白い霜が蜘蛛の足元まで急速に侵食していく。

「なんだ......なんなんだその光は!そしてその冷気は!貴様、一体いくつの異能を持っているんだ!?」

「私の異能は氷と雷......そしてそれらを組み合わせただけだ」

 景明は冷徹に答えた。彼の本来の能力は氷雪と雷撃の操作。さらにその二つを応用し、熱干渉による炎や簡易的な結界すら作り出せる、文字通りの万能型。

「だが、これだけは分かる。......私の婚約者は少々心配性でな。私が自力で作る結界など信用できないとみえる。私に怪我をさせないためには、物理法則すらねじ曲げる覚悟があるらしい」

 光の加護と氷と雷のオーラ。三つの輝きの中で景明は静かに微笑んだ。その笑顔は敵に向けるものではなく、遠く離れた屋敷で待つ恋人に向けられたものだった。

「さて、蜘蛛男」

 景明は眼鏡をかけ直し、凍てつく床を一歩踏み出した。その右半身からは青白い冷気が左半身からは紫電が立ち昇る。

「私の服を汚し、私の帰りを遅らせた罪......。その身を持って償ってもらおうか」

「くっ......!おのれ、生意気な素材め!」

 蜘蛛は歯噛みし、懐からリモコンのような装置を取り出した。

「いいだろう!鋼糸も冷気も通じぬ質量で潰すまでだ!出てこい、我が最高傑作!融合傀儡!!」

 彼がボタンを押すと空間の奥、闇の深淵から地響きのような足音が近づいてきた。廃液を撒き散らしながら現れたのは身の丈三メートルはあろうかという巨体だった。それは人間の形をしていたが人間ではなかった。複数の死体を無理やり縫い合わせ、鋼鉄のボルトで固定した肉のパッチワーク。四本の腕を持ち、背中からは蜘蛛のような金属の脚が生えている。顔には目玉が三つ、埋め込まれていた。

「グオォォォォォ......」

 融合傀儡が腐敗臭のする息を吐きながら咆哮する。その威圧感は先ほどの傀儡たちとは桁違いだった。

「行け!あの生意気な小僧をひねり潰せ!」

 蜘蛛の命令を受け、融合傀儡が大地を蹴った。戦車のような突進。その質量攻撃はいかに鈴の結界といえども防ぎきれる保証はない。だが、景明は涼しい顔で右手に氷の刃を左手に雷の槍を形成した。

「......やれやれ。乱暴なペットだな」

 彼は腰を落とし、迎撃の構えを取る。守りは鈴に任せた。今の彼にあるのは敵を討つための純粋な攻撃の意思のみ。両手の氷と雷が混ざり合い、陽炎のような高熱炎の予兆が揺らめき始める。

「だが、あいにく私は今、虫の居所が悪い。......早く帰って味噌汁を飲みたいんでな」

 地下水道の最深部で万能の異能と肉塊の激突が幕を開けようとしていた。

 一方、西園寺邸の深夜の客間で鈴は指先に走った鋭い痛みに顔をしかめた。

「痛っ......」

 刺繍をしていた針が指に刺さったのだ。血の玉がぷくりと浮かぶ。だが、それ以上に彼女を不安にさせたのは手元の糸の状態だった。

(糸が......絡まってる)

 赤と白の糸が複雑に縺れ合い、固い結び目を作ってしまっている。解こうとして引っ張れば引っ張るほど結び目は固く締まり、どうにもならなくなる。

「どうして......?さっきまではあんなにスムーズだったのに」

 胸騒ぎがした。窓の外では風が唸りを上げている。遠くでサイレンの音が聞こえるような気がした。

(野中さん......)

 彼が今、どこにいるのかは知らないことになっている。軍の会議に出ているはずだ。けれど、鈴の直感が告げていた。彼は今、とても暗くて寒い場所で何か恐ろしいものと対峙しているのではないかと。

「......嫌な予感がする」

 鈴は絡まった糸を見つめた。この縺れは彼に迫る危機の暗示かもしれない。裁縫箱から鋏を探そうとした。だが、見当たらない。焦りが募る。心臓が早鐘を打つ。

(間に合わない!)

 根拠のない、けれど絶対的な確信が彼女を突き動かした。

 鈴はなりふり構わず、絡まった糸の塊を口に含んだ。

「んっ......!」

 絹糸の束を奥歯で噛みしめる。固く簡単には切れない。けれど、彼女は諦めなかった。

(切れて!お願い切れて!全部......切れてぇっ!!)

 鈴は犬歯を立て、渾身の力で糸を噛みちぎった。乾いた音がして、絡まっていた糸が弾け飛ぶ。縺れが解け、一本の綺麗な糸へと戻っていく。

「......はぁ、はぁ」

 鈴は乱れた呼吸を整えながら切れた糸を吐き出した。口の中に鉄の味がした。だが、不思議と胸のつかえが取れたような清々しい感覚があった。

「......大丈夫」

 彼女は窓の外の闇に向かって祈るように呟いた。

「大丈夫よ、......貴方を縛るものは私が全部断ち切ってあげるから」

 その瞬間、遠く離れた地下の底で物理法則を超えた“遠隔援護”が発動したことを彼女はまだ知らない。

「な......なんだと......ッ!?」

 地下水道の最奥、腐敗と薬品臭が混濁するドーム状の空間に蜘蛛の裏返った悲鳴が反響した。彼は自身の指先から垂れ下がる無惨な残骸を信じられないものを見る目で見つめていた。

 それは彼が帝都の鉄鋼技術の粋を集め、秘密裏に開発させた特殊合金の鋼糸だった。象が引いても切れず、戦車の装甲さえもバターのように両断する、科学が生んだ死の糸。

 それが今、何本も中空で断ち切られている。物理的な刃物による切断面ではない。まるで見えざる巨人が無理やり引きちぎったかのようにあるいは強烈な念が因果律そのものをねじ切ったかのように切断面はささくれ立ち、高熱を帯びて縮れていた。

「ありえん......!摩擦も、張力負荷もかけていない!なぜ私の糸が切れる!?貴様、何をした!?」

 蜘蛛が色眼鏡の奥の瞳を見開き、涎を飛ばして喚き立てる。対する景明はその狼狽ぶりを冷ややかな、しかしどこか温かい光を宿した瞳で見下ろしていた。

(......やはり、鈴か)

 景明は懐に入れたハンカチが心臓の上で熱く脈打つのを感じていた。先ほど鋼糸が彼を絞め殺そうと肉薄した瞬間、懐から奔流のような熱気が溢れ出したのだ。それは防御結界の光とはまた違う、もっと荒々しく、なりふり構わぬ情熱的な波動だった。

 景明の脳裏に鮮烈な幻視が浮かぶ。静寂に包まれた西園寺邸の客間。刺繍に向かう愛しい婚約者。彼女は今、おそらく血相を変えている。普段の淑やかさをかなぐり捨て、髪を振り乱し、絡まった糸、彼を縛る運命の糸にその小さな歯を突き立て、獣のように食いちぎったのではないか。

『野中さんを離して!!』

 そんな彼女の心の叫びが鼓膜ではなく魂に直接響いてくるようだった。遠く離れた地上からの物理法則を無視した遠隔援護。

 鋏を探す時間すら惜しんでくれたその必死さが景明の胸を締め付け、同時にどうしようもないほどの愛おしさで満たしていく。

 殺伐とした戦場の真ん中で景明は肩を震わせて笑った。喉の奥から込み上げる愉悦を抑えきれなかった。

「お行儀が悪いぞ、鈴。......だが、その乱暴さがたまらなく愛しい」

 彼は眼鏡の中指で押し上げ、口元を三日月型に歪めた。それは“鬼少佐”の冷酷な笑みではなく、愛に狂った男の歓喜の表情だった。

 彼女が歯を食いしばって切り開いてくれた活路だ。傷一つ負わず、完璧な勝利で応えねば男が廃るというものだ。

「貴様......何がおかしい!何を笑っている!」

 蜘蛛にとって目の前の貧乏書生は理解の範疇を超えた存在だった。死の淵にありながら恋文を読むような顔で笑う男。科学では説明のつかない現象。未知への恐怖がマッドサイエンティストの理性を侵食し、激昂へと変わる。

「ええい、不愉快だ!不愉快極まりない!愛だの祈りだの、そんな不確定な要素で私の崇高な実験を邪魔するな!」

 蜘蛛は白衣を翻し、背後の操作盤に飛びついた。油と血にまみれたレバーを両手で力任せに引き下ろす。

 地響きと共に空間の奥、闇の深淵から巨大な檻がせり上がってきた。錆びついた鉄格子が悲鳴を上げ、重厚な扉が内側からの圧力でひしゃげていく。

 檻の中から溢れ出すのは鼻が曲がるほどの獣臭とホルマリンの刺激臭、そして死体が腐敗する甘ったるい死臭のブレンドだった。

「見せてやる!感情などという不純物を排除し、純粋な生物学的機能のみを追求した、私の最高傑作を!」

 鉄格子が内側から弾け飛び、砲弾のような速度で何かが飛び出した。

 景明の眼前の汚水が爆発し、黒い飛沫が高く舞い上がる。水しぶきの向こうから現れたのは生物としての調和を冒涜し尽くした悪夢の具現体だった。

「......醜悪だな」

 景明は眉をひそめた。それは直立した巨獣だった。身長は二間を超えているだろうか。胴体は数人の大男の筋肉を無理やり縫い合わせたかのように隆起し、皮膚の色は紫色や土気色がまだらに混ざり合っている。

 背中からは巨大な昆虫の節足が四本、槍のように突き出し、カチカチと威嚇音を鳴らしている。そして何よりおぞましいのはその頭部だ。猛獣の顎を持つ頭蓋にはいくつもの人間の目が埋め込まれ、それらがバラバラに動きながら焦点の定まらない視線を景明に注いでいるのだ。禁忌の融合生体兵器、融合傀儡。

「グルルル......アアアアッ!!」

 キメラの喉から獣の咆哮と人間の断末魔が混ざり合ったような不快な叫びが迸った。その音圧だけで周囲の空気が震え、景明のボロボロの着物の裾が激しく煽られる。

「行け!その生意気な書生を肉塊に変えてしまえ!新鮮な臓器は私のコレクションに加えてやる!」

 蜘蛛の命令が下ると同時にキメラが動いた。巨体に見合わぬ異常な俊敏さ。瞬きする間に景明との間合いを詰め、丸太のように太い右腕を振り上げる。その手には鋭利な手術用メスが数本、爪の代わりに埋め込まれていた。

「潰れろぉッ!」

 死の爪が景明の頭上から振り下ろされる。風切り音だけで肌が切れそうなほどの威力。直撃すれば人間など容易くひしゃげた肉袋と化すだろう。

 回避する隙間はない。防御する武器もない。だが景明は一歩たりとも動かなかった。恐怖に足が竦んだのではない。避ける必要性を感じなかったのだ。

(貴様のような継ぎ接ぎ細工には触れさせん)

 彼は静かに右手を頭上にかざした。その掌には目に見えない冷気が渦を巻いている。硬質で透明感のある音が地下道に響き渡った。キメラの爪が景明の頭蓋を砕く寸前、その豪腕が空中でピタリと静止したのだ。

「......な?」

 蜘蛛が目を剥く。キメラの右腕。その指先から肘、そして肩にかけて蒼白く輝く氷の結晶が瞬時に覆い尽くしていた。ただ表面が凍っただけではない。筋肉の繊維、流れる血液、骨の髄に至るまでその分子運動が完全に停止させられている。絶対零度の牢獄。

「......遅い」

 景明が低く呟く。その声には地下道の気温を一気に下げるほどの冷徹な響きがあった。彼がゆっくりと顔を上げると丸眼鏡の奥の瞳は人間味を完全に排した“氷の魔人”のそれに変わっていた。

「私の......キメラが......凍って......?」

「私の婚約者はな、少々過保護なんだ」

 景明は凍りついたキメラの腕を汚いものを払うように軽く裏拳で叩いた。それだけで鋼鉄以上の強度を持つはずのキメラの腕がガラス細工のように粉々に砕け散った。音を立てて落ちる氷の破片。断面からは血の一滴も流れない。血さえも瞬時に凍結しているからだ。

「彼女が......鈴が身を削って守ろうとしてくれたこの私だ。傷一つどころか泥一滴跳ねさせることも許さん」

 景明の懐から黄金色の光の粒子が溢れ出す。それはハンカチに込められた鈴の想いだ。彼女の祈りが燃料となり、景明の持つ氷の異能を限界を超えた領域へと昇華させていく。

「ガッ、ア、アア......ッ!?」

 片腕を失ったキメラが遅れてきた激痛と恐怖に悲鳴を上げ、後ずさる。だが、もう遅い。

 景明を中心として世界が白く塗り替えられていく。汚水は白銀の氷床に変わり、湿った壁面には霜の花が咲き乱れる。吐く息すら凍りつく死の舞踏会。

「さあ、踊ってもらおうか。......婚約者が整えてくれた、この凍てつく舞台で」

 景明が着物の袖を優雅に翻す。その所作はまるで舞を舞うかのように美しく、そして残酷だった。彼の周囲に蓮の花を模した巨大な氷の結晶が出現する。

「貴様の作る醜悪な継ぎ接ぎ細工とは違う。......これが愛の結晶だ」

 冷気が鎌首をもたげ、キメラへと襲いかかる。科学の暴走が生んだ怪物対、愛の暴走が生んだ魔人。

「グオオオッ......ガアアアアッ!!」

 片腕を失った融合傀儡が痛みを怒りで塗り潰すように咆哮した。その巨体が震えるたび、接合された無数の筋肉が不気味に蠢き、背中の節足がカチカチと威嚇音を鳴らす。

 獣の本能が警鐘を鳴らしているのだ。目の前の痩せぎすの貧乏書生こそが自分を捕食する上位存在であると。

「行け!行くんだ!私の最高傑作がたかだか冷気に負けるはずがない!」

 蜘蛛が泡を飛ばして絶叫する。主人の命令は絶対だ。キメラは残った左腕と背中の節足を槍のように構え、捨て身の突撃を開始した。床を蹴る脚力がコンクリートを砕き、汚水を爆散させる。

 それはまるで暴走した蒸気機関車が突っ込んでくるような純粋な暴力の質量だった。だが西園寺景明は動かなかった。逃げもせず、構えもせず。ただ、懐のハンカチを愛おしげに一度だけ撫で静かに右手を差し出しただけだった。

「......咲き誇れ」

 囁くような声と共に景明の足元から、蒼白い光の紋様が走った。それは一瞬にして地下道全域を覆い尽くし、ドブ川のような汚水を鏡のように澄んだ氷床へと変貌させた。

「秘儀・氷結蓮華」

 刹那。キメラの足元の氷床から巨大な氷の棘が蓮の花弁が開くように一斉に突き出した。

「ガッ!?」

 鋭利な氷の刃はキメラの太い脚を貫き、関節を縫い留め、その巨体を空中に固定する。勢いを殺した怪物は前のめりに突っ込みながら氷の彫刻に取り込まれていく。

「な、なんだこれは......美しすぎる......ッ!?」

 蜘蛛が腰を抜かし、へたり込んだ。目の前の光景は虐殺でありながら極上の芸術だった。薄暗く汚い地下道に突如として出現した巨大な氷の蓮華。その中心で醜悪なキメラはまるで琥珀に閉じ込められた虫のように断末魔の表情を浮かべたまま永遠の静寂へと封じ込められていた。

 微かな音を立てて、氷の侵食は完了した。そこにはもう、死臭も腐臭もない。あるのは身を切るような冷気と張り詰めた静寂だけだった。

「......ふぅ」

 景明は白い息を吐き、眼鏡の位置を直した。彼が纏う安物の着物は泥で汚れてはいるものの、破れ一つ増えていない。懐の中で熱を発し続ける籠目のハンカチが冷気による凍傷からも敵の殺意からも、彼を完璧に隔離しているのだ。

「さて」

 氷の上を歩く駒下駄の音が静寂を破る。景明は氷の蓮華の脇を通り抜け、腰を抜かしている蜘蛛のもとへと歩み寄った。

「ひ、ひぃぃッ......来るな!化け物め!」

 蜘蛛は後ずさり、背後の壁に背中を押し付けた。彼の色眼鏡はズレ落ち、研究者としてのプライドも剥がれ落ちていた。

「化け物?失敬な」

 景明は氷のように冷たい瞳で見下ろした。

「私はただの、貧乏書生だよ。......少しばかり、婚約者の愛が重いだけのな」

「婚約者......?あのハンカチのことか?まさか、ただの女の祈りが私の科学を超えたと言うのか!?」

「科学では計算できんよ。彼女の想いは」

 景明は懐に手を当てた。今もなお、そこからは“早く帰ってきて”、“怪我しないで”という過剰なまでの念が溢れ出している。その純粋で狂気的なまでに真っ直ぐな愛が景明という存在を無敵の概念へと押し上げているのだ。

「貴様の誤算は二つある」

 景明は逃げようと足掻く蜘蛛の足元を視線だけで凍りつかせた。

「アグッ!?」

 足首が氷の足枷に捕らえられ、蜘蛛は悲鳴を上げてその場に縫い止められる。

「一つは帝都の地下を汚しすぎたこと。......そしてもう一つは」

 景明が屈み込み、その顔を近づける。眼鏡の奥の瞳が愉しげに歪んだ。

「私の可愛い婚約者にいらぬ心配をさせたことだ」

 それは死神の宣告よりも恐ろしい、恋する男の逆恨みだった。

「ま、待て!私は帝大の元教授だぞ!私の頭脳は国の宝だ!こんなところで終わっていいはずが......」

「安心しろ。殺しはしない」

 景明は右手を蜘蛛の顔にかざした。

「貴様は生きて罪を償え。......冷たい独房の中で一生震えながらな」

「や、やめろぉぉぉッ!!」

 絶叫は一瞬で途絶えた。蜘蛛の体は首から下を一瞬にして分厚い氷柱の中に封印された。呼吸はできる。意識もある。だが、指一本動かすことはできない。完全なる無力化。生きたままの氷像。

「......任務完了だ」

 景明は立ち上がり、周囲を見渡した。氷の蓮華と氷漬けのマッドサイエンティスト。帝都の闇を騒がせた怪事件はあまりにも一方的な形で幕を閉じた。

 緊張が解けると同時に懐のハンカチの熱もすうっと穏やかな温もりに変わっていく。

 まるで“よくできました”と頭を撫でられているような感覚に景明の口元が緩む。

「......帰ろう」

 彼は出口へと続く梯子を見上げた。その時、ふと自分の着物に目が止まった。安物の木綿着物は泥と油、そして地下水の汚泥で汚れている。戦闘による破損はないがこの臭いはいただけない。

「......このままでは屋敷に入った瞬間にばあやに摘み出されるな」

 鬼少佐としての威厳はどこへやら。彼は着物の裾をつまみ上げ、困ったように眉を下げた。

「また、洗い張りに出さねばならんな......。氷室の奴、経費で落としてくれるだろうか」

 独り言は冷たい地下道の空気に溶けていった。地上ではもうすぐ夜が明ける。帝都に眩いばかりの朝陽が降り注いだ。

 西園寺邸の食堂。高い天井から吊るされたシャンデリアが朝の光を反射し、磨き上げられたテーブルの上には洋食器ではなく、珍しく和の朝食が並べられている。

 上座についた景明は無言で湯気の立つ椀を見つめていた。その姿はいつもの冷徹な“鬼少佐”そのものである。

 糊の効いた白シャツに仕立ての良いベスト。髪はポマードで撫で付けられ、昨夜の泥にまみれた貧乏書生の面影はどこにもない。少なくとも、表面上は。

(......匂うな)

 景明は自身の袖口を鼻に近づけ、微かに眉をひそめた。風呂に入り、石鹸で三度も体を洗った。髪も念入りに洗髪し、香油もつけた。だが、鼻腔の奥にはあの地下水道の湿ったカビと鉄錆、そして薬品の臭いが幽霊のようにこびりついて離れない。それは死闘の記憶そのものであり、彼が“野中みのる”として潜った地獄の残滓だった。

「西園寺様。......お茶をお持ちしました」

 鈴のような声と共に鈴が給仕の盆を持って近づいてきた。今日の彼女は藤色の矢絣の着物に生成色の袴。徹夜で遠隔援護をしたはずだがその顔には疲れは見えない。むしろ、雨上がりの花のような、瑞々しい生気に満ちている。

「......ああ。すまない」

 景明は努めて平静を装い、彼女の方を見ずに茶を受け取ろうとした。もし彼女にこの染み付いた地下の臭いを嗅がれたら。

「まあ、西園寺様。ドブ川のような臭いがしますわ」などと言われようものなら、彼はショックで二度と立ち直れないかもしれない。だが鈴は違った。

 彼女は景明の横に立つとお茶を置くついでにふわりと身を寄せたのだ。その距離はわずか数センチ。彼女の甘い白粉の香りが景明の鼻腔に残る腐臭を優しく上書きしていく。鈴が小さく鼻を鳴らした。

(......ああ、やっぱり)

 鈴は心の中で納得した。彼からは高級な石鹸の香りに混じって、微かに本当に微かにだがあの湿った地下水の匂いがする。それは不快なものではなかった。彼が自分のためにあの恐ろしい場所へ赴き、泥にまみれて戦ってきてくれたという、何よりの愛の証明書だった。

「......西園寺様」

 鈴は誰にも聞こえないような、吐息混じりの小声で囁いた。

「昨夜は......お勤め、大変でございましたね」

 その一言に含まれた熱量はどんな労いの言葉よりも濃厚だった。“知っていますよ”という合図。そして、“無事でよかった”という安堵。そして“愛しています”という告白。

 それらが全て、その短いフレーズに凝縮されていた。

「......まあな。少しばかり、厄介な害虫駆除だった」

 景明は視線を彷徨わせ、照れ隠しに咳払いをした。嘘はついていない。蜘蛛という害虫を駆除してきたのだから。彼は目の前の盆に視線を落とした。そこには、白米と焼き魚、そして湯気を立てる味噌汁が置かれている。

「これは......」

「私が作りました。......約束したでしょう?」

 鈴が恥ずかしそうに頬を染める。以前、野中として出会った時に約束した。「いつか、私のお味噌汁を飲んでくださいね」と。

 公爵邸の料理人が作ったものではない。鈴が早起きし、出汁を取り、味噌を溶いた、正真正銘の“鈴の味”だ。

 景明は震える手で椀を持ち上げた。温かい。昨夜、地下道で凍えそうになった時、懐のハンカチから感じたあの熱と同じ温もりだ。一口、すする。

「............」

 出汁の香りが口いっぱいに広がり、五臓六腑に染み渡っていく。派手な味ではない。高級料亭のような洗練さもない。だが、とてつもなく優しく、泣きたくなるほどに家の味がした。

(生きて帰ってきて、よかった......)

 景明の胸の奥で張り詰めていた緊張の糸がふつりと解けた。地下での孤独な戦いも異能の酷使による疲労も、この一杯の汁がすべて溶かして浄化してくれるようだ。

「......どう、でしょうか?」

 鈴が不安げに覗き込んでくる。上目遣いのその瞳が朝日を受けて宝石のように揺れている。

 景明は椀を置き、深く息を吐いた。そして瞳を細め、これ以上ないほど穏やかな表情で彼女を見つめ返した。

「......美味い。生き返るようだ」

 その言葉は飾り気のない本心だった。“生き返る”。文字通り、彼女のおかげで命を拾い、ここに戻って来られたのだから。

 鈴の顔が輝いた。まるで蕾が一気に開花したかのような満面の笑み。

「よかったです......!本当によかったです......!」

 彼女の目尻に光るものが浮かぶ。それは料理を褒められた喜びだけではない。目の前の彼が五体満足でこうして自分の作った朝食を食べてくれている。その当たり前の奇跡に対する、感謝の涙だった。

 二人の間に言葉はもう必要なかった。ただ、湯気の向こうで視線が絡み合い、互いの体温を確認し合うような、甘くて静かな時間が流れる。

 景明は箸を取り、焼き魚に手を伸ばした。ふと彼の視線が鈴の手元に止まる。彼女の指先にはいくつもの小さな絆創膏が巻かれていた。さらによく見れば唇の端がほんの少しだけ赤く腫れている。

(......そうか)

景明は悟った。昨夜のあの遠隔援護。糸を食いちぎったというあの幻視はあながち間違いではなかったのかもしれない。この小さくて華奢な婚約者は自分のために傷つき、なりふり構わず戦ってくれたのだ。

「鈴」

「はい?」

「......食べ終わったら、庭を散歩しないか。君に......見せたいものがある」

「ええ、喜んで!」

 景明の胸ポケットには洗濯して綺麗に畳まれた籠目のハンカチが入っている。泥汚れは落ちたがその布地に染み込んだ二人の想い出と守り抜いた命の重さは永遠に消えることはない。

 食堂の窓から差し込む朝日はこれからの二人の前途を祝福するようにどこまでも明るく、眩しく輝いていた。

 机の上には空になった味噌汁の椀。それは嘘つきな書生と秘密を抱えた令嬢が交わした、最初の、そして最高の夫婦の契りの証だった。


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