第8話
西園寺公爵邸の重厚な玄関ホール。そこに立っていたのは一点の曇りもなく磨き上げられたブーツに隙なくプレスされた軍服を纏った、完全なる“鬼少佐”、西園寺景明であった。
腰には軍刀を佩き、手には白手袋。その姿は帝国の威信を背負うエリート軍人そのものである。だが、その内面はこれから愛する婚約者につかねばならない嘘の重みに軋んでいた。
「……では、行ってくる」
景明は努めて事務的な口調で告げた。視線は見送りに立った鈴の瞳からわずかに逸らされている。
「連隊本部で緊急の会議……いや、作戦会議が長引くことになった。数日間、詰所に籠ることになるかもしれん。すまないが屋敷を頼む」
苦しい嘘だった。実際にはこれから向かうのは軍の詰所ではなく、あの湿っぽい貧乏長屋だ。そして着るのもこの立派な軍服ではなく、古着屋で買い叩いた安物の着物である。だが、鈴を危険な任務に巻き込まないためには“あくまで軍務”として処理しなければならない。彼女には自分が薄汚い書生に身をやつして地下水道を這い回る姿など想像もさせたくなかった。
「はい、お国のためのお仕事、大変でございますね」
鈴は淑やかに頭を下げた。
(嘘つき。これから“野中さん”になるくせに)
胸の内でそっと毒づきながらも彼女の顔には完璧な令嬢の微笑みが張り付いている。立ち聞きしてしまったあの日から、鈴は心に決めていた。“何も知らない無垢な令嬢”を演じきり、彼を安心して送り出すことこそが今の自分にできる最大の援護なのだと。
「西園寺様、......出立の前にこれを」
鈴は袂から丁寧に畳まれた布を取り出した。
「......これは?」
「新しいハンカチです。先日のは......少し、汚れてしまったでしょう?」
鈴は言葉を濁したがそれが何を指すかは明白だった。麗華によって泥にまみれ、景明が激昂して守り抜いた、あの鈴蘭のハンカチだ。あれは洗濯して綺麗になったものの、鈴としては“泥がついたもの”を彼に持たせ続けるのは忍びなかった。
何より、これから向かう場所が魔窟であるならば、もっと強力な護りが必要だと考えたのだ。
「以前のものは大切にしまっておいてくださいませ。......お仕事にはこちらを」
差し出されたのは一見すると幾何学模様が複雑に絡み合った、シックな色合いのハンカチだった。
景明はそれを受け取り、まじまじと見つめた。紅白や金、紺や深緑、茶といった様々な色糸が迷路のように入り組んで刺繍されている。遠目には単なる織り柄に見えるだろう。だが、目を凝らしてよく見ればそこには驚くべき技巧が隠されていた。
複雑に交差する糸の奥に六芒星を象った籠目や椿、矢絣、鱗紋が執拗なまでに縫い込まれているのだ。鱗紋が幾何学模様のようにカモフラージュとなり、その下に隠された魔除けの紋様が邪悪なものを絡め取り、跳ね返す「罠」のように張り巡らされている。
(......すごいな。これだけの密度で縫われているのに手触りは滑らかだ)
景明はその異常なまでの針仕事の密度に戦慄した。だが同時に鈍感な彼はそれが魔除けであることまでは気づかない。単に“丈夫そうで洒落た柄だ”程度の認識だった。
「......ありがとう。大切にする」
景明はそれを軍服のポケット、心臓の一番近い場所へとしまった。
「いってらっしゃいませ、西園寺様」
鈴の笑顔に見送られ、景明は迎えに来た氷室の運転する公用車へと乗り込んだ。重厚なドアが閉まり、車が動き出す。
バックミラー越しに見える鈴の姿が小さくなるまで景明は振り返らなかった。だから彼は気づかなかった。見送る鈴の大きな瞳の下に白粉でも隠しきれないほどの濃い隈が浮かんでいることに。
そして彼女は小さく「......ご武運を野中さん」と呟いたことに。
◇
車内は沈黙に包まれていた。氷室は無言でハンドルを握り、景明もまた、車窓を流れる帝都の風景を険しい顔で見つめていた。
「......少佐」
しばらくして、氷室が口を開いた。
「屯所の個室に例の衣装を用意してあります。......予算の都合上、少々保存状態が悪いものですが潜入工作には最適かと」
「......分かっている」
景明は憂鬱そうに溜息をついた。車は軍の施設へと滑り込む。景明はそこで“西園寺景明”という表の皮を脱ぎ捨てることになる。
数十分後。詰所の更衣室から出てきた男を見て、氷室は眼鏡の位置を直しながら満足げに頷いた。
「完璧です。どこからどう見ても、明日の米にも困る貧乏書生です」
そこにいたのは色が褪せ、繊維が毛羽立った安物の木綿着物を纏った景明。いや、野中みのるだった。
帯はよれよれの兵児帯。足元は鼻緒がすり切れかけた駒下駄。背中を丸め、分厚い丸眼鏡をかけたその姿は先ほどの威厳ある将校とは別人のようにうらぶれている。
「......痒い」
景明は人目を忍んで襟元を掻いた。糊が効きすぎているのか、あるいは前の持ち主の怨念か、安物の繊維が容赦なく肌を刺す。最高級のラシャ生地に慣れた皮膚が悲鳴を上げているのだ。
「我慢してください。それがリアリティです」
氷室は冷淡に告げると裏口へと案内した。そこには目立たない辻馬車が用意されていた。ここからは公爵家の車も軍の車両も使えない。
景明は猫背のまま馬車に乗り込み、帝都の吹き溜まり、あの貧乏長屋へと向かった。
辻馬車を降り、迷路のような路地裏を歩くこと数十分。湿ったドブの臭いと煮炊きの煙、そして生活排水の饐えた匂いが鼻をつく。
景明は懐かしいボロ長屋の前に立った。壁の板は腐りかけ、屋根瓦は欠け、風が吹けば悲鳴を上げる。だが不思議と不快感はなかった。ここには鈴と過ごした七日間の記憶が染み付いているからだ。
「......ただいま」
誰もいない玄関で小さく呟く。音を立てて引き戸を開け、一歩中へ踏み入れた景明はそこで凍りついた。
「......は?」
そこにあったのは埃とカビにまみれた薄暗い部屋ではなかった。磨き上げられた床板。塵一つない畳。窓ガラスは曇りなく拭き清められ、差し込む陽光が部屋の中を神々しいまでに照らし出している。
ちゃぶ台の上には一輪挿しが生けられ、野の花が楚々と咲いているではないか。
「なんだこれは......新築か?」
景明は己の目を疑った。自分がここを空けていたのはわずかだ。その間、ここは無人だったはず。いや、違う。この異常なまでの清掃技術、そして漂う微かな柑橘系の洗剤の香り。
これは「......ばあやか」と景明は天を仰いだ。鈴の差し金だ。「野中さんが気持ちよく過ごせるように」とあの最強の家政婦長、トメに密命を下し、徹底的に掃除させた。
清潔な部屋で任務ができるのは有難いと思いつつ、これでは“貧乏学生のむさ苦しい部屋”というカモフラージュが台無しだと思う。
「......まあいい。布団さえあれば」
景明は溜息をつき、押入れを開けた。そこには綺麗に打ち直され、天日干しされた匂いのする煎餅布団が入っていた。
痒い着物を脱ぎ捨てたい衝動に駆られながら、彼は豪快に畳に座り込んだ。静寂。屋敷の広大な静けさとは違う、壁の薄い長屋特有の、隣人の生活音が聞こえる“賑やかな静寂”。だが、そこに鈴の声はない。「野中さん、お茶が入りましたよ」と笑う声も「今日の夕飯はなんですか?」と袖を引く感触もない。
「......寂しいな」
景明は膝を抱えた。鬼少佐ともあろう者がたかだか数時間離れただけでこの有様だ。彼は懐から、鈴に渡された複雑な模様のハンカチを取り出した。指でなぞると表面の幾何学模様の下に硬い結び目が無数にあるのが分かる。そのゴツゴツとした感触が今の彼にとって唯一の精神安定剤だった。
「よし」
景明は自身の頬を両手で叩いた。感傷に浸っている場合ではない。調査を開始せねば。
◇
数日後。野中みのるとしての生活は予想以上に過酷でそして奇妙なほど快適だった。安物の着物は動くたびに首筋や腰回りを針で刺すような攻撃をしてくる。
景明は常に蠢くように体を動かす不審者と化していた。昼間は調査のために街へ出るが夜、一人で冷たく清潔だが薄い布団に潜り込む時の虚無感はどんな拷問よりも辛かった。だが、それらを凌駕する快適さが毎日決まった時間に届けられた。
「野中さーん、お届けものだよー!」
近所の子供や口の堅い飛脚を装った西園寺家の使用人が毎夜、風呂敷包みを置いていくのだ。
「......来たか」
景明は周囲を警戒しつつ、その包みを部屋へ引き入れる。中に入っているのは曲げわっぱの弁当箱だ。
「今日の中身は......」
期待に胸を躍らせ、蓋を開ける。そこに現れたのは白飯の中央に梅干しが一つ鎮座しただけのいわゆる日の丸弁当。おかずは申し訳程度の沢庵が二切れ。
極貧書生の食事として、これ以上ないほど完璧な料理だ。もし誰かに見られても「ああ、野中さんは今日も貧しいな」と同情されるだけで済む。
「......フッ。鈴め、役者だな」
景明は笑い、箸を割った。そして何の変哲もない白飯を掘り返す。箸先が柔らかい感触に当たる。白飯の下、二層目。そこに隠されていたのは天麩羅だった。衣がしっとりと出汁を吸った海老の天麩羅が白飯の布団の下に敷き詰められていたのだ。
昨日は最高級和牛のしぐれ煮だった。一昨日はアワビの煮貝。見た目は貧乏、中身は王侯貴族。これこそ、鈴が考案した“カモフラージュ弁当”である。
彼女は“何も知らない”ふりをしながら、貧乏生活で痩せ細らないよう、全力で兵糧支援を行っているのだ。
「......美味い」
景明は一口頬張り、噛み締めた。
(野中さん、しっかり食べてくださいね)
鈴の声が聞こえるようだ。
「ご馳走様。完食だ」
一粒残らず平らげると景明の身体の奥底から力が湧いてきた。まだ婚約者だが愛妻弁当がある限り、彼は無敵だ。
午後。景明は帝都の喧騒の中にいた。場所は古書の街、神保町。彼は通りに面した古本屋の軒先で難解なドイツ語の哲学書を立ち読みしていた。
乱れた髪、丸眼鏡、猫背。そして手には分厚い本。風景に完全に溶け込んだ“勉強熱心な帝大生”の姿だ。だが、その目は文字を追っていない。眼鏡の奥の鋭い眼光は通りの向こう、人混みの中を行き交う群衆の一挙手一投足を観察していた。
(......来たな)
一人の男が近づいてくる。天秤棒を担いだ、初老の行商人だ。「冷やし飴~、冷やし飴はいらんかね~」と独特の節回しで売り歩いている。
男は景明の横で足を止め、汗を拭うふりをして足元の籠を下ろした。
「学生さん、熱心だねえ。一杯どうだい?」
「......金がないんだ。見てるだけだよ」
景明は本から目を離さずに答えた。男は「そうかい、世知辛いねえ」と笑い、懐から手ぬぐいを取り出した。その手ぬぐいの柄。紺地に白の“蜘蛛の巣”模様。“接触あり”の合図だ。景明は本を閉じ、ため息交じりにそれを棚に戻した。その際、本の間に挟んでいた一枚の栞をわざと落とした。
行商人はそれを素早く足で踏んで隠すと、何食わぬ顔で荷物を担ぎ上げた。
「邪魔したね。......ああ、そうだ。これ、売れ残りだがやるよ」
男は飴の入った小瓶を景明に押し付けると足元の栞を回収し、去っていった。
景明はその小瓶を受け取り、再び猫背になって歩き出した。人気のない路地裏に入り、小瓶の底を確認する。二重底になっている硝子の隙間に極薄の紙片が入っていた。
“D区画、第三水路。深夜二時。赤い雨が降る”
暗号だ。赤い雨は血、あるいは死者の復活を意味する隠語。
場所は特定された。今夜、帝都の地下水路で死者蘇生の儀式、あるいは取引が行われる。
「......今夜か」
景明は小瓶を握り潰しそうになるのを堪え、懐にしまった。指先が鈴が渡した複雑な刺繍のハンカチに触れる。
「待っていろ、鈴。......この街の膿を出し切って、必ず君の元へ帰る」
彼は古着の袖を翻し、夕闇の迫る帝都の闇へと消えていった。
◇
一方、その頃。女学校の教室では放課後のチャイムが鳴り響いていた。
「鈴ちゃん、今日もお裁縫?」
千代子が不思議そうに尋ねる。鈴の机の上には色とりどりの刺繍糸と新しい布が広げられていた。
「ええ。......なんだか、針を持っていないと落ち着かなくて」
鈴は微笑んだがその目は笑っていなかった。指先にはいくつもの絆創膏が巻かれている。お針子を得意とする鈴には珍しい光景だ。
(籠目のハンカチは渡した。けれど、不安は消えない。野中さんが戦っている間、私にできることは何か。祈ること?待つこと?)
いや、違う。
「もっと、丈夫に......絶対に、切れないように......」
鈴は祈るように針を握りしめた。ひと針ごとに“守って”という祈りを塗り込めていく。糸を引く指に力がこもる。
彼女は知らない。自分が無意識に選んでいるその糸の運びが物理的な強度を極限まで高める“補強構造”になっていることを。ただひたすらに愛する人が傷つかないようにという願いが結果として布を鋼鉄以上の“着る鎧”へと変質させていることを。
(野中さんがあんな薄い着物で風邪を引かないように。......怪我をしないように)
「鈴ちゃん?すごい形相よ......?」
「あ、ごめん、ごめん!ちょっと集中しちゃって!」
鈴は慌てて取り繕ったがその手は止まらなかった。彼女もまた、戦っていたのだ。針という剣と糸という鎖を使って、遠く離れた婚約者の無事をただひたすらに願いながら。
窓の外、帝都の空が茜色に染まっていく。その地下深くで蠢く闇とそれに向かう一人の男の背中を鈴は本能的に感じ取っていた。
(負けないで野中さん。私のお弁当とこの刺繍がついているわ)
彼女の瞳の奥で六芒星の光が静かにしかし力強く輝いたことに鈴自身は気づいていなかった。
◇
深夜二時。帝都が深い眠りと静寂の帳に包まれる時刻。ガス灯の明かりさえ届かぬD区画の吹き溜まり。一つのマンホールの蓋が軋んだ悲鳴のような音を立ててズレ動いた。そこから漏れ出したのは都市の排泄物と腐敗が煮凝ったような、鼻をねじ切るほどの悪臭だった。
「......相変わらず、地獄の蓋のような臭いだ」
闇に向かってそう吐き捨てた景明。彼は手ぬぐいで口元を覆うと頼りない懐中電灯だけを手にその漆黒の穴へと足を滑り込ませた。錆びついた鉄梯子を一段、また一段と降りるたび、地上の清浄な空気が遠のき、湿り気を帯びた重たい闇が彼を侵食していく。
靴底が地面、いや、ヘドロの層に着地した瞬間、不快な水音が反響した。
「......さて、鬼が出るか蛇が出るか」
景明は懐中電灯のスイッチを入れた。黄色く頼りない光線が煉瓦造りのアーチを切り取る。壁面には苔とカビがタペストリーのように張り付き、天井からは正体不明の汚水が雨のように滴り落ちている。
ここは大正帝都の血管であり、同時に排泄器官でもある地下水道網。華やかな文明開化の光が決して届かぬ、都市の裏側だ。
景明は足元を確かめながら歩き出した。安物の下駄は泥に足を取られやすく、古着の裾は容赦なく跳ね上がる汚水を吸い上げて重くなる。
(動きにくい......)
景明は舌打ちを噛み殺した。軍服と編み上げ軍靴であれば、こんな泥濘など物ともせずに疾走できる。腰には佩用があり、その一閃で闇を切り裂くこともできる。だが今の彼はただの貧乏書生だ。武器と呼べるものは懐の帯の間に隠した護身用の錆びた短刀、一本のみ。
(だが、これでいい)
彼は懐の上から心臓の位置にあるハンカチの膨らみを確認した。あの複雑な幾何学模様の布地の下には鈴の想いが縫い込まれている。それがある限り、精神的な鎧は軍服以上に強固だ。
「......行くぞ」
彼は気配を殺し、闇の奥へと進んだ。数百メートルほど進んだ頃だろうか。不意に鼻をつく悪臭の質が変わった。下水のメタンガスや腐敗臭ではない。もっと生々しく、鼻の奥にこびりつくような甘ったるい鉄錆の匂い。戦場で嫌というほど嗅いだ古い死の匂いだ。
“赤い雨が降る”
情報屋から得た暗号が脳裏をよぎる。景明は足を止めた。懐中電灯の光を消し、闇に目を凝らす。聴覚を極限まで研ぎ澄ます。水滴の音。ネズミが壁を這う音。その奥底から何か重たいものを引きずるような音が近づいてくる。一つではない。二つ、三つ、いや、無数だ。
(......足音がおかしい)
軍人ならば統率の取れた靴音がする。ゴロツキならば粗暴で不規則な足音がする。だが、この音には意志が感じられない。まるで壊れた人形が糸に引かれて無理やり歩かされているような、不自然で無機質なリズム。
景明は壁の窪みに身を隠し、錆びた短刀を逆手に握った。やがて闇の向こうから姿を現したのは人の形をした群れだった。
ボロボロの衣服を纏った浮浪者風の男。顔半分が爛れた軍服姿の男。さらにはどこかの女給のような着物の女。共通しているのは全員が俯き、顔色が土気色でそして「......傀儡か」と景明が息を呑む。
先頭を歩く男の首はありえない角度に折れ曲がっていた。右腕の関節は逆方向に捻じれ、骨が皮膚を突き破っている。生きている人間なら激痛で動くことなど不可能な状態だ。だが彼らは痛みなど存在しないかのようにただ黙々と歩を進めている。
彼らの瞳には光がない。白目は濁り、焦点は虚空を彷徨っている。死体だ。あるいは死体同然に精神を破壊され、何者かに操られている人形たち。これが過激派組織の幹部“蜘蛛”の異能、死者蘇生、あるいは死体操作の所業か。
(......数が多いな)
目視できるだけで十数体。狭い地下道でこの数に囲まれれば、ひとたまりもない。
景明は彼らをやり過ごそうと息を殺した。だが、その時。群れの中の一体、少女の姿をした傀儡が足を止めた。そして、フクロウのように首を百八十度回転させ、景明が潜む闇を正確に見据えたのだ。
「ア…」
少女の口が裂けんばかりに開き、鼓膜を劈くような金切り声を上げた。それは“発見”の合図だった。
「チッ、見つかったか......!」
景明は舌打ちと共に隠れ場所から飛び出した。瞬間、それまで緩慢な動きだった死者たちの群れが弾かれたように一斉に襲いかかってきた。その速度は異常だった。リミッターの外れた筋肉が悲鳴を上げ、骨がきしむ音を立てながら獣のように四つん這いで壁を蹴って殺到する。
「どけ!」
景明は先頭で飛びかかってきた浮浪者の傀儡に対し、カウンターの蹴りを放った。軍靴なら顎を粉砕する一撃。だが、今は底の薄い駒下駄だ。嫌な感触と共に男の顔面が陥没し、吹き飛ぶ。だが、男は倒れない。顔面が潰れたまま、まるで起き上がり小法師のように即座に体勢を立て直し、再び掴みかかってきたのだ。
「痛みを感じない、か......厄介な!」
景明は身を捻り、汚れた爪による斬撃を回避した。着物の袖がわずかに裂け、千切れた布地が汚水に落ちる。間髪入れず、次は背後から軍服の傀儡が錆びた鉈を振り下ろしてきた。
「くっ!」
景明は咄嗟に短刀で受け止める。火花が散る。相手の腕力は死後硬直を利用しているのか、万力のように重い。安物のナイフが悲鳴を上げ、刃こぼれを起こす。
(この短刀では首を落とすこともできん!)
景明は力任せに相手を押し返し、その勢いで足を払って転倒させた。だが、倒れた傀儡を踏み越えて次々と新たな死者たちが押し寄せてくる。狭い通路は腐臭と殺意で埋め尽くされた。
「ウウウ......アアア......」
唸り声とも、ガスが抜ける音ともつかない不気味な合唱。彼らには恐怖心がない。躊躇がない。ただ生者を食らい、引き裂けという命令だけに従う、肉の自動人形。
「......いいだろう」
景明は短刀を持ち直し、眼鏡の奥の瞳を鋭く細めた。鬼少佐の仮面の下、眠っていた闘争本能が鎌首をもたげる。
「野中みのるとしては不本意だが......少し、暴れさせてもらう」
彼は泥水の中に下駄を踏み入れた。着物の裾が重く絡みつくが構わない。一閃。彼は敵の攻撃を紙一重で躱すと関節の隙間、腱の結合部といった物理的な急所を的確に狙って短刀を走らせた。
痛みを感じぬなら、動けないように解体するまでだ。だが敵は多すぎる。そして何より、この場所は敵のテリトリーだ。天井から、壁から、まるで蜘蛛の子を散らすように新たな影が這い出してくる。
(鈴......)
ふと、懐の温もりが意識を掠めた。彼女が持たせてくれたハンカチ。そして昼に食べた、あの豪華な弁当の味。生きなければならない。こんな薄暗いドブの中で名もなき死体として朽ち果てるわけにはいかない。
「退けぇっ!!」
景明の咆哮が地下道に響く。彼は血路を開くべく、死者の行進の只中へとその身を弾丸のように叩きつけた。錆びた短刀とボロボロの着物。そして胸に秘めた、一人の少女への誓いだけを武器にして。
「ハァ......ッ、ハァ......ッ!」
荒い呼吸音が煉瓦造りのドーム状天井に反響する。
景明は膝まで浸かる汚水の中で大きくたたらを踏んだ。安物の木綿着物はすでに無残なほど引き裂かれ、泥と彼自身の鮮血で赤黒く染まっている。
「数が多い......!まるで湧いて出やがる......!」
景明は眼鏡の位置を中指で押し上げ、短刀を構え直した。その刃は度重なる激突ですでにボロボロに欠け、もはや切れ味など期待できない鉄屑と化している。
対する敵は終わりの見えない死者の群れ。闇の奥から次々と這い出してくる傀儡たちは手足をありえない方向に曲げながら、あるいは首を垂れ下げながら、無言の殺意となって押し寄せてくる。
「アアア......」
「ウウ......」
彼らは痛みを感じない。恐怖を知らない。景明がどれだけ正確に急所を突こうとも骨を折ろうとも、肉のパーツが繋がっている限り、執拗に動き続ける。それはまるで、質の悪い悪夢そのものだった。
「クソッ!」
左側から飛びかかってきた元・軍人らしき傀儡の回し蹴りが景明の脇腹を捉えた。
「ぐぅッ......!」
鈍い衝撃が内臓を揺らす。肋骨にヒビが入ったかもしれない。安物の着物には防刃性も衝撃吸収性もない。生身で受けたダメージが容赦なく景明の体力を削り取っていく。
体勢を崩した景明の眼前に今度は女の傀儡が迫る。その手にはどこかの厨房から盗んできたであろう錆びついた出刃包丁が握られている。
景明は泥水を蹴り上げ、目潰しを仕掛けた。汚水を浴びた女の動きが一瞬止まる。その隙に懐へ飛び込み、掌底を顎に叩き込む。骨の砕ける感触。女がのけぞり、水面へ倒れ込む。だが、息つく暇はない。倒れた女を踏み台にして、背後から巨漢の傀儡がのしかかってきたのだ。重量級のタックル。景明の体が宙を舞い、煉瓦の壁に背中から激突する。
「がはっ......!」
肺から空気が強制的に絞り出される。視界が明滅し、耳鳴りが響く。壁に張り付いたまま、ずるりと崩れ落ちそうになる体を、景明は気力だけで支えた。
(......情けない)
自嘲が脳裏をよぎる。鬼少佐と恐れられ、帝都最強の一角と謳われた自分がこんなドブの中で名もなき屍人たちに追い詰められているとは。佩用があれば。あの動きやすい軍服があれば。いや、それは言い訳だ。何より悔しいのはこのままでは鈴の元へ帰れないかもしれないという、冷たい予感だった。
『行ってらっしゃいませ』
数日前、見送ってくれた鈴の笑顔がフラッシュバックする。あの時、彼女の瞳の下にあった濃い隈。自分のために夜なべをして何かを作ってくれていた彼女。あの笑顔を二度と見られないのか。あの温かいお弁当をもう食べることはできないのか。
「......ふざけるな」
景明は口の中に溜まった血を唾と共に吐き捨てた。
「誰が......死ぬか。私は帰るんだ。鈴が待つ、あの場所へ......!」
彼は折れかけた短刀を逆手に持ち、咆哮と共に壁を蹴った。再び乱戦の渦中へ。血飛沫と泥水が舞う。景明の頬を敵の爪が裂く。左腕を錆びた鉄パイプが打ち据える。痛みは思考を鋭敏にさせ、生存本能を極限まで高める燃料となる。だが物理的な限界は確実に迫っていた。敵の包囲網が狭まる。前後左右、そして頭上からも。
「!!」
一瞬の隙だった。泥足に気を取られた景明の死角、右斜め後方から一際大きな影が音もなく忍び寄っていた。それは屠殺場から抜け出してきたかのような、巨大な肉切り包丁を引きずった大男の傀儡だった。景明が気配に気づき、振り向いた時には、もう遅かった。振り上げられた錆色の刃が処刑人の鎌のように景明の心臓めがけて振り下ろされる。
(間に合わない!!)
回避は不可能。防御する武器もない。脳内時間が引き伸ばされ、迫りくる凶刃の錆びた表面までもが鮮明に見える。その切っ先が狙うのは左胸。つまりは心臓。
(鈴......)
最期の瞬間に呼んだのは神の名でもなく、国の名でもなく。ただ一人の、愛しい少女の名前だった。だが、肉が裂ける音ではなかった。骨が砕ける音もなかった。それはまるで鋼鉄の装甲板を巨大なハンマーで叩いたかのような、硬質でそして神秘的な金属音だった。
「......え?」
景明は目を見開いた。痛みはないが胸に衝撃はある。だが、刃が肉に食い込む感触がない。
代わりに彼の懐、心臓の位置から目も眩むような強烈な光が迸ったのだ。光の色は紅白と黄金。それは懐から溢れ出し、景明の胴体を包み込むように展開した。空中に浮かび上がったのは幾何学的な光のライン。六つの三角形が交差し、星を形作る結界。古来より魔を封じ、邪気を払うとされる最強の護符。
「籠目......?」
景明が呆然と呟く。光の結界は物理法則を無視してそこに顕現していた。大男の傀儡が振り下ろした巨大なナタはその光の網に阻まれ、空中で止まっている。いや、止まっているだけではない。光の線が熱を帯び、ナタの刃を焼き尽くすかのように輝きを増していく。
『守って』
鈴の声が聞こえた気がした。ハンカチに込められた彼女の祈り。執念。そして少し重すぎるほどの愛情。それらが今、異能という形をとって、物理的な防御障壁と化したのだ。
次の瞬間、大男のナタが砕け散った。光の反発力に耐えきれず、刀身が粉々になって弾け飛んだのだ。さらに衝撃波のような光の余波が周囲へ拡散する。
「ギャアアアアッ!?」
光に触れた傀儡たちが断末魔を上げて吹き飛んでいく。まるで聖なる炎に焼かれる悪霊のように彼らの体から黒い煙が上がり、動きが停止した。
静寂が唐突に戻ってきた。残ったのは砕け散ったナタの破片と光に焼かれて動かなくなった傀儡の残骸、そして呆然と立ち尽くす、一人の貧乏書生だけ。
「......なんだ、これは」
景明は震える手で懐に手を入れた。そこにあったのは鈴が「新調しました」と言って渡してくれた、あのハンカチだ。取り出したハンカチはほんのりと、いや、火傷しそうなほど熱を持っていた。
表面の幾何学模様の隙間から下地に縫い込まれた金糸の籠目紋が未だ微かに燐光を放っている。
「......布切れ、一枚だぞ?」
景明は戦慄した。軍の最新鋭防弾チョッキでも今のナタの一撃を防げたかどうか怪しい。それを刺繍糸と木綿の布が弾き返したのだ。しかも、敵の武器を破壊するほどのカウンターまで乗せて。
景明はハンカチを広げた。裏面を見る。そこには表面からは想像もつかないほど高密度で狂気的なまでに緻密な縫い目がびっしりと走っていた。
それはもはや刺繍ではない。糸による装甲。あるいは呪術的な回路基板。
「鈴......」
景明の口元が引きつった。彼女は言っていた。「少し派手になりましたが」と。派手どころではない。これは凶器だ。愛という名の質量兵器だ。彼女は「何も知らない」ふりをしながら、彼が絶対に死なないよう、これほどの呪いを持たせたのか。
「......重い」
景明はハンカチを握りしめ、胸に押し当てた。物理的な重さではない。そこに込められた想いの質量が彼の魂を押し潰しそうなほどに重く、そして温かい。
「君の愛は......物理法則すら超越するのか」
込み上げてくるのは恐怖ではない。どうしようもないほどの愛おしさだった。彼女が徹夜で作ったこの護符が自分の命を救った。その事実が傷ついた体に活力を注ぎ込む。
「......フッ、フフッ」
景明は暗い地下道の真ん中で一人声を上げて笑った。鬼少佐の冷笑ではない。恋する男の歓喜の笑いだ。
「ありがとう、鈴。......これで私は負ける気がしない」
彼は熱を持ったハンカチに恭しく口づけを落とした。その瞬間、ハンカチの光がスッと収束し、彼の全身に薄い膜となって馴染んでいくのを感じた。防御結界の定着。今の彼は文字通り“愛に守られた無敵の書生”と化したのだ。
「さて......」
景明は眼鏡をかけ直し、奥へと続く闇を睨みつけた。敵の残党はまだいるだろう。そして、この騒ぎを聞きつけた親玉も動くはずだ。だが、今の彼に迷いはない。
「行くぞ。......家に帰って君の作った味噌汁を飲むまでは閻魔大王でも私を連れて行くことはできん」
泥だらけの着物を翻し、景明は再び歩き出した。その背中にはもう悲壮感など欠片もなかった。地下水道の大広間に奇妙な静寂が満ちていた。光の結界によって弾き飛ばされた傀儡たちの残骸が汚水に沈んでいく。
「ん......?」
景明はふと、違和感を覚えて自身の腕を見た。先ほどの乱戦で錆びた鉄パイプによって殴打され、青黒く腫れ上がっていたはずの左腕。その皮膚の上をハンカチから溢れ出した金色の粒子が這い回っている。
粒子は傷ついた細胞に吸い込まれ、微かな音と共に組織を急速に再生させていく。
「傷が......塞がっていく?」
頬に走っていた切り傷も、肋骨の鈍痛も嘘のように引いていく。痛みだけが消えたのではない。裂けた皮膚が繋がり、打撲の痣が消え、まるで時間が巻き戻ったかのように肉体が修復されていくのだ。
「馬鹿な......これは治癒の異能か?」
景明は戦慄した。異能を持つ者は稀に存在する。彼自身もその一人だ。だが“他者を治療する”能力は稀有で部隊内でも多くはない。ましてや、本人がその場におらず、ただ彼女が作った布切れを介して発動するなど常識ではありえない。
(鈴......君は一体、どれほどの想いをこの針と糸に込めたんだ)
彼は想像した。夜な夜な、眠い目をこすりながら、彼の無事を祈って一針一針を縫い込む鈴の姿を。
『怪我をしないで』
『痛い思いをしないで』
その純粋で重すぎるほどの祈りが物理的な治癒現象となって彼を修復しているのだ。
「......フッ。これでは、傷だらけになって帰って同情を引く作戦も使えないな」
景明は苦笑した。服はボロボロのままだが中身は新品同様に回復している。これこそが最強の愛のカウンターだ。傷つかない体。尽きない体力。今の彼は、不沈艦だ。
「ガアアアアッ......!!」
その時、闇の奥から新たな咆哮が響いた。光の結界の余波を受けなかった後続の傀儡たちが現れたのだ。数は二十、いや三十。壁を這い、天井からぶら下がり、人間離れした動きで殺到してくる。先ほどの個体よりも一回り大きく、肉体が異形に変異した強化種も混じっている。だが、景明の瞳に焦りの色はなかった。
「......いいだろう」
彼は懐のハンカチを壊れ物を扱うようにそっと撫でた。
「鈴が守ってくれた命だ。傷一つつけずに持ち帰るのが礼儀だろう」
景明はゆっくりと右手を掲げた。安物の着物の袖が翻る。彼は本来、剣の達人であるが同時に強力な異能の使い手でもあった。普段は強力すぎるが故に封印しているその力を今ここで解き放つ。
「凍てつけ」
呟きと共に地下道の気温が急激に低下した。景明の足元の汚水が音を立てて凍結していく。彼が纏うのは絶対零度の冷気。“鬼少佐”の異名の由来となった血も涙も凍らせる氷の異能。
「氷結・蓮華」
景明が腕を薙ぐと同時に氷の華が咲き乱れた。襲いかかってきた傀儡たちの足元から鋭利な氷柱が槍のように突き出し、彼らの体を貫いたのだ。
「ギ......ッ!?」
痛みを感じない彼らも物理的に凍らされ、関節を固定されては動けない。汚水まみれの空間が一瞬にして、蒼白く輝く氷の彫像が立ち並ぶ美術館へと変貌した。
「次は雷だ」
景明は止まらない。左手に紫電を帯びさせる。氷漬けになった傀儡たちへ向けて、指を弾いた。雷撃が氷を伝導し、敵の群れを一網打尽にする。肉が焦げる臭いと氷が砕ける音が交錯する。圧倒的な蹂躙。錆びたナイフなど必要なかった。彼自身が歩く兵器なのだから。
「......終わりか」
数分後。動くものは何もいなくなった。氷の破片と傀儡の残骸が散らばる大広間で景明は静かに息を吐いた。白い息が冷え切った闇に溶けていく。
「さて......」
景明は懐中電灯を拾い上げ、傀儡たちが現れた奥の通路を照らした。そこには奇妙なものが残されていた。壁や天井にへばりつく、銀色に光る細い糸。触れると指に吸い付くような強力な粘着質。
「......蜘蛛の糸か」
やはり、情報は正しかった。この死者の群れを操っていたのは過激派幹部“蜘蛛”。糸は闇の深淵、さらに地下深くへと続いている。この先には、帝都の地下迷宮とも呼べる未開の領域が広がっているはずだ。
景明は糸の先を睨み据えた。逃したか。あるいは、誘われているのか。どちらにせよ、ここで引き返すわけにはいかない。
彼は懐から再びあのハンカチを取り出した。泥と返り血にまみれ、それでもなお神々しい光を失わない愛の結晶。暫く眺めた後、ハンカチを丁寧に畳み、再び心臓の上へとしまった。その表情は鬼少佐の冷徹さと野中みのるの人間臭さが融合した、かつてないほど魅力的な男の顔をしていた。
「首を洗って待っていろ、蜘蛛男。......私の婚約者を心配させた罪、万死に値するぞ」
景明はボロボロになった着物の裾を正すと、蜘蛛の糸が導く暗闇へと足を踏み入れた。その背中はどんな最新鋭の戦車よりも頼もしく、そして誰よりも家に帰ることを渇望していた。




