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第7話

 数日後。降り続いていた雨が嘘のように上がり、帝都の空は硝子細工のように繊細で澄み切っていた。西園寺邸の朝食室には天上の神々が祝福を降り注いだかのような無垢な黄金色の陽光が満ちている。

 高い天井のシャンデリアが光を反射し、磨き抜かれたチーク材の長テーブルの上には白磁の食器と銀のカトラリーが整然と並べられていた。

 漂うのは湯気を立てる芳醇な紅茶の香り。そして焼きたてのトーストの芳ばしさと、濃厚なバターの乳の香りが混ざり合い、幸福という名の見えない霧となって部屋を包み込んでいる。

 そのテーブルの上座とすぐ右隣の席。そこには景明とすっかり体調の戻った鈴が座っていた。

「……鈴」

 重厚な沈黙を破り、景明が低い美声で名を呼ぶ。その声色は戦場で部下を叱咤する時の氷のような鋭さとは無縁の、甘く、どこか切羽詰まったような熱を帯びていた。

「はい、西園寺様」

 鈴は背筋をピンと伸ばし、花が綻ぶような笑顔で応える。視線の先にいるのは軍服を隙なく着こなした“鬼少佐”だ。黒髪は一糸乱れず撫で付けられ、襟元は窒息しそうなほどきつく詰められている。だが、その端正な顔立ちは目の前の少女に対してのみ、あからさまな動揺と愛執を滲ませていた。

 景明の大きな手には不釣り合いなほど繊細な銀のフォークが握られている。その先端には鮮やかな黄色をしたオムレツのひと欠片が、とろりとした半熟の中身を覗かせながら突き刺さっていた。

「……あー、しろ」

「えっ?」

「毒味だ」

 景明は真顔だった。いや、真顔を装おうとして、耳の先が熟れたトマトのように赤らんでいるのを隠しきれていない。あの嵐の夜の出来事から、彼はさらに過保護に、そして不器用になっていたのだ。

「あの、西園寺様?ここは西園寺家の屋敷で作ってくださったのは長年仕える料理長ですよね? 毒なんて入っているわけが……」

「油断は大敵だ。帝都には不穏な輩が蔓延っている。いつ何時、何者が厨房に侵入し、私の、いや、君の命を狙うか分かったものではない」

景明はもっともらしい理屈を並べ立てたが、その瞳孔は激しく揺れ動いていた。

 彼は嘘をついていた。野中みのるという書生になりすましていた頃の、あの貧乏長屋での質素な食事、二人で一つの焼き芋を分け合ったような、あの親密な距離感が恋しくてたまらないのだ。だが公爵家当主として、そして冷徹な軍人としての威厳が素直に“食べさせてあげたい”と言わせない。結果として彼は“毒味”という、あまりにも物騒で非論理的な口実を捻り出していた。

 鈴はそんな彼の心中など露知らず、否、知っていた。彼女は目の前のこの不器用な男が自分が行方不明だと思っている愛しい恋人、野中みのるその人であることをすでに確信しているのだから。

(ふふっ。野中さんたら、またそんな無理な嘘をついて……。本当は私に優しくしたいだけなんでしょう?)

 鈴の胸の奥で愛おしさが泉のように湧き上がった。以前、高熱を出した鈴のために彼がついた“野中みのるは過激派だ”というあまりにも悲痛な嘘。そして麗華が鈴のハンカチを汚そうとした瞬間に見せた、あの激情。

 それらすべてが彼が何らかのために正体を隠し、心を殺して“鬼”を演じている証拠だと鈴は解釈していた。だからこそ、彼女はこの“毒味”という名の茶番劇に全力で乗っかることを決意していた。共犯者として、彼の嘘を真実に変えるために。

「わかりました。西園寺様がそこまでおっしゃるなら……」

 鈴は少し大げさに頷くと恥じらいを含んだ瞳で景明を見つめ、桜色の唇を小さく開いた。

「……あーん」

 その瞬間、景明の肩が小さく跳ねた。彼はまるで爆発物の信管を取り扱う工兵のような慎重さと聖遺物を捧げ持つ信徒のような敬虔さでフォークを鈴の口元へと運んだ。柔らかな卵が鈴の舌の上に乗る。バターの風味と塩気が口いっぱいに広がり、鈴は思わず頬を緩ませた。

「んっ……おいしいです」

 咀嚼し、嚥下する。喉を通る温かさを感じながら鈴はとろけるような笑顔を向けた。

「毒なんてありませんでしたよ。とっても優しい味がします」

 その言葉を聞いた景明の表情が一瞬にして崩壊した。冷徹な仮面の下から、かつて長屋で見せていた、あの日だまりのような穏やかな表情が漏れ出す。彼は口元を手で覆い、机に突っ伏したい衝動を必死に堪えていた。

(可愛い……!なんだこの生き物は。天使か?いや、天使でさえこれほどの破壊力は持っていないはずだ。私の心臓を止める気か……!)

 景明の心は嵐のようだった。任務の延長がバレる恐怖、査問会への不安、そして何より目の前の少女への制御不能な愛情。それらが坩堝となって彼を焼き尽くしている。

「そ、そうか。ならば良し」

 景明は咳払いを一つして、どうにか平静を取り繕った。だが、その手は微かに震えており、皿に置いたフォークが小さな音を立てた。

「では、次は私の番ですね」

 鈴は悪戯っぽく微笑むと自分の皿にあったサラダボウルを引き寄せた。瑞々しいレタス、真っ赤なトマト、薄くスライスされた胡瓜。それらをトングで豪快に掴むと景明の皿の上へとなだれ込ませる。一度、二度、三度。

 もはや付け合わせの域を超え、緑色の山脈が景明の皿の上に隆起した。

「……鈴?」

「西園寺様、顔色が少し悪いですわ。任務でお疲れなのでしょう?野中……いえ、書生さんたちだって、体が資本だと言っていました。しっかりお野菜を召し上がって、栄養をつけてくださいませ」

 鈴は野中と言いかけて、慌てて口をつぐむふりをした。これは彼女なりのサインだ。“私はあなたの設定を守っていますよ”という、共犯者としての慎み深い合図。そして同時にあの頃、金がなくて野菜など滅多に食べられなかった野中への切実な気遣いでもあった。

 景明は目の前にそびえ立つサラダの山を見下ろし、次に鈴の期待に満ちた瞳を見た。彼は野菜があまり好きではない。肉と珈琲があれば生きていけると思っているタイプの軍人だ。しかし、このサラダは鈴が自分のためによそってくれたものだ。

 拒否するという選択肢は彼の中の辞書には存在しなかった。

「……感謝する。確かに栄養の摂取は軍務遂行において不可欠だ」

 景明は悲壮な決意でフォークを握り直すと山盛りのレタスへと挑みかかった。静寂な朝食室にウサギが餌を食むような音がリズミカルに響く。その様子を鈴は頬杖をついて幸せそうに眺めていた。

「ふふ、西園寺様って、意外と健啖家なんですね」

「……君が、勧めるからだ」

 口いっぱいに葉野菜を詰め込み、答える景明。その姿は帝都を震え上がらせる鬼少佐の威厳など欠片もなく、ただの愛に溺れる一人の男でしかなかった。

 その時である。平和で、奇妙で甘やかな朝の空気を切り裂くように食堂の扉が重々しく叩かれた。ノックの音ではない。それはまるで軍靴で床を踏み鳴らすかのような規律正しく、かつ無機質な打撃音だった。

「入れ」

 景明が瞬時に表情を引き締め、口元のドレッシングをナプキンで拭い去りながら命じた。

 重厚な扉が開くとそこに立っていたのは初老の女性、家政婦長のばあやだった。彼女の表情はいつになく硬く、その背後には冷ややかな空気を纏った影が一つ、揺らめいていた。

「旦那様、急な来客でございます。お通ししてよろしいでしょうか」

「朝食時だぞ。誰だ」

「軍の方です。氷室大尉とおっしゃる…」

 その名を聞いた瞬間、景明の背筋に冷たい氷柱が突き刺さるような戦慄が走った。

 氷室大尉。彼の直属の部下であり、最も信頼する腹心。そして何より、架空の人格である“野中みのる”という存在を構築するための詳細な設定資料を作り上げ、そのあまりの完成度に自ら心酔しているという、いささか厄介な男だ。

 彼がこの時間に、しかも私邸にまで押しかけてくるとはただ事ではない。

「……通せ」

 景明の承諾と同時にばあやが慇懃無礼とも取れる所作で一歩下がり、背後の男を招き入れた。

 磨き上げられた床を鳴らす軍靴の音が先ほどまでの甘い空気を容赦なく踏み砕いていく。現れたのは神経質そうな銀縁眼鏡をかけた、痩身の将校だった。軍服には塵一つなく、その瞳は磨かれたメスの先のように冷徹で感情の色を排している。

 氷室は部屋の中央で立ち止まると硝子越しの日光を受けて眼鏡を光らせた。その視線はまず山盛りのサラダを平らげようとしていた景明に向けられ、次いでその隣で無防備に微笑む鈴へと滑り、最後に再び景明へと戻った。

 わずかに氷室の眉間が動く。それは失望か、驚愕か。あるいは崇拝する上官のあまりにも堕落しきった姿への静かなる憤怒か。

「失礼いたします、少佐」

 氷室の声はよく冷えた鉄板のように平坦だった。敬礼をするその動作は完璧すぎて、逆に人間味を感じさせない。

「……氷室か。今日はたしか非番だったはずだが、何の用だ」

 景明は努めて尊大に振る舞おうとしたが口の端にレタスの切れ端がついていないか気になって、さりげなく指で拭った。その動作を氷室は見逃さなかった。

「緊急の報告事項があり、罷り越しました。……ですが少佐。その前に一つ、よろしいでしょうか」

「なんだ」

「その卓上の惨状はいかなる戦術的意図によるものでしょうか。少佐がそのように草食動物の如く葉野菜を貪る姿は私の記憶にある“理想の指揮官”像とは些か……いえ、甚だしく乖離しております」

 氷室の言葉は丁寧だが棘があった。彼は景明を崇拝している。だからこそ、景明が女にかまけて骨抜きにされている現状が許せないのだ。特に彼が作り上げた最高傑作である野中みのるという人格が単なる逢瀬の道具として摩耗していくことに創作者として、そしてファンとしての憤りを感じていた。

「これは……健康管理の一環だ。貴様には関係ない」

「左様でありますか。健康管理。……フッ、愛という名の猛毒に冒されている自覚はおありで?」

 氷室は冷笑を浮かべると懐から分厚い封書を取り出した。その封筒には軍の最高機密を示す赤い印が押されている。

 部屋の空気が一気に張り詰めた。鈴もただならぬ気配を感じ取り、フォークを置いて居住まいを正した。

「小鳥遊嬢」

 不意に氷室が鈴を見た。眼鏡の奥の瞳は射るように鋭い。

「……は、はい」

「貴女には席を外していただきたい。これは軍の機密に関わる話です」

「待て、氷室」

 景明が鋭い声で制した。

「鈴はこの屋敷の保護対象だ。彼女に関わることならば同席させる権利がある」

「……ほう。そこまで彼女を信頼なさっていると?あるいは隠し事など何一つない、清廉潔白な関係だとでも?」

 氷室の言葉には幾重もの意味が含まれていた。正体がバレていることを知らないのは景明だけだという皮肉。そして、これから告げる内容が二人の関係を決定的に引き裂く刃になるという予告。

 氷室は封筒をテーブルの上に滑らせた。それはまるで断頭台の刃が落ちるような滑らかな動きで景明の手元へと届いた。

「単刀直入に申し上げます」

 氷室は一度眼鏡の位置を直し、死刑判決を読み上げる裁判官のような声で告げた。

「“査問会”の日取りが決定いたしました。……少佐、状況は極めて芳しくありません。上層部は少佐が任務完了後も潜伏を続けた理由を極めて個人的な、そして軍人にあるまじき不純な動機によるものだと断定しつつあります。……状況は限りなく“クロ”です」

 その言葉は甘い朝食の余韻を完全に吹き飛ばし、冷たく重い現実を二人の間に突きつけた。

 景明の顔から血の気が引く。査問会。それは軍法会議の前段階であり、ここでの答弁次第では少佐としての地位はおろか、軍籍剥奪、最悪の場合は営倉行きもあり得る。だが、彼が恐れているのは自分自身の処罰ではない。

 この件が公になれば鈴との関係が野中みのるとしての想い出までもが軍の論理によって解体され、踏みにじられてしまうことへの恐怖だった。

 鈴は景明の拳が膝の上で白くなるほど握りしめられているのを見てしまった。彼女の中で誤解と真実が奇妙に絡み合ったまま、決意が固まっていく。

(西園寺様がこんなに怯えている……。やっぱり、あの“秘密任務”のせいなのね。野中さんが過激派組織に潜入していたことが軍の中で問題になっているんだわ。私が……私が彼を守らなきゃ)

 鈴はテーブルの下でそっと景明の手に自分の手を重ねた。その温もりに景明が驚き、顔を上げる。二人の視線が交差する。

「……場所を変えよう。氷室、応接室へ」

 景明はナプキンをテーブルに投げ捨てると低い声で告げた。氷室は短く返答し、踵を返す。

 鈴も慌てて立ち上がろうとしたが氷室の冷ややかな声がそれを制した。

「小鳥遊嬢。ここからは軍の機密に関わります。貴女は同席できません」

「え……」

「自室へお戻りください」

 有無を言わせぬ拒絶だった。景明もまた、苦渋に満ちた瞳で鈴を一瞥し、「すまない」と短く告げて部屋を出て行ってしまった。

 残された鈴は不安に押しつぶされそうになりながらも二人の後を追った。廊下の突き当たりにある応接室。その重厚な扉が鈴の目の前で無情にも閉じられる。

 鍵が掛かる音が決定的な拒絶として響いた。

 重厚なオーク材の扉が閉ざされると応接室は外界から隔絶された密室と化した。

 壁に掛けられた古時計が無機質なリズムで時間を刻んでいる。それはまるで二人に残された猶予を削り取る死神の足音のようだった。

 革張りのソファに深く沈み込んだ景明は先ほどまでのふやけた表情を完全に消し去り、軍刀のような鋭さを取り戻していた。その対面には氷室大尉が微動だにせず、彫像のように座している。

かつてないほどの張り詰めた空気が男二人の間に横たわっていた。

「……始めろ」

 景明の短い命令と共に氷室は懐から書類を取り出した。

「単刀直入に申し上げます。軍上層部は少佐が任務完了後も潜伏を続けた理由を極めて個人的な理由……“女”だと疑っています」

 その言葉は扉の外に佇んでいた鈴の耳にも微かに届いた。鈴は行儀が悪いとは知りつつも、吸い寄せられるように扉に耳を押し当てた。

「馬鹿な。私がそのような……」

「状況証拠は黒です。私が完璧に設計した“野中みのる”という人格……あの貧しくとも高潔な書生像が少佐の個人的な愛執によって歪められたのです!これは軍人としての規律違反以前に人格の崩壊です!」

 氷室が強くテーブルを叩く音が響く。

(設計?人格?……そうか、やっぱり“野中みのる”は軍が作り上げた潜入用の架空の人物だったのね。西園寺様はその役になりきっていたんだわ)

 鈴の中で“野中=スパイ説”がより強固なものへと補強されていく。だが、続く氷室の言葉が鈴の胸を鋭利に抉った。

「軍は現在、少佐をたぶらかした“情婦”の存在を血眼になって探しています。もし、小鳥遊嬢がここにいることが露見すれば……彼女こそが帝国軍の有望な将校を堕落させた“傾国の毒婦”として断罪されるでしょう」

「……毒婦」

 鈴は息を呑み、廊下で思わず口元を手で覆った。

(私が彼を堕落させた?私がいるせいで彼は“毒婦”を匿っていると疑われ、軍での立場を失おうとしているの?私が……彼のお荷物になっているの)

 それ以上、聞く必要はなかった。これ以上聞いてしまえば、取り乱して叫んでしまいそうだったからだ。鈴は扉から身を離すと音を立てないように静かな足取りで廊下を走り去った。

 靴音が遠ざかるのを確認することもなく、密室の中で景明は追い詰められていた。

「……氷室。それだけはさせん。彼女は何も知らないのだ。ただの……被害者だ」

「ならば結論は一つです。小鳥遊嬢を直ちに実家へお帰しください。少佐の身の潔白と何より彼女自身の安全のために」

 沈黙。時計の針の音だけが静かに響く。景明は膝の上で拳を握りしめ、爪が皮膚を突き破らんばかりに力を込めた。

(手放したくない。だが、彼女を軍の監視下に置くわけにはいかない)

 やがて、彼は血を吐くような思いでその言葉を口にした。

「……分かった。君の言う通りだ、氷室。鈴を……帰そう」

 魂の一部を切り離すような激痛が走った。だが、これが彼女を守る唯一の道なのだ。

 数分後。景明は鉛のように重い足取りで鈴を使用している客室の前まで来た。どう切り出せばいい。「君のことが嫌いになった」と嘘をつくべきか。それとも「軍の命令だ」と冷たく突き放すべきか。どちらにせよ、彼女を傷つけることになる。

(……すまない、鈴)

 景明は断腸の思いで扉をノックした。返事はない。不審に思い、ドアノブを回すと鍵はかかっていなかった。ゆっくりと扉が開く。

「鈴?」

 部屋に入った景明はその光景に息を呑んだ。ベッドの上には開かれたトランクケース。そして、鈴が綺麗に畳まれた着物を静かにその中に収めているところだった。

 すでに部屋の小物は片付けられ、いつでも出立できる状態になっている。

「……あ、西園寺様」

 鈴は顔を上げ、桜の花が散る時のような、儚くも美しい微笑みを浮かべた。

「あの、ごめんなさい。勝手にお荷物をまとめてしまって」

「な……なぜ……」

 景明は言葉を失った。まだ何も言っていないのに。なぜ彼女は自分が出て行かなければいけないを知っているのか。

「なんとなく、分かってしまったんです」

 鈴はトランクをパチンと閉めると、その上に手を置いた。

「氷室様がいらしたのはきっと私に関することだろうなって。……私、西園寺様にご迷惑をおかけしているんじゃないかって」

「迷惑なものか!君は……!」

 景明は叫びそうになり、言葉を飲み込んだ。迷惑ではない。生きる希望だ。だが、それを今言ってしまえば彼女を引き止めてしまう。鈴は首を横に振った。

「いいんです、西園寺様。私、分かっていますから」

(貴方が私を守るために軍と戦ってくれていること)

「実家にも、そろそろ顔を見せなきゃいけないなと思っていましたし……ちょうど良い機会です」

(だから、貴方に“出て行け”なんて言わせません。そんな辛い役目はさせません)

 二人の視線が交差する。互いに嘘をついている。互いに相手を守るために必死に本心を隠して、笑顔を作っている。

 そのあまりの健気さと痛々しさに景明の胸は張り裂けそうだった。

「……そうか。……君がそう言うなら」

「はい。車の手配、お願いできますか?」

「ああ……すぐに」

 二人は並んで廊下を歩き出す。まるで葬列のような静けさを放って。

 西園寺邸の玄関ホールは天井が高く、そこかしこに飾られた舶来の調度品が威圧的な静けさを放っていた。大理石の床を叩く足音だけが虚しく響く。

 先頭を歩く氷室は懐中時計を閉めるとまるで罪人を護送する看守のような冷徹さで振り返った。

「時間です。車は表に待機させてあります」

 その言葉は死刑執行の合図のように聞こえた。景明の手には鈴のトランクケースが握られている。そのグリップに込められた力は指の関節が白く浮き出るほどだったが彼はそれを決して鈴には見せなかった。

「……鈴」

 景明が掠れた声で名を呼ぶ。鈴は立ち止まり、彼に向き直ると涙で滲む視界を精一杯の笑顔で誤魔化した。

「西園寺様。今まで、本当にありがとうございました。短い間でしたけど……夢のような日々でした」

「ああ……。私もだ」

 景明は、喉元まで出かかった「行くな」という言葉を血の味と共に飲み込んだ。ここで引き止めれば、彼女は軍の疑惑の目に晒される。彼女を守るためにはこの手を離さなければならない。

「お元気で。……野中さんによろしくお伝えくださいね」

 鈴は最後に二人だけの秘密の符丁を口にした。それは“貴方が野中さんに戻っても、私はずっと応援しています”という、彼女なりの愛の告白だった。景明が頷き、鈴がドアノブに細い指をかけた、その時である。

「お待ちなさい!!!!」

 雷鳴か、あるいは火山の噴火か。鼓膜を物理的に揺さぶるような一喝がホールの高い天井に反響し、クリスタルのシャンデリアを戦慄させた。

 全員が弾かれたように振り返る。ホールの奥、使用人区画へと続く廊下の闇から、ひとつの影が猛然と迫り来ていた。

 西園寺家に代々仕える家政婦長のトメである。白髪をひっつめに結い上げ、普段は穏やかな好々爺然とした老女が今は憤怒の形相で仁王立ちしていた。その手には白木で作られた一升枡が握りしめられている。中には雪山のようにうず高く盛られた純白の結晶、粗塩が殺意を放って輝いていた。

「ば、ばあや?何を……」

 景明が狼狽える暇もなかった。

「悪霊退散ッ!!魔除けの儀ッ!!」

 トメは裂帛の気合いと共に腰を入れて枡の中身を豪快に振り抜いた。それは撒くという生易しいものではない。塩の散弾であり、白い津波だった。標的は一点。合理的思考の塊である軍人、氷室である。

「ぬおっ!?」

 不意を突かれた氷室は回避行動すら取れなかった。純白の粒子が彼の全身を直撃する。完璧にセットされた髪に、磨き抜かれた眼鏡に、塵一つない軍服に、容赦なく塩が降り注ぎ、付着し、彼を“塩漬けの魚”のような哀れな姿へと変貌させた。

「な、何をするのですかッ!これは暴行……いや、公務執行妨害で……!」

 氷室が眼鏡についた塩を払いながら抗議しようとするがばあやは止まらない。

「ええい、黙らっしゃい!この屋敷に土足で踏み込み、あろうことか坊っちゃんの“幸せの青い鳥”を追い出そうなどと!貴方様には貧乏神か疫病神が取り憑いておいでだ!私が清めて差し上げます!」

「ひぃッ!?」

 再び振り上げられる枡を見て、氷室は情けなく悲鳴を上げ、思わず後退した。

「ばあや、乱暴な真似はよせ!」

 景明がトランクを持ったまま割って入ろうとするがトメはその眼光だけで主を制した。

「坊っちゃんもお黙りください!……まったく、なんと情けない。鬼少佐だの冷徹だのと世間では言われておりますが、愛する女子ひとり守れずに何が帝国軍人ですか!彼女がいなくなって、一番困るのは坊っちゃんご自身でしょうが!」

「ぐっ……」

 景明は言葉に詰まった。その指摘は彼の心臓を正確に刺し貫いていた。トメは二人の間に割って入ると鈴を背中に庇い、塩まみれの氷室に対峙した。そして懐から一冊の分厚い和綴じの帳面を取り出した。

 表紙には、達筆な筆文字でこう記されている。“坊っちゃん・表情観察日記 第百二十八巻”。その厚みが歴史の重さを物語っていた。

「な、なんだそれは」

 嫌な予感しかしない景明が呻く。

「ここには!小鳥遊様がいらしてからの坊っちゃんの劇的なる変化が克明に記されております!軍の方なら、記録がお好きでしょう?これをご覧なさい!」

 トメは高らかに宣言し、素早くページをめくった。

「六月某日!小鳥遊様が作った黒焦げのクッキーを召し上がった際、坊っちゃんは『苦い』と言いつつも完食後にハンカチで口元を拭いながら、頬を赤らめて“悪くない”と独り言を漏らした!判定:極度のツンデレ!」

「ぶっ……!?」

 鈴が吹き出した。

「や、やめろ!読むな!」

 景明の顔が沸騰したように赤くなる。

「六月某日!小鳥遊様が庭で転んだ際、執務室の窓から見ていた坊っちゃんは愛用の万年筆をへし折り、誰よりも早く駆けつけた!その速度、軍用犬以上!判定:過保護の極み!」

「ぐあぁぁぁっ!」

 景明は頭を抱えてその場に蹲った。部下の前でそれも氷室の前で己の秘めたる恋心が白日の下に晒されている。これは拷問だ。塩責めよりも酷い精神的拷問だ。

「そして昨日!小鳥遊様のハンカチが汚された時、坊っちゃんは修羅の如き形相で激昂した!……氷室様、貴方は軍人として、兵士の士気がいかに重要かご存じのはず」

 トメは日記をパタンと閉じ、眼鏡の奥から鋭い眼光を放った。

「今の坊っちゃんを支えているのは軍の規律でも国家への忠誠でもございません。この小鳥遊鈴様という、たった一輪の花なのです!彼女を奪えば坊っちゃんは抜け殻同然!食事も喉を通らず、仕事も手につかず、軍にとって最大の損失となることは明白ではありませんか!?」

 論理的、と言えなくもない暴論。しかし、その迫力と提示された日記の重みは凄まじかった。

 氷室は塩を払う手つきを止めていた。彼は眼鏡の位置を直し、羞恥で再起不能となり、床に転がる景明とトメの背中で顔を真っ赤にしながらも嬉しそうにしている鈴を交互に見た。

「……なるほど」

 氷室が低い声で唸った。

「少佐の“野中みのる”としての人格形成における異常な執着……その根源が単なる演技プランではなく、この女性への特異な情動にあるという仮説。……この日記の記録はその相関関係を裏付ける貴重な一次資料になり得る」

 氷室の瞳に不気味な研究者の光が宿った。彼は懐から手帳を取り出すと猛スピードでメモを取り始めた。

「恋愛感情が軍事能力へ与える影響、および人格乖離の触媒としての恋人の役割……。これは、新たな潜入工作メソッドとして体系化できるかもしれない」

「は?」

 鈴が間の抜けた声を上げた。氷室は手帳を閉じると未だ塩まみれの顔で真顔で言った。

「家政婦長殿。貴女の主張には論理の飛躍がありますが提示された証拠は極めて興味深い。……小鳥遊嬢を今すぐ帰すことで少佐が精神崩壊し、任務に支障をきたすリスクについては再考の余地があります」

「では!」

 トメの顔が輝く。

(私がいることが西園寺様の力になっている……の?)

「ええ。本日は一旦、引き上げましょう。この塩害の処理と軍服のクリーニングも必要ですし」

 氷室は肩についた塩の塊を指で弾いた。

「ただし、査問会の日取りは変わりません。それまでに少佐が精神的に安定し、かつ任務遂行能力に問題がないことを証明していただきます。……少佐、聞こえていますか?」

 氷室が床の上の景明を見下ろす。景明は顔を真っ赤にしたまま、虫の息で答えた。

「……あ、ああ。聞こえている……。ばあや、その日記を……焼却処分しろ……今すぐにだ……」

「お断りします。これは西園寺家の家宝にしますゆえ」

 トメは鼻を鳴らし、勝利の証として空になった枡を高々と掲げた。

「さあ、小鳥遊様!お部屋へお戻りください! お荷物を解いて、夕食は赤飯にしますよ!坊っちゃんの元気が出るように!」

「はいっ!ありがとうございます、ばあやさん!」

 鈴は涙を拭い、満面の笑みでばあやに抱きついた。その光景はまるで祖母と孫の感動の再会である。

 鈴は横目で景明を見た。彼はまだ床に突っ伏していたがその耳まで赤く染まっているのが愛おしくてたまらなかった。

(西園寺様……私、もう少しここにいてもいいみたいです)

 嵐のような老婆と天使のような少女が去った後、氷室は深々と嘆息し、玄関のドアを開けた。

「……少佐。少佐がこれほどまでに“人間的”だとは計算外でしたよ」

 去り際に残されたその言葉は皮肉なのか、それとも呆れを含んだ賞賛なのか。景明には判別がつかなかったが今はただ、鈴がこの家に留まることを許されたという事実だけに、安堵のため息を漏らすのだった。

 たとえ、自分のプライドが粉々に砕け散ったとしても。だが、危機は去ったわけではない。査問会という断頭台は確実に近づいている。

 そして、その夜。新たな火種が書斎の闇の中で生まれようとしていた。

 帝都の夜は深い。ガス灯の青白い光が届かぬ路地裏には魑魅魍魎が跋扈すると囁かれているが西園寺公爵邸の廊下にもまた、重苦しい静寂が満ちていた。古時計が刻む重厚な時報と窓硝子を叩く風の音が不協和音となって満ちていた。

 深夜零時。鈴は夜食の乗った盆を持つ指先を白く震わせていた。握りたてのおにぎりからは海苔と塩の芳ばしい香りが立ち上っている。だが、今の鈴にはそれがどこか遠い世界の匂いのように感じられた。

 重厚なマホガニーの扉。その向こう側から、まるで冷気のように漏れ出してくる男たちの密談が鈴の足を縫い止めていたからだ。

「……確度の高い情報なのか、氷室」

 景明の声だ。昼間の情けない姿とは違う。空気を切り裂くような、冷徹で硬質な響き。それは西園寺少佐としての血と鉄の匂いがする声だった。

「ハッ。憲兵隊特務班からの報告です」

 氷室の声もまた、感情の一切を削ぎ落とした氷の刃のようだ。

「帝都の地下水路にて、怪死したはずの過激派幹部……“蜘蛛”の目撃情報が相次いでいます。何らかの禁忌的な異能により蘇生したか、あるいは死体を操る傀儡か……」

「亡霊か。厄介だな」

 扉の前に立ち尽くす鈴の背筋を怖気が這い上がる。

(蜘蛛……蘇生……?)

 単語の意味は分からない。けれど、それが命のやり取りをする修羅場の話であることだけは肌で理解できた。

「奴らが地下スラム街の最深部に潜伏しているとなれば、軍服での捜査は不可能です。そこで少佐、ご提案がございます」

 氷室の声が一段低く、粘着質な響きを帯びた。

「帝都の闇に溶け込み、誰からも怪しまれず、泥に塗れて這い回る“目”が必要です。……今一度、あの架空の人格“野中みのる”を活用されてはいかがでしょうか」

 一瞬の沈黙。その静寂こそが景明の抱く嫌悪の深さを物語っていた。

「……正気か、氷室」

 地を這うような呻き声。

「あの貧乏書生にまた戻れと言うのか。あの湿気た煎餅布団に隙間風だらけの長屋暮らしか?それに……あの安物の木綿着物は肌触りが悪くて痒いんだ」

「背に腹は代えられません。これは帝都の治安を守るための、合理的かつ唯一の潜入策です」

 廊下の闇の中で鈴は息を呑んだ。

(野中さんに戻る……?)

 点と点が閃光のように繋がった。景明が昼間、あれほど焦燥して鈴を実家へ帰そうとした理由。それは毒婦疑惑などという表面上の理由ではなかった。これから始まる、この陰惨で危険極まりない任務、死者が徘徊する地下街への潜入捜査に鈴を巻き込まないためだったのだ。

 彼はまた一人であの痒い着物を纏い、孤独な闇の中へ沈もうとしている。

(西園寺様……)

 胸の奥が熱く、痛いほどに脈打つ。扉を開けて「私も一緒に戦います!」と叫びたかった。けれど、鈴は唇を噛んでその衝動をねじ伏せた。

 今、それを言えばどうなる?彼は間違いなく私を遠ざける。“軍の最高機密を知った民間人”として、二度と会えない場所へ隔離されるかもしれない。何より、彼の“鈴を守りたい”という決死の想いを無駄にしてしまう。

(……なら、私は“知らないふり”をする。愚かなふりをして、騙されたふりをして……貴方の帰る場所を守り抜く)

 それは乙女の決意というにはあまりに重く、共犯者の覚悟と呼ぶべきものだった。鈴は深呼吸を一つ。彼女は瞬時に作り上げた。何も知らない、ただ恋に浮かれた能天気な令嬢の仮面を。乾いたノックの音が密室の緊張を破った。

「西園寺様、夜食をお持ちしました。まだ起きていらっしゃいますか?」

 中から狼狽の音と「す、鈴か!?」という上ずった声。数秒のラグ。何かを隠すような気配の後、鍵が開く。

 顔を出したのは軍服の襟元をだらしなく緩め、必死に平静を装う景明だった。

「……起きていたのか」

「はい。明かりが見えたので。お邪魔でしたか?」

「いや、構わんが……今は客人がいてな」

 景明が視線を逸らす先には革張りのソファに深く沈み込んだ氷室がいた。彼は立ち上がることなく、眼鏡の奥の光を鋭く細め、入室してきた鈴を頭の先から爪先まで値踏みするように舐め回した。

「夜分に失礼、小鳥遊嬢」

 その声には敬意など微塵もなかった。あるのは獲物の急所を探る捕食者の響き。

「氷室様も遅くまでお疲れ様です。……お二人とも難しいお顔をされて。何か大変なお仕事ですか?」

 鈴は盆をテーブルに置きながら、無邪気に小首をかしげて見せた。心臓が早鐘を打っている。膝は小刻みに震えている。だが鈴はそれを“重い盆を持っていたせい”に見えるよう、自然に振る舞った。だが、疑り深い氷室は騙されない。

 彼はゆっくりと立ち上がり、軍靴の音を響かせて鈴に歩み寄った。その距離はわずか数十センチ。吐息がかかるほどの至近距離で彼は鈴の瞳を覗き込んだ。

「……小鳥遊嬢。貴女、先ほどから廊下にいらっしゃいましたね?」

 冷たい汗が鈴の背中を伝う。

「何か、お聞きになりましたか?」

 鎌をかけるような問いではない。確信を持った尋問だった。室内の空気が凍り付く。景明が驚き、鈴を見る。その瞳には“聞かれたか?”という焦燥と“守らねば”という悲壮が混ざり合っている。鈴は、きょとんとして大きな瞳を瞬かせた。それは計算され尽くした“間の抜けた”瞬きだった。

「え?何かとは?……あ!もしかして私、何かやらかしました?」

 鈴は頬を膨らませてみせる。

「もう、氷室様ったら心配性ですね。私は西園寺様の邪魔なんてしませんよ。ね、西園寺様?」

 鈴はニコニコとおにぎりを景明に差し出した。完璧な演技。完璧な無知。だが氷室はまだ疑いの眼差しを解かない。さらに一歩踏み込み、鈴の精神を圧迫しようとしたその時。

「氷室、やめろ」

 低く、唸るような声が割り込んだ。景明が鈴と氷室の間に強引に体を滑り込ませ、肩をぶつけた。景明の広い背中が鈴の視界を覆い隠す。そこから発せられるのは部下を諌める上官の威厳ではない。もっと原始的で粘着質のある雄の独占欲だった。

「私の婚約者を罪人のように尋問するな。彼女は聞いていないと言っているだろう」

「しかし少佐、防諜の観点から……」

「…それに近すぎる。その距離で鈴を見るな。……その視線も、吐息も、不愉快だ」

 景明の瞳が青白く燃えている。ただでさえ嫉妬深いこの男にとって自分のテリトリーで自分の女が他の男に精神的に追い詰められるサマを見るのは耐え難い屈辱だったのだ。

(あら、西園寺様ったら……)

 背後で守られながら、鈴は胸の内で小さく微笑んだ。怖い。この状況は綱渡りだ。けれど彼の背中から伝わってくる体温と不器用な激昂が鈴に勇気を与えてくれる。

「……失礼しました」

 氷室は小さく舌打ちしそうな顔で引き下がった。論理では勝てても、嫉妬に狂った上官には勝てないと判断したのだろう。だが、その目はまだシロとは断定していない。

「それより、お夜食です!お二人とも頭を使ってお腹が空いたでしょう?握りたてですよ」

 鈴は努めて明るい声を張り上げ、盆を差し出した。景明がおにぎりを一つ手に取り、無骨な手つきで口に運ぶ。

「……美味い」

 その一言に込められた安堵の響きを聞いて、鈴はようやく生きた心地がした。

「では、私はこれで失礼します。……あまりご無理をなさらないでくださいね。お二人とも、お体だけは大切に」

 鈴は深々と一礼し、去り際に一度だけ、景明の瞳を真っ直ぐに見つめた。

(信じています。貴方がどんな姿になっても)

 言葉にできない想いを視線に乗せて、彼女は部屋を出た。重い扉が閉ざされ、密室に静寂が戻る。

「……食えないお嬢さんだ」

 氷室がおにぎりを検分するように持ち上げ、眼鏡を怪しく光らせた。

「あのタイミングで入室して、全く聞こえていないというのは不自然極まりない。脈拍、発汗、視線の動き……すべて制御されていた。彼女、おそらく核心部分を聞いていますがあえて隠しましたね」

「考えすぎだ、氷室。鈴は嘘がつけるような器用な性格じゃない」

 景明は鈴の温もりが残るおにぎりを愛おしそうに眺めながら、ふっと表情を緩めた。

(……いや。もし聞いていたとして、それでも何も言わずに笑ってくれたのなら。……それはそれで彼女なりの覚悟なのかもしれん)

 その健気さに胸が締め付けられるようだった。守られているのは自分の方ではないか。そんな想いがよぎる。

「それで少佐、ご提案の件ですが」

 氷室が無慈悲に話を戻す。

「……はぁ」

 景明はこの世の終わりかのような、肺の底から絞り出すような溜息をついた。それはこれから始まる任務の過酷さと鈴への申し訳なさが入り混じった、重たい吐息だった。

「分かった、分かったよ。やればいいんだろう、やれば。……またあの痒い着物を着て、ドブ板を踏めばいいんだ」

 彼は覚悟を決めた。だが、その顔は泣き出しそうだった。

「ご英断、感謝します。衣装は明日、早急に手配させますので」

「……氷室。一つだけ条件がある」

「なんでしょう」

「一番安い生地にするなよ。せめて木綿の良いやつを……」

「予算の都合上、古着屋の特売品になります。経費削減です」

「鬼め」

 一方、廊下を歩く鈴の足取りは来る時よりもずっと力強かった。盆を持つ手の震えはもう止まっている。

(野中みのる、復活……)

 彼女は暗闇の中で胸の前で両手を固く握りしめた。愛する男が任務のために“嘘”をつくのなら、その嘘が真実になるように世界で一番うまく騙されてみせよう。そう、彼女は心に固く誓ったのだ。

 彼がボロ着物を着て、泥にまみれて戦い、疲れて帰ってきた時には最高に美味しいご飯と一番の笑顔で迎えるのだと、彼女は覚悟を決めていた。

(待っていてくださいね、野中さん。私、貴方の最高の共犯者になってみせますから!)

 月明かりの下、鈴の瞳は戦場に向かう兵士のように、愛を守護する聖女のように、強く、美しく、涙を含んで輝いていた。

 愛する男が不器用につく“嘘”を、世界で一番上手く騙されて真実にしてやる。その揺るぎない決意を胸に抱いたまま、短い夜が明けた。

 窓の外では、初夏の帝都が独特の熱気を孕み始めていた。若葉の瑞々しい香りと、遠くで路面電車が撒き散らす鉄粉の焦げた匂いが入り混じる。それは、今日から始まる秘密の“共犯関係”の幕開けを告げる合図のようだった。

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